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1-24 聖女の秘法

 聖餐に参加をするなら、衣装は白でなければならない。

 今日も念のために白の衣装をまとっていたけれど、グーデリックに撫で回されたドレスを着続けているとフィリックの胃が(もた)れそうだったので、しっかりと身を清めた上、明日の為に用意していた方の服へと着替えた。

 神事には華美な飾り物も憚られるものだが、白い衣には丁寧に金糸の縫い取りが施されていてそれなりに威厳高く見える。髪も複雑に結い上げたりはせず下ろしたままに、前髪と両サイドだけ軽く編みこんで清廉とした雰囲気に仕上げる。神事にしか用いない額飾りは身にまとうだけで日頃とは違う雰囲気になる。

 何やら昔を思い出す恰好だが、昔と違って雰囲気にのまれるほどヤワではない。


「姫様、ご用意するものはこれでよろしいでしょうか」


 身支度が整うや否や、マクスが並べ置いてくれたものを一つ一つ確認して行く。

 まずは先日アルセールが届けてくれた二つの聖水の入った小瓶から、中の聖水を別のガラス瓶へと移し替えた。もらった小瓶は普通の水で洗い流し、丁寧に拭っておく。

 それから、ベルテセーヌから持ってきた薬紙が二つ。

 確認している内に、今宵は珍しくリディアーヌの身支度中わざわざ部屋の外に控えていたフィリックがマクスに促されて入ってくる。


「まずは聖水とやらの実験を致しましょう」


 別の瓶に移していた聖水を少しばかり小皿に注ぎ、指先で触れてみる。

 うむ。触れた触感は、ごく普通の真水だ。しかしこれが聖痕にふれると、色が変わって光るんだったか。

 くいくいとドレスの胸元を引っ張ると、何をするのか察したらしいフランカが「ちょっとお待ちください!」と大急ぎでタオルを持ってきてくれた。

 年若い未婚の淑女が破廉恥な……というわけではなく、これから聖餐なのに大事な一張羅を濡らすわけにはいかないとの配慮だったようだ。

 有難く胸元の聖痕の下をタオルで抑えてもらってから、小皿の聖水をペッと聖痕にかけてみる。

 量はとても少なかったはずなのだが、なるほど、濡れた端からじわりと光っているかのように見えた。

 すぐに察したマクスが机周りの明かりを消す。部屋の大きなシャンデリアはまだ煌々と灯っているけれど、周りを薄暗くしてみればなおのこと、光っているのが良く見えた。


「まぁ……なんて不思議」

「本当に光っているわね。驚いたわ」


 思わず自分でも驚いた。ちょっと色が変わるどころではなく、本当に光るらしい。いや、むしろ色が変わる、という方が語弊がある気がする。聖痕自体の色は変わっていない。ただ光で元の色がよく見えず、銀色に変わったように見えるだけだ。

 その光も、トントンとタオルで叩いて水を拭えば、すぐに消えた。まだうっすらと光っている気はしないが、服で覆えばまったく見えない程度だ。すぐに消えるだろう。


「これは多少の小細工ではどうこうできませんね。アンジェリカ嬢の聖痕が光るのか否か……どうしたものでしょう」

「ベルテセーヌ教会はアンジェリカ嬢の聖痕を事実とは認めたくないでしょうから、ラントーム助祭とやらが聖水を真水に入れ替える可能性があると思うのだけれど、どうかしら」

「有り得ますね。しかしそれでアンジェリカ嬢の聖痕が光らなければ、誰かしらが聖水への細工を疑うでしょう。嫌疑をかけられるのはラントーム助祭です。何かしら、言い逃れるための準備はしているはずですが」

「水盤の聖水を本物と証明する唯一の方法は、姫様なのではありませんか?」

 マクスの言葉に、「そうなるわね」とリディアーヌも頷いた。


 聖遺物などを入れると聖水自体が光る、とアルセールが言っていたが、本山で恭しく宝物庫に眠っているはずの聖遺物をこんなところでポンとだせるはずがない。であれば、間違いなく聖痕が光るであろうリディアーヌが唯一の証明方法だ。

 もしもアンジェリカ嬢の聖痕が光らず、リディアーヌだけ光ったなどとなっては、教会の思うつぼである。そしておそらくそれが、教会の描くシナリオだろう。


「よりにもよって、アンジェリカ嬢に聖水をかけるのはアルナルディ正司教の役目です」


 これはまず光らないはずだ。そしてそこで無理やりに光らせるのは、遠くに座っているリディアーヌにも流石にどうこうできない。できるとしたら、リディアーヌの聖痕もまた“光らせない”ことだ。


