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1-27 聖別の儀(2)

「っ、こんなものは何かの間違いだっ、正司教! やり直しを求める!」


 最初に考えもなしに声を上げたのは王太子だった。


「恐れながら殿下。これは聖なる儀。嘘偽りを疑うなど、神に対する不敬です」

「しかしッ!」

「落ち着きなさい、王太子」


 それをたしなめたのは国王だ。国王とて、この聖別でブランディーヌや教会が何かしかけないとは限らないことくらいは分かっているはず。王に分からずとも、仮にもかつてシャルル王を正統な王位継承者に代わって(すい)(たい)するべく暗躍したオリオール候あたりが気が付いて忠告しているだろう。

 そんな王が今一度近くでチラリとアンジェリカを見下ろす。ビクリとおびえるアンジェリカに何を言うわけでもなく、「ふむ」と唸り、リディアーヌに視線を寄越した。

 それに促されるように、皆の視線がリディアーヌを見る。

 まぁ自然の流れとして、こうなるだろう。その期待に応えるように、リディアーヌも席を下りた。


「随分と下座が煩いようですわね。聖別の儀はそもそもその真偽を神に問う儀。真かどうかを問う物であって、偽りを断罪する場ではないわ。違って? アルナルディ正司教」

「……いかにもでございます、“正聖女殿下”」

「アンジェリカ嬢、怯えることはないわ。皆に聖痕を」

「ッ……です、が……ご、ごめんなさい。ごめんなさいっ。私はっ」

「アンジェリカ嬢」


 濡れた絨毯に膝をつき、アンジェリカ嬢の手を掴むと、びくんっとアンジェリカが肩を飛び跳ねさせた。やはり怯えられている気がしてならないのだが……私は何かしただろうか? あるいは周囲が何か吹きこんでいるのか。不本意である。


「大丈夫です。私に任せなさい」

「……です、が」

「まぁ、詳しいことはまた後で話しましょう。とりあえず私に従ってちょうだい」


 どうやら“従え”という指示は覿(てき)(めん)だったみたいだ。恐る恐る頷いたアンジェリカ嬢が、大人しくリディアーヌの手に引かれて立ち上がる。

 ざっと検分してみたところ、ちゃんと聖痕は水に濡れていて、だが確かに光ってはいない。


「アルナルディ正司教」

「ふむ……どうやら神は恩寵の証をお示しくださらなかったようだ。聖女候補アンジェリカ、この結果を受けれいれるか」

「私は……」

「受け入れぬ! そんなはずがあるものか! そもそもそなたら、一度はアンジーを聖女と祀り上げておきながら今更ッ」

(わめ)くなど見苦しいわよ、王子」

「ッ……」


 下座でひときわよく通るブランディーヌの声がする。あぁ、ここぞとばかりに勝ち誇った顔でリディアーヌを見ている……隣で完全に消沈しているオリオール候は、さぞかし今後を憂えていることだろう。正直いい気味だが、このままというわけにはいかない。


「さて、困ったわね。とはいえ目視では聖痕は聖痕。よもや聖水に問題なんて……」


 そうチラリと水盤を見やったリディアーヌに、「いくら何でも聖水を疑っては困ります」とアルナルディが視線を妨げた。これが偽物であれば、とっとと自分の身体で暴けるが、もし万が一にも本物だったら、アンジェリカの偽物という評価を決定づけてしまう。

 どうしたものかと視線を巡らせたところで、柄杓(ひしゃく)を手にしていたテシエ司祭が気まずそうな顔でじっとこちらを見ていた。その視線がかち合った瞬間、こくこくっ、と意味ありげに頷く。

 ほぅっ。やはり、水が違うのだ。


「けれどアルナルディ正司教。このままでは殿下も納得できませんわ。どうでしょうか。その聖水が真の聖水か、確かめてみるというのは」

「それはまさか、御身に真の恩寵をお示しにならんとのことでございましょうか」

「私の聖別は果たされているのです。この身の恩寵が偽りということもないでしょう」

「当然でございます! 我等愚徒にその恩寵を拝む栄誉をくださるとは、なんという光栄なことでしょうか」


 そう深々と頭を下げるアルナルディが、このまま何も考えていないとも思えないが、ひとまずこの水盤の水は大丈夫なはずだ。チラリと自分の肩掛けを見やったリディアーヌに、「失礼いたします」と恭しく手を差し伸べたアルセールが肩衣を外してくれた。

 聖痕のせいでいつも胸元は詰まったドレスを着ていたけれど、今日はわざと胸元が広く聖痕が見える作りにしてある。慣れないから少し気恥しく、つい指でひと撫でしていると、どこからともない聖職者のほぅという嘆息が漏れ聞こえた。

