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0-3 昔の話を(2)

 生はベルテセーヌ王国――リディアーヌは帝国の七柱の一角にして、初代皇帝の直系子孫であることを自負(じふ)するベルテセーヌ王国の王室に生まれた。

 父はベルテセーヌ王クリストフ二世アンベール。母は元ヴァレンティン公女のアンネマリー王妃。

 父は古い歴史を持ちながら落ち目にあった王室を立て直し、その国にかつての栄華を取り戻さんとした王であったが、ベルテセーヌの真の繁栄は、皇帝という地位と共に築かれてきた。

 彼は王ではなく、皇帝となることを求められた人だった。



 帝暦七一七年――先帝の崩御による新たな皇帝選が始まると、先帝と血縁の近いクロイツェン王と歴史あるベルテセーヌ王の二人が、次期皇帝の最有力候補となった。だがこれに勝利し、皇帝の地位を得たのはクロイツェン王だった。今の第四十八代皇帝クロイツェン七世がそれである。

 それは、最も帝位に近いと目されていたベルテセーヌ王クリストフ二世が、皇帝戦の最中、暗殺という凶刃(きょうじん)に倒れたためであった。

 この時リディアーヌは六歳で、両親が相次いで亡くなった悲しみこそ理解できたものの、何が起きてリディアーヌの平和が壊れたのかは、まだ何ら理解できていなかった。その死の意味も原因も。死をまともに弔わせてもらえなかった理由も。ましてや兄に手を引かれ故郷と生まれ育った城を出てゆかねばならなかったわけも。

 それが、ただの幸せで恵まれた世界で生まれた少女にとっての、最初の受難であった。


「最初に故郷を離れたのはその時。公的な記録ではお兄様だけがヴァレンティン家に引き取られたことになっているけれど、私も勿論一緒だったわ。元々皇帝に就任すれば王の位からは退くものでしょう? けれど兄はまだ幼すぎたから、その時は父の弟……叔父が摂政を勤めることになっていたの。けれど叔父ははなから摂政に甘んじる気なんてなかったのね。彼は権門オリオール侯爵家を味方につけると、その繁栄と引き換えに、兄から王太子の地位を取り上げ王位を簒奪(さんだつ)した」

「各王家には自治が認められているとはいえ、帝国議会でもさほど問題にならなかったと聞いたことがある」

「元々クリストフ二世と皇帝の地位を争う関係だった皇帝陛下にとっては、直系よりも傍系がベルテセーヌの王家を継いでくれた方が都合が良かったのね。一体陛下と叔父が何を話したのかは知らないけれど……いずれにせよお兄様と私は厄介者でしかなかったから、危険を察した母方の叔父……つまりヴァレンティン大公が、私達を保護してくれたわ」


 新王シャルル三世は兄エドゥアールが持っていたすべての権利と権限を奪い、自分の子に与えた。これを以て、正統なる王の嫡子であったエドゥアールは王位継承権を失ったに等しい立場へと追いやられた。


