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8-46 聖水と清め(2)

「お待たせいたしました」


 声をかければすぐにサンチェーリ司教が立ち上がり、ほっとした顔で招いてくれる。

 ペラトーニ司教が祭壇へ案内してくださったので、言われるままに祭壇に上り、アンジェリカと共に神に祈りを捧げてから振り返る。その祭壇の中央に立ったのがリディアーヌではなくアンジェリカなものだから、すぐにざわりと何人かがざわめいたが気にしない。


「司教様、ご気分は(いか)()ですか?」

「お見苦しいところを申し訳ありません。こればかりは何とも……」

「いえ。司教様がこれまで(けい)(けん)にお過ごしになられてきた証拠です」


 そう顔をほころばせれば、少しばかりほぅと息を吐き心を落ち着けたらしいサンチェーリ司教も落ち着いた様子で顔をあげた。


「ひとまずアンジェリカに清めのための聖水を作ってもらいますわね。かつてベルテセーヌの教区長様の怪我を癒し、グレイシス王弟殿下の命を救った聖水ですから、効能は私が補償いたしますわよ」

「願ってもない事です」


 すぐにフィレンツィオが水差しを手に取ったので、祭壇前の机に安置させた銀盤に水を注いでもらい、アンジェリカに指示を出して()(あか)()の灰をその中に入れさせた。

 手つきはたどたどしいが、アンジェリカもすでに何度も聖女としてベルテセーヌでの神事に参加してきた身である。作法は自然と身についているようで、銀盤の水に縁を描くようにそろそろと灰を散らしていった様子には、周りの助祭達もほっとしたようだった。


「アンジェリカ、鍵を出してちょうだい」

「はい」


 鍵は今にも体から落ちだしそうなはずだけれど、アンジェリカはそんな様子を見せずに聖痕に手を添えするすると鍵を取り出す。その光景には大司教閣下も「ほぅ」と感嘆の声をあげて目を瞬かせた。

 聖女が鍵を持つことくらいは知っていたかもしれないが、聖痕から出し入れする光景は初めて見たのかもしれない。もれなく見える場所にいた者達もざわざわとざわめく。そしてそれは鍵を聖痕に納められないヴィオレットもだったようで、その顔は誰よりも驚いているようだった。


「灰が集まってきたところに沈めて」


 アンジェリカが指示された通りに鍵を水盤に落とすと、灰が(ただよ)っていた水面からスンと灰が広がった。出来上がった灰のベッドに鍵が横たわると、上澄みの水はとても綺麗な水になる。

 本来は灰で清めた銀盤の水を一度捨てて新たに水を汲んで聖水にするのだが、これは略式だ。だがこの方が水の動きが明らかに人為を逸していて印象的に見えるだろう。


「司教様、生憎と状態の良いベルブラウの花と、聖水に欠かせぬ月明りがありませんから、聖水としての純度は少し低くなってしまいます。けれどこれだけでもまごうことなき聖水ですから、ご安心ください。あぁ、ですが……」


 そう懸念を伝えるついでに、ここぞとばかりにリディアーヌは顔をあげてヴィオレットを見た。嫌な予感がするのか、ヴィオレットの顔色は良くない。だがその嫌な予感は大当たりである。


「ヴィオレット妃、貴女も鍵をお持ちなのよね? だったら聖水を強めるために、貴女も鍵を使っていただけないかしら」

「っ……それ、はっ」


 もしかしたらどこかに隠し持っていたりしないかとの懸念もあったのだが、やはりマーサが確認してくれた通り身には付けていないようだ。ポケットにも持っていないと見える。

 鍵が入っている髪飾りは大きくて目立つし、鍵を取り出すための王女の印章はおいそれと持ち出してベルテセーヌの目に晒すわけにはいかないものだ。だからヴィオレットも不用意には持ち歩けないのだろう。


「何か問題でも?」

「……私の、鍵は……その」


 じぃっとヴィオレットを見るアルトゥールが何かを察したように目を細めさせた。代わりにこちらを睨んでいるようで、無駄に視線が痛い。でもこんないい状況、使わない手はないではないか。