 こうしてみると、アンジェリカのものと随分と違うのは一目瞭然だ。

 こちらを見つめる青ざめたアンジェリカの視線も、まっすぐと聖痕を凝視していた。でも王太子。お前はまじまじと見るな。ごほんっ。


「テシエ司祭。新しい柄杓を」


 そんなリディアーヌに、先ほどの儀式と同じようにアルナルディが聖水を汲むべく柄杓を求める。

 言われるがまま、並んだ道具の側に立ったテシエ司祭は、先ほどアンジェリカに用いたものを置き、隣の予備の柄杓を手に取る。

 その瞬間、チラリとこちらをみたテシエが口を歪めているのを見た。この人、顔芸が多彩だな。感心する。

 いや、感心をしている場合じゃないか。


「結構よ」


 だから間髪入れず、アルナルディがどうこうするより早く、自ら水盤に歩み寄って両の手に水をすくった。


「ッ、リディアーヌ殿下っ!」


 アルナルディが叫ぶ。あぁ、ふふっ。やっぱりね。“二つ目の柄杓”は細工済みということか。さしずめ、最初から聖水が入っているんじゃないのか?

 天高く手を掲げ、ぱしゃんっ、と自ら体に聖水を振りかける。


「ッ、テシエ司祭! それを貸せっ!」


 まだアルナルディが何かしようとしているが、それをパッと自ら手を掲げて止めた。

 シンと静まり返った聖堂に、再びぽたりぽたりと衣を滴れた水滴が落ちる。


「まぁ、どうしたことでしょう。どうやら私は恩寵を失なったようですわね」


 そうクスリと微笑んで振り返ったリディアーヌの聖痕は、少しとして光は帯びておらず、ただしっとりと濡れた水滴が谷間を零れ落ちた。

 一斉にざわめいた下座で始まった両派閥のにらみ合いもほどほどに、リディアーヌはエイデン助祭が差し出してくれたタオルで胸元を拭う。ふぅ。無駄に濡れてしまった。

 そのままチラリとアンジェリカを見れば、一体どうしてとでも問わんばかりに大きく目を見開いていた。相変わらず、よく分らないお嬢さんだ。


「ッ、お待ち下され、聖女殿下! 儀式の作法を無視されては困りますッ」


 柄杓を握りしめるアルナルディは、顔こそ笑顔を取り繕っているが、態度に焦りがにじみ出ている。よもや神前で、かつて自分が聖女だと証立てたリディアーヌの聖痕が偽られることは、彼のプライドが許さないはずだ。

 やはりその柄杓には何かが仕込んであるのだろう。テシエがハラハラと心配そうにしている。だが、問題はない……。


「困りましたわね……もう明らかのようにも思いますが、アルナルディ正司教様。それでは手順の通りに、その柄杓の水を振りかけてみますか?」


 そう改めて手を広げ膝をついたリディアーヌに、アルナルディが何やら不審がるようにしながらも、

「御身に恩寵があることを、私は誰よりも存じています」と柄杓の水を注いだ。


「……」

「……ッ。何故ッ!」


 テシエも、びっくりと目を丸くしている。

 そうだろうとも。きっとその二つ目の柄杓には、取り置かれた聖水が注がれていたのだろう。だが関係ない。すでに“光らないインク”で聖痕を隠したリディアーヌのこの証が光ることはない。


「いかがです、アルナルディ正司教。これで、水盤の聖水が偽物であったことは御自らご証明になったことになるかと存じますが」

「そんなはずがないっ。有り得ぬッ! 貴女様は真の、たった一人の正聖女殿下であらせられるというに!」

「誰もその言葉を疑いなどしておりませんわ。私はただ、“聖水に問題があった”と申しているだけです」

「ッ……」


 よもや自ら駄目押ししてくれるとは。これではアルナルディもこれ以上の口は挟めまい。

 受け取ったタオルでひときわぐっしょりと濡れた胸元を拭いながら、アルセールの差し出してくれた肩衣を再び肩にまとった。

 聖水で洗い流された以上、下手をするとインクが流れて聖痕が光りかねない。一応タオルでしっかりとは拭ったけれど、念のためにいそぎ肩衣を纏っておいた。


「アルセール司祭」

「はっ。何でございましょう、聖女殿下」

「本山よりまこと聖なる水を届けし司祭様から見て、この水はどうしたことでしょう」

「水盤の水は私が確かに教皇聖下より授かりお届けしたもの。これが真に聖水であることは、昨夜聖女殿下にご検分をいただいた通りにございます」

「相違ありません。私も確かに検分しました。しかし今はこの水盤の水に、少しの聖力も感じません」

「恐れ多いことに、何者かが聖水を真水に入れかえたのではないかと存じます。神罰をも恐れぬ大罪……一体、誰がそのように愚かなことを」

「昨夜より今まで、聖水の管理を担っていた者をここへ」


 命じるや否や、先んじて名前を聞いていた三人がその場にドッと低く膝をついて(こうべ)を垂れた。

 覚えのない二人は顔を真っ青にしていて、今一人は最も深く頭を下げて震えている。左の二人がリンテンのアンザス司祭とオンバーリ助祭。震えているのはベルテセーヌのラントーム助祭だろう。