「そこで用意したのが、この二つの粉末なのだけれど」

「姫様に言われるがまま、ヴァレンテインより大切に保管して持って参りましたが、これは一体何の粉なのですか?」


 厳重に革袋に包んで持ってきたのは、二つの油紙だ。この中には二種類の粉末が入っており、どちらもリディアーヌが自らヴァレンティンで準備してきた物だ。


「今からちょっとした物を作ろうと思っているの。簡単に言うと、これを塗ると、塗った箇所が聖水で光ったり光らなかったりするものよ。これは歴代の聖女だけが知っている秘儀なの。だから詳細は、貴方達にも教えられないわ」


 ベルテセーヌの教会には宝物庫が三つある。一つは聖女の遺産が納められた宝物庫で、もう一つはどこの教会にもある大聖堂の主が管理をしている神物の管理庫。そして最後の一つが、聖女がその役目を学ぶための聖女書庫と言われる場所だ。

 聖女の持つ鍵でしか入ることは出来ず、その書庫には聖女が行うべき儀式や作法についての史料が納められている。また聖女は後世のために日記を残しておくことが慣例になっているらしく、六歳まではリディアーヌも頻繁に通っていた部屋だ。

 後にヴァレンティンからベルテセーヌに戻った時も、数度訪ねて、日記……とは呼べなくなったものの、これまでのことを丁寧に書き残した。これを見ることが出来るのは次の聖女だけだ。誰にも忖度(そんたく)すること無い、事実だけを書けばいい。これまでの聖女達の日記にも、優しいことだけではない様々なことが書かれていた。歴代の聖女だけが知る、ベルテセーヌの歴史である。

 生憎とすぐに“死”を迎えることになったリディアーヌは、まだそのすべてを読んだことがない。せいぜいここ二三代と、たまたま手に取ったいくつかの日記くらいだ。それよりも、まずは聖女としての儀式や作法を覚えねばならなかった。


 そしてそんな聖女書庫の書物の中に、この聖水に反応するインクと、反応しないインクについての記述があった。正確には、ちゃんと書かれていたのは聖水に反応するインクに付いての記述だけだ。

 ベルテセーヌ王の正しい即位式では、聖女が即位を祝福し、聖女の準備した特別なインクで神への即位奉告を記し、王の署名と血判が捺されたものを聖火で燃やす、という作法がある。書類は聖水に浸すと文字が光り輝き、それを火にくべると天まで高く銀の光の柱が立つという。

 リディアーヌは正式な即位式を見たことがないので本当かどうかは知らないし、ちょっと誇張されすぎている気がしないでもないのだが、どうやらそういう物があるらしい。そしてそのインクの作り方は聖女の秘伝であり、聖女無くしてこの儀式は執り行えない。

 現在シャルル王が教会に正統な王として認められず関係を拗らせているのは、シャルルがこの“ベルテセーヌの正式な即位式”を挙げられていないせいだ。シャルル側も、まさか後々まで教会にそれをうるさく言われるなどとは思っていなかったのだろう。今となっては後の祭りである。

 そしてそのことこそが、シャルルが躍起になって次世代の即位式に聖女を求めている理由の一端でもある。


「インクの作り方については聖女の秘すべき秘儀だから、一応貴方達にも見せないようにしておこうと思うの。実験は後ほど、私一人で行うわ」

「かしこまりました」

「とりあえず私が作るのは、塗ると聖痕が光るインクと、光らなくなるインクよ。さて、まずはそれを用いてどう聖別の儀をこなすのか。今のところのプランを話すわ」


 それからみっちりと、多少の修正を加えながら今宵から明日にかけての予定を話し合った。

 少々不確定要素がないわけではないが、このインクのことを知るのは聖女だけ。ベルテセーヌ教会側の野望を打ち砕くには充分であろう。あとは当日の、各々の派閥の動き次第である。

 そうして一通りの話し合いが終わったところで、もう聖餐に出向くまでの時間も差し迫ってきた。急ぎ、必要な物を作り終えてしまわねばならない。


「皆、少しの間、背を向けておいてちょうだい」


 そう求めると、皆揃って「外に出ております」と、わざわざ扉の向こうへと下がってくれた。それを見送ると、まずは昼間に教会の直販店で買い求めてきた“お土産”の一つを開封した。中から出てきたのは高級感のある小瓶に入った黒インクだ。

 これは教会で聖なる木といわれているサントベロの木から作られたインクだ。教会で焚かれるお香もこの木から作られているため、それと同じ高貴な香りがし、王侯貴族が最もよく好んで使う品でもある。リディアーヌの愛用の品は、これに鉱石で色付けがなされ、華やかな香料を加えたもう少し公女らしいものになる。いずれも庶民には手の出せない高級品というだけで、決して珍しい品ではない。およそ教会系列の店には必ず売っている。

 聖女のインクには、このサントベロのインクを使うことが指定されている。手持ちのインクには色々と混じっているので、“お養父様へのお土産”という名目で最も純度の高いものを買い求めておいたのだ。


 まずは小鉢にインクを垂らし、そこに油紙の一つ目……青みを帯びた方の粉末を溶き、さらに少しの植物油を垂らす。この粉末も別段珍しいものではなく、多少貴重とはいえ手に入らないものでもないラピスラズリを削ったものと、そこらへんの庭で摘んだベルブラウの葉を乾燥させたものだ。