「その後のことは歴史で習う通りだわ。知っているでしょう?」


 リディアーヌの問いに、マクシミリアンは今日一番のしかめ(つら)で口を(つぐ)んだ。

 知らないはずがなく、けれどまだそれがリディアーヌのこととして理解できていない。いや、リディアーヌのことであって欲しくない。そんな表情なのかもしれない。


「元王子はそのまま大公の養子となり、大公家の世継ぎとなった」

「ええ」

「けれど元王女は……」


 何がそんなに言い辛いの? と茶化したところで、「分からないの?」という真剣な声色がリディアーヌをも困らせた。

 彼の気持ちは知っているつもりだ。でもだからこそ、複雑なのだろう。あぁ確かに。そうなのかもしれない。


「元王女は、“聖女”という称号を持っていた。それはベルテセーヌの王室において、正統性という意味で重要なものだったのよ」

「だから、王位を簒奪した男の息子と“結婚”した?」


 結婚……結婚か。そう言われて違和感を覚えるのは、あれが決して世間一般でいう所の結婚とは違っていたせいかもしれない。

 だが少なくともそれは、リディアーヌにとっての二度目の受難となった。


「別に、ベルテセーヌに未練があったわけじゃない。大公家で過ごした日々は幸せなものだったし、お兄様がいるだけで良かった。でも私の決断は早かったわ。父が、母が、そしてかつて王太子と呼ばれていた兄が、どれほどベルテセーヌという国を愛していたのかを知っていた。兄が戻ることはできず、けれど戻りたいと恋焦がれていることを知っていたわ。だからそうできない兄の代わりに、私が戻ることにしたの。正義感や義務感じゃないわ。ただベルテセーヌに帰って、いずれ“王妃”と呼ばれる地位に着いたなら……そしたらまた幼い頃のような、幸せな家族の時間が戻ってくるんじゃないか、だなんて。そんな、甘っちょろくて、幼すぎる理想を抱いてしまったの」


 時に、リディアーヌは十歳だった。訳も分からずに亡くした両親が恋しく、かつての幸せで満ち足りていた過去に思い焦がれるだけの、無知な少女だった。

 婚約者となった従兄(いとこ)は、婚約者というよりも、兄のような人であった。

 彼とその母はリディアーヌに正統なる王族に対する礼を尽くすと、簒奪者の妻子であることに膝をついて謝罪し、リディアーヌとその兄を守るため尽力することを誓ってくれた。

 彼は幼すぎる従妹(いとこ)に婚約者らしい振る舞いを()いることも無く、ただ家族の代わりとして接してくれた。きっと、リディアーヌが王城という場所で“思い出”しか見ていない事と……その心の奥深くに眠る“復讐への焦燥”を、知っていたのだろう。

 王城暮らしが一筋縄ではいかないことに違いは無かったけれど、それでもそこには確かに、少しばかりの穏やかな時間が有った。


 翌年、まともに色恋も知らぬままに行われた結婚式は、呼ばれる呼称が王女殿下から王太子妃殿下に代わっただけで、リディアーヌの生活にも何ら変化を与えることはなかった。

 そうあれるよう、彼が手と心を尽くしてくれていたのだと思う。

 私はそれさえも知らぬ、過去の泡沫(うたかた)を求めるだけの幼子だった。


 だから気が付かなかった。

 気が付けなかった――。



 その秋の終わり。長く故郷に足を踏み入れることすら敵わず、妹の結婚式すら訪れることのできなかった兄エドゥアールが、リディアーヌへの面会を求めてベルテセーヌを訪れた。

 父母の墓参りのためであり、嫁いだ妹を見舞うためであり、そして兄はようやく十代に足を踏み入れた妹に、『少し真面目な話をしよう』と、これまでの、そしてこれからの話をした。

