6-14 原作と現状
side ヴィオレット
「おかしい。おかしい、おかしいっ。なんで変わっちゃったの?」
ぐるぐる、ぐるぐると部屋の中を周回しながら、下唇を噛んだヴィオレットに、「傷ついてしまいますわ」と腹心の侍女であるイエナが諫める言葉をかける。
「労しいな……」
「なんという慈悲のない仕打ちでしょう……」
お茶を淹れますというイエナに座ることを促されたところで、騎士のヴェンデルや侍女のマルガレーテが慰めを口にしてくれた。だが今はそんな言葉も耳に届かないほどに、この変わりきってしまった物語に頭がグルグルとしていた。
ヴィオレットの知る物語では、こんな展開はなかった。
オリオール家が罪を犯したことは確かだが、そのオリオール家の罪により玉座に登ったのがシャルル三世であり、その王が即位し得たのも結局はオリオール家があったからこそだ。それにクロードの件で王族はヴィオレットに対する負い目があり、ヴィオレットはクロイツェンという強力な後見も得た。故にリュシアンも、オリオール家の勢力を削ぎながらも死を与えることは出来なかったはずだった。
どこで話が変わってしまったのか。
そもそも原作では『リュシアン兄さまが次の王様になるのね』と語った幼いヴィオレットのエピソードは、リュシアンが捕らわれていた閉塞感と罪悪感から解き放たれた瞬間であり、ヴィオレットに好感を抱く原因になった逸話として描かれていたはずだった。なのに何故その瞬間を引き合いに、自分は『口に気を付けろ』と忠告される羽目になったのか。
「ヴィオレット様……」
侍女のマルガレーテが心配そうに肩に手を置いてくれる。
原作と違うことといえば……このマルガレーテもその中の一人だ。
マルガレーテ・アイマー伯爵息夫人。元侯爵令嬢で、クロイツェン皇家とも血縁に当たる高貴な女性であり、ヴィオレットがクロイツェンにやって来た当時、社交界の若い女性達を牽引する内の一人であった人物だ。
本来であれば障害として立ちはだかる人物であったが、彼女が二番目の子を産んでから産後鬱的な症状に悩まされていることを知っていたヴィオレットは、適切な息抜きと適切な食事のアドバイス、落ち着くお茶の贈り物などで取り入り、夫人が自ら侍女を引き受けたいと名乗り出てくれるほどに打ち解けた。おかげでクロイツェンでの社交に大きな後ろ盾が得られた。
皇太子妃府に配属された侍女長は優秀だけれど実質皇妃様の配下であり、ヴィオレットの行動を逐一皇妃様に報告しているから、マルガレーテという腹心を得られたことは正しい改変であったと自負している。
だが、そうではないのだろうか。
ヴィオレットが原作と違う行動をとり始めたのは、前世の記憶がはっきりし始めた学院時代の頃からだ。婚約破棄物の悪役令嬢なのだと察し、その日のために原作以上の根回しをした。だがそのせいで変わったことといえば、ラジェンナ嬢と親しくなったために逃亡の手引き得られたことと、ベルテセーヌにリベルテ商会という大商会を築いたことくらいだ。どちらもヴィオレットにとっては良い結果をもたらしたものでり、原作のヴィオレットがやったことと、内容は違えど方向性は同じだったはずだ。
なのになぜかリベルテ商会は変な派閥を起こしてベルテセーヌの内乱に加担していたし、友人であったはずのラジェンナは、ヴィオレットの口利きもあって華々しく輝いていたはずなのに、先程は目も合わせたくないかのように顔を背けられ、しかもアンジェリカの兄にべったりだった。あれは何なのだろう。
「そうだわ、ヴィオレット様。今宵はこちらの新作を試してみませんか? ベルテセーヌに残していたリベルテ商会の支店が、以前ヴィオレット様がお話しされていた商品の実用化に成功したからと献上してきたものです」
マルガレーテが机に置いたのは、美しいチューリップ型のガラス瓶だった。中には薄紫のとろりとした液体と花びらが入っていて、きらきらと素敵なカードがリボンと共に添えられている。この国にもともと存在している香油や香水から着想を得てアイデアを出していた入浴剤だ。
