8-50 クロイツェンの昼餐会(2)
それからほどなくして、ペトロネッラに連れられたヴィオレットが階下に戻ってくるとすぐに昼餐会場の扉が開かれた。
さすがに突然身ぐるみ着せ替えられるだなんてことはなかったようだが、戻ってきたヴィオレットは上にガウンを羽織らされ、胸下で縛っていた大きなリボンの下に外付けのコルセットが付けられ、淫らな雰囲気が引き締められていた。
さすがはペトロネッラ様……大した物もないようなこの場所で、瞬く間にヴィオレットを殿方が見ても恥じらう必要のない程度に仕立て直したようだ。
ただ生憎と昼餐会にラルカンジュ侯爵夫妻は招かれていないので、ここから先はまたヴィオレットが野放しになる。
何やら段々と言葉が通じない野生動物をハラハラと見守っている飼育員の気持ちになってきたのだが、どうしたものだろうか。
クロイツェンの客層はおよそベルテセーヌと似ており、机の配置も大きくて長いテーブルが一つという同じものだった。人数も二十八人と多い。最初の席次表ではアンジェリカの名前が入っていなかったのだが、昨日の一件で身を慎んでいるサンチェーリ司教が欠席となったからか、その分にアンジェリカが入れられたようだった。
ただ、上座のヴィオレットのすぐ傍にリュシアンの席を設けられているのに対し、リュシアンのパートナーとして参加しているはずのアンジェリカは、間にヴァレンティン大公、リディアーヌを挟んで、その隣だ。リディアーヌの隣に配する配慮という体裁で、少しでもヴィオレットから距離を遠ざけようとしたのだろう。
リュシアンの目の前、アルトゥール側の一番上座は推戴家門であるザクセオンの大公閣下だ。隣にトルゼリーデ妃、次いでマクシミリアンがいるから、マクシミリアンがちょうどリディアーヌの目の前になる。ただその隣はギュスターブ王で、次いでセリヌエール公爵夫人がいるとはいえ、席に着いた瞬間からギロンッとマクシミリアンとギュスターブ王が睨み合ったのは仕方のない事だった。
そういえばこの二人、春の帝国議会でマクシミリアンがギュスターブ王を窓から放り投げ殺人未遂をしでかしかけたとかいう間柄だったはずだ。アルトゥールめ……いかに身分や立場に考慮した順番とはいえ、この並びはどうなんだ。
ベルテセーヌではこのほかにコランティーヌ夫人やサンチェーリ司教、エティエンヌ司教などを招いていたが、クロイツェンは教会枠の参加が多いようで、アルトゥールとヴィオレットの正面にドレンツィン大司教、シリアート司教を上席とし、ドレンツィン枠のアンジェッロ司教、クロイツェン枠のテスティーノ司教が招かれていた。本来は上座にもう一人サンチェーリ司教がいて教会推薦家門であったセトーナと同じ五名の聖職者を呼ぶ予定だったはずだから、やはりその多さが目立つ。
かつてはクロイツェンは教会家門から反目の多い国と言われたものだが、今やそうとは言えなくなっている。亡きクロイツェン七世が自身と最も関係の悪かった教会の懐柔に尽力していたのは事実で、それはこの十四年の間に少なからず実を結んだのだろう。
あるいは先頃のヴィオレットの聖女承認のデモンストレーションも大きな影響を与えている。だからこそ、本来ならこの場にアンジェリカは招きたくなかったのではないかと思う。しかし招かなければ招かなかったで周りからはひそひそと言われたはず。招いたのは苦肉の策であったはずだ。
リディアーヌ側の席はアンジェリカに続いてヘイツブルグ大公と公子夫妻、次いでダグナブリク公夫妻とカーシアン女伯、その奥がカクトゥーラのリヴァイアン殿下になっていた。昨日の今日で、女伯とリヴァイアン殿下が隣り合わせってどうなんだ、と席に向かう道すがらギョッとしたのだが、そこはチラリと席を見たダグナブリク公が持ち前の飄々とした態度で「女性同士隣がいいだろう。君達はこっちに座り給え」と、ヘイツブルグのアンナベル妃の隣にカーシアン女伯を勧め、パラメア夫人を挟んで自分がリヴァイアン殿下との間に割って入った。
いつもならただの身勝手に見えただろうけれど、今日ばかりは、ダグナブリク公が意外とよく見て気遣っているのだと察せられた。
