1-29 神問の儀(2)
side アンジェリカ
「何、何、なにッ。もう、何なのよっ」
真っ暗闇の中に一人。冷たい石畳に濡れた衣でしゃがみこんで、苛立たし気に床を引っかいたアンジェリカは、ピロリンッと光った青い板にビクリと身をすくめさせた。
『最後のお仕事<第六章>
人々に使徒として名乗り出ることに失敗した貴方は、謀略によって聖痕の証立てを阻まれ、窮地に追い込まれています。チャンスはあと二回です。神問の間にある託宣に従ってください。
①従う ②従わない』
「ッ、もういい加減にしてよッ! リンテンに入ってからこの方、こんなのばかりっ。私が何をしたっていうのよ! 聖女じゃないだなんて言おうものならどうなるか分かったもんじゃないのに、できるはずないじゃない! 大体さっきの聖水だって、意味が分からないわっ。なんで聖女が私を庇うのよ!」
混乱のままに吐き捨てるとともに、昨今殊更に忌まわしいピロリンッという音が鳴った。
『聖女リディアーヌがこちらに向かっています。託宣に従ってください。
①従う ②従わない』
「はぁ? ちょっと。向かっているって、どこから……」
ガコンッッ、と突如動いた目の前の台に、きゃぁぁっ! と声をあげて飛び下がる。
目の前の青い板の光しか灯りがないから、突然動いてのっそりと暗闇から浮かび上がっていたうっすらと光る物体に、心臓が飛び出しそうだった。
だがそれと同時に書見台に乗っていた聖典が青く光り出した。
その光に照らされて、ゆらりと小さな地下穴から出てきた物が、長い銀色の髪を振り払い、パンパンッと白い衣の裾をはたく。
何てことだ……誰一人として立ち入ることが出来ないはずのこの部屋に、まさか本当に聖女が現れるだなんて。
「あ、あな、貴女っ……」
「ふぅ……狭かった。ベルテセーヌの聖堂と違って、容易く出入りできる構造になっていなかったみたいだわ」
「どうしてっ……」
「あぁ、驚かせてごめんなさい、アンジェリカ嬢。ちょっと用が……」
そう言いながら辺りを見回した聖女は、やがて動いた書見台の聖典を見た瞬間、パチリと目を瞬かせて立ちすくんだ。
そのまま口元に手を添え、ジィッと、光る本を見つめている。
「アンジェリカ嬢。これ、いつから光っているのか分かるかしら?」
「い、いつからって……」
チラリと目端に浮かんでいる光る青い板を見て、それからこの板よりももう少し強い光で輝いている聖典を見る。
聖女が見ているのは聖典の方だけ……ということは、この青い光の板はやっぱり私にしか見えていないのだ。
「あ、貴女がそこから現れるのと、ほとんど同時に……」
「はぁ……なるほど。これが光っていたのね。あの時まさか光っているのが身長より高い場所にある書見台の上の聖典だなんて思いもしなかったわ」
一人ブツブツと何やら首を傾げながら聖典を手に取る聖女は、ひとしきり調べたかと思うと、聖典を閉じる鍵を見て眉をしかめた。
「アンジェリカ嬢。そういえば貴女、“鍵”は持ってるのかしら?」
「え……鍵?」
「やっぱり、授かってはいないわよね……」
はぁ、とため息を吐いた聖女は、この暗闇の中でもぼんやりと光って見えるような胸元の聖痕を人撫ですると、もう一度ため息を吐いてから、一体どうしたのか、ぎゅっ、と胸元を押さえつけた。
「っはぁぁ……結構しんどいんだから……仕舞うんじゃなかったわ」
何が起きたのか分からないけれど、突然胸元を強く押したかと思うと、聖女の手にキラキラと光る金色の鍵が現れた。
素人目にだって分かる……何か不思議な魅力のある、“聖なる物”だ。
その鍵にゴクリと息を呑んでいると、こっち、と聖女に手招きをされた。
一体、どうすればいいのか……でも……。
