8-59 聖職者達の思惑(4)
「それで、フィレンツ。貴方はそんな個人的感情で、ヴィオレット妃を教会に入れるべきではない、あれは聖女ではない、と、そうサンチェーリ司教様に囁いたの?」
「ええ。どうせならリディアーヌ様をお招きしましょう、とも言いましたね」
「おい」
思わずマクシミリアンが突っ込んだが、それにはもれなくサンチェーリ司教が「さすがにヴァレンティン大公閣下に喧嘩を売るような馬鹿な真似は止めろと懲罰房に放り込みました」と言った。
そりゃあそうだ。養父の娘に対する溺愛ぶりは皆が知っている。
「ですのでそれはひとまず諦めましたが……代わりに一つ、“事件”を起こしました」
ニコリと微笑んだフィレンツィオの言葉を聞いた瞬間、ゾッッと背筋が震えあがった。
平然とした顔で息をついているサンチェーリ司教と、やれやれと肩をすくめているエティエンヌ猊下。禁忌を犯したにしては、清めなんてもので満足している敬虔なはずの聖職者。
「あ、なた……まさかっ」
「『うちの司教様は鹿肉が好物でして』という世間話を偶然知り合ったどなたか様に少々いたしまして。あぁ、誤解なさらず。嘘は言っておりませんよ。私は昔確かにこの耳で、出家前は鹿肉がご馳走だった、というお師匠様の言葉を聞いております」
「はぁぁ」
いや、そのお師匠様が深いため息を吐いていますけれど。
「どういうこと? つまりカクトゥーラは本当に良かれと思って鹿肉を……いや、そんなはずはないわよね?」
「もう少し正確にお伝えするなら、『鹿肉が好物ですが、ドレンツィン大司教様の前でそのような禁忌をおかしたならどんなお咎めがあることか』というお話をしましたね」
思わずバッとサンチェーリ司教を見てしまった。
「もしかして……ドレンツィン大司教領内での権力争いが、関わっていますか?」
「……まったく、聖職者が権力争いなど何と不埒な……あげる顔もないというものです」
あくまでもフィレンツィオは事件に便乗しただけだったようだが、確かにカクトゥーラの鹿肉事件については、どうしてわざわざ聖職者を狙ったのかというのが不思議だった。カクトゥーラは信仰も篤くないためリディアーヌが思っているよりは標的にしやすかったのだろうかとは思ったが、それでもあえて帝国に強大な権力を有する高位聖職者を標的にした理由は納得できなかった。
だが事件を犯した者が事前にフィレンツィオからそんな話を聞いていて、あるいはサンチェーリ司教に失態を犯させたい誰かがさらにそれに便乗していたとしたら。
「サンチェーリ司教……もしかして貴方はあの料理に鹿肉が使われていることをご存じで、口にされたのですか?」
「ええ、仰る通りです、公女殿下。いえ、正しくは“口にはしておりません”」
「はぁぁ」
やっぱりそういうことか、と息を吐いた。
「清めまで用意していただいておりながら、誠に申し訳なく……」
「いえ……それはいいけれど」
チラリと隣を見れば、アンジェリカもブンブンと首を縦に振って、「お口にされていなかったのであれば良かったです」と優しいことを言った。
「我々聖職者は元は貴族やそれに類する家の出が多いです。ですから教会の作法にも帝国の作法に通ずるものは多く、食事の類も、まずは位の高い者から手を付け、下々はそれを見てから手を付けるということが身に染みております。ですがあの日、それまでは滞りなく食事をなさっていたドレンツィン大司教様があのスープにだけは中々手をお付けにならなかった。それを確認した上で、私はあえて手を付け、食べてしまったふりをしました」
「つまり大司教閣下も、あの料理に鹿肉が入っていることをご存じだった」
「閣下にそう密告したのはシリアート司教でしょう」
はぁ……なるほど。次期ドレンツィン大司教の座を巡り、兄弟子であり大司教肝煎りのフィレンツィオの師を任されているサンチェーリ司教を貶めようとしたのは、シリアート司教だと。
つまりシリアート司教はカクトゥーラ内部で反リヴァイアン王子派の誰かと通じていたことになる。そちらに属しているというより、各家門内の反皇帝候補派を把握し通じているのかもしれない。
「あの一件には、ダグナブリクのカーシアン女伯が関わっております。そのことは公女殿下も察しておいでかと」
「ええ。どうにもダグナブリクとカクトゥーラ、両国にまたがる跡目争いがあるようね」
「女伯はカクトゥーラ王の実子であるヴァルテール王子派です。腹心のヘイケネン子爵の姉がカクトゥーラ貴族に嫁いだのち主家で乳母となり、自ら育てた令嬢がヴァルテール王子妃となっております」
「とんだ内情が出てきたわね……」