 まず間違いなく水に細工をしたのはラントーム助祭だが、彼はきっとアルナルディ正司教の命でアンジェリカ嬢の聖痕を光らせぬための細工をしただけ。まさかそれが、正聖女たるリディアーヌの身に振りかけられるだなんて思ってもみなかったのだ。

 神に対する不敬であり聖女に対する非礼だ。断罪されかねない事態である。


「さて、貴方達。水盤を管理していたはずだけれど、目を離したり、不審なことが起きたり、あるいは“自ら”細工をしたり。そんな覚えはないかしら?」

「ッ、とんでもございません! 教皇聖下より賜りし神聖なる(ぎょ)(ぶつ)です。どうしてそのような不敬が働けましょうッ」

「私も、一時として目を離したりなどしておりませんッ。神に誓って!」


 必死に弁明する二人と違い、ラントーム助祭は口を開かない。そういう所は実に聖職者らしい。


「ラントーム助祭。“聖女”として問います。まこと、貴方も神に誓って役目を果たしましたか?」

「ッ……せ、聖女様……私は……私、は……」

「なんということだ、ラントーム! よもや何者かに(そそのか)されたか、この愚か者め!」


 ラントームの告白よりも早く、アルナルディがそう声を荒げた。

 それにビクリと震えたラントームは恐怖に怯えた視線を跳ね上げると、「オリオール侯爵夫人でございます!」と叫んだ。その声に、突然名指しされたブランディーヌが顔を真っ赤にして立ち上がる。


「なんですってッ?! ぶっ、無礼な!」

「お、恐れながら、侯爵夫人にそのように命じられましたッ」

「馬鹿者! だからといって神聖なる儀式を何と心得るか!」

「っ、すでに正聖女様がいらっしゃるのですっ。お二人目の聖女の何が大切でございましょうかっ! そうではございませんかッ? 正聖女殿下!」


 ガシッと足元にしがみついた助祭は、すかさずアルセールが引きはがし、助祭の方もテシエ司祭が取り押さえた。

 今も昔も、狂信者ほどに怖いものはない。だが“上”の言うことには逆らえなかったのであろう助祭には、少し同情の余地もあるというものだ。

 しかしブランディーヌが無関係ではない可能性はあるだろうが、聖水に細工をするような(ぼう)(とく)、直接指示できるのはアルナルディだけだろう。問い詰めるまでもなくブランディーヌに罪を着せるところは、アルナルディへの忠誠心なのだろうか。ご苦労なことである。

 見苦しく言い合うブランディーヌと聖職者達に、ふぅと息を吐いて見せながら、騒ぎ始めた会場を見渡し、やがて視線のあったトレモントロ大司教様に、収集をお願いすべく目礼をした。

 それを受けて、じっと座って成り行きを見守っていた大司教様がよっこらと腰を浮かせた……かと思うと、パァンッ! と、聖堂中に響き渡るような音で両の掌を打ち付けた。


 その甲高い音に、誰もが言葉を失して注目する。

 静まり返ったことに満足するようにニコリと微笑んだ大司教様の、なるほど……なんという有無を言わせぬ笑顔か。何かといがみ合いながらもリンテンの三領主が等しく大司教様を敬う理由が分かるというものだ。


「皆、お止めなさい。聖なる儀式の最中、神々の祭壇を前に見苦しい」


 大司教という地位にある者にそう言われれば、誰もが口を噤まざるを得ない。それはベルテセーヌにおいて広い顔をしているであろうアルナルディ正司教もだ。


「まずはリディアーヌ聖女殿下。そして聖女候補アンジェリカ様。この度は教会の不手際により儀式が汚されてしまいましたこと、深くお詫び申し上げます」


 高位の神官でありながら深く頭を下げた大司教様に、はっとしたリンテンの聖職者達がそれに続いて深く膝をつき首を垂れる。アルセールやエイデンがそれに倣うと、ベルテセーヌの聖職者達もこれに従った。トレモントロ大司教の求心力というべきか、あるいは有無を言わさぬ覇気のなせる業なのか。先ほどまでの混沌とは打って変わった様子だ。