 長らく知ることのなかった両親の死の真相の話。

 そのせいで失われた大勢の命の話。

 どうして自分達が故郷を去らねばならなかったのか、どうして叔父が自分達を(かくま)ったのかの話。

 リディアーヌがベルテセーヌの王妃になるのであれば気を付けねばならない話と、かつての両親の望んだベルテセーヌの進むべき道についての話。

 それから兄はリディアーヌとは違い、叔父の養子として、ヴァレンティン大公家で生きてゆくつもりだという話。

 その“理由”についての、話――。


 すべてを理解できるほどに大人ではなかったけれど、今を逃せばもう簡単には兄に会えなくなることは分かっていたから、一言だって聞き漏らさぬつもりで真剣に聞いた。


 実の兄との時間は、大公家を離れてからの数年分の祝い事を一度に迎えたかのように愛おしかった。

 あぁ……もしかしたら本当の幸福は、“場所”ではなく“人”にあったのかもしれない。それにようやく、気が付き始めた時――事件が起きた。


 兄が滞在を始めて五日目。もう明日には帰路につかんという日の昼下がり。

 最後の挨拶にと王太子宮のリディアーヌを訪ねてきた兄に、長らく兄妹の語らいに遠慮をしていた“夫”も同席し、他愛のない挨拶を交わして席に着いた。

 その直後、甲高い叫び声と共に目の前にルビー色の紅茶が飛び散った。

 花と砂糖と鉄の匂い。その中で苦しげにこちらを見上げた兄の面差しが、今もずっと忘れられない。

 口の中にあったのは、砂糖の甘みだけ。


『ディーっ、飲むな!』


 夫にはたかれた小さな手が頼りなくカップを取り落したけれど、赤くなった手より痛い所も苦しいところも何もなかった。なのに目の前で崩れ落ちた兄の姿に同調したように、口いっぱいに突き刺すような苦味が広がったことを覚えている。


『ごふッ……ごほっ、ゴホッッ』

 美しい絨毯に広がった、紅茶よりも濃い血。真っ赤に染まった、柔らかな音色を紡ぐ口。


『殿下ッ! エドゥアール殿下!』

 取り囲んだヴァレンティン家の騎士達がリディアーヌに見せないようにと蹲る兄を取り囲むのをみて、ようやくはっとした。

 “毒”だった。


『っっ……お兄さまッ!』


 立ち上がろうとしたところで、隣から掴み止められた。

 それを非難するように見やったけれど、夫の青ざめた顔を見ると、離してとは言えなかった。

 ほんの数分前まで、私達は笑って話をしていたのだ。

 久しぶりに会った兄と、夫と呼ぶには違和感があり、けれど昔から兄も見知った仲であった従兄と。


『何ということをッ、リュシアン殿下!』

『お離れ下さい、リディアーヌ殿下! 近付いてはなりません!』


 訳も分からぬまま夫からも引きはがされたかと思うと、彼は瞬く間に部屋に駆けつけてきた兵に取り押さえられ、床へと引き倒された。

 何がどうなっているのか、分からなかった。

 一体何が起きているのか、何も、分からなかった。

 侍女の淹れた紅茶が三つ。砂糖壺とミルクサーバーが真ん中に一つ。

 紅茶は目の前で注がれた。分け隔てなく、三人分。目の前で毒見も行われた。でも倒れたのは兄一人。


「私は砂糖を使わなかったの。お兄様がヴァレンティンから、私が好きだったベルブラウの砂糖漬けを持ってきてくれていたから」


 毒は、砂糖の中だった。では誰が砂糖に毒を? 三つのティーカップの中、砂糖を使わない人は?


『……リュス?』


 震える声色で、酷く乱暴に取り押さえられている夫の愛称を呼んだ。


『ッ、違う! 私ではない! 信じてくれ、ディー! リディアーヌ!』


 必死の懇願だったはずだけれど、幼すぎた私にはただの不審しか感じることはできなかった。実の兄に駆け寄りたいのに、周りがそれを止める事すら彼のせいのように思えてしまった。

 毒の中には皮膚接触だけで体に入ってしまうものもあるから、自分が近づいてはならないのは分かる。だが兄なのだ。たった一人残された血の繋がった家族……かけがえのない人だったのだ。