指示された女伯は一瞬嫌な顔をしたようだったけれど、選帝侯夫妻より上座に促されたことに悪い気はしないのか、「まったく」と悪態付きながらも言われた通りにしている。隣になったアンナベル妃はカーシアン女伯が苦手なのか、ちょっと困った顔になっていたけれど、そこは夫のウィクトル公子が何とかフォローするだろう。するべきである。
ザクセオンがいる向かいの列は、セリヌエール侯爵夫妻に続いてセトーナのアブラーン王子とダウレリア、次いでシャリンナのヴィレーム王子とヘルミーナ妃、リンドウーブの代官のバルナバ公爵息殿下と続いている。リンドウーブは代官であり一つ格が落ちるので順当だとして、シャリンナが最も遠くに配置されているのはクロイツェンとの関係性によるものだろう。男女が交互になる配置だったが、ヴィレーム王子はダグナブリク公が何憚ることなく女伯と席を入れ替えたのを見ると、ヘルミーネ妃をダウレリアの隣に座らせ、自分が下座に座ることにしたようだった。
これにはこういう場ではあまり立場が無い様子のダウレリアもほっとした様子で、ヘルミーナ妃も話しやすい女性が隣にきてくれて少しほっとできたようだ。本当はあまり決まった席次を勝手に変えることは褒められたことではないのだが、年嵩の夫が幼い妻を気遣う様子というのは見ていて何とも微笑ましいものである。
ところで、この席次は一体誰が決めたものなのだろうか。アルトゥールは今回の件にあまり関与していないようだから、ヴィオレットか、それとも噂通り、ザクセオンのトルゼリーデ妃が協力しているのか。それにしてはあまりにも淡々と、アンジェリカ以外あるべきままに並べました、といった配慮の無さである。
普通に慣れた王侯貴族だけの場ならそれでもいいのだが、もうこの催しも七日目だというのに人間関係というものに配慮をしていない様子は際立っている。わざとだと言われた方がしっくりくるくらいだ。
とりわけ、継母であり因縁の相手であるトルゼリーデ妃とギュスターブ王に挟まれたマクシミリアンは食事の前からげんなりとした様子で、目の前のリディアーヌに視線だけで『これってどう思う?』と訴えかけてきているようだった。リディアーヌとしても、斜め前に因縁どころじゃない相手のギュスターブ王がいるなんてすでに胃が痛くなりそうだ。そのギュスターブがじろじろと撫でまわすようにアンジェリカの聖痕を見ているのも気味が悪い。
マクシミリアンには悪いが、食事の間はアンジェリカを気遣ってギュスターブから目をそらさせることを第一に優先したい所である。ついでに逆隣のセリヌエール公にも申し訳ないけれど……まぁ、お国のことだから、そこは頑張ってもらうしかない。
そうこう席次を眺めている内に食前酒が配られ、アルトゥールが開会の挨拶に立った。
今回の催しでは一番若い主催者ということになるが、さすがに国許で長らく皇太子の地位にあり、かつ先の皇帝に寵愛されて何度も皇宮での催しにも顔を出していた人だ。実に堂々とした様子で、客人達に侮られるようなことは一切なかった。
「今回は何かと変わった趣向を好む妃の差配であるから、クロイツェンの伝統というよりクロイツェンの昨今の流行り物をお見せするものになろうかと思う。こういうコロコロと気風が変わるのもクロイツェンらしいことであるから、これも伝統と言えば伝統である」
アルトゥールが挨拶で釘を刺したのはそんなことで、明らかに口うるさい友人達を見回しながら口にした言葉には、マクシミリアンと揃って肩をすくめておいた。
分かっているなら文句を言われる前にどうにかしてほしいのだが、まぁつまりそういうラインナップになっているから、ぶつくさいうなよと言われたわけである。先に言われてしまえば分かりましたと言わざるを得ない。
「それでは、楽しいひと時を」
グラスを掲げ、しゅわしゅわと泡立つ綺麗な黄金色の飲み物で、すでに乾いてしまっていた喉を潤す。
ふむ……これはノンアルコールだな。優しさが売りのヴィオレットらしく、飲めない人への配慮であろうか。
口を近づけてくんくんと警戒していた養父は、リディアーヌがコクリと頷くのを見るとぐいっとグラスを傾けた。養父は満足そうだが、リディアーヌには物足りない。ただそれは察してあったのか、すぐに侍従がボトルを持って席をまわり、アルコールかノンアルコールかを問いながら二杯目を注いでいった。
その配慮はいいのだが……何故、林檎酒なのだろうか?
