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8-45 聖水と清め(1)

「リヴァイアン殿下、私の側近達を棟に入れる許可を下さいませ」

「勿論です。どうか頼みます。お力をお貸しください、公女殿下」


 間髪入れずに頷いてすぐに侍従に指示を出したリヴァイアンに、仕方なくリディアーヌも席を立つ。


「おい、リディ……」

「大丈夫ですわ、お養父様。とりあえず今は司教様のご体調が先です」


 とはいえやはり自分が聖女として目立つつもりはないので、ほど近い席にいたアンジェリカに視線を向けて、「手伝ってくださる? アンジェリカ聖女」と声をかけた。突然のことであったから少し驚いたようだが、アンジェリカも察したように返事をして席を立つ。

 どうせならアンジェリカを巻き込んで、これをベルテセーヌの功績にしてしまうのがいい。なので当然、「あ、あの、私……」と席を立ちかけたヴィオレットにはチラリとの視線も寄越さず、アンジェリカだけを呼び寄せ、成り行きを見ていたリュシアンを向いた。


「私はすでに聖女としての名を土に埋めた身です。ユリウス一世陛下、かつて私がその役目を譲渡した貴国のアンジェリカ聖女のお力を貸していただけますでしょうか」

「義妹が力になれるのであれば何よりのことである。アンジェリカ、公女殿下をよく手伝い、この機会に殿下だけが知る貴重な古儀を学ぶと良い」

「はい、義兄上様。ベルテセーヌの聖女の名に恥じぬよう、務めさせていただきます」


 そう一礼をして答えたアンジェリカのおかげでベルテセーヌという存在の印象もつけることができた。それにほくそ笑む気持ちを胸の中に押しとどめつつ、「では」とアンジェリカを連れてサンチェーリ司教の元へ向かう。


「お顔の色がまだ宜しくありませんね。フィレンツィオ助祭、()()から一番近い祭壇のある場所はどこでしょう?」

「茶議棟本棟に祈りの間があります」

「では司教様をそちらに。それから祭壇に用意していただきたいものが」

「清めの仕度ですね?」

「ええ。()(あか)()の灰と銀盤、銀の燭台と聖香と、ベルブラウ。すぐに用意できますか?」

「すべて大聖堂にありますが……ベルブラウばかりは」


 一つに関してのみ懸念を示したフィレンツィオに、リディアーヌは「だったらベルブラウは私が用意します」と言いながら身をおこす。

 それを聞き、フィレンツィオもすぐに昼餐室に入ってきていた別の助祭に、すぐに大聖堂へ向かうよう指示を出す。

 ひとまずはこれでいいとして。それからそっと、視線の片隅で今もオロオロとこちらに手を出そうかどうかと迷っているヴィオレットを見た。

 今日のヴィオレットは、あの聖女の髪飾りを身に着けていない。王女の印章もつけていない。あれらは下手をすればベルテセーヌから追及されかねない“盗品”なので当然なのだが、今この場でヴィオレットが鍵を出すことが出来ないのだとしたら……この状況は、使えるかもしれない。


「マーサ、ちょっと」


 折よくカクトゥーラの侍従が保有棟の外にいたフィリックとマーサを連れてきてくれたので、すぐにマーサを呼び寄せて部屋の隅に向かう。


「お養父様に同行して、ここから祈りの間まで、ヴィオレット妃が誰かに接触したり何かを受け取ったりしないよう監視しておいてちょうだい。それと、“王女の髪飾り”を持っていないか、確認できるようならして欲しいわ」

「かしこまりました」

「それからフィリック」


 次いで呼び寄せたフィリックには、きょろきょろと辺りを見回し、先程フィリック達を連れてきたカクトゥーラの侍従に目をやり、こっちにこいと手招きする。


「わ、私でしょうか……?」

「貴方達はカクトゥーラの調理場を確認してちょうだい」


 そう指示されてた侍従がびっくりと目を瞬かせ、「あ、あの」と声をかけるが気にしない。


「悪いけれど、必要なことなの。スープに入っていたすべての食材と、その産地、どこから運び込まれたものなのか、その分量と調理方法、すべて確認してきて」


 調理場というのはこの建物の内側を晒すことと同義で、さすがにそこに他国の者を入れるだなんて論外であろう。だからカクトゥーラの侍従の戸惑いも分かるのだが、今からリディアーヌが何をしようとしているのか具体的に分からない現状、彼も止めていいのかどうなのかが分からずにいるようだ。