『神問の間にある託宣に従ってください。
①従う ②従わない』
この青い板の指示していることは、多分、そういうことなのだ。
ゆるゆると強張った足を動かし光を放つ聖典の側に立つと、待っていたとばかりに聖女が金の鍵を聖典の表紙に押し込んだ。あ、そこは普通に鍵を開けるわけではないのか……なにやら、聖女ルールでもあるのだろうか。
乱暴に鍵を押し付けただけのように見えたけれど、たちまちに鍵を吸い込んだ聖典はパラパラと勝手にめくれ、真っ白なページを開いた。その紙面に、ぼんやりと光る文字が浮かび上がる。
『ようこそ、お帰りなさい、聖女リディアーヌ。貴女の訪れを待っていました』
「え……私なの?」
聖女はぎゅっと眉を寄せたようだけれど、そのまま文字は留まることなく聖女への言葉をツラツラと述べ続けた。それはもう、どれほど待ち望んでいたのかを。
「ちょ、ちょっと。もう分かりましたわ、神様。でも言っておきますが、初めてその神託とやらが下された時、私はまだ三歳になったばかりでしたのよ。聖典に手が届かないばかりか文字も読めない年頃だったのに、どうして無視したのかと言われても困ります。今後は文字ではなく音声か何かで神託を下されるのが宜しいのでは?」
な、何なの、この人……なんでいいきなり神様に説教とかしてるの? マジ、何?
「え? あ、駄目なの? できない? はぁ、じゃあ仕方がありませんよ。ていうか何なの? これ。アンジェリカ嬢、貴女、この現象は初めて?」
「え……あの……えっと……」
どうしよう。この手元の青い板は、これと同じ現象と見なしていいのだろうか。
『我が使徒、アンジェリカ――』
聖女の言葉にようやく我に返ったかのように、パラリと紙面がめくれて次の文字が現れた。あぁ……“使徒”。その単語が、聖女の目に触れてしまった。
『よくぞ我の許へと聖女を導きました。貴女は使徒としての役目を果たしました』
なにこの上から目線。はいどうも、光栄ですとでも言えと?!
『使徒アンジェリカ。貴女に最初で最後の託宣を下します』
出た。はいはい。これに従わないと酷い目にあうんでしょう? 一体何よ。まぁ言われずとももう、察しているけれど。
『人々に使徒としての使命を告げる時です。正聖女リディアーヌを、ベルテセーヌに連れて帰るため、人々を導いてください。貴女は使徒として、人々に聖女の帰還を知らせるのです』
「だからっ……」
「は? 嫌ですけどッ?!」
は?
「……」
「……」
『……』
え、えっと……は?
「あの……せ、聖女……?」
「はぁぁ……何なの? 一体。アンジェリカ嬢。貴女、もしかして知っていたの?」
「……」
どうしよう。どうしたらいい。
でもよく分らないけれど、この人はなんだか、話せば分かりそうな気がする。
「聖女、リディアーヌ様……あの。貴女にはこちらの板は、見えますか?」
今なお選択肢を選べとばかりにピカピカ光っている板を指さしたところで、聖女はすぐに首を傾げた。
「そういえばそのあたりもぼんやりと光っているわね。でも板とやらは見えないわ。あぁ、貴女はその板とやらに、色々と指示を受けているのね?」
「……はい。私は……」
私は……そう、私は……。
「私は、聖女ではありません」
「ええ、そうだと思っていたわ」
「……」
そうはっきり言われると、それはそれでっ……ま、まぁいい。
「“使徒”という現象は、そういえば、五代だか六代だか前の聖女の手記に書いてあったわね……なるほど。今まで聖女だからと特別なことが起きたことはなかったから気にも留めていなかったけれど……この現象は何かしら。この部屋は本当に、神問の部屋だったのね」
「私の他にも、使徒の例があるのですか?!」