「姉と言っても前子爵婚外子の異母姉でして、外に知られている話ではありません。私はダグナブリクのペラトーニ司教様からその話を聞きました。今回の件に関係あるかもしれないと、ご親切にも教えてくださいまして」
ご親切に、の言葉がちょっと怖いのは気のせいだろうか。
「そしてカーシアン女伯はクロイツェン派の選議卿」
「えっと……それって、クロイツェンもあの事件のことは前もってご存じだったと?」
アンジェリカが首を傾げたが、それにはリディアーヌが「それはどうかしら」と続けた。
「知っていたなら、トゥーリはヴィオレットに聖水を持ってこさせるか、少なくとも鍵は持って来させていたはずよ。結果的にあの時の事件ではヴィオレット妃は聖女としての務めを果たせず恥をかいたでしょう? それは本意ではなかったでしょうから」
「ええ、そうです。正しくは、カクトゥーラでの王位争いに絡んで、リヴァイアン殿下を狙う者がいる、ということは知っていたでしょう。他でもない私がアルトゥール殿下とそういう話しをしましたから」
「……フィレンツ」
聖職者とは思えない暗躍ぶりに、もう零れ落ちるため息もない。
「だからこそアルトゥール殿下はカーシアン女伯らの妙な動きにも介入はせず、放置していた。リヴァイアン殿下の失態は大歓迎でしょうからね。しかしまさか聖職者が狙われるとは思っていなかったはずです。何しろ『何かがある』と伝えたのは私ですから、私が大司教様やお師匠様に話していないはずがないと思ったでしょう」
だが実際、フィレンツィオはサンチェーリ司教にしか伝えておらず、ドレンツィン大司教はシリアート司教から鹿肉という具体的な攻撃方法も聞いて知っていたが、それをサンチェーリ司教には伝えなかった。おそらく、サンチェーリ司教が自分に反目していないか探るか、あるいは禁食を犯させることで牽制をしておこうとしたのだろう。
「大司教様の方は、お師匠様が禁食をしてしまったところでヴィオレット妃が清めを取り仕切ってくれればアルトゥール殿下にも恩を売れるとでも思っていたのではないでしょうか。まさかあそこでヴィオレット妃が名乗りを上げられないとは想像していなかったでしょう。それは私も同じです」
むしろ過分にリディアーヌを推さずともスルリといってしまい、フィレンツィオの方が驚いたという。だがその理由はすでに今ここで話した通りだ。
「トゥーリはフィレンツの優秀さなんて百も承知だ。そのフィレンツがいて聖職者に何かが起きるだなんて、そりゃあ思わないだろうね。フィレンツが裏切ってでもいない限り」
あえて棘のある言い方をしたマクシミリアンに、フィレンツィオはニコリと聖職者スマイルを浮かべた。まったく……食えない友人である。
「サンチェーリ司教様、こんなのが腹心で大丈夫ですか?」
「ええ、まったく。今回の皇帝戦が済んだら、徹底的に聖職者とは何なのかを叩き込むつもりでおります」
「おっと……」
フィレンツィオは肩をすくめたが、今の司教様のその言葉で、サンチェーリ司教の意図は十分なほどに伝わった。
サンチェーリ司教は弟子が画策したことであることは承知の上ながら、師ドレンツィン大司教に裏切られ、教皇聖下の方針にも思う所があり、また今日ここでリディアーヌの語った聖女と使徒という話を知り、その心を完全に大司教様と異なる方向へと向けたのだ。
そしてフィレンツィオがここにエティエンヌ猊下と、そして本来敵対派閥であるはずのマクシミリアンを追い出すことなく招き入れたことを考えても……。
「驚いたわ、フィレンツ。貴方は一体どれほど多くの情報を仕入れているのかしら」
「無害な聖職者はどこでも警戒されませんから。お役に立てましたか? 聖女様」
「ここぞとばかりに聖女と呼ぶのは、何の見返りが欲しいからかしら?」
「いやだなぁ。私は聖職者ですよ?」
「良いから本音を仰い。今を逃したら後悔するわよ」
「そうですか? でしたら遠慮なく。まずはやっぱり、聖女様の聖水は欲しいですね。家宝にします。あともっとちゃんと清めも受けてみたいです。あぁ、いつぞやのベルテセーヌの即位式のように、また聖女の神秘の古儀も見てみたいですね! ユリウス一世陛下が皇帝陛下になられたら、当然ベルテセーヌでは次の国王陛下が戴冠なさいますよね? その時は是非招待状を下さい。聖痕のお話ももっとお聞きしたいです。あぁ、いっそ殿下の肖像画もお願いしておきましょうか! 勿論、聖痕がはっきりと描かれたものがいいです!」
「……」
「……」
「……」
思わずシンと静まり返った部屋の様子に、コクリと首を傾げたフィレンツィオは、「さすがに多すぎましたか?」と呟いた。
