1-26 聖別の儀(1)
これで準備万端、などと……いやぁ。少し油断をしていたかもしれない。
まさか朝方大聖堂に出向き、神殿の地下で禊を済ませるや否や、脱衣室にブランディーヌ夫人が待ち構えているだなんて……どうして思っただろうか。
「……ブランディーヌ夫人。ここは関係者以外は立ち入り禁止なはずですけれど?」
「戯言はいいわ、公女。いつ挨拶に来るものかと待っていたのに、いつまでも来ないのです。出向くしかないではありませんか」
「おかしなことを仰います。私が出向く? 何の御冗談でしょう」
そうため息をつきながら、おろおろとしている介添えのシスターの手からタオルを受け取った。自分でするのは慣れていないのだが、この場に若いシスターを引き止めておくのは可哀想だ。「行って宜しいわ」と部屋の外に出し、自らぎゅっと髪を握って水気を拭う。
不作法をしているのはブランディーヌの方なのだから、遠慮する必要はないだろう。
「それで、夫人。まだ禊の途中ですから、そんなに時間がございません。ご用件はなんですか?」
「国を離れて、ふてぶてしくなったようですわね。生意気なこと」
態度が気に入らないらしいことは分かったけれど、まどろっこしいことである。もう一度言わないとダメなのだろうか?
「夫人。もう一度言いますが、時間が有りません。先ほどのシスターが侵入者について知らせに行っているはずですよ。“教会内”で“聖女”に不当に接触したなどと聞けば、今すぐに追い出されて聖別にも参列できないでしょう。言っておきますが、私は庇いませんわよ」
「……いいわ。言いたいことは多々あるけれど、先に用件をすませましょう」
ドンと椅子に座ったブランディーヌは、神経質な様子で傍の机をコンコンと指先で叩いた。昔はこうされると恐怖を感じたものだけれど、今は不思議と落ち着いていられる。きっとこんなことよりももっと怖い目に遭ったから……いや、背が伸びたからに違いない。うん、そうに違いない。
「単刀直入に言うわ。アンジェリカ嬢の聖痕を否定なさい」
うわっ。本当に単刀直入だな。びっくりした。
「私にそんな権限はありませんわ」
「いいから、言う通りになさい! いえ、貴女が何もせずともどうせそうなるでしょうから、余計なことをせず、見たままに聖痕が偽物であることを認めればいいのです。難しいことではないでしょう」
あぁ、はいはい。真実偽物だと信じていらっしゃるのか、いや、そんな不確かなことに賭けたりはしないだろうから、やはり何かしら細工はしているのだろう。
実際の所、その真偽はどうなのだろう? リディアーヌも気になっている。
「言われずとも、私は見たままに真偽を述べるつもりですわ。ただ夫人、宜しいのですか? よもやこのように聖職者とベルテセーヌの貴顕の集まる中で、オリオール家を蔑ろにしてまで王太子殿下が選んだ聖女でしょう? それが偽物となれば、クロード殿下も失脚は免れません」
「ふっ。所詮は外で育った元王女ね。それが一体何だというのです。クロードが駄目ならばまた別の誰かを据えればいいだけです」
クロードが邪魔なら、その弟だか別の庶出の王子だかを推戴すればいい。それが自分にはできると? いかにもブランディーヌらしい、他人の人生を歯牙にもかけない傲慢な発想だ。嫌になる。
「ベルテセーヌ国内の王位継承に関心はありませんわ。けれどアンジェリカ嬢が偽物と断罪されたせいで私が再び祀り上げられるような状況は勘弁してほしいものです。その辺、夫人は教会とは違う考えがあるのでしょうが」
「お前が望むのなら、お前を再び王太子妃にしてあげてもいいのよ」
ねぇわぁぁっ!
一体全体、何をどうしたらリディアーヌがそれを喜ぶと思うのだろうか。論外である。
だがブランディーヌがそう言い出すということは、やはり彼女にとって最も大切な手駒であったヴィオレット嬢はすでに手元に取り返せない状況ということだろうか。国外に追放になっているというし、単純に連絡が途絶えているのか、あるいは先の失態で完全に娘の価値を否定しているのか、あるいは例の“嬉々として出て行った”という噂のせいなのか。
いずれにしてもブランディーヌもなりふり構っていられない状況なようだ。
「はぁ、まったく奇異なことを。そう聞いた私が喜んで尻尾を振るとでも?」
「リディアーヌ公女! 貴女は私に大きな借りがあるはずです!」
あぁ、ここでそれを持ち出すのか。
確かに、“リディアーヌ王女の死”について、ブランディーヌには借りがある。ベルテセーヌ王室側が絶対に手放したくない聖女を再び手放さざるを得なかったのは、ブランディーヌがベルテセーヌ内の操作をしてくれたからだ。
だがいつまでもネチネチとそれを楯に脅そうだなんて、片腹痛い。大体、その借りとやらは彼女の娘を王太子妃にするための、相互にとって益の有る“対等な取引”だったはず。自分が失敗したからといって、リディアーヌ側に与えたはずの利益まで棄却しようだなんて片腹痛い。
「借りだなんて。むしろそちらが私に借りを作ったとも言えなくはないのに、自分が失敗したからといってこちらまで道連れにしてほしくはありませんわ。夫人のところの子息が一人、いつも帝国議会に参加しているでしょう? だったら今の私の噂も存じているはず」
そう。例えば、皇帝陛下が随分と気に入っていて、クロイツェンの皇太子妃に欲しているとか。ザクセオンの公子と特別な仲だとか。そんな噂が持ち上がる人物が、今更ベルテセーヌの王室に何の未練があると思うのか。
「公女! いいから言うことを聞きなさい!」
一体どうして、怒鳴りつければ言うことを聞く、みたく思われてしまったのだろうか。いや、もしかすると幼い頃の私は本当に、こんなことにびくびくと怯えていたのかもしれない。何も怯える必要なんてなかったのに、不思議なものである。
だがこのままではちっとも埒が明かないので、髪を拭っていたタオルをドンッと机に叩きつけると、ブランディーヌの知らないこの七年間に身に着けた眼差しで彼女を睨み据えた。
その刹那、ビクリと身じろいだブランディーヌが感じた感情は何であろうか。
驚き? いや……恐怖?
