9-2 円形議場
今日の円形議場の議題は『書架文官による所属国全体の歴史の収集に関する議論』であった。リディアーヌの元に書架棟から『是非お越しを』という招待状が届いていたのは、その報告者が見知った書架棟の司書だったからだ。
報告者の上役にあたるマリジット卿もパネリストとして招かれているようで、他にも議場には多くの書架棟の見知った顔が並んでいた。これは今朝の書架棟の仕事をリディアーヌが欠席したのは逆に良かったかもしれない。
リディアーヌは招待は受けたが参加するために来たわけではないので、席を譲ろうとする人達を制してそこそこ目立たない席に腰を下ろした。
円形議場の討論会にちゃんと参加するのは初めてだったけれど、皇宮内政とは関係なさそうなタイトルでありながらそれなりの人達が聴講にきているようで、なぜかひっそりとした場所にお忙しいはずのアルトゥールの姿も見つけてしまった。そういえば彼は昔から歴史や歴史書に関する話題を好んで、よく議論していたような気がする。
今日の議題は現在の各国の歴史書編纂度合いの偏りと、皇宮へ提出される納架度合いにばらつきがあることを前提に、帝国が把握している歴史の厚みに大きな差ができていることに対する問題提起であった。
統一的な歴史書編纂を各国に課すことは度の過ぎた干渉であるが、帝国が中立として平等に帝国内の各国の歴史を伝え記してゆくには最低限の史書編纂と提出の義務が必要であり、時には皇宮書架棟からそれを審理しに行く出張司書の存在があっても良いのではという話で、若干司書個人の歴史書を収集したい学者気質の希望が混じっていたものの大半は納得し得る報告であった。
そのための問題や頻度、それを皇宮の書架棟でどう扱い管理するのか、主観と客観などそれに対する討論も膨らんだが、書架棟の考えはおよそ“一つの帝国と中立としての皇帝”を前提にしており、近い考えのリディアーヌは聞いていて随分と楽しめる内容だったと思う。
逆に皇帝権力の拡大派であるアルトゥールはどうなのかと思ったのだが、討論会が終わったところで挨拶くらいしておこうと近づいたところで、「面白い議題だったな」と、何やら上機嫌だった。
「リディは今、選帝侯家の仕事の割り振りで国史編纂の監督をやっているんだろう?」
「ええ。まぁ、今はまだほとんど通えていないけれど」
「羨ましいな……」
思わず素であろう言葉を漏らしたアルトゥールには、思わず学生時代を思い出してくすくすと笑ってしまった。
「貴方、好きよね、歴史」
「そうだろうか? いや、そうだな。そうかもしれない」
「昔、ヴァレンティンやザクセオンの歴史書があまりにも赤裸々に書かれていることにびっくりして、ショックを受けていたわよね」
「あぁ、忘れもしない。多分歴史が好きになったのはあれからだからな」
「皇宮の司書達はとても優秀よ。今日の話も、実現したら面白いんじゃないかしら」
「むしろまずクロイツェン国内でやってみたい話だったな。各地の情報の蓄積は今までおざなりだった」
「言われてみると確かに、最近は風土誌の編纂もあまり見かけないわよね」
そんな話をしていると、リディアーヌに挨拶に来ようとしていたらしいマリジット卿が何とも言えない顔でクスクスと笑いながらこちらを見た。おっと、挨拶の間を逃させていたようだ。
「マリジット卿、今日はご招待を有難う。来て良かったわ」
「そう言っていただけて光栄です、公女殿下。それに皇太子殿下も、お出で下さっていらしたとは」
「マリジット……マリジット・ゼーレマン卿か。たしか南北問題の時に見かけたな」
「禁書庫の筆頭司書を務めております」
そうだった、とアルトゥールも頷く。
「貴殿らの史書収集に関する議論はまた聞いてみたいものだな。とても面白かった」
「それは嬉しいお話です。宜しければ是非、書架にもいらしてください。語りたがっている司書は多くおりますので、喜んで時間を設けるでしょう」
「いいのか? 私はリディとは敵対派閥だぞ?」