多すぎる、どころじゃなかったと思うのだが。
「いいわ。すべてが済んだら、たっぷりと聖水……それも聖女の秘宝で作る、高濃度の純聖水をプレゼントして差し上げるわ。ただし家宝にするのではなく頭からかぶって、しっかりと煩悩を捨て去りなさい。そのための儀式なら喜んでして差し上げるわ」
「それは良いですな」
サンチェーリ司教の同意も得られたところで、「うーん、悪くないですね」などというフィレンツィオに一つ呆れた顔をしておいた。
しかしこれは、幸いというべきであったのか。
「それで……エティエンヌ猊下がこちらにいらした理由も、お聞きしても?」
「まさかこのような話になるとは思っておりませんでしたが。なるほど、アルセール司祭が見どころのある助祭であるなどというはずです。面白い物を見せていただきました」
「アルセール先生が? 光栄です」
フィレンツィオ、君は少し反省していなさい。
「私がこちらに来た理由は、今この状況がすべてです。私の選択は間違っていなかったようです」
つまり元々今の教皇聖下とは派閥が違っている次期教皇候補として、ドレンツィン大司教の周辺に不穏な乱れがあるのを見て取って、サンチェーリ司教がリディアーヌに接近するのを機にこちら側について状況を探ろうとしたと。あるいはすでにこちらが反教皇派になることを想定して、近づかんとしたわけだ。
まったく、食えないお人である。
「そういえばそのアルセール先生は皇宮にいらしていないのですね」
少し閑話でも挟んで頭を整理しようかと口にしたのは、エティエンヌ猊下の名実ともに右腕、最側近、愛弟子として知られるのがアルセールの話題だった。
アルセールは他の高弟達すらもエティエンヌ猊下の愛弟子と認める立場で、むしろアルセール本人がそんな優遇に困惑して、自ら本山の管理職ではなくカレッジの神学教師なんてものに身をやつしていたほどである。そんな最側近の先生がいないのは今がカレッジの開校シーズンだから、だなんていう理由ではないと思うがどうなのだろう。
先生がいてくだされば、まだ猊下の行動も事前に分かったかもしれないのに。
「あれは今、試験中でしてな」
「「試験、中?」」
思わずマクシミリアンと声を揃え顔を合わせたが、すぐにどういう意味か察して、「まぁっ」と声を上げた。
「そろそろだとは思っていましたけれど……そうでしたか」
「今まで、まだだ何だと理屈をこねくり回して逃げ回っていたのを引っ張り出すのには苦労致しました。知識も経験も足りておりますから、この春には“準司教”、あるいはひとっとびに“司教”と呼ばれる立場になっておりましょう」
穏やかな顔で『私はまだ未熟ですから』という先生の顔が手に取るように思い浮かぶ。だが経歴からしてとっくに準司教くらいにはなっていてもおかしくない人なので、三ヶ月に及ぶ司教試験に挑んでいる最中と聞いてもなんら不思議ではなかった。本来ならば司教に推薦されるには若すぎると言われる年かもしれないが、先生に至っては遅すぎるという感想を持つくらいだ。
「では春にはお会いできそうですね」
「ええ。ですが少し悩ましいですな。アレがそこの幼気な助祭に教えたことを思うと、はたして司教として推薦して良かったのかと、師として頭が痛いですから」
「あー……」
「あぁ……」
これとあれと、二人を混ぜると大変危険な気がするのは同感だ。
アルセール先生は清廉な人物で、裏であれこれなんてしない人だ。だが今の教会本山での地位を考えれば、清廉という名のもとに大きな影響を振りまく人物であることは間違いない。フィレンツィオのように。
「ですからアレにちくちくと言われる前に、私も派閥をはっきりとさせておこうと思いましてな」
「猊下……」
「正直ここに公子殿下がいらっしゃるとは思わなかったのですが。ほっほ。私も殿下方のカレッジ時代を知っている一人として、いやぁ、何やら嬉しいものですな」
「だってよ、リディ。これは私達の婚儀には是非猊下をお呼びしないとね」
「ごほんっっ」
思わず恥ずかしさに大きな咳ばらいをしたら、聖職者達に微笑まし気に笑われてしまった。
ま、まったく……そんな話、ちっともしたことないのに。フィレンツィオまでニヤニヤ顔になっているではないか。
まぁ、猊下がこっちに着いてくださる気になった理由は言わずと知れている。猊下は隠すことも無く、次期教皇の座を狙う枢機卿の中でも飛びぬけて躍進していらっしゃる重鎮である。教皇にすり寄っているドレンツィン大司教への牽制や、教皇枠として参加している教皇子飼いのアンジェッロ司教に好き勝手させぬためにも、ここいらで大きな後ろ盾を得るための賭けに出たのだろう。
