8-41 フォンクラーク昼餐会(2)
「まぁっ、“スープカレー”ですね!」
「……」
「……」
高らかに弾んだヴィオレットの声色に、机を飛び越えて隣からもチラリと視線が寄越される。その言葉に、器にスプーンを鎮めようとしていたナディアもピタリと動きを止めてしまった。
「あ、私の知っているものより少しサラサラしてますね。スープカレーというよりタイカレーとか、インドカレーとかかな? わぁぁ、この世界にもカレーがあっただなんて」
「スープカレー、というのですか? もうお料理も最後なのに、お腹のすく良い香りです」
ヴィオレットの言葉を鵜呑みにしてニコニコとスプーンをくぐらせるヘルミーネに、何かを言いかけていたナディアが困惑したように口を開きかけては閉ざし、やがて段々と顔から表情を消していった。それを見て、思わずマクシミリアンと二人、どちらからともなくビクリと肩をすくめて身を寄せ合ってしまった。
あぁ、ナディアさんが笑ってる。ニコニコと、それはもういつも以上の女神の微笑を浮かべていらっしゃる。
「あ、やっぱり。タイカレーっぽい。カレー粉があるならカレーパンもいけたなぁ……んんっ、おいしいっ。さすが香辛料大国っ」
羨ましいです、なんて言ってナディアを窺ったヴィオレットに、しかし今度ばかりはナディアだけでなく皆の顔がさっと濁り、視線を落とした。
「妃殿下ッ」
キリッと睨みつけたカーシアン女伯に、ヴィオレットはまだ何が起きたのか分かっていない様子でパチパチと目を瞬かせている。
先程まで楽しそうにヴィオレットと会話をしていたヘルミーネ妃も、今は少し困った様子でナディアをチラチラと窺い、どうしようかと迷っている様子を見せている。助け舟を出したいが、出し方が分からないのだろう。
さて……これはどうするべきか。この場のホストはあくまでもフォンクラークだから、ナディアに任せるべきかと思うのだが、今のナディアは口を開くと飛び出しそうな悪い言葉を飲み込んでニコニコ笑顔を象って見せるだけで精いっぱいのようだ。
あぁ……怖い。
「ヴィオレット妃殿下は学生時代には優秀と名高かったのに、今はそうではないのですね」
そこにドスンととんでもない爆弾を投下したのはまさかのアンジェリカで、ぎょっと隣を振り返ったリディアーヌに、アンジェリカは平然とした様子でスープを口に運んだ。
「……アンジェリカさん、私、別に優秀だなんて自分で言ったことは……」
「グレイシス夫人と呼んでくださいと言ったはずですよ、妃殿下」
「あ……えぇ。その……セリヌエール公爵夫人、もしも私が何か失礼なことを言ったようでしたら謝罪を致します。故郷の知った味を思い出して、とても嬉しくなってしまったのです」
「故郷の味?」
クス、と笑うアンジェリカに、再びヴィオレットははっとして口を噤んだ。
アンジェリカさんったらどうしたのかしら。今日は随分と勝気で……いや、相手がヴィオレットだからか。そういえばこの二人は目も合わせなくて当然なくらいの因縁があるのだった。
「貴女は本当にお変わりになりませんね。まるで世界のすべてを知ったかのようなご様子も。他人の功績をあれもこれもすべて自分のものにされてしまうお振舞いも」
「私、そんなことしていませんわっ」
「していない? しているではありませんか。今まさに、ここで。他国の文化を尊重もせず、勝手に自分のものであるかのようにお振舞いになっておられます」
「え?」
きょろきょろと困ったように辺りを見回したヴィオレットは、所々から飛んできている冷たい眼差しに気が付いたのか、戸惑うようにスプーンを置いた。
ただ持て成す側として、さすがにこの状況は良くないと思ったのか、一つ自分を宥めるための深い吐息をこぼしたナディアは、先程までとは違う穏やかな笑みを浮かべて見せると、「ご配慮感謝いたします、グレイシス夫人。ですが大丈夫でございますよ」とアンジェリカに軟らかく声をかけた。
「場の雰囲気を悪くしてしまってごめんなさい、セリヌエール公爵夫人。ただ私、学生時代から少しばかり、ヴィオレット妃殿下とはございましたから……」
「ええ、お話は少しばかりお聞きしております。ですから妃殿下に何の悪気もなくフォンクラークの料理を褒めてくださったことも、夫人がお言葉にしてくださったことも、どちらも嬉しく思いますわ」
ナディアの雰囲気に絆されたのか、アンジェリカは少し恥ずかし気に俯くと、「このような場で、私が短慮でした」と反省を口にした。
何があったのか分かっていないのは、今もそこでおろおろと口にするべき言葉が分からずにいるヴィオレットくらいだろう。