「ええ。あぁ、でもごめんなさい。あの辺りはちゃんと読んでいないのよ。でもそう。貴女の聖痕はそういうことだったのね」
「……ッ」
「周囲の様子を見る限り、王太子は貴女を聖女と信じているようだけれど」
「……」
それは……勘違いをして。周りが勝手に、そう……いや。私が勝手に、そう。
「その様子だと、色々と派手にやらかしたことに、思うことがないわけではないのかしら」
「ッ、私はただ、この光る板の指示のままにッ」
「指示のままに、婚約者のいたクロード殿下に近づいて、ヴィオレット嬢にいわれのない罪を着せて追放し、次期王太子妃の座を手に入れたの?」
「ッだ、って……だって、そうするのが一番いい結果になるからっ」
「いい結果? 現王権を堅固にしてきたブランディーヌの反感を買い、恨みを抱いたかもしれない令嬢を野放しにして、ベルテセーヌ教会が聖水に細工をするほどの強い反発を抱いていて。今まさにベルテセーヌという国を混乱に貶めているというのに、それがいい結果ですって?」
これまであるいはアンジェリカを気遣っていたのかもしれない聖女の表情が、ギリッと険しく歪んだ。その覇気ある視線に、ぞくりと背中が震えた。
怖い……ブランディーヌ夫人などに睨まれた時とはまるで違う。決して怒っている顔というわけでもないのに、強い畏怖を感じる。この人は、優しいだけの人じゃない。当たり前だ。彼女は生まれながらの、“王女様”なのだ。
「まぁいいわ。貴女に言っても仕方がないこと。これは責を負うべき立場に生まれた王や王太子、そしてヴィオレットが犯した罪よ。それに貴女が巻き込まれ、神とやらに振り回されていたことには心から同情するわ」
「……」
あぁ。今私はベルテセーヌの王女であり聖女である人に、素質を否定されたのだ。責任すら負わせてもらえないほどに。
でも不思議と、何も感じない。多分そんなことは私が一番よく知っていて、でもそれで何が悪いんだと開き直っているせいだ。
「本当は聖女なんて……どうでもいい。私はただ、クロード様と一緒にいたいだけよ……」
「……あぁ」
ポツリとこぼれた小さな呟きに、聖女はふっと背を向け、まるでアンジェリカに関心などないかのように聖典をのぞき込んだ。
すらりと長い銀の髪に覆われた背中が、触れようもなく気高い。私なんかの俗物とは、まるで違う生き物であるかのようだ。
そうか……これが王女。これが、聖女。
「正直、まだこの妙な状況がよく分らないのだけれど。神様? 神問の間らしく、お尋ねいたします。貴方方が私にベルテセーヌへ帰るよう求める理由は何ですか?」
それは、私も知りたい。
こっそりと再び聖女の隣から聖典をのぞき込む。
『我等がベザの子にして大地を与えし正統なる王の末裔』
『愛し子ベルベットの血を受け継ぐ者よ』
『高貴にして気高い魂。聖寵を与えし花園に生まれし子』
聖典の文字が入り乱れ、バラバラといくつもの文字が浮かび始めた。
日頃私達は主神様に祈りを捧げるけれど、ベザリウス教は多神教。一柱の主神と六柱の副神。そして十数の眷属神がいると言われている。この投げかけるようにして乱れて浮かぶ文字は、神々が一斉に言葉を投げかけてきているせいだろうか。
ここには今、幾柱もの神々がいる――。
『愛し子は花園の揺り籠に眠れ』
『最初の星が落ちし場所』
『私達の子に与えし場所』
『そなたがベザの血を継がせねばならない』
『王を捧げよ』
『我等が祝福を、祝されしベザの子に与えよ』
『愛し子よ、大地の王を我等に告げよ』
『これは我等が盟約なり』
『盟約なり』
『星の子ベザとの盟約なり』
『愛し子ベルベットとの誓約なり』
『盟約なり。誓約なり』
入り乱れる言葉の意味がよく分らない。
