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6-1 家

 長い間、留守にしてしまった。

 竜を急がせ国境を越えた時、まだ劇的な変化もない景観でありながらも安堵を得たのは間違いなくて、やがてすっかりと見慣れたプラージュで、およそ二ヶ月半の間見ていなかったフィリックの顔を見た瞬間、そのしかめ面にこの上なく顔がほころんでしまった。


「ただいま、フィル」


 機嫌のいい声色が不審だったのか、肩眉を吊り上げたフィリックは嫌そうに顔を歪めて、トツトツと組んだ腕の上で指を上下させ、返答に悩む様子を見せた。


「その反応は……開き直っているんですか?」

「貴方のしかめ面に、この上ない郷愁を噛みしめているのよ」

「……」


 なぜかとても恐ろしいものを見るような顔をされてしまった。心外である。


「今ならハグしたって許せるわよ」


 どうぞ、と言わんばかりに両手を広げて見せたら、ほどなく一緒に帰国をしたマドリックに「何をやっているんですか」と呆れた顔でため息を吐かれてしまった。


「うちの弟が困っているでしょう」

「仕方がないわ、マドリック。私だって、まさかフィリックの顔を見てこんなにも安心する日が来るだなんて思っていなかったわ」

「私が残っていたせいで、机の上が片付いているだろうから、などという意味でしたら、生憎と二ヶ月半分の仕事が消えてなくなるわけではないのですから、現実逃避はお止めください」

「ごほんっ。まぁそれを期待していなかったと言えば嘘になるけれど。でもそうではないわ。今は貴方のその嫌そうな顔も、脅すような言葉も、何だって愛おしく思えるのよ」

「……」

「……フィル?」

「……マーサ。くれぐれも姫様をゆっくりと休ませてやってくれ」

「かしこまりました」

「え、何? 怖いんだけど」


 フィリックの聞いたこともないような優しい言葉に驚いていたら、「貴女が言うんですか?」と突っ込まれてしまった。


 久方ぶりのヴァレンティン風の建物と、ヴァレンティン風の花の香りの芳しい湯。これでもかというほどに柔らかなクッション。ベルテセーヌに比べると、やはりこちらはすでに風が冷たくなっていて、今年初の厚手の上着に埋もれながら、長椅子に寝転がる。

 気温が違う。匂いが違う。空気が違う。

 自然と顔をほころばせていると、「髪はきちんとお乾かし下さいませ」と苦言を述べるマーサに引きずり起こされた。でもそんなことを言いながらもリディアーヌの帰国に合わせてプラージュまで駆けつけてくれたマーサだ。まるで母のような温かさに、ついついぎゅうっと髪を拭ってくれるマーサの腰に抱き着いたなら、マーサはびっくりしたように手を上げて固まった。


「まぁまぁ……一体どうなさったのです? 良い年をなさって、赤ちゃん返りですか?」

「少し……色々と、あったのよ。私にとっての母は、マーサの母とマーサなのだわと実感しているの」

「いくらなんでも私が母は言いすぎですよ。私と姫様は六つしか違いません」


 そういいながらもリディアーヌを引きはがしたりはせず優しく髪を拭ってくれる。

 きっとリディアーヌに、“甘える”ということを教えてくれたのはマーサだ。それを今、とても実感している。


「やれやれ、困った姫様ですこと。これに懲りたら、もう二度と私達に黙って、クレーテの身分証を奪って突然消えるだなんてことはよしてくださいませ。どれほど寿命が縮んだともしれません。大公様なんて、貴重な食器を絨毯もろともダメになさって、その上階段まで踏み外されかけて……それはもう大変だったのですよ?」

