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8-19 公子とアンジェリカ(1)

side フレデリク

 そうして一日かけて城下をまわり城に戻ったところで、すでに日が落ちかけていた。戻ったことの報告に、国王陛下といるというフィリックの元へ向かったら、どうやら聖女書庫から出てきたらしいアンジェリカ嬢も一緒だった。ということは姉上も、と思ったのだが、生憎と見渡しても姉上の姿はない。


「アンジェリカ嬢、姉上はご一緒ではなかったのですか?」

「ええ、公子様。調べ物は無事に終わったのですが、今のうちに留守の間の聖女の仕事を片付けてしまうからと、必死に机に張り付いていらっしゃいます。私はリディアーヌ様のご指示で、ひとまず調べ終えた内容のご報告に」

「二日も籠もりきりで、疲れていませんか?」

「ふふっ、大丈夫でございますよ、公子様。書庫には聖水という魔法の水があるんです」

「……」

「ごほんっ。アンジェリカ嬢……聖水は、魔法の水ではなく、神から下される貴重にして神聖な、聖なる恩寵ですよ」

「あ!」


 セザールの指摘に、仮にもこの国の聖女を名乗るアンジェリカはポッと頬を染めて恥ずかし気にしたが、多分アンジェリカに“魔法の水”だなんて不遜な物言いを教えたのは姉上だろうから、フレデリクも苦笑を浮かべておいた。


「えっと、それで報告の続きですが……焼き菓子の件は、恐らくクロイツェンがヴィオレット妃の考案菓子類を出してくるだろうから、こちらからは出さず、むしろ国内で変化して定着したものを出すのが良いと。予算的にも良心的ですし、砂糖についてはクロイツェンより優位かつ安価に手に入るのが国の強みなので、そこを工夫するようにと」

「なぜ書庫にいて茶議棟での催しの件への意見が出て来るのか不思議ですが、姫様の女性としての意見は貴重ですね。アンジェリカ嬢はどう思われるのですか?」

「私も同意見です。差し入れしたバスケットの中身についても、リディアーヌ様は全く珍しいものより親しみがあって、好みにも合うと絶賛してくださいました。あ、でも国や人によって好みは随分と違うから、その辺を細かに調整できるいい料理人か侍女が必要だとも」

「料理人や下調べを担う文官などはこちらでも考えています。ただ実際に茶会や晩餐の席でそれを差配するのは“王妃”の仕事です。ベルテセーヌにはその立場の人間がいないことが問題ですね」

「さすがにヴァレンティンの公女で、選議卿でいらっしゃるリディアーヌ様が直接なされるわけにはいかないですもんね。それが出来たらとっても安心なんでしょうが」


 いつの間にか、ただ懸命にお作法を学ぶだけだったアンジェリカ嬢が、きちんと意見を言えるほどに成長しているのを見て、フレデリクは素直に驚いた。きっとヴァレンティンから戻られてこの方、随分と努力をなさったのだろう。

 姉上とも書庫でしっかりと仕事をなさってきたようで、それに意見を交わすどころか、今こうして姉上の信頼を得て、姉上の代わりに伝言と会議への参加を担っているのだ。その成長ぶりは姉も認める所なのだろう。

 はて。だとしたら……。


「だったらアンジェリカ嬢がなさればいいのではないですか?」


 思わず思ったことを口にしただけだったのだが、何故かそんなフレデリクに、皆の視線がじっと集まった。何だろう。そんなに変なことを言ったわけではないはずだが。


「えっと……王太妃様が出る予定はなくて、でもベルテセーヌには国王陛下にも、それにジュード様やセザール様にも公的な場に出られる妃殿下はいらっしゃらなくて、つまり女性の社交を統括できる方がいなくて困っていらっしゃる、というお話ですよね?」

「それは、そうですが……」

「でもアンジェリカ嬢はお国の聖女ですし、クロード殿下の婚約者で、それに姉上とも既知で、連携もよくとれますし、姉上もこうして頼りにしているではありませんか。なのにアンジェリカ嬢では駄目なのですか?」


 改めて言葉を丁寧にして問うてみたところで、考えふけっているフィリックとは裏腹に、セザールが「アンジェリカ嬢は国許に残す方針なのです」と教えてくれた。

 はて。でも皇宮では、ヴィオレット妃が聖女の証を持って現れて、かといって姉上が後出しのように聖女であることを主張したり、聖女の在り方の騒動に巻き込まれるのは困るからどうしたものか、だなんて話になっているのではなかったか。だったらアンジェリカ嬢がヴィオレット妃に比肩するベルテセーヌの聖女として表舞台に立つことはごく普通のことで、むしろ姉上よりもベルテセーヌ人であるアンジェリカ嬢こそがそうであるべきなのではないかと思うのだが……それは何か、おかしなことなのだろうか?