 リュシアンの事なんて、すぐに頭から抜け落ちた。


『お兄様、お兄さまっ……』


 だが現実は、物語のように優しくはない。

 必死に手を伸ばす妹に、兄は最後の言葉を残してくれることも、優しく最後の手を差し伸べてくれることも無く。


『嫌だっ。退()いて! 触らないでっ。お兄さま! エディ兄様!』


 高い高い騎士達の壁の中で、ただただもがき苦しみ……やがて咳き込む声すら、胸をかきむしる衣擦(きぬず)れの音すら聞こえなくなった。

 一体あの日、何があったのか。

 どうしてあんなことになったのか。

 無実を叫び続けた夫は、前王太子の毒殺と王太子妃毒殺未遂の罪で投獄された。

 今でも、甘い香りと真っ赤な絨毯は、あの日の、あの出来事を思い出させる――。

 その日、私は、私のせいで、私の最愛の人を失った。


  ***


「リディ……」


 テーブルの上でぎゅっと重ね掴まれた掌の熱に、自分の手がとても冷たくなっていることを知った。

 もう、八年以上も昔の話だ。とっくに慣れた。そう思っていたけれど、やっぱりあの時のことは忘れがたいものとして体に刻み込まれているのだ。

 マクシミリアンの裏表無い心配そうな面差しが、“かつて”のように、少しだけ心を安堵させてくれた。


「私はその事件の時に、“王太子妃”も亡くなったのだと聞いた」

「ええ。正しくは毒に倒れてほどなく、衰弱により亡くなったことになっているわ。でも私はこの通り……毒を飲まなかったし、生きているわ」



 兄の死に、リディアーヌはただ茫然とするしかなかった。

 ただ一人残された大切な家族。そのことを強く知った矢先に、目の前で兄を失ったのだ。何が起きているのか。何があったのかも分からず、けれど両親を失った時よりは年を重ねた分だけ、“何か”があったことだけは理解できた。

 つまり、誰かが意図的に兄を殺したのだということ。そして誰かが、リディアーヌの命も狙ったのだということ。もう二度と兄には会えないという悲嘆と、命の危険という恐怖が、リディアーヌを息も絶え絶えなほどに追い詰めた。


『リュシアン・ルーシウス・ユル・ド・ベルテセーヌ! 先王クリストフ二世嫡男エドゥアール王子の毒殺、並びにリディアーヌ王女殺害未遂の罪により領地、ならびに王位継承権以下すべての身分と称号を剥奪! 犯罪奴隷とし、生涯黒の塔への幽閉に処す!』


 真っ黒な喪服と体中にまとわりついた香木の香りに惑わされていたのか。目の前で行われる断罪が、まるで空虚な物のようだった。

 お兄様が死んだ。

 両親の死後、最も私を(いつく)しみ愛してくれていた最愛の家族が死んだ。

 あの日お兄様がベルブラウの花びらの砂糖漬けを持ってきてくれなかったら、きっと私も死んでいた。

 兄のように血を吐き、胸をかきむしり、言葉も残せずにもがき苦しみながら死んでいた。


『生母ユリシーヌは王妃位を剥奪の上、身分を庶人とし白の修道院へ幽閉! 同母子第二王子ジュードの王位継承権ならびに王子号を削り、廃嫡す!』


 優しかったはずの義母も、仲が良かったはずの従兄でもある義弟も。二人が惨たらしい姿で罪人のように引き立てられていたはずなのに、その姿すら覚えていない。

 まるですべてが夢のようで、それが現実であることさえ実感できなかった。


『これにより王妃ならびに王太子の席が空位となった。我、国王シャルル三世は敬愛する我が兄の遺児の死に心よりの哀悼(あいとう)を示し、一年の喪に服した後、速やかにこの混乱を収めるべく、妾妃(しょうひ)アグレッサを正妃に迎え、その長子クロードを立太子することを宣言する!』


 高い高い壇上で、昔は父が座っていたはずのその席を、受け継ぐべきであった兄から奪った男が何かを言っている。

 あぁ……そうか。兄が亡くなって一番喜んでいるのが、あの一番高い場所で、嬉々として声を張り上げているあの男――私に兄殺しの夫を宛がった、あの男なのだ。

 進み出て恭しく頭を下げた貴婦人の顔には、隠すことのない笑みが浮かんでいた。

 隣の少年は誰だったか……そう、クロード。そんな名前だった。

 現国王の庶子。いや、あれがリュシアンに代わって王太子となる少年だ。


 兄は、どうして死んだのだろうか?

