1-15 正餐会(2)
聖職者を招く正餐会は王侯の晩餐会にも匹敵する厳格にして格式高い場。そこに配膳以外の使用人が足を踏み入れ場を乱すことはよほどのことでもない限りは禁忌であるはず。それを知らないうちの臣下ではないので、何かよほどの報告があったということだ。
チラリと背後に視線を寄越すと、察したらしい護衛騎士のエリオットが取り次ぎに向かった。
思わず手を止め口を噤んだのはリディアーヌだけではない。皆も気が付いたようで、手を止め、様子を注視している。
やがてエリオットが侍従との会話に一つ頷くと速やかに上座へ回って、リディアーヌの後ろに身をかがめた。
「恐れながら、今しがたリンテン領内にて“金の馬”が目撃されたとのことです」
ピクリと反応して隣を見やったところで、同じようにアレクサンドラ女伯にも侍従が耳打ちをしているところだった。
金の馬とは王族の馬車を指す隠語。もしベルテセーヌの国王が到着されたのだとしたら、教会領を預かる三伯爵が出迎えもせずに聖職者を引き留めて晩餐を楽しんでいる場合ではない。
「女伯……」
「おかしいですわね。国王陛下のご到着は明日とお伺いしています。今宵はエレムス公国にご滞在のはず。大司教様、お伺いしておりますでしょうか」
「いや、女伯。私も初耳ですな。このような大切な時分、他に金の馬がいらっしゃるとも聞いておりません」
ベルテセーヌ以外の王族が? いや、そんなはずはない。皇帝直轄領に面するこの教会領に、管理者たる大司教の許可も先触れもなく王族が勝手に立ち入るはずがない。
だがそう首を傾げていると、慌ただしく晩餐会場に顔を出した見慣れぬお仕着せの侍従が、皆の視線が集まっていることにギョッと委縮しながら、コソコソとブルッスナー伯の後ろに歩み寄った。どうやらブルッスナー家の侍従のようだ。
その侍従が何かを耳打ちすると、すぐにブルッスナー伯が顔色を変えてガタリと腰を浮かせた。
「ブルッスナー伯?」
「っ……申し訳ございません。私も予想だにしていなかったのですが、我が家に“赤き御旗”が立てられたとのこと。大変失礼なこととは存じますが、中座をお許し願いたい」
正餐会を中座するのは禁忌ともいえるマナー違反だ。主催者に対しても主賓に対しても失礼なことであるし、その主賓としてリディアーヌが上座に招かれている以上、リディアーヌを聖女と崇める聖職者達にとっても気分のいいものではない。
とはいえ、“金の馬”が“赤き御旗”を掲げていらした……どこぞの王族が王家の馬車で家紋を掲げてやって来たとなると、中座も致し方ないと言わざるを得ない。七王家とは同格である選帝侯家の娘としては、酷く焦っているブルッスナーを助けてやるべきか。
「構いませんが……ですが大司教様に断りもなく、ましてや大事な儀式を前に、一体どちら様が柄違いの赤の錦を織って来られたのか。そのくらいは共有していただきたいものね。儀式に横槍を入れられては困るもの」
さすがに権限を侵されたことに、温厚なリンテンの大司教様も顔をしかめていらっしゃる。そのことにギョッとしたのか、ブルッスナーも口早にこれが想像だにしていなかったことと、追って必ずご報告に上がることを大司教様にとくと説明した。
ただ来客とやらはこの場ですんなりと口に出しがたい相手だったのだろう。チラチラと周囲を気にしながら“誰か”の部分については濁そうとしているようだった。
うーん……まさか、アルトゥール……なんてことはないよね? う、うん。ないよね。
「ブルッスナー伯。公女殿下が聞いておられるのだ。答えなさい」
はっきりとしないブルッスナーの態度にさらに機嫌を損ねたのか、意外にも大司教様が突っ込んでくれた。こうなれば、大司教様のもとでリンテンを預かっているブルッスナー伯も黙秘してはいられない。
「はっ……恐れながら、儀式とは関係ございません。その……車軸に絡まった“蛇”が、行く先を違えさせたようです」
蛇……フォンクラークの王族か。
アレクサンドラ女伯は、「何故?」と首を傾げたけれど、リディアーヌはその答えにニコリと微笑んでみせた。よかった、アルトゥールではなかった。
「それでは仕方がございませんね。けれど大事な儀式の前です。そのように申し上げて、お引き取りいただけるとよいのですけれど」
「尊きお方は常日頃より諸国を遊学なされていると聞いています。こちらにもただ道中立ち寄られただけでしょう。すぐに事情をお話しし、無論、儀式には影響がないようにいたします」
「そう。よろしいかしら? トレモントロ大司教様、アルナルディ正司教様」
「領地の不作法をお詫びいたします、公女殿下」