この国でも生花やドライフラワーを湯舟にたっぷりと入れて入浴する文化はあるが、大量の花を使うため高価であるし、それでいて香りが薄い。なのでそれをしっかりと抽出して安価に香り高いお風呂を楽しめるようにと開発依頼したものだった。
「まぁ。いい香りね」
とっておきの女性が気に入りそうな瓶に入れて欲しいという要望にも答えてあるし、香りもとても高い。香水とは違って石鹸的な爽やかさもあり、色も素敵だ。難点があるとすれば瓶が少し厚手なことだが、それはこの国のガラス技術の限界のせいだ。
ひとまず満足していると、「ではお湯を準備いたしましょう」と、少しほっとした様子でマルガレーテが小瓶をイエナに託した。
そうだ。湯につかって、少し頭をすっきりさせるのもいいだろう。
イエナが湯の準備をしてくれる間、だらけてしまいたい気持ちを抑えて身を起こし、部屋に集まっている側近達を見渡した。
最近になって突如アルトゥールが解任したヴェラー卿を得られたのは幸いだった。彼が侍従長の座についてくれてからというものの、何かと側近達の動きも円滑になっている。一体どうしてこんな優秀な人材をアルトゥールが手放したのか、不思議なほどだ。
マルガレーテは高貴な出身らしく頼りになるお姉様であるし、元々オリオール家で冷待遇を受けていたイエナが雑務を厭わない性格なおかげで、二人の相性はとてもいい。
筆頭騎士のレオンは長い金の髪が美しい麗人であり、元はアルトゥールの側近で、アルトゥールが付けてくれた腕利きだ。とびきり美しいのだがあまり私語をしないので、ちょっと何を考えているのか分からないのだが、その分、ヴェンデスとハイディという騎士達が明るく慕しんでくれるから、とても頼りになる。
アルトゥールは他にも多くの文官や侍従、クロイツェンの作法を良く知る侍女などつけてくれたけれど、結局自分の目で見て選んだ者達が一番信頼できる。それがここに連れてきた皆だ。特に革新的なヴィオレットの考えを面白がってついてきてくれる文官のザシャとヨハナには感謝をしている。
彼らは元々貴族とはいえ高い地位にはなかった者達だったこともあり、ヴィオレットが市井の針子や料理人を傍に置いて重宝していても嫌な顔をしない。ベルテセーヌの没落男爵家出身だったリベルテ商会の商会長のことも、毛嫌いすることなくヴィオレットの腹心として対等に接してくれる。
彼らはベルテセーヌ人のように没落貴族という肩書きを厭わないし、ベルテセーヌで暴動を犯したヴィオレット派を名乗る“偽リベルテ商会員”と本物のリベルテ商会とを混同もしない。むしろ今、同僚であるセドラン商会長のためにも、どうしてベルテセーヌでそんな偽物が現れたのかを懸命に調査してくれているほどだ。
クロイツェンに渡ってからこの方、ヴィオレットはこれほどまでに周囲の人材に恵まれ、商売でも社交でも順調に地盤を築けてきたのに、どうしてベルテセーヌ界隈でだけそれが上手くいかないのだろう。
「やっぱり……誰かもう一人、いるのかしら」
ポツリと呟いて、机の上に広げた紙をコツコツとペン先で叩く。ついつい前世の癖でこうやってしまうが、この世界の繊細な万年筆でやるとペン先が痛むし、ボールペンと違ってちょっとした振動でたらりとインクが紙にたれてしまうから、よくマルガレーテに怒られる。だからすぐに自分の癖が出ているのに気が付いてペン先を浮かせたけれど、今はヴィオレットが消沈していることを察しているせいか、マルガレーテは煩いことを言わずに仕方なさそうに苦笑を浮かべた。
そんなマルガレーテに恥ずかし気に肩をすくめてから、改めて、紙に“日本語”を綴る。
皆には理解できないが、側近というものが傍から離れることがない立場柄、頭の中を整理するのにはとても便利な言語だ。
「一番変わってしまったのはアルと結婚したことなんだけど……」
「ヴィオレット様?」