「クロイツェンといえば葡萄酒だと思っていたのですけれど、今日はどうして林檎酒を?」
主催席から近いのだから、話題を振り会話をするのも嗜みである。ただの純粋たる疑問として問うてみたら、アルトゥールから『いらないことは聞くなよ』とばかりの視線が飛んできた。
だがヴィオレットは何しろ今日の主催者だ。料理の説明を求められるのは当たり前なので、これは別段警戒されるようなことではないはずだ。
「ご存じありませんか? 公女殿下。クロイツェンでも林檎酒は作られているんですよ」
「……」
えっと。え、っと……。
「……」
「……」
「こほんっ。あぁ、そう」
諦めた。
今口を開いたら余計なことを言いそうだったからだ。
だがその気持ちは、「いや、そうではなくて。どうして名産として知られる葡萄酒ではなく林檎酒を選んだのかを聞きたかったのでは?」とマクシミリアンが続けてくれた。
そう。それである。林檎酒は教会で正式に用いられるものでもあるから、林檎が取れる国なら大体どこでも作っている。別にクロイツェンに林檎酒が無いだなんて言った覚えは微塵もない。でもクロイツェンといえばやはり何と言っても葡萄酒で、沢山の葡萄酒の名園があることで有名だ。なのにどうして食前酒を林檎酒にしたのかを聞きたかったのだ。
ただその問いには首を傾げたヴィオレットの、「え? ただその方が皆様のお口に合うかと思って」という言葉で、マクシミリアンも口を噤むことを選んだようだった。
これは突っ込んで聞いたらいけないやつだ。聞けば聞くほどヴィオレット妃のボロをださせてしまうから。
「かっ、このような甘ったるいものを。クロイツェンは葡萄酒が名産だろう。葡萄酒を出したまえ!」
「……」
だが如何せん……今日は何しろすぐそこにギュスターブ王がいらっしゃる。この人の口を止めるだなんて無理な話で、当然すぐに隣のセリヌエール公が「失礼ですよ、陛下」と率直な言葉で窘めたが、勝手に侍従を呼び付けて「葡萄酒を出せ」というギュスターブ王が止まることはない。
あぁ……なんだかヴィオレットがどうこう以前のところで胃が痛くなりそうだ。
そう黙りこくっていると、アルトゥールがおもむろに侍従を呼び寄せて何かを耳打ちしているのを見た。すぐに頷いた侍従がリディアーヌもよく知る北部の葡萄園のラベルが入った白葡萄酒を持ってきたので、どうやら客の要望に応えることにしたらしい。
しかも……。
「まぁ、アルムホルト」
「リディはこれの白が好きだろう?」
「じらすだなんて悪い人ね」
多分この場でアルトゥールが機転を利かせただけなのだろうが、その機転に乗ってあげることにした。それに普通にこれは嬉しい。
クロイツェン北部の高山地帯にあるアルムホルト農園の葡萄酒は、若いままフレッシュに樽に入れて手早く仕上げた、白葡萄の風味が生きたすっきりと舌触りのいい葡萄酒だ。甘さと辛さのバランスがちょうどよく、カレッジを卒業してすぐにクロイツェン旅行をした際、アルトゥールに勧められて飲んだ中でも特に気に入ったものだった。
古いほどいいなどと言われる葡萄酒だけれど、これは若いものがいい。風味がしつこくないから前菜なんかにもよく合うし、夜に少し口寂しくなってちまちまと夜酒するにもいいものだ。
ギュスターブ王が気に入りそうな銘柄ではないから、これはあくまでもリディアーヌのために選んでくれた物なのだと思う。それにあまり出回っている大農園のものでもないので、もしかしたらアルトゥールの私物かもしれない。
「トゥーリ、あまりリディにいい顔していると、この昼の間に秘蔵のセラーを空にされるよ」
「ちょっとミリム」
「安心しろ、お前達の好みは把握済みだから、飲みきれないくらい用意してある」
「じゃあ私はハーマンがいいなぁ。できれば十八年か十九年の」
「お前……いや、あるが」
「ミリムったら、そんな甘ったるい貴腐ワインを食事にあわせようだなんて……とてもいい趣味ね!」
思わずぐっとこぶしを握って見せたのは、ハーマンの熟成白ワインが目が飛び出るほどの高級品だからだ。
