1-28 神問の儀(1)
昨日も訪ねた神問の間は、昨夜の内にも天井の窓が塞がれていたようで、完全な真っ暗闇になっていた。
聖典の傍に……ふむ。やはり、灯りはないのか。
自ら扉を開いたトレモントロ大司教に促され、アンジェリカ嬢はその真っ暗な空間をきょろきょろと見まわしながら足を進める。
「あ、あの……私……」
「アンジェリカ様。神問は神との対話。聖女たるやを神に問う時間です。聖典の前に跪き、神の言葉を聞かんと、どうぞ真摯にお祈りください」
「……はい」
不安そうに頷いて……どこか少し諦めたようにも見える様子で冷たい石畳にペタンと座った後姿を最後に、トレモントロが扉を閉ざした。その扉に、大司教だけが持つこの部屋の鍵がかけられる。これでもう、誰一人としてこの部屋には立ち入れない。
それを見ると、流石にホゥと息が零れ落ちた。
「お疲れ様でございました、聖女殿下」
「大司教様も。有無なく場を取り仕切っていただき、感謝いたします」
「ほっほ。柄にもなく張り切ってしまいました。明日は腰に来そうです」
こんな時にまで茶目っ気で気遣ってくれるとは。やれやれ、隅に置けない御仁である。
「テシエ司祭にもご苦労をおかけしましたね。水盤のこと、知らせていただけて助かりましたわ」
「いえ……まさか本当に、正司教様がこのようなことをと……」
明らかにしょんぼりとしている様子を見ても、きっと直前まで半信半疑に思っていたのだろう。だが彼の良心が、リディアーヌを助けてくれた。
「あの、しかし聖女様。あの柄杓の件は一体、どういうことなのでしょうか。その……二つ目の柄杓は二重底になっており、中には最初から聖水が入っていたのです」
「そんなことだろうと思いましたわ。でも私も何の準備もしていないわけではなかったの。他でもない、我が身の聖痕のことよ。どうして私がそれについて正司教様よりも無知だと思うのかしら」
「……仰る通りです」
多少言葉で誤魔化しはしたけれど、納得はしたようだ。できることならこのインクのことは秘密にしておきたいから、まぁ勝手に神秘だとでも奇跡だとでもカラクリだとでも、何とでも思ってくれればいいと思う。
「それで、テシエ司祭。アルナルディ正司教は何を囁いていたのかしら?」
続けてこちらから問えば、「流石、お目が利きますね」とテシエが肩をすくめた。
それから真面目な視線をしてチラリと大司教様を見やると、深く頭を下げた。
「恐れながら先ほど正司教様には、大司教様が持つ昨夜の“二つの小瓶”の水の一つを入れ替えるようにと……遠回しではありましたが、そのように指示されました」
「あぁ、これですか」
そうトレモントロは、ポンポン、と腰を叩いて見せた。どうやら聖水はそこにあるらしい。本当に、肌身離さず持ち歩いてくださっていたのだ。
「正司教は貴方を信じ切っているようですね、テシエ司祭」
「お許しください……信頼を得るため、水盤の水の入れ替えに手を貸してました……」
顔を青くして項垂れる素直な司祭には、トレモントロもいい顔で笑って、ポンポンとその肩を叩いて慰めた。大司教様からの励ましは、司祭であるテシエにとっては何よりのものだろう。それにその正司教からの信頼のおかげで、テシエが任務を遂行しない、というアドバンテージを得られた。上々である。
「大司教閣下、ならびに公女殿下」
そんなところに、廊下の先から声をかけた人物が一人、やって来た。皇帝陛下が遣わした見聞役の文官であり、一応こちらもずっとその動向を注視していた人物だ。なので後ろにはうちの最も腕の立つ側近であるエリオットがくっついている。阻むことなく連れてきたということは、一応これまで不審な動きはなかったということなのだろう。
「改めまして、ご挨拶を申し上げます。帝国院内皇庁所属のアマーテオと申します。皇帝陛下の御命にて、儀式の見聞を行っておりました。恐れながら、この事態の説明を求めたく存じます」
「お役目、ご苦労様でございます。しかしまだこの通り、儀式は終わってはおりません」
そうチラリとリディアーヌを気遣ったトレモントロ大司教に、「少しでしたら大丈夫ですよ」と断る。