 何しろ今この場で、ダグナブリク公が『どうにかしてほしい』と求め、リヴァイアン殿下が『頼む』と仰り、そして聖職者に求められている人物がリディアーヌなのだ。その指示に従うべきなのかもしれないと、揺れているのが分かる。

 フィリックの方は、そんな雑務をマクスではなくフィリックに同行させて調べさせようとしていることから、それが今からする何かに必要というより、この機会にこっそり情報を収集させようという意図であることは理解したはずだ。すぐに「分かりました」と首肯すると、「案内を」と侍従に求める。

 そこで侍従も主人であるリヴァイアン殿下にお伺いを立てるようなら上等なのだが、今なお緊張感が走っていて苛立ちを隠していないリヴァイアン殿下に話しかける気にはまったくならなかったらしく、チラチラと視線を寄越したものの、すぐに「かしこまりました」と頷いた。上出来である。


「お待たせいたしました。フィレンツィオ助祭、司教様を祈りの間に。私とアンジェリカはベルブラウの花を調達してすぐに向かいます」

「君が直接?」


 ひとつアルトゥールの(いぶか)しむような視線が向いたが、「何か変かしら?」と堂々とあしらって見せた。

 どうせ教会との距離が疎遠なアルトゥールに細かい神事の進行なんて分からないのだから、それが当然だとばかりの態度でいれば口ははさめない。案の定、「いや」とすぐに関心を失って立ち上がったアルトゥールに、皆もがたがたと席を立つ。

 実質、カクトゥーラの昼餐会はこれで中止になったということだ。少し申し訳ない気もしたが、どのみちこのまま続けるわけにもいかないだろう。当のリヴァイアン殿下も周囲に指示を出しながら、祈りの間の席に同席するつもりらしく移動を始めたので、興味関心のない他の者達も主催のいなくなった昼餐室に残っているわけにはいかない。自然と解散となった。とはいえ、大半はそのまま祈りの間に着いて行くつもりのようだ。


 そんな一行がぞろぞろと昼餐室を出てカクトゥーラの保有棟を出たならば、他の棟の展示会などに行き来していた貴族達がギョッとした顔で視線を寄越し、慌てて道を開けた。

 まだ昼餐会も終わらないはずの時間帯で、しかも皇帝候補や選帝侯達がそろってぞろぞろ出てきたのだから驚かないはずがない。

 ただリディアーヌはアンジェリカに声をかけ、ヴィオレットのすぐ後ろにマーサが付いていくのを見送ると、「私達はこっちに立ち寄るわよ」とアンジェリカを隣のベルテセーヌの保有棟へ誘った。


  ***


 ベルテセーヌの棟には相変わらず今日も大勢の展示会を楽しむ客人達が詰めかけていたので、リディアーヌが顔を出すとやはり驚いたような視線が追いかけてきたけれど、そうと聞いて驚いて出てきたラジェンナがすぐに昼餐室に入れてくれた。そこでラジェンナに、先日使ったベルブラウの塩漬けの瓶と水を張った銀の器を持ってくるように求める。


「ベルブラウの花って、もしかして塩漬けのベルブラウを使うんですか?」


 びっくりした顔で問うアンジェリカに、「そうよ」と堂々と頷いたら、(いぶか)しげな顔が返ってきた。


「大丈夫なんでしょうか……塩漬けですよ?」

「うーん……まぁ、大丈夫……ということにしておきましょう」

「つまり確証があるわけではないんですね」

「私が欲しかったのはベルブラウではなくて“時間”よ」


 そう言って昼餐室をさっと見回し人気が無いのを確かめると、おもむろに自分のドレスの襟のボタンを外そうと手を伸ばす。

 だが日頃から自分で着付けをするわけでもない上に目で見ることもできない場所のボタンに苦戦してしまう。するとすぐに「私がやります」とアンジェリカが変わってくれた。侯爵夫人となったアンジェリカに侍女の真似事をさせるのは気が引けたけれど、今は仕方がない。「お願いするわ」と頼む。