「司教様がお待ちでしてよ?」


 何をぐずっているのかしらとばかりにため息を潜ませてあげれば、こちらが何かを言わずとも周りから「何をしているんだ?」「聖女であろうに」「司教様を慮るのはフリだけか?」などと隙を突く言葉が続いた。

 特に今の状況に危機的な立場にあるリヴァイアン殿下の視線は厳しく、まるでクロイツェンがそれを拒んでいるような状況に怒りを募らせているのが分かる。おかげさまで、ドレンツィン大司教も(いぶか)しげな顔になっている。


「も、申し訳ありませんっ。私の鍵は……その。そう、その、教会に聖水を奉納したくて、私、離宮で聖水を作っているのです。それで、ここには持って来てはいなくて」

「だったらその聖水をこっちに寄越せばよかったのではないのか?」


 すかさず突っ込んだお養父様に、びくりとヴィオレットが口を引き結ぶ。


「先程ヴィオレットが口を開こうとしたのに耳にも入れずに進行を仕切られたのは公女ですが」


 だがすぐにアルトゥールが横槍を挟んだものだから、養父もむっと押し黙った。

 まったくアルトゥールは良く頭が回る。先程の(とっ)()の行動をそう解釈されるとは思わなかった。

 だがまぁいい。とりあえずベルテセーヌのアンジェリカを聖女、ヴィオレットを非協力者として印象付けさせることは出来た。司教様の顔色も本気で悪いので、このくらいで満足しておこう。


「まぁ、持ち主として認められているわけでもない“四代目様”の古い鍵など使われたところで、どれほどの効力があるのかという所ですし。良いでしょう」


 ただ駄目押しとばかりにそうチクリと聖職者であれば耳に引っかかってくれるであろう言葉を告げてから、アンジェリカに「ベルブラウを」と促した。


「生花ではなく、花びらも弱っているから、崩れないように慎重にね」

「はい」


 別皿に乗せて持って来ていたベルブラウを差し出すと、アンジェリカも半透明になった柔らかい花を慎重に取り上げて、そっと銀盤の水の中央に置いた。そうすると花弁は綺麗に花開き、いつものようなシャリシャリとした音はしないものの、明らかに水盤が自然のままとは思えないほのかな光を孕んだ。

 わりと乱暴に用意して乱暴に作った聖水だったが、それなりにちゃんとできたようだ。

 最後に月明りの代わりに、たまたま持っていた銀糸の刺繍のハンカチをかけ、祭壇の奥に安置する。それで何かが起こるわけではないけれど、こうすれば当然とばかりにドレンツィン大司教ら聖職者がその場に膝を突いて祈りの言葉を捧げた。この辺りの作法はむしろリディアーヌなんかよりもよほど詳しいだろうからお任せしておく。

 やがて祈りの言葉が途絶えると、フィレンツィオが祭壇から銀盆を下ろし、ハンカチをめくって恭しくアンジェリカに差し出した。ここでリディアーヌではなくアンジェリカを選んだ当たり、よく分かっている。ただこの先の作法はアンジェリカに説明していなかったので、アンジェリカは少し戸惑っているようだ。


「司教様、どうかお(ひざまず)きを」


 なのでアンジェリカを安心させるようにリディアーヌが指示を出し、立ちすくんでいるアンジェリカの腕を導き聖水に浸させた。

 すぐに言われたままに両膝を着き手を組んで祈りの姿勢を見せたサンチェーリ司教に、「神事の時と同じように、聖水を三度」とアンジェリカに指示を出す。そう言えばアンジェリカも経験から何をすればいいのか分かったようで、聖水に浸した手で、パッ、パッ、パッと三度、聖水をはじきかけた。


 これはいわゆる(みそぎ)に当たる作法だ。普通は()(あか)()の灰で清めた銀盤の水だけで行うのだが、簡易版とはいえ聖水で行ったのだからその効能は計り知れない。そうするだけで、ずっと青い顔をしていたサンチェーリ司教は深い安堵の吐息を吐き、ようやく晴れ晴れしたといった様子の顔を見せた。