 どうして、死なねばならなかったのだろうか?

 兄を殺し……そして私を殺そうとしたのは誰だ。この場にそれは、あと何人いる?

 父を慕い、兄を慕い、リディアーヌを慈しんでくれたはずの臣下達は、どうしてこの場で何一つ声を上げることなくあの男に媚びへつらっているのか? 彼らは何故、兄の棺に背を向け、あの男に(こうべ)を垂れるのか?


『兄の遺児リディアーヌ姫は、我らがベルテセーヌの“聖女”である。ゆえに王太子としたリュシアンとの縁を結ばせ、亡き兄の聖なる王統を受け継がんとしたのである。だがこのような不幸に見舞われ、幼き姫に多大なる心の傷を負わせることとなった。これは(はなは)遺憾(いかん)なことである!』


 シャルルが何かを言っている。こちらを見ながら、心にもないことを言っている。

 その卑しい顔が……何かを、企んでいる。


『姫には、犯罪者の元妃という拭い去れぬ汚名を着せることになってしまった。そこで償いとして、王子クロードが立太子した暁には、リディアーヌ姫を改めて、その妃として……』


 高貴? 犯罪者? 汚名……?

 そんなものを勝手に着せられて、兄を亡くし、夫を断罪されて、それで今度はのうのうと次の王太子に嫁げ? 一生この国の人達に、“汚名のある姫だ”と言われ続けながら、“聖女”として仕えろと?

 父の温情も忘れ、リディアーヌから王女の位を奪い、罪まで背負わせて。

 大切な人が死んでばかりいるこの国で、一生捕らわれたまま、操り人形として。

 それは一体……どんな地獄だろうか。

 聖女だというのであれば、神よ。私は一体、どんな罪を犯したというのか。


『断る!』


 だがそんなシャルルの言葉は、ショックに言葉もままならなかった私ではない、別の誰かによって遮られた。

 カツンカツンと石畳を打つ甲高い足音。

 ざわりざわりとざわめき動揺し始めた貴族達。

 まるで置物のように呆然としていたリディアーヌの前に庇うように舞った漆黒のマント。

 誰もリディアーヌなんて見ていなかったのに、突如現れたその男性は、驚きに腰を浮かせた国王すらも蔑ろにして振り返ると、まず真っ先に、リディアーヌの前に膝をついて手を握った。

 そのぬくもりが唐突に、リディアーヌに感情というものを思い出させた。


『リディ……義兄上(あにうえ)姉上(あねうえ)の大切な忘れ形見にして我が養女。幼く小さなリディアーヌ』


 頬に添えられた不慣れな指先が、涙の痕を打ち消すように頬を撫でる。

 その指先が、泣きたいという感情すら忘れて凝り固まっていた目元を圧迫し、涙を押し出した。


『っ……』

『あぁ、可哀想なリディ。遅くなってすまなかった。たった一人で……辛かっただろうに。傍にいてやれなくてすまなかった』


 何度も名を呼ぶ甘い声色が、冷たく乾ききった胸の奥底に水を(そそ)ぐようだった。


『っ、おじさま。叔父様……叔父様。お兄様が……お兄様がっ』

『あぁ……連れて帰ろう。一緒にヴァレンティンに、連れて帰ろう。それともエディは両親の傍に眠りたいと望むか?』

『一緒に帰る。お兄様も、一緒よ……ヴァレンティンの深い森の冷たい雪の下で、安心して眠らせてあげたい……』


 ほろほろと落ちる涙を流れるままに流させながら、ただ大きな掌が頭を撫でた。

 ちょっとがさつで不器用で、でもいつだって苦しい時には、この人がいてくれた。

 母の弟であり、そして父の後釜を奪ったこの国の国王でさえも、決して(ないがし)ろにはできない人物。この場でただ一人の、私を助けてくれる人――。


『ヴァレンティン大公ッ! 突然やって来て、何を勝手なッ!』


 背中に向けられた荒々しい王の言葉すらも、ハァと嫌そうなため息で答えた叔父は、墓所で焚かれる苦い香木(こうぼく)の香りを纏ったマントでリディアーヌを隠すようにして振り返った。

