9-3 マクシミリアンの秘事(1)
思いのほか円形議場が面白い物であることを知ったせいで、翌日も昼過ぎにアンジェリカとカラマーイを引き合わせる面会をベルテセーヌの保有棟で行ったところで、帰りにチラリと議場を覗きに行ってみた。
登壇していたのは選議卿の一人でありドレンツィン領の教皇推薦枠として任命されているアンジェッロ司教で、これまで縁のなかった教会領で一番若手の司教様が何を話すのだろうかとしばらく傍聴していたのだが、生憎とそれが教会の聖女制の歴史に関する講話であったのに気が付くとすぐに議場を飛び出した。
見つかったら何を問われるか分かったものではないし、その手の教会の派閥問題に巻き込まれるのは御免だ。もう少し題目はきちんと確認してから出入りするべきであった。
それからフィリックとも別れて日頃からあまり出入りしない禁事棟へと向かうと、ヴァレンティンの応接間に向かい、リオに茶葉とお湯のお用意だけを頼んで全員を下がらせた。リオが一人でやってきたリディアーヌを気遣わし気に見ていたが、「ちょっとした休憩よ」といって追い払うと納得した様子だった。多分、『うちの姫様は時折こういうことをなさいます』と、上手くマーサが吹き込んでくれているのだろう。
扉の外には相変わらず騎士が立っているが、中までは入ってこない。そんな完全に無人となった応接間でお茶を淹れていると、ガタガタガタッ、と、壁の腰板が震えだし、まもなくガタンっと開いて、ケホケホと目の前の埃を払いながらマクシミリアンが現れた。その後ろからやって来て新鮮な空気にほっと息を吐いたのはジャンポール・マシェロン……ザクセオンの選議卿の一人である。
突然の事ではあるが、リディアーヌはそれに驚いた顔をすることはなく、ただそっと外の扉の方に視線をやると、二人に『静かに』という合図を送り、奥を指さした。それに頷いたマクシミリアンは被っていたローブを裏返しに丸め込み、マシェロン伯に同じようにさせて隠し扉を閉めさせ、奥の部屋へと着いて来た。さすがにこの部屋なら外にも音は響かないだろう。
「いらっしゃい、ミリム、それからマシェロン伯。聞いていた隠し扉は本当にうちに繋がっていたようね」
「さすがに使われていなかったみたいで埃っぽかったよ。いや、逆にこれまでヴァレンティンの壁裏に怪しい人物が潜んでいなかったことの証明になったかな」
「この部屋、水場と繋がっているけれど。濡れタオルもお出しましょうか?」
「いや、大丈夫。ところでいい匂いがしてるけれど」
「あぁ、お茶を淹れているわ。侍女達みたいに上手くはないけれど」
「頑張って埃の中をかいくぐってきた甲斐があったというものだ」
そう言うマクシミリアンに苦笑しながら、埃を包んだマントを机に置かせ、二人にお茶を淹れて差し上げた。マシェロン伯の分も用意しているとマクシミリアンが大層不満そうな顔をしたけれど、侍女を呼ぶわけにはいかないのだから仕方がない。
「お美しい公女殿下にお出迎え頂いた上、このような歓待、なんという幸せでしょうか」
マシェロン伯はザクセオンで今最も若手から支持を受けているという選議卿である。今日も今日とて公子公女の前だろうが憚ることのない洒落た身だしなみと洒脱に着崩した装いに、無駄にギラギラとした甘いマスクを完備しており、リディアーヌが椅子を勧めるとなぜかそちらではなくリディアーヌの方へと駆け寄ってきて膝を突き、手の甲に挨拶のキスをした。
どうして東大陸男というのは……とリディアーヌが呆れる傍ら、「しょっぱなからやらかすな!」とマクシミリアンのげんこつが飛んだのも無理はない。このあまりにも打ち解けた様子を見るに、もしかするとマクシミリアンは最初からある程度マシェロン伯と親しかったのだろうか。
「酷いですよ、公子様。自慢の体にこぶが出来てしまうではありませんか」
「何を言っているんだ、ジャンッ。まったく、お前は目を離すとすぐにこれだ」
「きっと大公殿下やペトロネッラ様が聞けば、『貴方が言うな』と仰ると思いますよ」
「お前ほどじゃないからなっ」
なんですって。マクシミリアンがそう言うほど? だなんて驚いていたら、そのマクシミリアンが呆れた顔で「本当だから。気を付けて、リディ」と忠告してきた。
