9-8 聖職者達とのお茶会(3)
「妃殿下の崇高な理念には感服いたしましたわ」
「えっ」
リディアーヌの目標を存じていないアンジェリカが思わず声をあげたが、リディアーヌが微笑みかけるとすぐに察したようにぱっと自分の口をふさいだ。
「えっ、て、酷いわね、アンジェリカ。私だって良いと思ったことには素直に関心するわよ」
「ご、ごめんなさい。そういう意味では」
ええ、分かっていますけれど。
「私はリディアーヌ様ならそう言って下さると思っていました!」
逆にヴィオレットは顔をほころばせて、満面の笑みである。
だが恐らくそう思っているのはヴィオレットだけで、アルトゥールがこちらを見る目は胡乱としていて、ドレンツィン大司教もまた困惑気だ。
「ただ歴代皇帝の配偶者を見ても、聖女が皇后に立った例はとても少ないのよね。帝国初期時代がほとんどではないかしら。それについて妃殿下はどう思っておいでなの?」
「それは私も存じています。でもそれこそ、ベルテセーヌが聖女を国内に留め置いて閉じ込めてきたことが原因です。私はその慣習も捨て去るべきだと思うのです」
「貴女がクロイツェンに嫁いだ様に?」
「そ、それはっ……え、えぇ。その……」
一瞬ヴィオレットが口を噤んだのは、ようやく自分が“聖女”ではない偽りの存在であることを思い出したからだろうか。少しくらい悪びてくれてもいいのだが。
「だそうだけれど。ベルテセーヌの王族に嫁いだ貴女はどう思っているの? アンジェリカ」
「私は自分の意思でクロード様を選びました。それも自由ですよね?」
「そうね。聖女がベルテセーヌが良いというのであれば、それでいいということだわ」
「私もそれを否定する気はありません。ただベルテセーヌ以外という選択肢もあるべきだと思っているのです」
「そう。そんな妃殿下のおかげで、聖女信仰の希薄だった東大陸にも信仰が広がってくれるかもしれないわね。妃殿下は伝道者でいらっしゃるわね」
うんうんと満足そうに頷くドレンツィン大司教の様子を見る限り、大司教はやはりヴィオレットを本物の聖女であると信じ切っているのだろう。アンジェリカが頑なにベルテセーヌを選び、リディアーヌが揺るぎようのないヴァレンティン大公という後ろ盾とヴァレンティンの跡継ぎという肩書きを持っている今、やはり大司教にとってヴィオレットは唯一の教会が取り込める可能性のある聖女なのだ。
あぁあぁ、可哀想に。自由を語るその口で、ヴィオレットはどんどんと最も不自由な場所へ取り込まれようとしているというのに。
「確かに……歴史上、聖女が皇后に立った例は少ない」
そこにふとしばらく黙っていたアルトゥールが口を開く。
「リディ、君ならその理由を知っていると思うが、それはやはり聖女を“外”に出さないベルテセーヌの政策だったのだろうか?」
「それはただの必然ではないかしら」
ベルテセーヌには“聖地”があり“聖女書庫”があるい。聖女はそこでのお勤めがある。書庫に納められた歴代聖女の日記と記録は、代々の聖女が受け継いできた大切な遺産だ。容易く聖女の国外解放を語れるヴィオレットは、そこをまるで理解していない。逆にアルトゥールの方は、そもそもそんなことを知らないのではないかと思う。
多少教会と周辺の国には知られているとはいえ、書庫の存在も、聖地を用いた即位奉告の儀も、本来はベルテセーヌの秘事であり聖女の秘儀なのだ。
「大体トゥーリ、貴方がそれを問うの? あえて触れずにいてあげた話題よ」
「え?」
何故ですか、と首を傾げたのは察しの悪いヴィオレットで、あまり内情を知らないらしいドレンツィン大司教も純粋に「何故でしょう。お聞きしたいものです」と言う。
まぁそう言うのなら言ってあげるけれど。
「隠す必要はないようだからはっきりと言うけれど、“聖女リディアーヌ”は両親と兄と、それはもう平穏で何の憂えもない幼少時代をおくっていたわ。外に出る必要性なんて微塵も感じたことなんてなかったわ」
「っ……」
どうやらすぐに思い当たったらしいヴィオレットが顔色を悪くしたが、ここまで聞かれておいて今更慮ってあげるつもりは無い。
「両親が殺されなければ、聖女は王女として穏やかに成長して、ゆくゆくは従兄あたりの誰かと国内で結婚して、公爵夫人として穏やかに生を全うしたでしょう。宜しいこと? “どこかの誰かさん達”さえいなければ、聖女は外になんて関心を持つことも無く、幸せに暮らしてめでたしめでたしだったの。それが聖女の意思だったのだから、ほら、必然でしょう?」
思わず降りた重たい沈黙に、何とか場の空気を取り戻させようと、「こほんっ」と大司教様が軽い咳ばらいをなさった。
「これは私が失言を致しました。悲劇によって命を落とされた先の聖女にして王女殿下のことは、私も痛ましく思っております」
「ええ、そうね。私もそう思っております」
なのに貴方はクロイツェンを支持しているんでしょう? という棘を含ませた言葉には、ドレンツィン大司教も返す言葉を思いつけなかったようだ。当然である。
とはいえ今日は彼らを責めるためにこの場にいるわけではない。彼らが不用意すぎたせいで余計な話をしてしまったが、あくまでも目的はヴィオレットを教会に近づけ、帝国の皇后なんてものから遠ざけることだ。