あぁ……そういえば先ほどの言葉に、少し気になる所があった。
ブランディーヌはクロード王太子が失脚するなら、“また” 別の誰かを据えればいいと言ったか。“また”……それはまるで、かつて一度、同じことをやったと公言しているようなものではないか。
それは、先王クリストフ二世の死後、エドゥアール王太子に代わって現王シャルルを推戴したことを言っているのだろうか。それとも、自分の娘を王太子の婚約者にすべく、すでにリディアーヌという妃を迎えてしまった前王太子を自ら失脚させたと言っているのだろうか。
ブランディーヌ。父の異母妹――彼女もまた、最愛の兄を殺した真犯人の一人として、リディアーヌがずっと疑ってきた人物の一人だ。
「ブランディーヌ夫人。何か思い違いをしているようね。私は私の意思で、ベルテセーヌを捨てたの。今の私はヴァレンティン家の公女。礼を失した隣国の侯爵夫人に、不敬を叩きつけて騎士に引きずり出させても、文句は言われない立場よ」
「貴女ッ」
「でもそうしないのは、そんな面倒なことをしないといけないほどベルテセーヌに関心がないからだわ。それにベルテセーヌに戻るですって? ふっ。それができない……有り得ない理由は、貴女が一番良く知っているじゃない」
ベルテセーヌに帰ったところで、そこに明るい未来なんてものはない。
自ら不名誉を着る趣味もなければ、それに立ち向かうほどの熱意も、もうベルテセーヌには感じていない。
貴女が、そうさせたのだ。
「もう一度言うわ、“ブランディーヌ”。私はこの聖別で、貴女の意のままに動かされてあげる気は毛頭ないわ。ただ見たまま、ただ知ったままに、真実を述べるわ。誰にも、利用はされない」
「っ……いい、わ。いいでしょう。ではせいぜい、“見たまま”に、真実を述べることね」
「ええ、そうするわ。最初からそう言っているでしょう?」
そう口にしたところで、ゴンゴン、と急いたように扉を打つ音がした。聖職者の仕草ではない。この様子だと、フィリックかエリオット辺りが駆けつけてきたか。淑女の禊の間に、無粋なことである。
そそくさと扉に向かい、手をかけて。チラリと厳めしい顔でこちらを睨む夫人を僅かばかりに振り返った。
社交界に君臨した冴えわたる美貌はいつしか年老い、今ややつれているようにも見える。私と彼女の間には、それだけの時間が流れたのだ。従順に育てたはずの娘ヴィオレットの裏切りも、さぞかし堪えたのだろう。ざまぁない。
その覇気も、かつてはもう少し、運命に立ち向かう強い人に見えたものだが。
時間というのは恐ろしいものである。
***
禊の間を出ると、うちの側近ばかりか聖職者達がわらわらと集まっていてびっくりした。
こんなところまで侵入者を許したこと、ましてや大切な神事の日の出来事とあって、心配もひとしおだったようだ。
ひとまず彼らには何事もなかったことを伝えて散ってもらった。今ここでブランディーヌに恥をかかせて神殿から引きずり出すわけにはいかない。そんなことで、無駄な怒りも買いたくない。
ただ髪を乱暴に拭ったのは不味かったのか。ぷんすかと腰に手を当てた修道女達に引きずられると、しっかりと髪に香油が塗られ、ぴかぴかにされた。今日は大切な日だというのに、何やら朝からどっと疲れた。
禊の最中だから、昨夜から食べ物もろくに口にしていない。朝食もまた昨日の供物から取り分けられた聖餐が少しずつ配られたものを、聖職者達と共にいただき、あとは果実水で空腹を満たしただけだ。早くも今夜のご馳走が待ち遠しい。
朝の聖餐を終えて大聖堂に向かうと、すでにベルテセーヌからの貴顕がぎっしりと参列席を埋めており、その前列にリンテンの三伯家や関係者、うちの側近達も並んだ。上座にも先んじてベルテセーヌ王らが座っていたから、リディアーヌも軽く目礼だけして自分の席へと腰かける。
それからすぐにも大司教様の呼びかけにより、本日の進行役であるアルナルディ正司教に連れられたアンジェリカ嬢が入場してきた。あちらは別枠で、正司教の指導のもと朝の禊や聖餐が行われていたのだろう。
多くの目にさらされているため緊張しているのだろうか。ジッと足元を見つめ、ゆっくりとした足取りだ。それを見かねた王太子がさっと席を立ちエスコートに降りて行った。