「さて……教会というものは俗世の政治には関わらぬもの。恐れながら国王陛下。お国のことは、お国にてご対処されるが宜しいでしょう。さればラントーム助祭のことは神殿のこと。その処罰はこの大聖堂を預かる私、トレモントロにお任せ願いたいと存ずるが、如何でしょう」

「……」


 少し考えふけったように見えた国王は、やがてジロリとブランディーヌを睨んだかと思うと、「よかろう。よしなに頼む」と結論付けた。

 ぐったりと項垂れてしまっているラントームには不幸なことだったが、それでも罪は罪だ。トレモントロとて、彼の事情は察して適切に処分してくれることだろう。


「それで、聖水の儀はこのような結果になってしまいましたが、仕切りなおすにしても少々皆、頭を冷やす時間が必要なようですな。聖女殿下、どのようになさるのが、最も神の意に沿う計らいと存じましょうや」


 そこでリディアーヌに振ってくれるとは。別段打ち合わせていたわけでもないのに、気の利くことである。だがベルテセーヌの聖女の選別に、あまりリディアーヌが主導権を握る様子を見せるものでもない。


「少々順序は入れ替わりますが、先に神問をなさるのはいかがでしょうか。アンジェリカ嬢が神との対話をなさっている間に、祭壇を清め、改めて聖水の儀を執り行うべきかと存じます。もしよろしければ、トレモントロ大司教閣下……この場において誰よりも公平であり中立でいらっしゃる閣下に、その儀を引き継いでいただけましたなら、皆納得するのではないのでしょうか」

「なるほど……聖女様の御意向、謹んで承りましょう。参列の皆様方。それにて宜しいでしょうか」


 このような問題が起きた今、宜しいかと問われて駄目だと言える人はいないだろう。

 ブランディーヌが凶悪な顔で壇上を睨んでいたけれど、それを隣でグッと押さえつけたオリオール候も、どうやら項垂れていた先ほどとは一変、威を取り戻しているようだ。次の儀式まで、くれぐれもブランディーヌから目を離さぬよう頼みたい。

 それだけじゃない。ブランディーヌ派と言われる人々については、すでにうちの側近達がすべて完璧に頭に入れている。足りない人手についてはルゼノール家が協力してくれる。一人一人、徹底的に監視する所存だ。それからもう少し、()()の人手も借りておこうか。


「国王陛下。念のため、神問の間はこの場の誰一人として大聖堂の外に出ることがないよう、封鎖してくださいませ。お互い、これ以上の騒動は御免でしょう?」

「……よかろう」


 そう国王が指示を出すのに合わせて、トレモントロが祭壇の清めにリンテンの聖職者だけを指名した。真水と化した水盤は下げられ、いかにも怪しい柄杓も全くそのままに下げられてゆく。きっと裏で、しっかりと検分が行われることだろう。


「それではアンジェリカ様。神問の間へとご案内いたしましょう。アルセール司祭、エイデン助祭。本山からのご検分役であらせられる二人はご同行を。それから聖女殿下も宜しければ、この儀にもまた細工が行われていないかのご検分をお願いしたく存じますが」

「ええ、参りましょう。最も神聖なる神問を阻む者がないよう、私自ら扉を守りましょう。公正を期すためにも、ベルテセーヌの教会からもお一人……確か、テシエ司祭とおっしゃいましたね。先ほどからよく気の利く立ち回りをしてくださっていますわ。司祭様にご同行をしていただきましょう」


 指名すると、アルナルディに何かを囁かれていたテシエがビクリと振り返った。アルナルディは何か言いたげにぐっと口を歪めたが、神問の間はもとより誰も邪魔をすることなどできはしない。知られている扉は一つしかなく、そもそも彼らの中の誰一人として、それを重要視などしていないだろう……リディアーヌの他には、誰も。

 だから納得したのか、「よろしいでしょう」と頷き、テシエにくれぐれもとだけ言いおいた。


「アンジェリカ嬢」


 再び手を差し伸べた先で、震えるアンジェリカ嬢が今度は少しだけ素直に、手を取った。

 少しは信頼が得られたのだろうか。


「アンジー……」

「クロード様……」


 まぁ、意識はそちらに向きっぱなしのようですけれど。


「殿下、ご安心なさって。神問の間は安全です。逆にこの場で怪しい動きをする者がいないのか、よく見ておいていただけると、それが最もアンジェリカ嬢のためですわ」

「……あぁ、分っている。その……助力を、感謝する。公女」

「感謝するにはまだ早いかと」


 そうとだけ答えて、アンジェリカ嬢を促してトレモントロ大司教に続き、大聖堂の脇の道へと足を踏み出した。

 今すぐにでもほっと息を吐きたいところなのだが、本当に大変なのはここからだ。

 服の下でひそかにカチャリと音を鳴らすインク瓶を思いながら、不安に震える少女を力強く引っ張った。






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