「想像していたより数倍陽気な方で驚きましたわ、マシェロン伯。ところでそろそろ手を放していただけるかしら?」
「おっと、失礼」
「リディ、こっちっ。早くこっちに来て」
甲斐甲斐しいという言葉では足りないほどの様子でそそくさとリディアーヌを抱き寄せたマクシミリアンは、ポケットチーフで丹念にリディアーヌの手の甲を拭う。そこまでせずとも今日はグローブをしているのだがマクシミリアンがあまりにも必死なので、苦笑しながらしたいようにさせておいた。
「はぁ……これはなんとまた。噂に違わぬ溺愛ぶりですな、公子様。これまでよく大公閣下の前でそのそぶりを隠していらっしゃったものです」
「父上は怖くないんだよ。怖いのは姉上だ」
「だからペトロネッラ様のいらっしゃらない禁事棟を選んだんですね」
そう苦笑しながら立ち上がったマシェロン伯は、律儀に公子様方が席に着くまでその場で立って着席を待った。一見浮ついた色男だけれど、こういう所はちゃんとしているらしい。
ところで当たり前のようにマクシミリアンが自分の隣にリディアーヌをエスコートして座らせたことについては、突っ込んだ方がいいのだろうか。いや、ニヤニヤとしていらっしゃるマシェロン伯には今更か。
「私にはいつもこの調子だから、貴方が本当に隠せているのか心配だったのだけれど……大丈夫みたいね」
「さっきも言ったけど、父上は怖くないんだよ。多少ボロを出したところでいつも通りだし、むしろ父上は私がクロイツェンからリディを攫って来たところも、ギュスターブ王を窓から放り投げようとしたところも、ついでにその後ヴァレンティンに飛んで行ってしまったところもすべて知っているわけだから」
「……そ、そうね」
今改めて聞くと、よくもまぁ大公様はこんな放蕩息子を許しているものだとその寛大さに驚くばかりである。
「怖いのは姉上だ。最近はどこに行くにも行き先を聞いてくるし、監視の目もつけられている。今日も『大事な話があるから』とジャンをひっつかんで禁事棟に逃げ込んだが、そこでも部屋付の侍従に追い回されて難儀をした」
「ちなみに私はペトロネッラ様から、公子殿下がどこで何をしてきたのか後で報告するようにと厳命されております」
「なんと答えるの? マシェロン伯」
「禁事棟でダラダラしながら姉上様の愚痴を仰っていました、とお答えします」
「やめてくれ、ジャン……」
ぐったりするマクシミリアンにクスクスと笑う面差しにはただのちゃらんぽらんな色男とは違う大人の顔を垣間見せており、やはりこの二人は意外と親しい間柄なのだと思わされた。すぐに気を許す気はないけれど、思わず苦笑が浮かんでしまう。
「だったらあまり長居は出来ないわね。早速本題に入りましょう」
「私はもう永遠にここに長居したいくらいだけど」
一つ余計な口を挟んだマクシミリアンだったが、すぐに居住まいを正すと面差しを引き締めた。やる時はやってくれるのがマクシミリアンである。
「本人を前に言うのもなんだけど、ひとまず同意は取れたと見ている。それでいいんだよね? ジャン」
「くくっ。ええ、公子殿下。殿下がお約束を守って下さる限り、私は殿下のお味方をいたしましょう」
「約束?」
聞いてくださいと言わんばかりの言葉であったので聞き返して見せると、喜々としたマシェロン伯と違ってマクシミリアンは呆れたようなため息を吐いた。
「リディに隠すことでもないから説明しておくけど、一つはマシェロン伯をうちの弟に引き合わせて相応の地位を確約させること。それともう一つは、君に引き合わせる事だ」
「私? 何故?」
前者の方が気になったのだが、とりあえず後者も捨て置けない。問うてみると、頭を抱えたマクシミリアンとは裏腹にカラカラと笑ったマシェロン伯が自らそれについて答えてくれた。
「私は実家が没落寸前な上、清貧と慈善が至上だと勘違いしている愚かな両親のせいで爵位継承も危うい立場から、この顔一つで上に取り入り官職をもぎ取って参りました」
「顔一つ?」
そこは腕一つなのでは? と思ったのだが、ニカッと白い歯を見せて笑った色男に、思わず肩をすくめて苦笑した。まぁ、嘘ではないのだろう。一応、彼なりの謙遜なのだと思う。