 いつもは少しだらしのない背中が、その時だけはひときわ大きく見えた。


『シャルル王よ。エドゥアールとリディアーヌは先王陛下が身罷られた後、私、ヴァレンティン大公ジェラールが正式に公子女として引き取った。そなたは国王として、第一、第二の王位継承者であった二人を国外に出した張本人だ』

『だがそれでも姫がベルテセーヌの王族であることに違いはッ』

『リュシアンとは当然、離縁だろう? であればリディアーヌは再び我が娘、ヴァレンティン大公家の公女である。それを保護者もいないところで、余所(よそ)の王が勝手に婚約だの結婚だの、いくらなんでも非礼が過ぎる』

『だが姫は聖痕のっっ』

『それがどうした!』


 珍しい叔父の怒鳴り声に、びくりとして顔を上げた。

 思えば、両親が亡くなった時もそうだった。利権と利害で周囲が騒ぎ立て、どんどんと追い詰められていく私と兄を、この人が救ってくれた。ここから、連れ出してくれた――。


『二人は連れて帰る。これは我が国の決定だ。無論、今回の一件については“選帝候”として、正式に抗議させてもらう。文句が有れば帝国議会で聞こう。私は私のただ一人の姉をこの国で亡くしたばかりか、我が義息(ぎそく)までも、このベルテセーヌで殺されたのだからな!』


 固唾をのんで凍り固まった周囲の緊迫感が、ぴりぴりと肌に感じられた。

 怒っているのだ。心の底から。日頃、温厚すぎるほどに温厚な叔父が、どうしようもなく怒っている。

 誰も悲しんでなんてくれなかった兄の死を。ちょうど良かったと言わんばかりにほくそえんでいたベルテセーヌの木偶人形達とは違い、ただただ心の底から悲しんでくれている。それが伝わってきたから、益々目頭は熱くなった。


『叔父様……』


 ぎゅうっとその背中に抱き着くと、苦い香木の中に、懐かしいベルブラウの花の香りがした。このドロドロと濁ったベルテセーヌとは違う。木々と花々に満ち、何処までものどかで穏やかな、ヴァレンティンの山の匂い……リディアーヌの命を救った匂いだ。


『リディアーヌ。君はどうしたい』

『……』


 言っていいのだろうか。

 本当にそれを、言ってもいいのだろうか。

 小さな頃から、国のためであれと教えられて育てられた。この国の王の娘として育てられた。“我が国”ベルテセーヌを愛していたし、ベルテセーヌのためになることであれば何ら苦ではないと思っていた。だから一度は、安寧の地であったヴァレンティンを離れてここまで戻って来た。