いきなりどうしたんです? と驚いた様子のヴェラー卿に、「あ、違うわ、間違いだったとかそういう話じゃないから気にしないで」と慌ててフォローして、きゅっと口を噤んで、代わりに紙面に思ったことを書き出す。
口に出しながら考えられないのはちょっと不便だ。
アルトゥールとの結婚で、本来であれば最終的にヴィオレットと結ばれるほどに好感度が高いはずのリュシアンとの関係が変わってしまったというのは有り得ない話ではない。もしヴィオレットが人妻になったせいで嫉妬により好感度が下がったのだとしたら、むしろ元々の好感度はよほど高かったんじゃないかとさえ思うほどだ。
原作でリュシアンが王位を得たのと今回の件で、時期はそんなに離れていない。秋の終わりが秋の盛りになっているから少し早いが、こちらのヴィオレットの原作にない行動で生まれたリベルテ商会の偽物が暗躍したせいであることを考えれば些細な齟齬である。
逆に原作と大きく違うのは、この即位劇にヴァレンティンが大きく関わっていることだ。
本来であればクロードが失脚した後、アンジェリカの偽聖女疑惑が膨れ上がり、アンジェリカは教会から糾弾されて幽閉されるはずだった。なのになぜかヴァレンティンに逃げて難を逃れてしまった。それが、ヴァレンティンの介入を引き起こした原因だろうか。
それから、原作ではヴィオレットが母と和解するのは新王即位後だ。しかし先の結婚式への参列で母がクロイツェンを訪れたことで、ヴィオレットとの関係も変わった。
オリオール家は、クロイツェンという後見を得たヴィオレットがリュシアンを救い出し、王とクロード、そしてその生母アグレッサを糾弾する過程で滅門するはずだった。それに際して母はヴィオレットに説得され、リュシアン即位を認め、味方になるはずだったのだ。
だが原作で物事が動き始めるよりも早く、なぜかリュシアンではなくジュードが復権した。
ヴィオレットはこの時点ですぐに介入すべくアルトゥールを説得して訪問を取り付けようとしたが、ベルテセーヌにはすげなく断られ、とにかくリュシアン復権に重要な役割を果たす母だけでも助けようと再びアルトゥールにフォンクラークへの協力をお願いしてほしいと頼み込んだ。
だが、それもなぜか失敗した。
理由はヴェラー卿から聞いた。そもそもヴェラー卿がヴィオレットの訪問を認めてもらいたいとの伝言を携えてベルテセーヌ城に向かった時点で、なぜかいるはずのないリディアーヌ公女がいて、その場のどうやら不利らしい状況を見たヴェラー卿がなんとか母を連れ出してくれたものの、フォンクラークから関を越えようとしたところでフォンクラーク側からその公女が足止めをし、母をベルテセーヌに引き渡したのだという。
ヴェラー卿はその後、フォンクラークにやって来たアルトゥールから『いくら何でも謁見の間で尋問を受けている者を使節という身で連れ出そうなどとは何を考えている』と厳しい叱責を受け、今にもその場で切り殺されんという勢いだった。そのためヴィオレットは慌てて割って入り、『私のせいです!』と留め、必死に説得してヴェラー卿を自分の側近として引き取ったのだ。
その後、ヴェラー卿から彼が見聞きしたあらましについても聞いたが、内容はヴィオレットが知っているものとは随分と違っていた。
フォンクラークが王叔派に傾くのももっと後だったはずなのに、何故かすでに王権が転覆しかかっているし、それに長らくベルテセーヌやフォンクラークに足を踏み入れることも厭い排他的であったはずのヴァレンティンの元王女が、どうしてその両国に当たり前のようにいたのか。
そしてこうして、ヴィオレットは何ら介入できないまま、最後に一目家族に会うことすら許されず、父と長兄は処刑され、母と次兄は幽閉され、そしてなぜか原作では幽閉処分になったはずのクロードが復権していた。意味が分からない。
「ヴェラー卿は、リディアーヌ公女について良く存じていらっしゃるのですよね?」