 そうして襟を解き胸元を寛がせてもらったところで、コルセットにぎゅうぎゅうに押しつぶされている聖痕から鍵を抜き出す。相変わらず出す時は肌に感じる違和感が酷い。


「鍵を使うんですか?」

「ええ。正直、聖職者が禁忌の食べ物を食べてしまった時の対処方法だなんて知らないけれど、フィレンツィオの言っていたように清めの真似事をしておけばよさそうだわ。だったらただの清めの水より万能薬を使った方が効果も抜群でしょう」

「えっと……万能薬って、もしかして聖水ですか?」

「魔法の水という言い方の方が良かった?」


 相変わらずですねと苦笑したアンジェリカは鍵を差したリディアーヌからそれを受け取ると、しばらく握り締めた後、ようやく異変に気が付いたように「え、どうして私に渡したんですか?」と声を上げた。

 まぁどうしてかと言われたら、やはりリディアーヌがこんなところで聖女という立場を誇示するのが宜しくないからだ。


「い、いや、まぁ確かに、極力隠す方針とか、私にはちょっとよく分からなかった帝国の聖女と王国の聖女がどうとかこうとか、何かそういうやつなのは分かるんですが、でも名指しされたのはリディアーヌ様なのに、私が表に立つんですか?」


 まったくもってそのつもりだったのだが、確かにこれではリディアーヌが他人に責任を押し付けたかのような感じになりかねないだろうか。


「でもこれは貴女がベルテセーヌの聖女であることを誇示するのにもいい機会なのよ。それにさっきのヴィオレット妃を見たでしょう? 聖女でありながら何もできなかった。いえ、むしろダグナブリク公やフィレンツィオが、わざと“私の方”にチャンスを与えたのよ」

「あ……」

「正直ダグナブリク公の意図はよく分からないけれど、ここしばらく公と話していて、何やら関心を引いていたらしいことは確かだわ。フィレンツの方は言うまでもないわね。学友ということと先程のヴィオレットの振る舞いへの不信感が功を奏しているのでしょう。今のこの与えられた機会を掴み取らない理由はなくってよ」


 もとより、アンジェリカはそのために自ら志願して皇宮に来たのだ。それを自覚したらしいアンジェリカは、ごくりと息を飲んで頷いた。


「ところでアンジェリカ。今まで試したことなかったけれど、その鍵、貴女の聖痕の中に納めることは出来ないかしら?」

「リディアーヌ様の鍵を、私の聖痕に、ですか?」

「ええ。そうできたらさらに印象的になって良いのだけれど」

「多分無理だと……以前、鍵をお借りしていた時にも試したことはあるんです。その時も駄目でしたから」


 恐る恐るといった様子で鍵を自分の聖痕にあてたアンジェリカは、うーんと唸る。


「無理そう?」

「ええ、やっぱり無理です。ただなんだか少し……うーん……」


 しばらく唸っていたアンジェリカにリディアーヌも何かできないものかと考える。


「私の鍵さん。ちょっとアンジェリカの聖痕に入ってくれないかしら」


 そうツンッとアンジェリカの手の上から鍵を突いてみたら、突然「わぁっ!」とアンジェリカが声を上げた。何事かと思うと、鍵の端が聖痕の中に食い込んでいる。


「ど、ど、ど、どうしましょう、リディアーヌ様っ。は、入っちゃいましたっ」

「予定通りだけれど?」

「う、うわぁっ、わぁっ、き、気持ち悪いですっ」

「あ」


 ほろっ、と聖痕から鍵が再び出てしまった。


「え、悪口?! 悪口を言ったからですか?!」

「そうかも」

「いや、気持ち悪いっていうのはなんだか変な、奇妙な、慣れない感覚がして、あと肌に食い込んでいるのが普通にびっくりするからっ」

「私も聖痕から鍵を出し入れする時はなんだか、痛いのとは違う変な感じがして苦手よ。体から出たくないという感じというか、体の中から何かがぎゅっと抜き出されるような感覚がして気持ち悪いわ」