 初めは粉末がインクに混ざらずざらざらとしていたけれど、混ぜ続けている内にジワリと粉は溶け、綺麗なブルーの粘り気のあるインクへと仕上がった。

 実に簡単お手軽に作れたこのインク……これは、“光らなくするインク”だ。

 歴代聖女の手記には、決して楽しく清廉なことばかりではない……後ろ暗く、利用し、利用された過去もまた記されている。この光らないインクは、いつしかの代に、偽者であった聖女が作り上げたものだった。


 資格もないのに強引に聖女に祀り上げられ、その役目を果たすことを強要された偽りの聖女……彼女は当時の王権にとって都合の悪かった本物の聖女が殺された代役として立てられた聖女だった。

 やがて再び王室の末端に新たな聖女が生まれると、偽りの聖女は自分の命を守るべく、そのことをひた隠し、真の聖女の聖痕をこのインクで偽り続けた。

 結局偽りの聖女は聖女殺しの王の没落と共に処刑されることになり、ベルテセーヌの公的な記録からは消されてしまったのだけれど、しかし聖女の書庫にはその聖女の手記も歴史も、そのすべてが残っていた。

 長らくその聖女の元で聖女の資格を奪われていた真の聖女が、すべてをそのままに、大事に残し続けたからだ。

 偽の聖女の手記は実に赤裸々なもので、後々の聖女に王に利用されるということと、偽の聖女として身を護るための術のすべてを書き残していた。あの手記を読んだ時には、幼い身に随分な衝撃を受けたものである。まさかこんな風に役に立つ日が来るとは思っていなかったけれど、きっと彼女以来のすべての聖女達が、偽の聖女に起きた悲劇と彼女が作り出したこの光らぬインクの製法を胸に刻んでいたことだと思う。


 それを思いながら作ったインクで、丁寧に自分の聖痕をなぞった。

 すこしざらついて、少し冷たい。どうにもひんやりとした心地がした。

 インクが乾くのを待つ間、別の小鉢にもインクを垂らし、もう一つの油紙の粉……ベルブラウの根の粉末に砕いた水晶の混じったものと聖水を加え、再びごりごりと混ぜた。

 色は先ほどの物に比べると多少キラキラと水晶の粉末が混じった真っ黒なインクに見えるけれど、これが光るインクだ。普通に同じ製法で作っても、聖水が無ければ光るインクにはならない。だからやはり重要なのは聖水なのだろう。

 実は、教皇聖下だけが管理しうるとされている聖水……これも、聖女書庫では自家製されている。先に聖水と聞いてリディアーヌがあまり驚かなかったのもそれが原因なのだが、書庫の一角には水が引いてあり、そこに書庫の鍵とベルブラウの花を沈め満月の夜に一晩漬け込んでおくと聖水が完成する。


 だから多分、聖女の鍵とやらが聖遺物そのものなのだ。

 聖職者達のように祈りを捧げたり光を放つまで見守ったりそんな手間がいらないという点は、どうやら“聖女”の特有なのかもしれない。今まで聖女だからと言って特別なことは何もないと思っていたが、聖水作りのプロという特技があったらしい。新発見である。

 まぁ、聖水なんて作ったところで、今後特に使い道もないのだけれど。


 そう考えている内にも胸元のインクが乾いたようなので、残った聖水をチョンとつけてみる。ほぅ……確かに、光らない。いや、もしかしたら光っているのかもしれないが、インクがそれを遮蔽しているようだ。不思議なものである。

 だが聖水をかけるとインクが少しどろりと溶けた。それを慌ててタオルで拭う。幸い、ドレスは汚れなかった。

 次いで、聖痕も何もない左手の甲に光るインクを付けて聖水をかけてみると、ぼんやりと青みがかった色に光った。リディアーヌ本来の聖痕を光らせた時とは少し色が違うから、間違いなくインクの色として光っているのだろう。不思議である。

 こちらは油で拭わなければインクが落ちないようだ。


「姫様、そろそろお時間ですが、いかがでしょうか」


 折よく、フランカが遠慮がちに扉の向こうから声をかけてきた。あまり長々と実験をしている時間はなかったか。


「いいわ。フランカ、入ってちょうだい」


 先ほどのタオルを濡らして、手の甲のインクを拭うべく塗りたくった油を拭く。中々ぬるりとした感触が取れない。思わず雑に拭っていたら、その様子に何を思ったのか、駆け寄ってタオルを奪い取ったフランカに怖い顔をされてしまった。はは……なされるがままにしておこう。


「姫様、成功ですか?」

「ええ、そのようだわ。この二つのインクを小瓶に注いでおいてちょうだい」


 フランカになされるがままになっている間にも、フィリックとマクスがテキパキと透明の小瓶にインクを注いでくれた。

 さて。これでひとまず、下準備は完了である。






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