「聖女様がそのように仰せなのでしたら」
司教様方はまだジロリとブルッスナーを快からぬ様子で見ていたけれど、リディアーヌに加えて大司教と正司教が許可したというのであればアレクサンドラ女伯が止める理由もない。主催者である女伯が退席の許可を出すと、ブルッスナーは今一度深く謝罪をしてから、やがて飛ぶように去っていった。
「けしからぬ奴です。そもそもこのような大事な時に、一体フォンクラークの王族が何の用事なのか」
ここぞとばかりにブルッスナーを攻撃するのはフォルタン伯だ。
当人のいない場所で王侯についてを語ることは無礼なことであるから、普通は先ほどのように隠語を用いてそれについてを語る。それがこの帝国における暗黙の了解であるはずだが、フォルタンはその禁を敢えて破り、はっきりと国名を口にした。
同じ王侯階級に該当するリディアーヌとしてはあまり心地の良いものではないのだが、しかしそうしたささやかな言葉遣い一つが人と人との関係性というのを最も語る。
フォルタンはよほどブルッスナーと相容れぬのか。あるいは、ベルテセーヌ王室に対して拭いきれない溝を築いているフォンクラークの王族を貶めることで、ベルテセーヌの聖職者達に媚びをうっているのか。
なるほど……リンテンは中立だとばかり思っていたが、フォルタン伯に関しては思った以上にベルテセーヌ教会と緊密な関係を築いているようだ。これは、今度の儀式や今後の動きにおいても無関係な話ではない。
アレクサンドラ女伯はフォルタン伯の様子を窘めたけれど、しかしそれが拍車をかけるのだろうか。フォルタン伯の言葉は過激を増す。
「大体あやつは最近、行動が怪しいのです。女伯も言っておられたでしょう! 港湾の管理者を理由に方々に顔を利かせ、通商や財政にまで口をはさんで、三伯家の均衡を乱しております。それにフォンクラークといえば、かつて聖女様のご尊父をっ」
「それは王族批判ですか? フォルタン伯」
たまらず言葉を遮ったリディアーヌに、ビクリとフォルタン伯が口を噤んで顔色を変えた。
調子に乗っていらぬことを言おうとするからだ。あるいはそれはここに居並ぶ聖職者に気に入られようと、聖女にすり寄らんとした発言なのだろう。だが父の死に関することは、リディアーヌにとっては絶対に許せない発言だ。聞きたくない。ましてや、“皇帝の直臣”の口からだなんて……吐き気がする。
「どうぞリンテンの統治に関するお話は、リンテンの三伯家だけでしてくださいませ」
「まったくお恥ずかしいことでございます」
「同じリンテンを預かる者として、深く謝罪を申し上げます、公女殿下」
「貴方方の罪ではありませんわ、大司教様、女伯。でもそうね……つまらぬ話を聞いて、食欲は無くなってしまったわ」
「いらぬ横槍が入ってしまいました。公女様も今日こちらにお着きになったばかりでお疲れのことかと存じます。少し早いですが、このあたりで正餐会を終わりといたしましょうか」
食事の途中ながら礼を失する形でナプキンを卓上に置くと、早く席を立ちたがっていることを察してくれたのだろうアレクサンドラ女伯が見事にフォルタン伯に罪を擦り付ける形で正餐会の終了を口に出してくれた。
「でしたら姫様、私がお部屋までお送りしますよ」
そこに、早く席を立ちたかったのであろうクロレンスがここぞとばかりにナプキンを置いて立ち上がる。まだ正式に閉会されたわけではないというのに気が早い。
「姉上に賓客の案内ができるのですか?」
「なんですって、アルセール」
と思いきや、どうしたことか。礼儀正しいアルセール司祭までナプキンを置くではないか。
「トレモントロ大司教様。ここは私の実家でもあります。私が聖女様をお部屋までお送りしてもよろしいでしょうか」
「ええ、アルセール司祭。貴方がいてくださるので、私も安心です」
「恐れ入ります」
なんか大司教様の許可も出たようだ。相変わらず、やり手である。
そんな娘と息子の身勝手に、アレクサンドラ女伯もため息をこぼしながらナプキンを置いた。もう正餐会は勝手に閉められたも同然だ。よりにもよって、我が子達によって。
「まったく……ご無礼を重ねてお詫びいたしますわ、公女様」
「いいえ、姉様らしいですわ」
腰を浮かせようとしたところで、フィリックがすぐに椅子を引いてくれた。そんなのは侍従の仕事だと思うのだけれど、もしかしてフィリックも早くこの場から逃げ出したいのだろうか。
「気の利くルゼノール家の小伯爵達に、心から感謝を」
とりあえず、女伯にはそう耳打ちをしておいた。
きっと今頃呆れた顔をしているだろうけれど、これは心からの本心である。まだ聞きたいことはあったものの、おかげさまで気分の悪い正餐会は早く抜け出せた。