「そ……それは、ごめんなさい。デリクは?」

「大公様よりずっと大人のご対応でした。でも今お帰りになったら向こう一年はお城を出してはもらえないでしょうね」

「デリクの方が怖いわね。クレーテは大丈夫かしら?」

「自分のせいで姫様がお外に出てしまったのだと、とてもショックを受けておりました」

「とっておきの代わりの身分証を用意するから、許してくれないかしら?」

「そんなものより、姫様がご無事な姿を見せるのが何よりです」


 そうか。ふふっ、そうか……。

 そんなことで、いいのか。


「はぁ……ですがまさか。これほどまでにフィリック様の手の平の上とは……」

「……ん?」


 ふとマーサから手をほどいて見上げたところで、マーサは何も言っていませんみたいな顔をして髪を拭っていたタオルをてきぱきと折りながら回収し、髪を梳く準備を始める。

 だがそんな行動に誤魔化されはしない。


「ちょっと、マーサ。今の不穏な言葉はどういう意味?」

「どうもこうも。言葉の通りでございますわ。さぁ、こちらに座ってくださいませ。長椅子では()(ぐし)を整えられません」


 正直立ち上がるのは億劫だったけれど、マーサの口を割らせるためにも素直に席を立ち、言われたままの椅子に座る。


「フィリックが何ですって? 手の平の上というのは、何に対しての話?」

「今の姫様のすべてに対してでございますよ」


 すべて、だと? なんだそれ。


「本当は姫様が行方不明になられてすぐ、フィリック様が後を追われる予定だったのです」

「はい?」


 そんなまさか。そんな話は聞いていない。


「ですが今にも出立しようかという時にマドリック様がこちらにいらして、そこで何をお話しになられたのかは存じませんが、フィリック様はこちらで差配に徹することになり、鳥小屋と執務室を往復する日々を送っておいででした」


 鳥小屋は貴人が自ら出入りするものではないので、何やらそれはそれで怖いのだが……とりあえず、マドリックが来てから、というのが何やらその響きだけで不穏である。


「旅続きだったから、机の上が心配だったのかしら?」

「いいえ。そういう“計画”だったそうでございますよ。私もどういう意味なのかと思っていましたが、姫様の帰国に合わせて私もこちらに呼び寄せられ、こうして姫様にお会いして……そして今、なるほどと実感しております」

「なるほど、とは?」

「姫様は今、私がフィリック様がいらっしゃらなかった日々を痛感し、私達の有難みを実感しておられるのですよね?」

「ッ……」


 お、驚いた。これは……驚いた。

 何てこと。あぁ、何てこと。


「っ……まさかっ……あの子、わざとッ」

「これで、もう二度と姫様は自分を置いていくなどという選択はなさらないだろう、と、夢に見そうな不気味な笑顔で呟いていらっしゃいましたわよ」

「ッ……」


 あぁ、想像できるっ。できてしまうっ。

 ただでさえフィリックは狂臣じみていて扱いに苦慮しているのに、そんなずる賢い主の操作方法を吹き込んだのはマドリックだろうか。道理で、フィリックじゃなくてマドリックが来たはずだ。

 元々、リディアーヌが学生だった頃は、今のリディアーヌの仕事の多くはアセルマン候とマドリックが受け持っていたのだ。今回だってフィリックを寄越して、マドリックが代わりに急ぎの仕事をやってくれていてもよかったはず。なのにそうではなく、他にも仕事を抱えているはずのマドリックがわざわざやって来た。

 マドリックを見た時、『なんだ、フィリックじゃないのか』と思ってしまったのは事実であり、旅の間、フィリックと顔が合わせるのが怖いと思いながらも、何度も何度も『フィリックがいれば』と思った。

 それもこれも全部、あの二人の企みだったと?


「……」

「ふふっ。今の姫様のお顔を見る限り、もう勝手にいなくなるだなんて無茶をなさったことに対してのお説教は必要なさそうですわね」

「……」


 言葉もなかった。



 ちなみにもっと大変だったのはその後だ。

 身なりを整えて書斎に向かうと、後続で今し方首都からプラージュに着いたばかりらしいクレーテが、「ひめさまぁぁぁ」とその場でダバダバ号泣し始めた。

 これには驚嘆を通り越してオロオロしてしまい、一生懸命周りに助けを求めたのに誰も助けてくれなかった。


「ク、クレーテ、落ち着いてっ。落ち着いてちょうだい。私が悪かったわ。反省してる。とても反省しています」

「ひくっ。ひめさま、ひくっ。ひくっっ。ごぶじでっ、ひくっ」

「な、泣かないでっ。ほら、この通り無事よ。それとも貴女の身分証を持って行ったせい? 大丈夫、ちゃんと持って帰って来たわ。いえ、それより新しいものを作りましょうか? あ、お、お土産もあるのよ?」