「我々は中立でございます。公女殿下の仕事ぶりには大変感謝しておりますが、私達は誰が皇帝陛下とお呼ばれになろうとも、変わることなく同じ仕事を行うだけです」
「だそうだぞ、リディ」
「司書というのはかくあるべきだと、私も皇宮の司書達をとても信頼しているわ。貴方もそうは思わなくて? トゥーリ」
「ふっ……昔と変わらないな。あぁ、俺も今この瞬間、皇宮の司書達に信頼を覚えた」
ニコリと口元を緩めたマリジット卿がそのまま下がらないので、仕事の件での話があるだろうとでも思ったのか、アルトゥールはすぐに「俺はそろそろ行こう」と言った。
「リディ、明日も円形議場には来るだろう?」
「明日? あぁ……何だったかしら。帝国の役割だとか王家の自治制だとか、ちょっとタイトルを見ただけで頭が痛くなりそうな物だった気がするのだけれど」
「俺も招かれている。必ず来いよ」
「はいはい。分かったわ、皇子様」
懐かしさについ昔のやり取りと同じような受け答えをしながら、ひらひらと手を振るアルトゥールに手を振り返して見送った。
ちょっと親しくし過ぎた気がしないでもないが、今日の議題にアルトゥールが随分と前向きだったのが嬉しくなってしまったせいかもしれない。
こほんこほんっ。
「マリジット卿、今朝は急にお休みをして御免なさい。問題はなったかしら?」
「はい。むしろ幸いというべきでした。思いのほか今朝から議題に関する問い合わせが多く司書室全体で対処に当たっており、仕事どころではありませんでしたので」
「不幸中の幸いだったわ」
「それで、殿下。もしお時間をいただけるようでしたら、書架棟にて今後の進行度合いの変更をご相談したいのですが……」
確かにリディアーヌも予定が変わってきたので、そろそろ調整が必要だろうか。
「フィリック、構わないかしら?」
「大公様の現在の会議の状況次第ですが、ひとまずこの後は姫様には何のご予定も入れておりません」
「なら大丈夫ね。マリジット卿、一度選帝侯議会棟に寄ってから書架棟に向かうわ。宜しいかしら?」
「はい。急なお誘いを申し訳ありません。宜しくお願いいたします」
恭しく一礼したマリジットに軽く手を挙げて、そわそわと周りで話しかけるタイミングを見計らっていた人達をあしらい、そそくさと議場を出た。
思ったよりも楽しい時間になった。
「円形議場も悪くはないわね。たまたま興味のある事だったというのもあるけれど、これからも関心のある議題には足を運びたいわ」
「すでに議題も随分と揃ってきております。姫様がご関心を持ちそうなものをピックアップしておきます。取り急ぎ、明日はどうされますか?」
「明日は……」
正直、もうあまりそういう話に首を突っ込んで疲弊したくはないのだが、しかし立場柄、そうはいっていられないことは理解している。
「お養父様は行かないわよね?」
「大公様が現れた日には皆が竜でも襲ってくるのではないかと慌てふためくことでしょう」
えぇ、だろうと思ったけれど。
「だったら参加しましょう。頭は痛くなりそうだけれど、聴かないわけにはいかないものね」
「調整いたします」
はぁ……優秀な文官がいて助かる。
今日の明日で調整できてしまうくらい優秀で、実にタスカル……。
◇◇◇
翌日は朝から書架棟に向かい、これまでの溜まった分の確認に全力を注いだ。随分と積み上がってしまっていたので、これからはしっかり通いつめねばならない。
それから昼はヴァレンティンの皇宮大使夫妻に養父共々招かれており、それから養父は昨日選帝侯議会で情報共有と決まった内容をまとめねばならないのだと頭を抱えながらふらふら選帝侯議会棟に向かい、リディアーヌはその足で円形議場に向かった。
どうやらヘイツブルグ大公の手土産事件で、ザクセオンはオランジェル候経由でその情報を入手したらしい。エッフェル候が中立でありながらもあの場ですぐにヴァレンティン大公を選んで密告したのも、オランジェル候とクロイツェンにだけ情報の優位性を与えていいようにされては困るからという、三侯内のバランスを考慮したからであったようだ。