「だからこそ国外にいる聖女を教会に保護してもらうというのは一つの手だと思っておりますわ。むしろ皇后だなんてものよりよほどいいのではないかとも思います」
「ほぅ……その心は、何故でしょう」
「皇后は皇帝ほどではないとはいえ激務でしょう? なのに聖女との両立だなんて、大変ではありませんか」
「そんな理由ですか?」
拍子抜けだったのか、ドレンツィン大司教は首を傾げたけれど、当たり前ですという顔をしてみせれば納得せざるを得なかったようである。
「ですから大司教様。私は皇后であり聖女であるより、ただ教会の聖女である方がより有益であるように思うのですけれど」
ニコリと微笑んで見せたリディアーヌの言葉に、そういう意図だったか、とアルトゥールが顔色を濁した。つまるところ、『聖女が欲しいなら皇后なんかにしないで、ただ聖女として受け入れたらいいじゃない。皇帝戦は関係ないわよね?』と言っているのである。
「だがただ一国の聖女を教会に奉仕させるのと、皇后が聖女であるのとは大きな違いだ。前者はベルテセーヌの聖女であった時と何ら変わりないが、後者であれば“政教一致”として、より帝国と宗教の関係は深く、円滑なものとなるだろう」
「あら、貴方の妃殿下は聖女の自由を説いているのよ。自分の意思で一国の聖女として教会に奉仕するのと、聖女イコール皇后という先例を作って聖女が皇帝制でより政略的な存在になってしまうことは大きな違いだわ」
政教一致などと口にしていても、アルトゥールの本音はヴィオレットを皇后にはせずに教会に与えることだ。だがそれを今はまだヴィオレットに悟らせたくはないのだろう。だから言葉を慎重に選んでいる。
リディアーヌの言葉はヴィオレットの言葉を根拠にしているだけに、反対しなくても違和感のない言葉だ。ヴィオレットはおろおろとしているけれど、それは知ったことではない。
「だから妃殿下。貴女が教会と協力的でありたいと望むことは結構だけれど、皇后である必要はないのではなくて?」
「それは……あの。でも……」
中々反論できずにいるヴィオレットに、こほんっ、と咳払いで注目を集めたのはドレンツィン大司教だった。
「なるほど、公女殿下の仰ることにも一理ございますな。教会としては、帝国の中枢に聖女様がいらして、帝国と教会との絆を取り持ってくださったならというのが大変魅力的に感じます。ですが公女殿下の仰るように、一国の王族とという意味であれば今までとさほど違いは感じません。ですがどうでしょう。あえて皇后ではなくとも、『帝国と教会の結婚』というのは、理想的ではありませんか」
なるほど、帝国と教会の結婚、か。上手い言い回しをしたものである。おかげで教会とアルトゥールがどういう話をしているのかが少し見えてきた。
今まではアルトゥールがヴィオレットを妃の座から外して教会に入れるような離婚の構図を思い描いていたが、どうやらそうではなく、ヴィオレットは妃であるが皇后ではなく、ただ清い結婚関係のまま、夫は皇帝、妻は教会の聖女という関係に持って行くつもりなのだ。
そしてそれを実現するにはアルトゥールが皇帝でなければならず、そしてヴィオレットが妃である必要がある。確かに、それならアルトゥールは聖女とはいえ妃だからと教会に口を挟む権限を持ち続けられるし、一方の教会も皇后程の権力をもたない聖女であれば意を利かせやすい。それはアルトゥールにも教会にも理想的だ。
おそらくはただ一人、ヴィオレット当人を除いて。
幸いにしてこの三者の会話を聞いても、ヴィオレットはどういうことなのかピンときていないようである。まぁヴィオレットはアルトゥールが自分を皇后にする気がないなんてことを思い至っていないのだから仕方がない。
だがもう少し突っ込んで、確約を得ておきたい。それは席についている彼らにというよりも、今ドレンツィン大司教の後ろで涼しげな顔をして侍従のように立っているフィレンツィオに。この場にアルトゥールを呼ぶだなんていう、未だに友人達を試して測っている困った友人を、もっと確実にこちらに引き込むために。
「教会が妃殿下に求めている具体的な職務とは何なのでしょう? 内容によっては私達直臣も協力できるかもしれませんわよ」
選議卿の一角として、だなんてニュアンスを匂わせたリディアーヌに、ドレンツィン大司教の眼差しが真剣みを増した。
もしも返答次第でリディアーヌをクロイツェン派に取り込めるとか思っているのなら大きな目論見違いだが、日頃から頭の中がお花畑なヴィオレットとばかり話している大司教様なら万に一つなど想像してしまったのかもしれない。
「我々が望むのはやはり正しい信仰形態の伝承でしょうか。新興の国も増えてきた今、ベザリウス教の原初の姿が忘れられ、ご存じの通り、東大陸では聖女に対する認識がまったくされておりません。それは信仰の国だけでなく、ザクセオンやダグナブリクのような伝統的な血族であってもです。これは由々しきこととはお思いになりませんか? 公女殿下」
「ええ、確かに。私も友人達の認識の薄さを聞いた時には驚きましたわね」
「この国は初代皇帝陛下と神々からの神託を得てそれを導かれた聖女である初代皇后陛下によって建国された国。それを蔑ろにすることはあってはなりません」
思いのほか聖職者らしい理由だが、さて、それは本心なのだろうか?