次から次へと浮かんでは消え、浮かんでは消える文字をすべて追うことは出来ず、「一体何なのよ」とぼやいたところで、ジッと真剣の文字を追うその人の横顔に口を噤んだ。
「そう……つまり、星の子……貴方達がそう呼ぶ者が最初に降り立った場所が、今のベルテセーヌの聖地だと。貴方達はその者を大地の王として盟約したのね。星というのは、聖都ベザの聖遺物のことかしら。そういえばあれは皇帝ベルテセーヌ四世がベルテセーヌから本山に奉納したものだと聞いたことがあるわ」
「せい、ち?」
「聞いていないかしら? ベルテセーヌの王城と大聖堂の間には聖地と言われる丘と石碑があるのよ。古く、神聖帝国時代から聖地と称されていた場所で、絶対に侵してはならないとされている禁域なの」
「知りません……」
「ベルテセーヌ王室はベザ帝国初代皇帝と初代皇后の血脈を受け継ぐ直系家門の一つ。他にもあるけれど、聖地に拠点を構えていることと聖女という存在が現れることから、教会には代々特別に見られてきたわ。何か特別な力があるわけでもない聖女に何の意味があるのかと思っていたけれど、なるほど……“聖女の行う即位式”はどうやら神々にとって無意味な儀式というわけではなく、神聖帝国皇族の末裔だという初代皇后陛下が誓約した絶やしてはならない“義務”なのね」
聖女の行う即位式とやらについては聞いたことが有った。以前クロード王子が、現王はそれを挙げられていないがために王権が弱く苦悩しているのだと教えてもらった。そんな状況を打破するためにも、どうしても聖女の行う即位式が必要なのだと。
聖女ではないアンジェリカには何のことだかさっぱりと分からなかったが、当然、この聖女はそれを知っているのだ。
「つまり神様。貴方達は私がベルテセーヌの聖地を離れたため、正統なる王の即位という誓約が果たせず、盟約が絶えてしまうことを憂えておいでなのね?」
よく分らないが、どうやら神々が言うところのベザの血というのは、そのままの意味の“血”、つまり血縁というわけではないようだ。無関係なわけでもないのかもしれないが、聖女を介して神々にそうと認められたベザの王がちゃんと受け継がれていることを、神々は願っている……そういうことなのだろうか。
「はぁ、まったく……だったら手っ取り早く、アンジェリカ嬢を本物の聖女になさればいいものを」
「えっ?!」
『ただ人にその資格はない』
『我等が愛し子は常にただ一人』
『正しき愛し子リディアーヌ』
『我等が加護する、ただ一人』
うわ。聖女様、溺愛じゃん。
なんて思ったのは一瞬のことで、隣で微塵も笑わずに虚空を睨んでいる聖女を見た瞬間、背中のヒヤリとしていた感触を思い出した。
怒って……いる?
「愛し子? 加護? よく言うわ。その正しき即位式をあげた私の父が、一体どんな有様で母もろともに謀殺されたことか。聖女だからと恋心も知らぬ内に嫁いだ先で、最愛のお兄様が血に悶え息絶えるのを目にし、夫と呼んだ人は囚人となったわ。義母と義弟は苦難に貶められ、罪のないお義姉様まで失って。もしもそれが貴方達の加護のおかげならとんだご加護ね。いっそ私もあの時お兄様と一緒に死ねていたなら、寵とやらを少しは信じてあげる気になったかもしれないわ」
「……」
言葉が、出なかった。
亡き王女リディアーヌ。その歴史は教わったはずだけれど、実感がわいたことはなかった。
だが今そこで、怒りを湛え、静かに言葉を紡いでる人の憎しみが、悲しみが、ビリビリと肌を打ち付けて、息が苦しい。
私は自分の生い立ちを十分に不幸だと思っていたけれど……一体この人の人生は、どれほどの苦悩と共にあったのか。
あぁ、確かに。これでは神々も、加護を口にはできまい。