「おかげさまでペトロネッラ様に目を止めていただき公子様とお仕事させていただく機会を得まして、さらに幸いなことにペトロネッラ様のご紹介で良い家から妻を得ることも叶いました。なのでいやはやこれにてマシェロン家も安泰と胡坐をかいていたのですが……」
な、なんと。妻帯者だったのか。ちっともそんな雰囲気が無かったので驚いた。まぁ年齢的には結婚していて当然の年頃だろうけれど。
「しかしどうしたことか。はぁ……公子様の周りの腹心達に取り入って選議卿という地位まで獲得したというのに、よりにもよって公子様が『後は継がないで婿に行くつもりだから宜しく』などと言い出すではありませんか! まったく。あの時ほど武術を習っていなかったことを後悔したことは有りませんでした」
「……」
「……なんだか、ミリムがごめんなさい」
素知らぬ顔のマクシミリアンに代わって思わず謝罪してしまった。だがその関係性に微笑ましさを見たのか、くすくすと笑うマシェロン伯は肩をすくめて見せた。
「まったく、一世一代の賭けのつもりで公子様の派閥に着き、私もここまでひたすら貪欲に地位の確立のために媚を打ってきたのです。それをご当人が真っ向から否定するのですから……正直皇宮に来てすぐには、公子様を誘惑したのは一体どこのどんな女王様かと思っておりましたよ」
「女王様……」
何? そういうイメージなの?
「いやはや、しかしこれは何と申しましょうか。致し方ない……と言わざるを得ません。公女殿下は思わず膝を着いてご挨拶申し上げたくなるほどに麗しくていらっしゃる」
「あ、有難う?」
「おいこらジャン。余計な話はするな」
「何を仰います、公子様。これはとっても大切なことでございます。公子様が心奪われた方がよもやこのように美しく尊い姫君でいらしたとは! これは私の想定を大きく揺るがした大事件でありました」
「……」
何というか随分と独特な話しぶりをする方だ。言葉のテンポがいいせいだろうか、ついついもっと話を聞きたくなってしまう妙な中毒性を引き起こす人である。色男を売りにしているのかと思ったが、あるいはこの目的の人物の興味を引く話しぶりが彼の武器なのかもしれない。それに合間合間に上手く誉め言葉を差し込んでくるものだから、これが女性ならとりわけコロリといい気になってしまうかもしれない。
「口の上手い方ですわね」
「お褒めに預かり」
「もういいから本題に入れ。これ以上リディを口説くようなら私が説明するよ?」
「え、今のって口説かれていたかしら?」
「おっと」
マクシミリアンの睨みに手を挙げて見せたマシェロン伯は改めて顔つきを引き締めて見せた。そういう顔をすると、何かを企んでいる悪党みたいだ。
「正直なところ、公女殿下についてはすでによくよく観察させていただきまして、うちの公子様がどれほどベタ惚れなのかもとくと拝見させていただきました。いやはや、目を疑うほどでございましたよ」
「こほんっ……」
「ですので改めてこういう席を設けていただきたいというのは私の我儘でありまして、断られてもまぁ良いと思っていたのですが……まさかお受けいただけるとは。しかもヴァレンティンの保有室で。姫君の誠意を見せていただきました」
誠意、なのかは分からないけれど。ただリディアーヌも自分の目でマシェロン伯という人を見ておきたかっただけである。部屋も、確かに許可を出したのはリディアーヌだが、昨日の円形議場でマクシミリアンがひそかに手渡してきたメモに最初から指定されていたのがこの場所だっただけだ。
まぁそんなことは言わずとも分かっていることだろう。それも含めて、マシェロン伯もまたリディアーヌ公女という人を知りたかったのだと思う。
「それで? 私は貴方の“逃したくない大事な公子様”の逃亡先として合格なのかしら?」
「はっは、どうして私がそんな高貴な方々の未来を論ぜられましょう。ただ私はこうして公女殿下にお目にかかり、なるほど、これは致し方ない、と納得したかっただけでございます。そして、もう十分に理解を致しました。温厚な顔をしながら女性達が触れようとすればぴしゃりとそれを阻まれる鉄壁の公子様が、なんとまぁ甲斐甲斐しい……」
「鉄壁?」
誰が? と隣を見たのだが、マクシミリアンはごほんっと咳払いをして誤魔化している。