 そうあたふた、あたふたとする様子をニコニコ見守る周りの侍女達に、助けて! と顔を上げた。その視線に真っ直ぐ飛び込んできたのは、日頃はフォレ・ドゥネージュ城で公女府の内務と貴重品管理を一手に担っているはずの侍女長エステル様で、笑っているように見えて笑っていないその視線にはリディアーヌも言葉を失った。

 城を離れられないはずの侍女長がどうしてこんな場所にいるのだろう。


「エ、エステル侍女長……」

「自業自得でございます。よくよくお慰め下さいませ」

「……クレーテ、お、お茶にしますか? 一緒にお菓子でも食べますか?」


 思わず敬語になって一生懸命宥めていたら、「私に淹れさせてくださいぃ!」と懇願された。侍女の感覚はちょっと分からない……。

 なんとかクレーテが涙を拭い、微笑ましそうにクレーテの味方をしているマーサと共に傍を離れたことにほっとしていると、視界の端に膨大な量の書類に埋め尽くされた机がよぎった。

 リディアーヌの机ではない。もっと部屋隅の、一番下座の文官のための席だ。

 机の前には怖い顔で腕組みをしているフィリックがいて、シュルトはせっせと書類を選り分けているから、あの机にいるのは……可哀想な可哀想な、ケーリックだろう。

 心から申し訳ないと思う。だが助ける気はない。飛び火はご免である。


「ケーリック様、ハーブティーをどうぞ」

「ハンナさんっ!」


 姿が見えないと思ったら、ハンナはお茶の準備をしていたらしい。カップの種類を見る限り元はリディアーヌのために準備もしていたものなのだろうが、クレーテがお茶を淹れに行ったので、代わりに憐れなケーリックの元に運ばれたのかもしれない。だがケーリックにはどちらでもいいのだろう。書類の山で顔は見えないが、声がもう浮ついている。

 だがそのふわふわした気持ちも一瞬のことだったようで。


「姫様をかどわかした罪を償うべく、フィリック様の命をよく聞いて竜車馬のごとく働いてくださいませ。これ以上姫様を煩わせようものなら、私は生涯口を利きません」

「うっ……」

「ご無事だったから良かったものの……はぁ。ケーリック様には本当にがっかりですわ」

「んぐっ……」

「……」


 ご、ごめん……ケーリック。後で、もうちょっとハンナさんの怒りが収まったら、ちゃんとフォローするからね。ケーリック君はとても頑張ってくれました、って、褒めてあげるからね。

 でも今は無理。ええ、無理である。

 というかそれよりも何よりも、今はこっちを見もしないフィリックが怖すぎて仕方がないので、ケーリックの淡くも儚い恋心に構ってあげる余裕はないのである。


「あ、あのー……フィリックさん」


 声をかけてみたところで、チラ、と横目にこちらを見るだけの視線が怖い。


「留守の間の報告など……していただきたいのですが」

「……」


 え、なんで無言なの。


「えっと。苦情も聞きますよ?」

「……」

「し、仕事ですかね。やりますよ。テキパキやりますよ。隠してないでどんどんもっていらっしゃい」


 慌てて自分の机に着いたところで大して積みあがってもいない書類の一番上を手に取ったが、内容を見て首を傾げる。ただの留守中の公女府の決算報告だ。うちの公女府の侍従長と侍女長は優秀なので不備などあろうはずもなく、全然急ぎの仕事でもない。

 何でこんなものをわざわざプラージュに? などと思いつつ確認して判を捺し、次の書類を手に取ってまた首を傾げる。これも特に考えねばならない内容ではなく、許可をするだけの簡単な仕事だ。

 もしかして、ここにある書類すべて?