それが聖女の肩書きを持つリディアーヌであれば中々に使える後ろ盾で、そこにヴァレンティン大公家とベルテセーヌ、さらにはザクセオンの公子までついてきたら文句もない。そしてその後見を最大限活用するには、ベルテセーヌから皇帝が立ってくれた方が都合がいい。
そんな利害だけで派閥を選べるのが、このエティエンヌ猊下というお人だ。
まぁリディアーヌは元々アルセール先生が心から尊敬なさり師事している御方という印象もあって、エティエンヌ猊下派だ。票を得る見返りに次期教皇として盛り立てて行くことには何ら抵抗もない。むしろ既知で有る方が次期教皇となって下さればどれほどいいことか。
つまり猊下との一連托生は願ってもない関係なのだ。
「猊下が最も高き祭壇に登られるその時には、きっと神々がこの上ない祝辞をお送りくださいますでしょう」
「聖女殿下は聖職者が何を最も名誉とするのかをよくご存じである」
満足そうに頷いた猊下に苦笑をして見せてから、ふぅと一つ息を吐いた。
部屋を出たくないだなんてごねていた昼間が嘘のように、とんでもない時間になった。面倒がらなくて良かった。
少なくともこれで教会票が二つ。いや、それ以上にドレンツィン大司教領内に味方を得られたことが何よりの収穫だ。中々読めない教会内部の情報は喉から手が出るほどに欲しかったものだからだから、きっと後でフィリックがいつにない恐ろしい笑顔で誉めてくれることだろう。
「今日はとても有意義な時間となりました。フィレンツィオ助祭、貴方に感謝を」
「勿体ないお言葉です、公女殿下」
先程までの不遜さはどこに行ったというほどに恭しく聖職者の顔で一礼して見せたフィレンツィオに、自然と解散の雰囲気となる。
猊下が席を立ち、サンチェーリ司教も腰を浮かせるとともにマクシミリアンがリディアーヌにも手を差し伸べてくれる。それにアンジェリカの手を取りながら立ち上がると、待っていたように扉が開いてフィリックが顔を出した。
あまりにもタイミングがいいが、外で立ち聞きでもしていたのだろうか。まったく。
「公女殿下」
だが出て行こうとしていたところでフィレンツィオに呼び止められた。まだ何か話し足りないことがあっただろうか。
「これは私的な話題になるのですが、公女殿下は、二十代後半ほどの年頃で、アルトゥール殿下程の背丈にもう少しがっしりとした体格の、赤い髪をした傭兵風の男性に心当たりはありませんでしょうか」
「何? 突然」
赤い髪? 傭兵風?
そんな知り合いなんて……。
「キリアン?」
ふと過ぎった名前を口にしたところで、部屋に入ってきていたフィリックの顔が条件反射のようにぐっと歪んだ。相変わらずキリアンが嫌いなようだ。
「お名前は分かりませんが、クロイツェンの通行証を持っていたようです」
それは益々キリアンっぽいのだが。
はて……そういえば最近は、キリアンからの情報という類の話を聞いていない。リディアーヌが知らないだけでシュルトやククの辺りでは行き交っているのかもしれないが、しかしどうして突然フィレンツィオの口からその人物像が出て来たのだろうか。
「ご存じの方のようですね。なら良いのですが」
「まって、よく分からないわ。なら良いって何?」
「クロイツェンの通行証なのにヴァレンティンの司教様とこそこそとお話をしていて、そこに『公女様が何々』と聞こえた気がしたので気になっていたのです。もしもヴァレンティンの間諜であるなら見て見ぬふりをするべきかと思ったのですが」
「……」
「……」
思わず言葉を無くし、フィリックと顔を合わせてしまった。
こちらに着いてからこの方、ヴァレンティンの司教、ことカラマーイ司教の動向はまったく分かっていない。いや、時折禁事棟の方に顔を出していることや大聖堂でお勤めをしていること、皇宮の聖職者宿舎で慎ましく過ごしていることなどは聞いている。
だが何故カラマーイがキリアンと接触を? カラマーイはキリアンの存在を知らないはずなのに。
「フィリック……」
「すぐに調べます」
険しい顔で頷いたフィリックに、「どうやら思ったより良くないことだったようですね」と言ったフィレンツィオは、そのまま自分は何も知りませんという体裁で下がった。
折角一つ片付いたと思ったら、次はこれだ。
やれやれまったく……休む暇もない。
「リディアーヌ様……」
キリアンと一時縁のあったアンジェリカが不安そうにこちらを見上げて来るので、大丈夫よと言わんばかりに頭を撫でてやった。
とはいえ、どうにも嫌な気がしてならない。
あまり、厄介なことが起きていないといいのだが。