「閣下の仰る通り、まだすべては終わっておりませんから、報告はまた後日に時間を設けて説明させていただこうと思っています。そうでなくともアマーテオ卿には別の件でもお付き合いいただきたいと思っておりますし」
「先日の書状……何事かと思っておりましたが、間違いなく公女殿下からの書状だったのですね」
「不審がらせてしまったかしら? まぁ、唐突でしたものね」
え、そんなつもりまったくなかったんだけど。怪しまれてたの? どうりで、中々返事が来ないわけだ。びっくりした。もしかしたらそのことも含め、リディアーヌに探りを入れに来たのかもしれない。
「とりあえず先ほどの件ですけれど……まぁあの通り。どうやら新たな聖女を望んでいらっしゃらない方達がいらしたご様子。かといってよもや教皇庁から下された聖なる御物に細工をしようとは、浅はかでしたね」
「嘆かわしいことです」
まぁ、おかげさまで面白いほどに掌で踊ってくれたけれど。
「それで。一体これから、どうなさるおつもりなのか」
「どう? 貴殿の役目は“検分”ではなく“見聞”でしょう? いらぬ動きをして疑いをかけられたくなければ、じっと、だまって、成り行きを見ておいてくださいませ。その内容は後日、きちんと説明をすると言っているのですから」
「っ……」
察しは悪くないようだ。リディアーヌがなぁなぁに周囲を頼るわけではなく、この駆け引きを主導していることを察したのだろう。まだ何か言いたげではあったものの、「分かりました」と引き下がった。
おそらく彼は皇帝陛下の手足として、アンジェリカ嬢の聖痕を否定するよう誘導せねばならない立場だ。だがこの状況下、たった一人で何ができようものか。しかも後ろにぴったりとエリオットが付いてきて目を光らせている理由も察していることだろう。彼にできることはない。
「心配なさらずとも、皇帝陛下には自ら説明にあがるつもりです。謁見を申し込むと、そうお知らせしたはずでしょう?」
「……よもや本気でいらしたとは思わず。失礼しました」
「冗談でそんなことは言いませんわよ。だから貴方はどうぞいらぬことをせず、ありのままを報告してちょうだい」
すっと腰を折って意を示したアマーテオ卿に、もう用事は終わったとばかりにリディアーヌはトレモントロ大司教を向き直った。すぐにもエリオットが、「さぁこちらに」と彼を大聖堂に戻してくれることだろう。
「それで公女殿下、これからどうなさるのでしょうか」
あえてニコニコとアマーティオ卿と同じような聞き方をしてきた大司教閣下に肩をすくめてみせてから、チラリと同行しているアルセール達を見やった。その視線にアルセールがすかさず、「私は何も見えず、何も聞こえておりません」という。その言葉にはっとしたテシエもまた、ピタリと扉に背を付けて目を閉じた。実に物分かりがいいことである。
「トレモントロ大司教様は、どうぞその聖水を大切にお持ちになっていてくださいませ。それにしても、神問とは時間がかかるもの。ただ待つのも退屈ですし、私は少し裏手の神庭など散策してもよろしいでしょうか。そう……とりわけこの塔の裏手の七神像が並ぶ泉などは、見ごたえがあると思うのですが」
「……」
ぴくりと一瞬眉を動かしたトレモントロは、「あぁ、なるほど。なるほど」とひとしきり呟くと、そのまま目礼した。
「恐れながら、私もここで目を閉ざし、耳を閉ざしておく方が良さそうでございます。ただ聖女殿下。私から“鍵”をお渡しすることは出来ません」
「ええ、必要ないわ」
「……ほぅ」
少し目を瞬かせつつも、「ではここでゆっくりと、お戻りをお待ちしておきましょう」と言う。その言葉に見送られて、「全員そこから動くことがないように」とだけ言いおき、一人、この神問の塔を取り巻く鬱蒼とした庭へと降り立った。
さすがに庭の作りは個々によって違うようだけれど……“扉”の場所は、知っている。
故郷の深きドゥネージュの森よりは浅く、しかし聖なる木の香りの際立つその庭を、ざくりざくりと、一人突き進んだ。