この人……一体国許ではどんな公子様なのだろうか。リディアーヌの知らないアルトゥールの一面があったように、マクシミリアンにもリディアーヌの知らない国許での顔というものがあったのかもしれない。おそらく、リディアーヌが想像もつかないような顔が。
それは詳しく語られずとも、マシェロン伯の顔を見ていれば十分に察せられた。
「けれどマシェロン伯、貴方にとってミリムは貴方が重大な決断をして選んだ派閥の主。それが派閥を捨てて身勝手に婿に行こうだなんて、許せるものではないのではなくて? というか、私だったらまず許さないわよ」
マクシミリアンは苦い顔をしているが、これは彼にだって分かっていることなはずだ。だから私達は長らくこんな中途半端な関係で有り続けたのであるし、ましてや元々後継者争いが蠢いていたザクセオンでは猶更であろう。マシェロン伯の立場なら、本来は懸命に引き止めてしかるべきである。
「ええ、ですから二つ目の条件です」
「第二公子に引き合わせる事?」
「私は今と変わらぬ立場を保証さえしていただければ、主君が誰だろうと構わないのです」
そんなことを言う臣下を知らないリディアーヌは思わず呆気に取られてしまったのだが、マクシミリアンはそれに「まぁ、普通はそんなものだよ」と苦笑した。リディアーヌの所、というか、ヴァレンティンの方が少し特殊なのだと。
「そういうもの?」
「まぁ少しくらいは選びますとも。ですが今のザクセオンの場合、公子殿下は確かに理想的な上司ですが、第二公子殿下とて優秀でないわけではなく、何よりご実母の権勢も侮れません。堅固に妻帯を拒まれて近寄る隙も無いマクシミリアン殿下に対して第二公子殿下は身の回りに隙が多いので、あわよくば娘を嫁がせて、などと思っている廷臣も大勢おります」
まぁ確かに、弟の周りに目を張り巡らせしっかりと値踏みをするペトロネッラ様に比べると、とにかく国内の名門と縁を築いて自分の息子の地盤をすぐにでも盤石にさせたいトルゼリーデ妃の方が壁が低い。本人達の壁もそれに比例しているようである。
「それに何より……はぁぁ。まったく、驚きましたよ、公子殿下。まさか貴方様がもう何年も前から弟君に後を継げと囁き、ご尊母とは違う派閥に縁付けようとなさってきただなんて。さらにご自分の身の回りすらすでに整理してしまっているのですから、これでは文句のつけようがないではありませんか」
「何ですって?」
キョトンとして隣を見たリディアーヌに、マクシミリアンはまたも苦笑して肩をすくめた。
この飄々とした顔の友人は、まさか皇宮でのリディアーヌとの話があるよりもはるか昔から、自分の腹心達を自分から引きはがして弟に付ける算段をしていたというのだろうか。
リディアーヌが婿入りに頷く保証も何もなかったというのに?!
「あ、貴方ッ……」
「姉上にバレないよう根回しするのは本当に大変だったよ。ただ幸い、うちの弟は賢い上にいい子でね」
「……何をしたの?」
「母親の押し付けて来る臣下達を追い出させて、私が推薦する側近達を付けさせた。ゆくゆくは私が残していく臣下達をごっそり引き受けさせるつもりで、私の執務室にも通わせている。それとうちの母方の家の令嬢とも引き合わせて親しくさせている。これは姉上やトルゼリーデ妃に見つかると相当やばいから、一番神経を使った。いや、むしろ私が度々従妹を宮に呼び寄せて可愛がっているだなんて不本意な噂がリディの耳に入らないかを一番心配していたんだけど、幸いルゼノールにさえ届いていなかったようで安堵したよ」
「……」
呆気にとられるというのは、こういう時に使う言葉だったのだなと実感した。
いや、確かにマクシミリアンのところは異母兄弟でありながら、また継母との関係が一触即発でありながら、妙に兄弟仲がいいとは思っていたのだ。
トルゼリーデ妃の子や庶子を認めないペトロネッラ様とは違い、マクシミリアンは普通に弟妹に甘いし、リディアーヌも第二公子アルブレヒトとはカレッジでよく顔を合わせ、彼がいつも呆れながらも兄に親しんでいるところを目にしてきた。
それは一重にマクシミリアンの人柄によるもので、また彼がザクセオンを継いだ時に弟妹が困難な目に合わないようにと気遣っているせいだと思っていたのだが……。
「ミリム……貴方一体いつから、弟に家督を譲る算段をしていたの?」