「え、えーっと……フィリックさん?」

「……」


 いや、だから何で何も言わないの? 逆に怖いからやめて欲しい。


「もしかして……私の仕事、全部ケーリックの机に乗ってる?」

「……」


 あ……いや。そんなまさかね。さすがに文官一年目にそんなことは。


「じゃあ、フィリックがすべて片付けてくれていたり……」

「……はぁぁ」

「っ。で、ですよねっ。そんなはずないですよねっ。さてはまた見えない場所に隠して小出しにしてゆく作戦で……」

「すべて片付いています」

「ええ、でしょうねっ、そんなことだろうとっ……」

「……」

「……」

「……」

「え、どうしたの? フィリック」


 ぞっと顔を青褪めさせたところで、ようやくまっすぐこちらを向いたフィリックに二度目の呆れたため息を吐かれた。


「片付けない方が宜しかったのなら、今後はそう致します」

「ち、違うわよっ。あ、有難う。有難う? えっと、多分有難うっ」


 まさか上げて落す作戦とかじゃないよね? 有難いことなんだよね?


「多分?」

「いえ、有難うございます……」

「分かればいいんです」


 はい。分かりました。


「留守中に差配した内容に関してはケーリックの机のここからこの辺りに報告書にしております。ケーリックに内容を把握させてから回しますので、後ほどご一覧ください」


 何だと。つまり留守中の仕事を片付けてくれたばかりか、片付けた内容をすべて報告書にしてくれたと? それがあの大量に積みあがっている書類の内のほんの一部だと?

 うちの筆頭文官、優秀すぎないか?


「フィリック、貴方もしかして今まで手を抜いて……」

「何か?」

「いえ、何でもないです」


 これは突っ込まない方がいいことだな。うん。考えないでおこう。永遠に。

 それにしたって、何だろう。この何もかも完璧に、上手くいく感じは。ベルテセーヌでの手あたり次第的な旅路とは打って変わった、すべてが準備されている安心感。やっぱりこれはマーサが言っていたように、一言もなく置いていったフィリックによる有能アピールであり、無言のお仕置きというやつなのだろうか。

 十分に堪えた。十分に分かったから、そろそろその無感情な視線を止めてもらいたい。


「えーっと、フィリックさん」

「まだ何か?」


 ほら。なんかもう、言葉が冷たいんだものっ。こんなの、フィリックじゃない!

 どうする? ものすごく持て囃してみるか? それともベタ褒めしてみるか? いや、でも根っこは狂臣だしな。でも……もしかしたら、今回の件でほとほと主に愛想が尽きたとか……。


「……ふぃる」


 思わずうるうると引き結んだ唇を震えさせていたら、ぎょっとしたようにフィリックが書類を取り落して目を見開いた。


「もう分かったからぁ。置いて行ってごめんなさい。黙って行ってごめんなさいっ。反省してるからっ。私が悪かったからぁぁ」


 そうボロボロと涙を溢れさせたなら、おろおろし始めたフィリックがしばらく挙動不審にした後、仕方なさそうに頭を抱えて三度目のため息を吐いた。


「まったく……兄上には、最低でも一日は冷たく接しろと言われていたんですが……」

「マドリックの馬鹿ぁぁ」

「……ええ、まったくですね。兄上は姫様の扱い方が分かっておられないようです」


 うんうん。そうだと思う。フィリックの方がよく分かってると思う。

 さすがフィリック。私のフィリック。だから機嫌、直してくれないかな?


「……はぁ。泣くのは卑怯です」

「フィリックが悪いっ」

「ええ、私が悪かったです。ですが今の貴女の不安以上のものを私に……私達にかけたのですから。もう二度と、しないでください」

「……」

「姫様?」

「……分かった。フィルには必ず言う」

「ええ、約束ですよ」


 こくりと頷きながら、マーサの差し出してくれたハンカチでぎゅっと目元を拭った。

 不安になったのは本当だけれど。でもこの涙はきっと、気が緩んだせいなのだ。

 いつものような光景。いつものような意地悪なフィリック。いつものように寄り添ってくれる侍女達と、いつものように微笑ましくそれを見守っている侍従や騎士達。

 アセルマン家の思惑にまんまと引っかかっているようで悔しいけれど、やはりここが私の“実家”なのだと実感する。


 ここが、私の故郷。私の、帰る場所――。






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