「つまり教会は具体的な神事如何よりも、象徴としての聖女を欲しておられるの?」
「いえ、そのようなことは。勿論、聖女様が伝承する古儀の数々は素晴らしいものと存じております」
取って付けたようなフォローであるが、それはそうだろう。したり顔で聖女を語っているドレンツィン大司教も、実際のところ聖女が何をして、何のために存在しているのかは知らないのだ。彼らが見ているのはただの聖女という肩書きと偶像に過ぎない。
そしてその本音はおそらく……。
「まぁ、聖女にできることは大抵、聖職者にできることですものね」
「そ、そんなことはっ」
咄嗟に口を挟んだヴィオレットに、ドレンツィン大司教も気遣わし気にチラリとヴィオレットを見た。
大司教はその地位に至るまでに研鑽を積み重ねてきた聖職者だ。自分が修めた神事祭祀に自負と矜持を持っているはずである。だからいかに聖女を尊ぶ発言をしたところで、ただちょっと聖痕を持って生まれただけの修練の一つもしたことのない小娘が自分の専門分野である神事祭祀を侵すだなんてことは認められないはずだ。
聖女の機嫌を損ねることはできないが、だからと言って『そんなことはありません』とも口にできない。実に難儀な立場である。笑えてしまいそうだ。
「あら、違いましたか? では妃殿下は聖女として、何をなさりたいのですか?」
「それは……その。大司教様が仰ることももっともですが、私は別に聖女への信仰を集めたいとか支持を得たいとか、そういうことは思っていません。ただ聖女として帝国の役に立てたらと……そう。例えば病を癒す聖水を民達にも広めたり、神問によって得た神々からの助言を皆に伝えたり、出来ることは沢山あります」
ん? だがヴィオレットは鍵で聖典を開くことはできても、神々の言葉を読み解けるかというと危ういのではなかろうか? あるいはそれを知らないのだろうか?
「聖水は教会本山でも作れますわよ。神問は聖職者であれば修練として日頃から行っていることですわね」
「ですがっ……そう、そうっ。聖女にはベザの王を告げるお役目もあります。ベルテセーヌの王ではなく、皇帝陛下こそを告げるべきでっ」
「神々が望んでおられるのは“ベザの子孫が誰か”を告げる事よ。皇帝陛下ではなくベルテセーヌの王を代々告げてきたのは、必ずしも皇帝がベザの直系とは限らないからではなくて?」
「え?」
あぁ、どうやらその辺の認識はなかったらしい。これに関してはアルトゥールやドレンツィン大司教も目を瞬かせている。もしかして彼らは、ベルテセーヌが意図的に聖女を閉じ込めて自分達こそが帝国の本当の王だと神々に申告しているとでも思っていたのだろうか?