はて……しかし、不思議だ。この各国の昼餐会は、それぞれの国の文化を発信し、それに理解を得るための催し。交わされる会話はただのなんてことのない談話だけでなく、その国を知ろうというこちら側の誠意と、自国の利益のために周知させようというホスト側の持て成しとの駆け引きの場でもあって、まったく政治的な意図を孕んだものだ。
そんなのは誰かが説明するまでもない常識で、少なくともリディアーヌはこの皇帝戦の最初の伝統的な行事が、戦いの中にあってもあくまでも一つの帝国なのだということを周知するために設けられた期間であるとも理解している。
だから持て成す側も全力を尽くすし、逆に持て成される側もある程度の勉強と、何を口にして良いのか、悪いのか、そして何を話題にして益を引き込むのかなどあらかじめ考えてあるし、勉強してきている。
先程リディアーヌも女性陣がお香の話をしている間に、ザクセオンやヘイツブルグ、そして教会関係者と帝国政治に関係する選帝侯の一人がいる場所で、せっかくのフォンクラーク料理なのに先の皇帝時代に直轄領に持ち込み禁止にされた香辛料が多すぎるのが残念だ、という話をしていた。
グーデリックの禁制品密輸事件があったせいで、元々メジャーだった香辛料はともかくフォンクラークでは高級品として王宮料理で用いられるようなものが持ち込めず、気に入っていたピンクペッパーも密輸品リストに入っている品だったからという理由で禁止されており使われていなかった。それが残念だったからだ。
香辛料の規制緩和はフォンクラークが切望するところであり、また香辛料と薬剤との別を管理する教会や、すでに香辛料が輸入品として知れ渡っているザクセオンの同意を得て選帝侯にそういう不満があることを伝え、逆に直轄領との交易でクロイツェンを通じて優位性を築こうとし始めているヘイツブルグのウィクトル公子への牽制もかけられる。
生憎と権限らしい権限を持っていないウィクトル公子では話にならなかったが、リディアーヌの立場は理解しただろう。リディアーヌは別にフォンクラークを優遇したいわけではないが、今の皇帝直轄領をはじめとする内海の海上貿易をクロイツェンが差配して配分している現状に不満を持っているのだ。それには内海の貿易とは関係のないダグナブリク公も「無関係だが大いに同意する」と笑っていた。
つまりここは、そういう場だ。
なのにヴィオレットは、かつてベルテセーヌで言われていた才女という噂はどこへ消えたのかというほどの無知だ。フォンクラークに住んでいた時期もあったはずなのに、よくもまぁそんな侮蔑を口にできたものだと驚いてしまう。
いや、むしろ一時住んでいたからこそ、周りもヴィオレットに対してフォンクラークに関しての情報を教え込むことを放棄してしまったのだろうか。そうでなくとも、これは皇太子妃をバックアップするべき側近達の未熟さと、本人の意識の低さを露呈してしまっている。
逆に王族となってまだ間も浅いアンジェリカの方が弁えているというのは、かつて一人の王子を巡って争ったヴィオレットとアンジェリカという二人を対比させるのにこの上ない状況である。現に、ダグナブリク公のニヤニヤ顔が全く締まりのないものになっている。
さて、どうしたものか。ここでお説教臭くあれこれと説くのも何様であるし、そんなことをしてあげる義理もない。かといって場の空気を悪くしたままナディアに苦労を掛けるのも友人としては忍びない。
「あの……先程、クロイツェンの妃殿下のお言葉で聞きそびれてしまいましたが、公女殿下が何か夫人にお尋ねになろうとしていましたよね? たしか、ゲー……何とか、と」
思いがけなかったことに、この妙な雰囲気の中で控えめながらも場を切り開く声を発したのは、ウィクトル公子妃アンナベルだった。
少し不安そうな面差しではあるけれど、その助け舟にナディアがニコリと微笑むと、彼女の方もほっとしたように顔をほころばせる。
「ええ。私、スープカレー、という呼び方は初めてお聞きしましたが……もしかしたら妃殿下が滞在していた下町特有の呼び方か何かだったのでしょうか。普通フォンクラークでこの料理はゲーン・ベザリマンと呼ばれています。ゲーンはフォンクラークで王族から庶民まで日常的に口にするこういう汁物料理のことですわ。本当は牛や豚や、それこそグヤーシュのように具沢山にして、そこに沢山の香辛料を加えて味付けるのですけれど、これはベザの聖職者も食べられるよう帝国風に整えられた味付けで、王侯貴族にも最も好まれているベザリマン風になります」
「まぁ。やはりゲーンの一種なのですね。それでしたらヘイツブルグにもございます。ねぇ、公子様」
「えぇ、特にフォンクラークとの国境の近い北部に。うちでは麺と合わせることが多いです」