「貴重な聖女様の聖水を、清めのために有難う存じます」

「司教様は何の罪も犯してはおりません。聖水が肌を焼き焦がさなかったのは、神々がほんのささいな事故などでは敬虔なる司教様を罰する(いわ)れなどないと思っておられるからです」

「この事故が、かえって我が身の潔白を教えてくださったようですね」


 そんな大げさなとは思ったけれど、うんうんと頷いているフィレンツィオや羨ましそうにしているペラトーニ司教を見る限り、聖職者にとってはまるで大げさではないのかもしれない。


「リディ、もし聖水に余りがあるようであれば、私達も清めを受けてもいいだろうか」


 そこにほのぼのと手を挙げてそんなことを言い出したのはマクシミリアンで、すぐにぎょっと隣を見た大公様がドレンツィン大司教の様子を窺った。

 マクシミリアンもどういうつもりなのか。確かに正式な席で家門が尊ぶ生き物を糧として供されたのだから、清められたいと思うことは不自然ではない。だがマクシミリアンがそんな敬虔な人物でないことはリディアーヌもよく知っていて、あきらかに面白がっているか、何かに利用しているか、そんなものである気がする。

 うぅん、だが“ベルテセーヌの聖女”の手で清めを受けるザクセオンの公子という絵面は、中々不味い絵面なのでは……いや? いいな。うん、いい。とてもいいぞ。


「勿論です。ザクセオン大公もよろしければ」

「……確かに、それは願ってもないことだが」


 ザクセオン大公がチラチラと見て気にしているのは、同じく聖女の承認を受けているはずのヴィオレットだ。自分が推戴してるクロイツェンの皇太子妃を気にするのは当然であるが、今ここでヴィオレットにしゃしゃり出させるつもりはない。


「大公様、お気持ちは分かりますが、この聖水の作り主はアンジェリカであり、聖水を聖水たらしめる鍵の持ち主もまたアンジェリカです。いかに聖女の承認を受けた方であっても、他者にそれを“使われる”のは勘弁していただきたいですわ」

「……これは失礼をした。公女の言う通りである」


 さすがにザクセオン大公は理性的な人物である。思う所はあるようだが、今はそれよりも優先されることがあると思ったのか、マクシミリアンとトルゼリーデ妃を連れて中央に進み出た。


「アンジェリカ、まずは大司教様に。そしてペラトーニ司教様」


 ザクセオンに清めを授けるなら、同じく禁忌に触れかけた大司教様達が先だ。リディアーヌの言葉に察したらしいドレンツィン大司教が、「光栄でございます」と祭壇の下に降りて膝を着くと、待っていましたとばかりに嬉々としてペラトーニ司教がその後ろに膝を着き、ついでに名前も呼んでいないのに何故かニコニコと笑顔のフィレンツィオがその隣に膝を着いた。

 まったく……フィレンツィオは何も関係ないはずなのに、ここぞとばかりに調子に乗って。

 しかし呆れた顔のリディアーヌとは裏腹に、作法を間違えないよう一生懸命になっているアンジェリカはしっかりとフィレンツィオにも清めを(ほどこ)した。

 それから場所を入れ替わりザクセオン家にも同様に清めが施されると、立ち上がったマクシミリアンが恭しくアンジェリカの手を取り額に掲げ、「感謝いたします、アンジェリカ聖女」と目立つ行動をとる。

 こういう所作に慣れていないアンジェリカがもれなくパッと頬を赤くしてしまったので、仕方なくリディアーヌも「そこまでです」と二人を引き離さざるを得なかった。なのにマクシミリアンが妙にニコニコとしているのが恨めしい。まったく。


「こほんっ。大司教閣下、司教様方、これにて身は清められました。サンチェーリ司教様はこの後聖水を汲み置き、三日三晩、禊と潔斎を続けてください。さすれば何事もなく禁忌は過ぎ去りましょう」