それも全くの間違いだとは言わないが、それにはそれなりの理由があるのだ。
「呆れた……まさか本当に私欲だとでも思っていたの?」
「す、すみません……私もちょっと、そうなのかと思っていました」
素直に答えたアンジェリカに、「貴女まで」と呆れた顔をした。
「いいわ。これからは『ベザの王を告げる』という言い方を止めるよう、ベルテセーヌ王に進言しておきましょう。あれはベザの王というより、変わらずベザの子孫が国を守っていることを神々に告げるためにあるの。もしも己の名を告げてもらいたいなら、まずは頑張ってベザの直系と結婚し続けてその資格を得る事ね。クロイツェンは比較的ベザの血の薄い王族だから、相当頑張らないと無理だろうけれど。トゥーリ、やっぱりベルテセーヌにベニー皇女を嫁がせてもいいわよ」
「ごほんっ。その話は保留だ」
おや。論外ではなく保留になった。
まぁ、本気でそんな縁談を進める気はないけれど。
「あの……アル。でもそれなら私が……私は、ベルテセーヌの、ベザの血を……」
ヴィオレットが何かをもごもごと口にしていたが、それは耳にしなかったふりをしておいた。
先程はベザの血と言葉を濁したが、神々が求めているのは“聖女を生むベザの子孫”であり、ベザの後継であることと同時にベルベットの後継であることも重要だ。王族とはまったく血を交えていない伯爵家出身の祖母と侯爵家の父を持つヴィオレットは、一応クリストフ一世の孫だが、王族として、ベザ、ましてやベルベットの血筋からははるかに遠い。
ヴィオレットは自分が本当の聖女でなく、また聖女の血が自分の子に受け継がれないことも分かっているはずなのだから、はっきりと『私がいます』と言えないのは当たり前のことだった。
「つまり、聖女が帝国の聖女である理由はさしてないのではなくて?」
あまり細かい聖女の役割について突っ込むつもりは無い。ただ今はヴィオレットにひたすらに、自分がどれだけ教会にとって役に立つのかを主張してもらいたいだけだ。ただそれだけのことがこうも中々出てこないのだから、日頃からヴィオレットがどれほど具体的な考えを持たずにふわふわと過ごしているのかが分かるというものだった。やれやれ、無駄に時間がかかる。
懸命にヴィオレットが考え込んでいるのを見て、お茶でも飲んで待ちましょう、とティーカップに手を伸ばしたところで、いつの間にやら空になっていたことに気が付いた。それを見たフィレンツィオが「これは失礼しました」とすぐに次のお茶を淹れてくれる。
ニコニコと日和見しているばかりのフィレンツィオだが、今のこの状況に何を思っているのか。一度その頭を開いて覗いてみたいものである。
「……ごめんなさい。私はまだ、自分に何ができるのかが分かりません……」
「そう」
「でもこれから知ります! これから教会できちんと修練も行って、聖職者の皆様のことももっと知って、自分にしかできないことを見つけるつもりです! だからっ」
「いいわね、応援するわ」
「へっ?」
いくら驚いたからって、そんな間の抜けた顔をしなくたっていいじゃないか。
「でも大丈夫かしら? 皇后は激務よ。それと聖職者達が生涯を尽くして積む修練とを両立できるかしら?」
「や、やりますっ。私、努力するのは得意なんです!」
え、どの口が? と、思わずリディアーヌばかりでなくアルトゥールも目を瞬かせて隣を凝視したようだが、奮起しているヴィオレットが気が付いた様子はない。クロイツェンでのヴィオレットの日々が目に浮かぶようである。これはさぞかし周りも苦労していることだろう。
「そう……まぁ私は立場柄、貴女が皇后となることを応援することはできないけれど。でも貴女の聖女としての心構えはよく分かったわ。貴女が教会で、慈悲深い人々のための聖女となることを、私も応援致します」
「有難うございます……有難う、ございますっ。まさか、リディアーヌ様からそう言っていただけるだなんて。私っ……」
目尻に浮かんだ涙を慌てて拭い、感激したとばかりに微笑んだヴィオレットに、リディアーヌもニコリと微笑んで見せる。
少し訝しみながらもニコニコとしている大司教様に、一体どういうつもりだとばかりにこちらを睨むアルトゥール。でも今はそんな二人よりも……ほら、やっぱり。言葉とは裏腹に本心がよく分からなかったフィレンツィオが、今は隠すことも無く口元の微笑とは裏腹な冷たい目でヴィオレットを見下ろしている。
そうだろう。そうだろうとも。どうやら家柄的な優位性があってドレンツィン大司教という地位に至ったらしい閣下と違い、フィレンツィオが尊敬しているらしい師サンチェーリ司教は厳しい修練をこなし着実に位をあげて今の地位に着いた極めて真面目な聖職者だ。無論、そこに至るまでには後ろ暗いこともしたかもしれないが、信仰心という意味では嘘偽りなく、禁食をしかけただけでも本気で顔を青くできる敬虔な信徒である。
そのサンチェーリに学んだフィレンツィオも厳しく修練を積んできたはずで、ましてや先日知った情報では、本来家督を継ぐ者として用意しに迎えられたのに、一転して幼い頃から厳しい修練と教育を課されて無理やり聖職者にさせられたのがフィレンツィオだ。上っ面な言葉で、皇后という職がどんな職なのかも理解せず、容易く修練と両立させるなどと豪語したヴィオレットがどれほどフィレンツィオの逆鱗に触れたか……。
想像もしたくないほどである。