「よく……と言っていいかは分かりませんが。アルトゥール殿下に付き従い、カレッジに同行しておりましたので、その折、殿下と親しくされていらしたご友人方のことを多少詳しく存じているという程度でございます。それに……」
困ったように視線をさ迷わせたヴェラー卿に、ヴィオレットは首を傾げる。
「あの、ヴィオレット様……先程、国王陛下の応接間にて公女殿下が仰っておられた言葉が気になっているのですが……」
「言葉? 何のかしら?」
すぐには思い当たる物がなくて問い返したのだが、ヴェラー卿はひとしきり他の側近達を気にかけた様子を見せてから、ほどなくこっそりと、「その、公女殿下のご両親の死が、どうの、と」などと呟いた。
それがどうしたのかと思ったのは一瞬で、ほどなく「あっ」と口を押えて顔を跳ね上げる。
ヴィオレットにとっては最初から知っていたことなので違和感を感じていなかったが、確かに、“知らない”ヴェラー卿にとってはとんでもない情報だっただろう。
あの場にいたのはヴェラー卿と、そしてザシャだけだ。
「ヴェラー卿、それからザシャ。あの場で見聞きしたことは、決して口にしてはいけないわ」
「ヴィオレット様……ですが」
「決して違えてはならない、神への誓約なの。私は昔のリディアーヌ殿下にお会いしたことがあるから知っているけれど、でも今までずっとそのことは胸に秘めてきたわ。皇帝陛下もご存じの“誓約”なのよ」
「アルトゥール殿下は……」
「存じていないわ」
まだ前の主に対する忠心があるのだろう。ヴェラー卿は困ったように顔色を濁らせたが、それでも駄目なのだと首を横に振った。
もとより、婚儀の儀式の最中に会ったリディアーヌ元王女は、王女扱いされることに激しい怒りを抱いているようだった。それはそれで違和感を感じてたものだが、今もそれは公にしていない事柄なのだから、言うべきではないのだろう。そもそも、今はまだ原作でいうそのタイミングではないはずだ。
「分かりました……ただ、教えていただきたいのですが、公女殿下の実のご両親“そう”であるのは、事実なのですか?」
「……ええ、事実よ」
しんみりと頷いたところで、ヴェラー卿はぐっと眉をしかめて口を噤んだ。
リディアーヌ公女は、ベルテセーヌの元王女である――となれば、オリオール家の策謀で父母を失った人であるというのは事実だ。
原作においても彼女はオリオール家に深い恨みを抱いていたし、そもそも簒奪者であったシャルルの王統に対してすら憎しみに近い感情を抱いていた。だからこそ、彼女はベルテセーヌではなくクロイツェンの皇太子を皇帝に推薦し、自ら亡き父王が昇るはずだった帝位に寄り添う結末を選ぶのであるし、原作のヴィオレットがそんな王女のために、アルトゥールではなくベルテセーヌの王を運命の相手とせねばならなかったのも、それこそがヴィオレットの贖罪だったからだ。
だが何故かリディアーヌはリュシアンとひどく親し気だったし、大広間を出て行く際にはエスコートを受けていた。その後の話し合いでも二人の距離は近く、互いに互いを思いやるような眼差しをしていた。それは何故なのか。
(一番違っているのは、やっぱり公女なんだわ……)
思った通りに進まないシナリオに、最初に自分と同じ“転生”を疑ったのはアンジェリカだった。だが少なくとも婚約破棄に至るまでの間のアンジェリカは原作に近い行動をとっていたし、違っていたとしても、それはヴィオレットが違ったせいだろう。
だからやはり思い過ごしなのかと思ったが、今回の父と兄の死や母の処遇は、『ちょっと違ってしまった』程度では済まされない話だ。アンジェリカに心酔して実家を裏切ったマリシアンという兄の行動も大きくは違っていないが、本来厳しい処分を受けるのはマリシアンだったはず。なのにそれが完全に逆転してしまっている。
そして今と前の大きな違いといえば、ヴィオレットがアルトゥールと結婚したことと、そしてヴァレンティン公女……リディアーヌ元王女の介入の有無なのだ。
(あの人が現れると、いつも何かが変わってしまう――)
もしもリディアーヌが転生者なのだとしたら?