「まぁ、ゲーンを麺料理にするのですか? フォンクラークでは必ずパンです」
「麺料理はシャリンナとの交易の中で流行り始めたと聞いたことがあります」
「そうなのですか? 確かにシャリンナでは麺料理は沢山あります。それはいつか是非、食べ比べてみたいものですわ」
あっという間に雰囲気が戻り始めた。その空気に、リディアーヌも思わずホッとしてしまった。ヘルミーネ妃もよく空気を読んでくださる。さすが、この場で一番年若いとはいえ王女出身の王弟妃殿下だ。
当のヴィオレットをチラリと見てみれば、果たして自分の犯した罪に気が付いているのかいないのか、おろおろとアンナベルとヘルミーネとを見やっているようだった。
まだ気が付いていないのか、それとも弁解したいのか。だがナディアの視線がチラリともそちらを見ずにアンナベル妃と互いの国のゲーンの違いについて盛り上がっているものだから、口を挟めずにいる。
「お隣の国なのに、ベルテセーヌでは汁物に香辛料を加えたものは見かけない気がします。あ、でも南部ではもしかしたら影響を受けたものもあるのでしょうか」
「ええ、グレイシス夫人。もしかしたらあるかもしれませんわね。でもむしろフォンクラークの北部の方が帝国風が馴染んで、あまり香辛料を多用した料理などは好みませんの。なのでベルテセーヌ側からの影響の方が大きかったのではないでしょうか」
「そういえばバルティーニュ公も、王都の方では南部とは随分と雰囲気が違うと言ったことを仰っていたわ」
「ええ、そうなのです、リディアーヌ様。建物も、料理も、習慣も、色々と違います。ですから都市的な発展をしている帝国風の北部人や王都の王侯貴族は、湿った熱気と土に汚れ、地にへばりつき香辛料を耕す南部の人間のことを蔑んで、国を豊かにする香辛料をひたすら作り北部に献上する奴隷――香辛料奴隷、などと呼び差別することが、国内でも大きな問題になっています」
「南部に代々の所領があるセネヴィル候が随分と骨折りをしていたと、そういえばカレッジの国内格差問題の課題でもナディに色々教わったよね」
「ええ、公子様も覚えておいででしたか」
ナディアがもう一つの失言に関する問題に切り口を作ったところで、マクシミリアンがただの昔話の体でその裾野を切り広げて行く。
これには同じく国内の格差問題が顕著なヘイツブルグのクレメンテ司教も、「まったく嘆かわしい問題です」と愁えを口に出された。
香辛料奴隷――あまり国外で知られている話ではないのだろうが、カレッジの課題で扱ったことがあるので、リディアーヌもそれなりに存じている。
国を豊かにする特産品を生んだのは南部だが、元々フォンクラークは北部に有力貴族の所領も固まっていて、土地としても北部の方が豊かであると言われていた。
だから南部の繁栄を疎んだ北部が呼び出した蔑称がそれであり、南部の人々に職を与え、豊かさをもたらそうとしていた南部貴族達、特にセネヴィル家などはそれで大きな心痛を得ることになった。
ヴィオレットが口にした“香辛料大国”は、香辛料を実際に生産している南部ではなく、王都以北の人達が『南部の奴隷達を酷使して自分達の国(北部)は豊かになった』という意味でよく使う言葉で、その典型的な北部王族であるギュスターブ王などは口にすることも憚らない言葉であろうが、南部出身のナディアや王家南部の所領を伝領してセネヴィル家と共に南部の地位回復に努めてきたバルティーニュ公などにとっては侮辱と言っても過言ではない言葉になる。
あるいはヴィオレットは、フォンクラークの王都の市井に住んでいたせいで、王都の民達からその言葉を聞き、意味を取り違えて覚えていたのかもしれない。本人に悪気が無かったことは分かるし、ナディアもそれは承知しているから自分を抑えたのだ。
だがだからといって許される言葉でもない。
バルティーニュ公が今、フォンクラークに既存の港ではないもっと南寄りの新たな港を切り開こうとしているのは、こうした搾取し侮蔑するだけの北部に利益を与えず、産地南部から直接世界に輸出をするルートを確保しようという試みである。
それに気が付いていない王侯貴族はよほどフォンクラークに興味が無いか不勉強な者くらいであるから、ヴィオレットの失言は、この問題の最大の駆け引き対象であるクロイツェン皇国の皇太子妃が不勉強を晒したということにも他ならない。
ここにもっと沢山の人がおらず、隣のテーブルの大公達の耳に届いていないことが残念でならない。まさか四日目にして早々と、ヴィオレットがこんなにも盛大なミスをしでかしてくれるとは思わなかった。
だが早晩、コランティーヌ夫人の耳に入りさえすれば、瞬く間に女性の社交の中で広まるのではないだろうか。