あまりにも容赦のない注文にザクセオン大公が信じられないと言わんばかりの驚いた顔で息子を見ているが、生憎と、これが私達友人の関係である。
ギュスターブ王に次いでリディアーヌのもとにやってきた侍従がハーマンの話題に、果たして今手に持っているワインを注いでいいものかどうかという躊躇を見せたが、それを見るとさりげなくグラスを寄せてさしあげた。
言葉ではマクシミリアンに賛同したが、リディアーヌは食事には辛めの若いワインを合わせたいタイプだ。アルトゥールのアルムホルトのチョイスは間違いない。
「まったく……お前達はよくもまぁそんなものを水のように飲めるものだ」
「あらお養父様、お酒は一つの芸術品でしてよ」
「来年の新年の祝いの品は山岳地帯の農園にでもするか?」
「素敵ですわね。林檎園がいいです」
「どうせ作るなら林檎のジュースにしてください」
お酒をあまり飲まないアンジェリカが隣からそう注文を付けて来るのか少し可愛らしく、苦笑しながら「それもいいわね」と頷いたら、「うんうん。そしてパパに献上しなさい」とお養父様も調子に乗った。
そうしている内にも、テーブルには最初の料理が供された。
ヴィオレットの監修と聞いて、いつぞやの成婚式の時のような妙なものや食べなれない物ばかりが出てきたらどうしようかと思っていたのが、幸いにして、前菜として出されたのはそこまで見慣れないようなものでもなかった。
前菜は、いつぞやクロイツェンで見かけた白くて酸味のある卵とビネガーの風味のするもので和えたブロッコリー、ロマネスコ、荒く刻んだ卵が中央に小さな山のように盛られ、山頂にコリアンドルの若葉をあしらい、お皿の脇にはむき身のオランジュがサーブしてある。周囲に手を凝らしているおかげでそんなに見た目も悪くない。
何故クロイツェンでオランジュ? という疑問は相変わらずあるのだが、使われている野菜はむしろヴァレンティンなど北部でよく見かけるものだから食べやすい。
前菜が出されると同時にヴィオレットが「今回は皆様にも食べやすいメニューでご用意しました」と説明したが、その通りである。
クロイツェンらしさという言葉は行方不明だけれど、ただここのところ食べなれない料理や胃の痛む出来事が続いていたので、うるさい事なんて言わない。食べなれている食材と調理方法は大歓迎である。
ロマネスコは西大陸や帝国北部に出回っている野菜で見た目が少々奇抜であるから、向かいの席の列では「これは何でしょう?」という声がする。シャリンナではまず育たない野菜なのでヘルミーネ妃がとりわけ首を傾げて躊躇していたが、周りでそれが何かを説明できたのは聖都に籍を置くアンジェッロ司教だけだったようだ。
ふむ……ベルテセーヌやヴァレンティン、北方諸国群ではわりとよく見かける冬の食材だが、一体ヴィオレットはこれをどこから調達したのだろうか。この直轄地あたりでは栽培があるのだろうか。
続けて供されたのはキウィとフロマージュ・フレを交互に並べたものだった。ユイル・ド・オリーブにクロイツェン産の質の良い岩塩と、パラパラと散らされているのはフォンクラーク産の黒胡椒か。はて? これも前菜になるのだろうか? それとも二品目にしてすでに口直し?
一緒にパンも出されたので合わせてあるのかと思ったが、いつぞやフォンクラークのグーデリックに出されたアンパン以来見かけるようになったねっとりと柔らかくて舌に残る甘みの強いパンは、酸味の特徴的なこの料理にはあわないから、これは多分、ただ慣例的に出されたものだと思う。
何というか、これは……そう。お酒のアテだ。うん。
グラスを空にしたところで、侍従が十九年のハーマンを注いでいった。うん、この酸味に甘い風味のハーマンがよく合う。でもこれは果たして、昼餐会のメニューなのだろうか?
「うっかり飲みすぎてしまいそうだわ……」
二杯目を空にしたところで思わず呟いたら、苦笑したアルトゥールに「ハーマンの白は三本しか持って来てないからな」と揶揄われた。
そういう意味じゃない。