 聖水は純度の最も高い本物以外は劣化する。今回は簡易版の聖水なので、劣化しないよう、汲みおく瓶にベルブラウの花ごと入れておくよう指示した。たったのこれだけでも許しの言葉を与えられた司教様にはすっかりと笑みが浮かんでいる。


「禁忌は災難でしたが、貴重なる古儀に預かれたことは光栄にございました。感謝を申し上げます、公女殿下、国王陛下、そして聖女アンジェリカ様」

「私からも礼を。我が国の失態を少しでも拭えたのは貴殿らのおかげです」

「いえっ、私はっ。リディアーヌ様に教わった通りにしただけですから」

「それでも貴女の神々へ届く祈りの言葉があってこそのことよ。素直に受け取っておけばいいわ」


 そう最後までアンジェリカを立てて名を売らせたところで、リヴァイアン殿下が改めて皆の前で首を垂れ、聖職者達とザクセオンに深い謝罪をおこなった。


「必ずこの件は内情を明らかといたします」

「ええ、是非ともそうしていただきたいことです。これは私だけでなく、すべての教会聖職者への侮辱と挑戦です」

「ええ、その通りです」


 サンチェーリ司教の怒りはむしろ都合が良かったようで、リヴァイアン殿下がそれに調子づいて何度も頷いた。今頃、大きな騒動になってしまった上に聖職者を怒らせてしまった事態に、犯人は青褪める思いをしていることだろう。

 何となく怪しいカーシアン女伯をチラリと見てみたのだが、女伯は白々とした顔で覆議を片手に押し黙っているだけで、不機嫌そうではあるが特にそれ以外の表情を読むことは出来なかった。

 ふむ。その辺りはまた、今頃カクトゥーラの台所を物色しているであろうフィリックの報告を待つとしようか。


 ともあれこれにて一件落着となった事態に、もっと掻き乱れてくれることを期待していたらしいギュスターブ王が「つまらん!」などと悪態を着きながら出て行くと、自然と解散の流れになった。アルトゥールも、ヴィオレットを連れて早々と出て行ったが、あれは残っておいてヴィオレットに余計なことを言いに来る人を避けるためだろう。案の定、早々と出ていく二人の後ろ姿をダグナブリク公が「あぁあ」と残念そうに声をあげて見送っている。

 ザクセオン大公はカクトゥーラと共にこの件をきちんと追及する所存のようで、一応リヴァイアン殿下の推戴家門の長であるダグナブリク公もほどなくザクセオン大公に取っ捕まったようだった。こうなるとリディアーヌ達ももうお役目は御免か。

 フィレンツィオが残った聖水から必要なだけの水を汲み上げたのを見届けてから、アンジェリカに鍵を回収させ、大司教達に挨拶をしてから、まだかまだかと待ち構えている養父とリュシアンと共に下がらせてもらった。

 まさかこんな事態になるとは思っていなかったが、幸か不幸か、こちらにとってはそんなに都合が悪くない展開にできた。ただいつまでもこんな良い偶然が続くわけではなかろう。帰りの馬車では終始、養父とともに気を付けるべきことの話し合いと今後の対処についてを論じ合うことになった。


「今回は皇帝戦とは別のところで起きたようだが、結果的には皇帝戦にも関与する事態になった。こういうことは今後も続くだろう」

「言いたくありませんが、ダグナブリク公の機転に助けられましたわ」

「あれが何かを考えていたとは思えないがな」


 まぁ確かに、と苦笑したところで、馬車を降りた先にすでにフィリックが待ち構えているのを見て顔色を引き締めた。

 早かった……どうやらもう、情報を掴んで戻っていたようだ。


「まずは一体裏で何が起きていたのか、報告を聞きましょう」

「できる事ならうちとは無関係な、放っておいていい話だと有難い」


 折角今日は連日の抜けられない催しものが早く済んで、明るい内に引き上げられたというのに……結局、いつもより忙しくなりそうである。






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