「姫様は懐に入れた者に対して異様に過保護を働かせる悪癖があります」


 ポツリと呟いたフィリックに、ぱっとフレデリクも視線を寄越す。

 その一言で、何となく、アンジェリカ嬢の皇宮行きを反対しているのは姉上なのだと察した。おそらく、アンジェリカ嬢が多少成長したとはいえまだ未熟であり、また困難に見舞われたばかりの婚約者の心の看病に、国許に残してあげておきたいなどという慈悲によるものなのだろう。

 その気持ちは分からないではないのだが、アンジェリカやクロードよりもはるかに姉の身が心配で、少しでも姉の負担が軽くなって欲しいという思いが先行するフレデリクにとってみれば、そんなのは何でもそつなくこなしてしまう姉に対する皆の甘えだ。もしもベルテセーヌの連中がみなそんな甘い考えで姉上の負担に乗っかるつもりなら、怒りが募るどころの話ではない。

 そんなフレデリクの様子をいち早く察して声をかけたのはリュシアン王で、「その通りだ」という同意の言葉が、毛羽立ちかけていたフレデリクを多少なりとも諫めた。


「すまない、公子。これは私の甘えだ。幼い頃から周りに頼る術を持たなかったディーが、何でも一人で抱え込んでしまう悪い所を持ち合わせていることを私はよく知っている。なのに彼女の『私に任せて』という言葉に()(ぐら)をかいて、国を担うべき立場にあるまじき判断をした。この件……いや、この件だけに限らずすべての“ベルテセーヌ”が担うべき件については見直す。それでどうか許してはもらえないだろうか、公子殿下」


 子供に対してもきちんと誠実に言葉を選んだ国王に、フレデリクもスンと怒りが収まった。

 セザールは随分とこの兄である王に心酔しているようで、何も(あやま)ちなんて犯すはずもないと思っている節があった。でも本人は極めて謙虚で、自分がまだ未熟な王であることを自覚していて、そして自分の過ちを顧みる冷静さを持ち合わせている。

 なのにこんな簡単なことにすら気が付かずにいたのは、きっと姉が頼りがいのありすぎる元王女でいるせいなのだろう。これはあとで姉上にもしっかりとお説教が必要だな。まぁ、姉がそんな風に何もかも一人で抱え込んでしまうようになったことには、これまで幼すぎてひたすらに姉に守られていたフレデリクの存在も原因の一つだろうから、あまり言えないのだけれど。

 でもそんなフレデリクの罪悪感は、「やはり公子様を連れてきて正解でした」というフィリックの言葉に拭われた。


「今はっきりと、連れてきた、と言いましたね、フィリック」

「……こほんっ。偶然、乗っておられて正解でした」

「もういいですよ。分かってますから」


 一体フィリックはどこまで見越して、自分の密航を見逃したのだろう。相変わらず油断のならない人だ。


「アンジェリカ嬢」

「は、はいっ」

「聞いての通り、私達は随分と、公女に頼ってしまっている。本来選帝侯家は皇帝候補のサポートに徹すればよく、すべてはベルテセーヌが計画し、戦わねばならないのだ。なのに今はそのほとんどにディーやフィリック卿からの助言を必要としている。ひとえに、ベルテセーヌに信頼できる側近を集め、催しに必要な人材を集める時間が無かったせいだ」


 国王の言葉に、話の先を察したらしいアンジェリカは神妙な顔で頷いた。


「だが現宰相派の動きを抑えておくためにも、また監視の目という意味でも、メディナ王太妃陛下には国許にいてもらわねばならない。王家傍流の夫人や姫達も、足を引っ張りこそすれ助けになると思えるような信頼できる人材はいない。かろうじてべランジュール公のところの長男は野心もなく、侍従として引き取っているので皇宮での代役を任せられる人材だが、父親の方は油断ならないからな」

「多くは任せられない、ということですね?」

「そうだ。だからはっきり言って、知名度もあり社交経験もあって諸国に顔の広いリディアーヌ公女の存在はとてつもなく貴重で、その手を借りられることは幸運だ。その幸運にあやかっていたが、公子殿下の言う通り、それにはこちら側からの誠意が足りなさ過ぎた」