もしかして、原作通りに進まずにアルトゥールと結婚したせいで恨みを買ったのか? それとも最初からリュシアン狙いだった? オリオール家に最も厳しい処分を加えたのは、ヴィオレットに対する敵意から?
「私のせいで……お父様が……?」
思わず呟いた言葉に、「ヴィオレット様」と悲し気な声色を出したマルガレーテが肩に手を添えてくれた。
マルガレーテだけではない。皆が心配そうにヴィオレットを気遣ってくれて、皆がこの悲劇を一緒に悲しんでくれている。
「どうしてご主人様はすぐに自分のせいだ、って責任を負っちゃうのかな。ご主人様は何にも悪くないよ。孤児に食べ物と生きる術を与えて、僕みたいな庶子と蔑まれていた子でも、人は家じゃない、才能だ、って、側近にしてくれちゃう。そんな優しいご主人様が、悪いわけないじゃん」
ぱっと机に身を乗り出し明るい声で励ましてくれるのは侍従のテオだ。いつも軽口を叩くせいでヴェラー卿にしょっちゅう怒られているようなムードメーカーだけれど、彼の言葉はいつも明るくてまっすぐで、励まされる。
「こら、テオ。お行儀が悪いですよ」
「はぁいはいっ。でもヴェラー卿もそう思うでしょ? こう言っちゃなんだけどさ、ご主人様の父君が罪を犯したこと自体は事実なんだよね? でも前の王様を擁立した立役者であったことも事実だ。だからその処罰はちっともご主人様のせいじゃなくて、ただのその時々の王権の事情ってやつだよ。王ってそういうもんでしょう? 今回の処分が予想外に重かったのは、ベルテセーヌがクロイツェンに対して喧嘩を売るという判断をしたからだ。そしてそんなことが出来たのは、ヴァレンティンという後ろ盾を得たから。違う? ザシャ」
「ええ。間違っていませんね」
「だから悪いというなら、新しい王様とヴァレンティンだよ! ご主人様は何も悪くない!」
「……有難う、テオ。でもリュシアン兄さまを悪く言わないで」
そう困ったように口にすると、「もう、君はすぐにこれだよ」とテオは苦笑を浮かべながら身を起こした。
「とにかく、明日には皇太子もこっちに来るんだからさ。お母君だけでも助けられないかって相談したらどう?」
「でも……」
「そうですよ、ヴィオレット様。ただの幽閉処分なら、まだ助けようがあります。お父君の件は本当に残念ですが……しかし聞けばお母君は、その罪に連座しているだけだとか。それなら恩赦も有り得ます。お母君と仲の宜しかった前の国王陛下をお頼りするのは如何ですか?」
「ちょっと癪だけど、皇太子の手を借りてもいいんじゃない? あの皇子はさ、性格はいけ好かないけど、実力はあるよ」
「こらっ、テオ」
再びヴェラー卿が叱り言葉を口にしたけれど、ペロリと舌を見せたテオは反省した様子もなくヴィオレットの後ろに逃げ隠れた。そのあっけらかんとした明るさに救われる。
「はぁ、まったく……テオの言い分はアレですが。しかしヴィオレット様、私からもそうしてみることを提案いたしますよ。その……どうやらブランディーヌ様は個人的に陛下方との確執もあるようでしたから、自由に、というわけにはいかないでしょう。しかしせめてクロイツェンに追放していただくとか、我らの国での幽閉にしていただくとか、提案をしてみるのは如何でしょう。ブランディーヌ様はクロイツェンの皇太子妃殿下のご生母なのです。国と国との関係を考えれば、ベルテセーヌとて恩赦を考えざるを得ないはずです」
「そう、かしら? でもリディアーヌ様がご反対しそうな気がするわ……」
「お言葉ですが、公女殿下はヴァレンティンの公女殿下でございましょう? 選帝侯家の機嫌を損ねてはならないのは七王家の常識ですけれど、それでも選帝侯家が王国の内政に口を挟むのは越権行為です。ヴァレンティンの顔色を窺う必要はないのではなくって?」