噂に違わぬ溺愛ぶりである。エメローラ伯爵は随分と満足そうだが、国王は少々頭を抱えているようだから、きっと日頃から城でもこの調子なのだろう。アルナルディも特に気にした様子はなく、アンジェリカが席に着くと早々と儀式を始めた。
神への祝詞と聖職者達の奏でる讃美歌。広い聖堂に響くパイプオルガンの音色は美しくも心地よい。それから再び壇上に招かれたアンジェリカ嬢が、祭壇の前い跪き、神に宣誓を行う。
「私、アンジェリカは神の……娘、神の意を統べる者として、大地に繁栄をもたらすべくそのご加護を請い、御身許に額づきて、御身にお仕えすることを誓います……」
あぁ、そうそう。確かそんな宣誓文だった。
はっきりと記憶に残っているわけではないが、リディアーヌが選別を受けたのは幼い頃。ようやく言葉が話せるようになったような頃だから、おそらく司教様の言葉をそのまま繰り返す形で宣誓したはずだ。だから内容についてちっとも考えたことがなかった。
聞くところによると聖女はどうやら神に仕えるものなようだ。はて? 聖女の役目や儀式に、はたしてそれらしいことが有っただろうか?
それを思うと、ちぐはぐな宣誓文である。きっと聖別の儀を行いながら、俗世の人間が勝手に改変し、そういうものだと定義づけたものなのだろう。不思議なものである。
「この身に受けしは聖なる恩寵。今それを証とすべく、類まれなる奇跡を現し、御身の声を聞かんことをお許し賜りたく……」
随分と長い宣誓文を読み砕いている間にも、段々と祭壇周りで助祭達が宣誓文にある証とやらを示すべく準備を始める。道具の準備を主導しているのはテシエ司祭だ。先日のおろおろとした様子とは打って変わった聖職者然とした姿が少しおかしい。
厳重に保管されていた水盤が安置され、かけられていた布が取り除かれ、聖痕に灌ぐための柄杓が並べ置かれる。火を消すための火消し棒と、代わりに焚かれた強い香木。
そのすべての準備が終わるとともに、アンジェリカ嬢もまた最後の祈りを捧げ終わった。
跪いたままの聖女候補の肩衣を助祭が解いて持って行くと、顕わになった聖痕を目視したアルナルディ正司教が、真に聖痕たる証があることを宣言し、柄杓を手に取る。
さて……ここからが本題なわけだけれど。
「その聖痕が真なれば、清き聖水がその恩寵を示すでしょう。聖女の資格を告げる者アンジェリカ。宜しいか」
「ッ……は、はい……」
ぎゅうっと手を握って目をつむるアンジェリカの様子は、酷く不安気だ。あぁ、あれは自分自身が聖女と信じ切れていない顔だろう。
だが聖女であろうが、なかろうが……その聖痕はきっと……。
「一に洗礼を。二に手を清め……」
最初は頭上に。二杯目で手を清めて、そして三杯目で……。
「三に聖なる水を受けたまえ」
パシャとアンジェリカもろとも祭壇に撒かれた水に、皆がごくりと固唾をのむ。
ポタリ……ポタリ……。滴れた水が衣に滲み床に広がって、厳かな絨毯に沁み込んでゆく。
「……あ……」
沈黙の中、最初に声を漏らしたのはアンジェリカ嬢だった。
きつく手を引き結んだまま、チラリと見た自分の変わりない胸元に、やがて真っ青に顔を青ざめさせながら俯く姿に、すぐに察したのだろう。すかさずざわめいた下座に、ガタンと王太子が席を立つ。
国王は……意外と冷静だな。アンジェリカを。そしてこちらをジィっと見つめるあたり、同じく冷静に座っているリディアーヌが何もしないはずがないことを見定めようとしているのかもしれない。
「なんと……これは……」
大仰に口元に手を添え驚いて見せるアルナルディの白々しさよ。それだけで下座にも、アンジェリカの聖痕が証を示さなかったことが察せられたのだろう。どこからともなく「やはり偽物だったのだわ!」「何という冒涜!」「このような事態、どうしてくれる、エメローラ伯爵!」と、騒がしくなり始めた。きっとブランディーヌ派がそこかしこで煽っているのだろう。フォルタン伯やブルッスナー伯も顔を青ざめさせ、おろおろと後ろを窺っている。
落ち着いているのはうちの側近達と、冷静なリディアーヌをじぃっと見ているルゼノールの者達くらいか。
さて……上座はどう出るか。