「特に、私が……ですね?」

「あぁ」


 コクリと頷いたアンジェリカ嬢は、少し考えこむ様子を見せると、やがてぱっと顔を上げて、「クロード様をこちらにお呼びしてもいいですか?」と問うた。それを聞いたセザールがすぐに「城内にいるはずですから、呼ばせます」と外の侍従に声を掛けに行く。


「皇宮にはヴィオレットもいる。おそらく君にとっても、心安まらぬ日々になるはずだ」

「でもその安まらぬ日々で、私は私のすべきことさえ、リディアーヌ様にお任せしてしまう所だったんですね?」

「そうだろう」


 深くアンジェリカが首肯したところで、フィリックが選びに抜いた冊子をアンジェリカの前に置いた。隣から覗き込んでみれば、どうやら先だって皇宮で聖女としての承認を受けたヴィオレットの動向に関する報告書だったようだ。

 分厚い報告書にアンジェリカは一度眉をしかめたけれど、意を決したように紙をめくる。


「えっと、大体リディアーヌ様から聞いた内容で……あ。ここですね。私は皆が話す、王国の聖女と帝国の聖女が云々という話がいまいち理解できていなかったんですが……ただでさえ国内で利用されてきた聖女というものが帝国の聖女になってしまえば、諸外国同士での聖女の奪い合いや、あるいは教会までもがこれに参入して、聖女のより政治的な利用や権力的な象徴としての制約が増えてしまう、と」

「一応そのあたりがベルテセーヌとしての聖女に対する見解ということになりますね」


「リディアーヌ様は、聖地と聖女書庫がベルテセーヌにあることが一番の問題だと言っていましたよ?」

「聖女書庫……ですか。姫様は聖女の秘事については語られませんが、書庫というのはよほど聖女にとって重要なのですね?」

「当然です! 歴代全ての聖女様の記録や、世界の秘密が納められているんですから。それに聖女は日記を書いて書庫に納めないといけませんし、この書庫は色々と規格外で……その、なんというか、神々の意が働く場所というか……リディアーヌ様はすごく平然としているので忘れてしまいそうになりますが、あの場所の存在自体が神秘なんです。書庫は他の場所に移せるものではないですし、聖女と書庫はセットと言っていいと思います」

「なるほど、だとしたら大問題ですね。聖女がベルテセーヌの聖女だからこそ、聖地はベルテセーヌの領土であり続けています。ですが聖女が帝国の聖女になったら、王都のすぐ傍という場所ながら、教会に接収される、あるいは諸外国からその土地を狙われることにもなりかねませんし、もし今後またベルテセーヌから皇帝が立たない時代が訪れてしまえば、下手をすればベルテセーヌは国土を蹂躙されるかもしれません」

「大事ではないですかっ!」

「ええ、大事なんですよ」


 フィリックの淡々とした返答に、アンジェリカは、そう言えばそういう話でしたと、ちょっと恥ずかしそうに肩をすくめた。


「ヴィオレット様はそのことをどう思っているんでしょうか?」

「さぁ、どうでしょうね。姫様は、ヴィオレット妃は聖女の本質を理解しておらず、ただの称号的なものと考えているようだ、といったことも仰っておられました」

「でもそれではベルテセーヌが大変な目に遭いかねない……リディアーヌ様はそんなヴィオレット様の構想を打ち破るために、その点でもご自分が矢面に立って相対しようとなさっているんですね……」

「そうです」


 ぎゅっと聖痕のある胸元を握り締めたアンジェリカの面差しに、もう迷いはないようだった。

 ちゃんと話せば分かるのに、これまでアンジェリカに具体的な話をしなかったのはフィリックの作戦だろうか。いや、フィリックの思考は常人の常識とはややずれたところがあって、姉上の犠牲に胡坐をかく者達に厳しい一方で、姉上をとことん追い詰めてどれだけやれるのかを見て楽しむという悪癖もある。もしかしたらアンジェリカを置いていく決断をした姉を窘めなかったのは、フィリックの本心だったのかもしれない。

 現にアンジェリカを説得する方針で言葉をかけながらも、フィリックの面差しは不機嫌そうである。

 はぁ、まったく……自分が口を挟まなければどうなっていたのか。

 本当に、姉上には同情しかない。






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