それに一つ、良いことも……。
「姫様、悪い顔になってますよ」
扉を出た途端、無遠慮にそんなことを言ったフィリックには、「主の美貌にケチをつけるだなんてひどい臣下ね」と背中をつねっておいた。
***
部屋を出るとすぐにクロレンスとアルセールも出てきて、「ご案内いたします」とアルセールが前に立った。だがそんな弟を掴みとめたクロレンスが、「いやいや、どこに案内するんだよ」と後ろに追いやる。
「どこって。いつものお部屋では?」
「……いや、そうだけど。でもそうじゃなくて。なんで家を出た君が案内をするんだ」
「姉上では不安なので?」
「はぁ?!」
相変わらず仲がよろしいことである。
まぁ、すでに何度も訪ねたことのある家なので案内していただかずとも部屋の場所は覚えているのだけれど、実に微笑ましいものだからあえて口は挟まなかった。
「ところでクロレンス姉様。明日にでも、人目につかぬよう女伯にお会いしたいわ。そのようにお伝えしてもらえます?」
「何か悪だくみですか?」
まぁ、失礼な。
「小伯爵。貴女にも関係のある話ですから、同席するように」
「え」
「私がリンテンに来たのには、聖別の儀への参加という目的が一つと、それからもう一つ。最近リンテンではクロイツェン皇室の口利きでフォンクラークの船が行き来するようになっているようだけれど、どうやらその裏でフォンクラークはよからぬ物資の密輸なども画策しているみたいなのよ。そういえば本来商業はブルッスナー家の担当なのに、あまりの不甲斐なさに今やルゼノール家が仕切っているそうね。でも大丈夫かしら? ブルッスナー伯の先ほどの様子を見る限り、あちらは赤い旗を隠れ蓑にルゼノールを貶めるつもりかもしれないわ」
「……」
「……」
「……」
「ッ、姫様、どうしてくれるんですかっ。そんなことを聞いたら、私は何も知りません、って顔してサボれないじゃないですか!」
「クロレンス……」
「ハァ……姉上」
クロレンスの相変わらず具合に安心すればいいのか、落胆すればいいのか。けれどなんだかんだ言いながらも、ぶつくさとどうしようか悩んでいる様子は、決して失望するような姿ではない。ちょっと面倒臭がりなだけで、クロレンスは意外といい後継者なのだ。
「マクス。ブルッスナー家の客人について、他に何か?」
「実は先ほど、西の内海の既知ある御方から親書が届いております」
「親書?」
はて。西の内海はフォンクラーク王国を指す隠語の一つだが、あの国はリディアーヌとしても因縁があり、既知の相手と言われても思い当たる所は少ない。だがマスクがそう言うということは、マスクもリディアーヌが親しくしていると知っているということであり、そしてそんな相手は……。
「まぁ!」
たった一人しか、思い当たらない。
クロレンスは首を傾げていたけれど、学院時代のリディアーヌを知っているアルセール先生にはピンときたみたいだ。少し複雑に顔が歪んでいる。
かつての友人からの手紙に喜ぶ元生徒を微笑ましく見る気持ちと、だがこのタイミングでその人物から手紙を受け取ることに垣間見える悪だくみ感と。どう反応したらいいのか困っているのだろう。
「公女殿下には、私からも一つお渡ししたい書面があるのですが」
「ちょうどいいわ、お二人とも部屋に入ってちょうだい。クロレンス姉様も、逃げてはなりませんよ」
そう念を押しながら部屋の扉を開いたら、「分っていますよ」としぶしぶクロレンスが立ち入り、逆にアルセールの方が扉の前で立ちすくんでしまった。
おそらく、もう夜も更けているのに未婚の淑女の部屋に立ち入ることを躊躇ったのだろう。久しぶりにちゃんとした淑女扱いを受けた気がして、逆に驚いた。
「何をなさっているんです? 姫様は気になさいませんよ」
うん……だってほら、うちのフィリックなんて、そんなことを言いながらあたかも平然と扉をくぐるんだもの。その様子にはアルセールも深い思案顔で、頭を抱えた。
かつては神学教師として、神学だけでなく学生諸君の情操教育の一端も指導していた“先生”だ。何を言いたいのかはよく分かるが、見逃していただきたい。
「フィリック卿。たとえ殿下が気になさらなくても、貴方はもう少し気になさい」
「ご心配なさらずとも、私は主君の忠実な臣下です。よこしまな思いを抱くような真似は致しません」
「そういう問題では……はぁ。よくもまぁ、このような状況を大公殿下がお許しになっていますね」
「私がいかに姫様にとって無害なのかは徹底的に証明済みです」
「……」
アルセールも問答に疲れてきたのか、「今宵ばかりは失礼します」と扉をくぐった。