だがこうなるとどこかしらから情報というのは広まってゆくものであり、選帝侯議会においても早々と、『ギュスターブ王に皇帝候補たる資格はあるのか否か』という議題が出たそうだ。
当然、ヘイツブルグ大公はこれに『貴殿らは何の資格があってそのようなことを論じるのか』と素知らぬ顔をしたが、大公自身も自分の手土産のことが他の大公達に密かに広まっていることは承知していたようで、諸々議論が白熱して長引いた挙句、なんとかヘイツブルグ大公から『最低限の情報共有はする』と引き出し、しかし『ただし貴殿らも出せ』という条件が出されたらしい。
相変わらずヘイツブルグ大公が何を考えているのかは分からないが、どうやら本気でギュスターブ王を推しているわけではないことは察せられてきた。だが今はまだ、それがどう転ぶのかが分からない。ヘイツブルグ大公だって、だからといって無意味にギュスターブ王を推したわけではないはずだからだ。
いっそこちらから仕掛けてみるのも手だとは思うが、養父はまだ『しばらくは静観だ』との判断で周りに指示を出したらしく、リディアーヌもそれを受け入れた。
ただいつでも動けるように情報の優位性は取っておきたい、なんていう話をしつつフィリックと円形議場に向かったら、すでにひしめくほどの傍聴客が集まっていたものだから驚いた。
さすがに議題が議題である。集まっている面々も見知った重役ばかりで、そうでなくとも方々から貴顕らが集まって、すでに立見席すらできつつあるようだ。
これでは座れないのではないかとも思ったのだが、そう面食らっていると、「リディ、こっちこっち」と目立ちはしないが後ろ過ぎもしない程よい場所で手を振る友人を見つけてしまった。どうやらマクシミリアンも傍聴するらしい。
「王家、選帝侯家には一応、専用のボックスがあるんですがね」
フィリックがそう呟いたので、「え、そうなの?」とリディアーヌは驚いたのだが、なるほど、フィリックが指を差した上のカーテンのかけられた席がその特別席らしい。いくつか開いたカーテンがありその中の一つにロイタネン伯を見つけたので、選帝侯家の許可で選議卿らが使うこともあるようだ。
なのにあえて一般傍聴席にいる公子様には周りも困惑気な顔を向けていて、おかげでマクシミリアンの周りには不自然な空席が出来ていた。そこにここ幸いと誘われたようである。周りもまだまだ空いていたので、ついでにフィリックも座らせておいた。
「ミリム、どうしてこっちの席に?」
「そういうリディこそ」
「ボックス席というものを今知ったわ」
「あれね、やめておいた方がいいよ。司会者は一般席に議論への参加は求めてこないけど、ボックス席には容赦なく求めて来るから」
「……ミリム、ここに貴方がいてくれたことを沢山褒めて差し上げてよ」
「そうでしょう?」
そんな会話をしている内にも今日の討論の進行役と二人の話者が出てきて挨拶をし、さらに招請をお願いしたパネリスト達が紹介される。どうやらアルトゥールはそちらだったようだ。それだけではない。リュシアンやエッフェル候なども招かれていて、錚々たる面々が揃っていた。なるほど、これでは議場が立見席まで人で溢れるはずである。
もしかしてと視線を巡らせた先で、なるほど、カーテンの開いているボックス席にはアンジェリカやウィクトル公子、リヴァイアン王子、ヴィレーム王子らの姿もある。むしろアンジェリカが一般席のリディアーヌ達を見つけて、ぎょっ、と一瞬身を乗り出したほどだった。
うん、だろうね。未だに周りの人達もびっくりした顔でこっちを見ているものね。議場の出題者も困惑気にこちらを窺っているし、何より『お前達なんでそこなんだよ』というアルトゥールの呆れた顔がすべてを集約して物語ってくれていた。だがここでいいのである。
本日の題目は『帝国の役割と王家の自治制に関する討論会』であり、昨日の一方的な報告とそれに対する議論という形式とは違い、二人の討論者がそれぞれ異なる立場からの見解を述べて、それに対してパネリスト達に意見を問いながら議論する、という形で進行された。