「私は逆です。体の中に無理やり何かを押し込める感じがします」


 ふむ。やはり鍵はリディアーヌの鍵だからだろうか。


「もう一度やってみてくれるかしら?」

「はい……」


 気は乗らなさそうだけれど仕方がない。鍵を胸に押し当てたアンジェリカに、「少しだけでいいから」ともう一度上から手を重ねて押し込んでみる。

 むににとアンジェリカの顔が歪んだけれど、そっと手を放してみれば、確かに聖痕に鍵が収まった。いや、よく見ると聖痕に鍵の形の痣が増えている。表面的にくっついているという感じなのだろうか。


「わぁ……できましたね」

「できたわね」

「でもなんだか一生懸命我慢していないと落ちてしまいそうな感じです」

「なるほど。一時的にしか出来ないのね」


 そしておそらく鍵の持ち主からの許可が必要になる。だとすると、ヴィオレットには真似できないことであり、ヴィオレットはこういう方法では鍵を持ち歩けないことになる。


「同じようにヴィオレットも聖痕に鍵を入れて持ち歩けないのだとしたら、今日は鍵を持っていない可能性があると思うのだけれど」

「その可能性はありますね。今日はあの髪飾りもしていませんでしたし」


 ふむ。ふむふむ。むふふ。


「リディアーヌ様?」

「とりあえずアンジェリカ、貴女はことが済むまでその鍵が自分の鍵であるようにふるまってちょうだい。私は“元聖女”という体裁で、貴女に清めの作法を教える立場で振舞うわ」

「……それなら少し安心です」


 つまり聖女としての看板はアンジェリカにかぶせておいて、責任と説明は自分が負うという話だ。アンジェリカが一番心配だったのもそこだったようである。


 それからラジェンナがベルブラウの塩漬けの瓶を持って来てくれたので、そこから取り出した一番大きなものをさっと銀盤の水でゆすいで周りの塩を落とした。すぐに塩漬けされて柔らかくなった花が水の中で花開いてしまったけれど、それを慎重に取り出して、きゅっと軽く蕾に戻すかのように水気を切る。多少色あせてしまったが、まぁいいだろう。

 それを同じくラジェンナが用意してくれた小さな銀の器にのせて、準備は万端である。

 アンジェリカに襟を整えなおしてもらう間、リディアーヌはアンジェリカの聖痕を手で押さえ、「アンジェリカがいいというまで出てこないように」と念を押しておいた。


 それから急ぎベルテセーヌの保有棟を出て、茶議棟の本棟に向かう。祈りの間なるものがどこにあるのかは知らなかったが、扉の外にカクトゥーラの侍従が控えていたのですぐに分かった。

 先程ぞろぞろと王侯が入っていったせいか、何事だろうと人垣ができていたけれど、「どいてくださいまし」と言えば皆すぐに距離を取った。そこで侍従の開けた扉をくぐれば、ドレンツィン大司教とペラトーニ司教、そしてフィレンツィオがすでに祭壇を整えて待っており、サンチェーリ司教が祭壇の前に膝を突き祈りを捧げていた。

 両脇に避けている王侯達は、あれから何があったのか、何やらギュスターブ王がニマニマと良い顔になっていて、それにリヴァイアン殿下が隠すことのない怒りと侮蔑の顔を向けている。一方、その様子に疲れ切った様子の一部の怠惰な選帝侯達と黙りこくって対処を待つ皇帝候補達、そしてハラハラと今にも何かしそうな様子で身じろいでいるヴィオレットと、何やら先程と同じようで少し変わった雰囲気になっていた。

 席を外していたおかげで、何かしらの不愉快な場面に遭遇せずに済んだのかもしれない。


「姫様、あちらからこちらまで、一切の接触はございませんでした。特にポケットを気にする、何かそぶりを見せるなどという様子もございませんでしたが、確証は……」

「十分よ、マーサ」


 すぐに後ろに近づいてきて囁いたマーサに頷いて、下がっておくように指示を出す。


「公女殿下、祭壇の準備は整っております」


 声で気が付いたのか、振り返ったフィレンツィオに祭壇へ促されると、リディアーヌ達はふぅと一つ息を吐き、粛々としてその祭壇へ上った。






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