 なのにどうしてだろう。今は無性に……無性に、この場所から立ち去ってしまいたい。

 自分がここにいると、苦難ばかりが訪れる。

 一番幸せな時間も、二番目に幸せだった時間も失った。

 ならばもう少しだって、ここにはいたくない。


『帰りたい。早く、あの穏やかな森に、帰りたいわ……お()()様』

『……あぁ。帰ろう。すぐに帰ろう』


 ぐっと抱き上げられた体に、視線が高くなる。

 少し高さが変わっただけなのに、不思議と胸の中がすっとしていた。


『ヴァレンティン大公ッ! 勝手なことはッッ!』

『国王陛下』


 スンと冷たい石造りの講堂に響いた幼い少女の声色が、自然と良く通る。

 あぁ。私の声は、ちゃんと聞こえている。

 元王女としての私には何の力も無かったのに、ヴァレンティン家の公女の声であれば、ちゃんと伝わる。その力が、ある。

 あんなにも喉の奥につっかえた言葉が、(よど)むことなく響き渡る。

 皆が口を噤み、私を見て……私の言葉を、聞いている。


 ならば聞け。私の愛おしかった、ベルテセーヌの臣達――裏切り者達よ。


『私はもう、ベルテセーヌの王女ではあれないわ。こんなことが起きた以上、もう貴方に従う義理も無くなった。お父様も、お母様も……そしてお兄様も。きっと許して下さる』

『リディアーヌ!』

『シャルル。勝手に、私を所有した気にならないで。私は貴方に王という称号以外の何一つだってあげたつもりはない。私は……』


 父と母が、命を賭してまで愛した国だ。嫌いなはずがない。愛おしいに決まっている。

 でも。それでももう……この国は、私の守るべき故郷じゃない。私はもう……。


『私はヴァレンティン家の公女リディアーヌ。私は王を継ぐ者ではなく、王を見定める者よ』


 シャルルはまだ何かを言っていたようだけれど、何も耳には届かなかった。

 かつては父と母が座り、兄がいたあの上座から、どんどんと遠ざかってゆく。

 大事な場で、王しか座れぬその席にいた父によちよちと歩み寄り膝によじ登ろうとしたのは、一体いつの話だったか。困惑する乳母(めのと)を横目に笑って膝に抱えあげてくれた父の手のぬくもりを、忘れていない。あの席から見下ろした臣下達の顔を、忘れていない。

 その情景を。父を、母を、そして兄を失い……夫を失った玉座を、見つめ続けた。


 それが最後だ。それが私とあの国の、最後の縁。故郷との別れ。

 二度と、この国に尽くすことはないことを誓った日。

 でもそれでも……それでもいつか。いつかもう一度、そこに座りたかったと思う。

 父と母がいて、大好きな兄がいて。皆で笑っていたあの場所に、戻りたかった。


 リュス……リュシアン。彼といれば、それが叶うと思っていた。

 もしかしたら、父と母の願いであった、そのさらに先の高見でさえもと――。

 でも私達に、そんな力は無かったのだ。


『リディ、姉上に……両親に別れを。墓所に立ち寄る時間は取ってあげられない。おそらく……もう“二度と”』

『……はい』


 大きな叔父様の肩に(うずくま)って手を組んで、沢山のお別れの言葉を胸の内で呟いた。

 この目に、遠ざかる玉座を刻み込んだ。


〈見よ、リディアーヌ王女。これがそなたの見るべき景色だ――〉

 そう言っていた父の言葉を思い出し。


〈お父様の愛したベルテセーヌを、貴方達に託すわ――〉

 母の最期の言葉すら叶えられなかった不甲斐なさを詫びた。

 私達を縛り続けた言葉を恨みに思うことを……詫びた。


 抱えられたまま、部屋を出て行く道すがら……少女を連れた、一人の女性とすれ違った。

 先々王の庶子にして父の異母妹――どうしてこんなところにいるのかは知らないけれど、彼女がこちらを見て、くすりと笑った気がした。

 その笑みは、一体どういう意味の笑みだったのだろうか。

 赤い唇が、まるで血のようだった。


 そうしてその日、私はベルテセーヌという故郷を失った。

 きっと私はそうと知らぬままに何かの物語に巻き込まれ、“ざまぁ”されたのだ。

 自分がどういう役割の登場人物だったのかも、どうしてそんなことになったのかもわからぬまま。私は、ベルテセーヌ王国物語から退場した。

 兄を失い夫だった人を失い、故郷を失い、何もかもを失って。

 こうしてベルテセーヌのリディアーヌは、一度死んだ。

 未だ物を知らず世界を知らず。十一歳の、恋や政略よりもただただ家族を欲していた頃の、なんとも未熟な一度目の人生であった。



 兄を殺した“真犯人(くろまく)”は、まだ断罪されていない――。






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