もっと激論になってドロドロするのかと思っていたが、あくまでもパネリスト達は見識を与える立場という立ち位置なようで、多少舌戦になることはあったが比較的穏便な討論会であったようである。
人選もよく考えられていて、王国自治促進派と帝国機能拡充派の二人の討論者に対し、前者派のリュシアンと後者派のアルトゥール、中立内務の長であるオランジェル候と外務の長であるエッフェル候、外務内務でそれぞれ実務に当たっている責任者達という現場の声も加えた理性的な意見交換会だった。
懸念していたアルトゥールの方も、学生時代のちょっと過激な憚らないにもほどがある思想はどうしたんだというほどに落ち着いた様子で、王国自治にも譲歩をし、きちんと聞く耳を持った姿勢で受け答えしていたのが印象的だった。
逆にリュシアンの方は一人で治政を学んできた立場柄こういう催しは不得手なのではと思っていたのだが、確かに自分から率先して挙手するタイプではないとはいえ、問われたことには澱みもなく淡々と矛盾のない的確な返しをし、時に外見と裏腹な純朴な様子で討論者や別派閥の者達にも率直な質問をして理解しようと歩み寄る姿勢を見せるものだから、傍聴者達にも随分と好印象を与えたのではないかと思う。それでいて言いなりになるわけではなくしっかり矛盾は突いてくるので、皇帝候補として弱い印象も与えなかった。
「これは益々、トゥーリとユリウス陛下が競りそうだね」
「トゥーリは随分と丸くなったのではなくて?」
「ははっ、それはリディが学生時代の、ちっとも言葉を憚らなくていい友人との議論をしていたトゥーリしか知らないからだよ。あれでも一応、国ではそれなりにそれっぽく取り繕っているんだよ?」
「そうなの?」
マクシミリアンの言葉には少し驚いた。
まぁ確かに、リディアーヌはカレッジ卒業からこの方、何しろ遠い国であるクロイツェンで友人がどんな風に過ごしていたのかはほとんど知らない。知っているのは手紙に書かれていた当たり障りのない内容と、実際に関わった海貿問題の件だけだ。
見る限りそんなに大きく変わっているようにも見えていなかったが、どうやらリディアーヌよりはまだアルトゥールに近い場所にいたマクシミリアンいわく、カレッジ時代の過激な議論の方が“あまりにも明け透けすぎる異例”なのであり、日頃はもうちょっと慮った言動をしているのだという。
「どれだけ過激なことを言っても私達は真面目に議論したし、それだけでトゥーリを批難したりしなかったでしょう? だからどこまで許されるのか、私達で測っていたらしいよ。まったく、嫌らしいよね」
「……なにかしら。とっても腹が立つわね」
「はははっ」
雑談に少しの本音が混じったところで、こほんっ、と、後ろで小さくフィリックに咳払いをして窘められた。
ともあれ討論会はそうして比較的穏やかなままに終わった。会場には仕事中の大公達はいなかったものの多くの選議卿達も傍聴していたから、このような帝国制度に突っ込んだ議題でパネリストとして招かれたのがリュシアンとアルトゥールという二人の皇帝候補だけであったことには随分と注目が集まったのではないかと思う。いや、むしろ大きくそれを印象付けたはずである。
残った選議卿や皇宮の文官達がそのまま議場内で議論を始めたので、変に巻き込まれたりしないよう、リディアーヌはマクシミリアンと共に早々と議場を後にした。
あの後、討論者もパネリストもいなくなった議場で議論が白熱した皇宮文官同士が殴り合いの大喧嘩を勃発させ騎士が出動する事態になった……なんて話を聞いたのは、その夜の事だった。
「そういえばお養父様いわく、三日に一度はどこかしらで何かが起きるんだったかしら」
「報告していないだけで、もっと色々と起きていますよ。お聞きになりますか?」
「……やめておくわ」
マーサにぱふぱふと髪を拭われながら重たい息を吐いたのは無理もない話である。