マルガレーテの言葉に、公女と王女が同一人物だということを察してしまったらしいヴェラー卿が少し顔色を濁したけれど、それでも首を横に振ってその考えを振り払うと、「そうですね」と頷いた。
確かに。アルトゥールだってそのことを知らないのだから、公女が公に王女と名乗って内政に口を挟むことは出来ないはずだ。
「でもお母様は、罪を犯したのよ……その贖罪を請うのは筋違いだって。そう、マリシアンお兄様も……」
「ええ。ですがヴィオレット様は無為に人が死ぬのを見たくはないのでしょう? お母様だからというだけでなく」
「マルガ……」
「そんなヴィオレット様の慈悲深さは皆が存じていますし、私はそれを貴いと思っておりますわ。どうか勇気をお持ちください、ヴィオレット様」
「……えぇ。ええ。もう少しだけ……頑張って。抗ってみようかしら」
「その意気ですわ」
皆の励ましに少しばかり心が落ち着き、安心を感じた。
父は失ってしまったけれど、母を助けられたなら……そしたらもう少しだけ、原作のままになるだろうか。自分はもう少しだけ、悪い人間にならずに済むだろうか。
そんな独善的な自分の醜さを直視して、『私は皆が言うほど優しい人間なんかじゃないのに』と恐ろしくなる。
でもだからこそ、少しでも善良で有りたいのだ。
母に対する感情は今も複雑だけれど、それでも救うという行為は、自分を善良にしてくれるはずだから。
「有難う、マルガ、テオ、ヴェラー卿。有難う、皆」
奮起して顔を上げた先で、壁際で一言も話さずじっとしていた愛想の無い筆頭文官エルマー・ラント卿が、同じように何も言わず佇んでいた美麗な筆頭護衛騎士に何かを言って出て行くのを見た。
ラント卿は元々アルトゥールの寄越した侍従だ。ヴェラー卿を引き抜いてから侍従長の職を退くことになったので一時は非常に気を使っていたのだが、当人は大して気にする様子もなく、変わらずに淡々と日々の職務をこなしてくれている。とても仕事のできる側近なので、今もアルトゥールへの根回しのための準備でもしに行ってくれたのだろうか。
私は本当に、周囲に恵まれている。
「さぁ、お湯がご用意できましたよ」
そう声をかけてくれたイエナに頷いて席を立つと、「それでは私達は」とヴェラー卿が急ぎテオの首根っこを掴んで部屋を出て行こうとする。
「皆、今日は急いで駆けつけたから大変だったでしょう? 良く休んで」
「ええ、ヴィオレット様も」
「明日の夜は皇太子が寝かせてくれないかもしれないからね」
「こらっ、テオ!」
賑やかに去って行く彼らにクスクスと笑いながら、しかし胸の奥底をツキンと突いた痛みに、気が付かないふりをして笑みを浮かべる。
結婚して半年。アルトゥールは優しいし、色々なやりたいことに手を貸し、助けてくれる。夜会の類ではこの上なく大切にエスコートしてくれるし、クロイツェンの貴族達も皆、仲のいい夫婦だと褒めそやしてくれる。
でも……私達は契約結婚で。そして未だ、本当の意味での夫婦ではない――。
「ヴィオレット様?」
「……いえ、何でもないわ。さ、行きましょう。新しい入浴剤を試すのが楽しみだわ」
「見てください、こちら、菫の香りだそうですよ。ヴィオレット様にぴったり」
「まぁ、本当ね」
不安がないわけではない。けれどそれもこれも、きっとアルトゥールが大切にしてくれているからなのだと思おう。ええ、そうよ。きっと、そう。
だって彼は、優しいもの。
だからきっと、大丈夫――、だなんて。そう、思っていたのに。
「駄目だ」
翌日、ベルテセーヌを訪れた彼があまりにも冷ややかに否定の言葉を口にするのを聞いた瞬間、ヴィオレットは、自分が何か大きな勘違いをしているのではないかという不安を抱くことになった。