5-54 最後の復讐(4)
「きゃぁぁぁっ」
狂乱じみた叫び声を上げたブランディーヌが必死にその場から逃げ出そうともがくのを、近くの騎士が取り押さえる。
ゴンという鈍い音がして地面に跪かされながら、それでもブランディーヌが必死に息を殺して蹲った。
パチ、パチ、と小枝が爆ぜ、ボウと花に火が移って煙をあげる。
枝の軋む音が沈黙の中で抒情的に虚空を揺らし、やがて上っていた煙が見えなくなり始めたところで、「は、はは、はははっ」と、リディアーヌは声をあげて笑った。
嘲笑うというには切なすぎて、悲しむというには楽観的すぎる。
「あはははははっ」
肺の中のすべての空気が空になるまで高らかに笑い声をあげたところで、やがてドンと椅子に深く凭れ掛かると、天井を仰いだ。
硬く目を閉ざして覆っていなければ、涙が溢れかえっただろう。
大声で笑っていなければ、憤怒に暴れていたかもしれない。
そうして長く天井を仰いで己を諫めようとしたリディアーヌに、オリオール候の静かな吐息が零れ落ちた。
「これは……偽物で、ございますね。公女殿下」
「ええ、良くできているでしょう? うちの者が作った、無害な偽物よ」
「……」
そう聞いたブランディーヌが、バッと顔を上げて振り返るが、先程の行動のせいで騎士が取り押さえたままだ。
その視線が火鉢を見つめ、それから忌まわし気にリディアーヌを見た。
だがもう遅い。
「公女……何を、燃やしたのだ?」
どうやら王はそこまでは存じていなかったらしい。おずおずと問うた言葉に、リディアーヌは冷え冷えとオリオール候を見下ろした。
「お答えください、オリオール候」
「……」
「それとも私が言った方が宜しいのですか?」
「……いいえ。公女殿下のご推察の通り。私は先程の花を、“ロウリエ・モルテ”と見違えました。この国には存在せず、フォンクラークの南東部にのみ生息するロウリエ・ローズの亜種。高い毒性を持つことから、フォンクラークで“死の薔薇”と呼ばれている花です」
「ええ。元々毒性を知られているロウリエ・ローズは有名だけれど、それよりも枝が濃く、白い花が大きく咲くロウリエ・モルテは、葉っぱと花がないと“サントベロの木片”とよく似ているせいで、フォンクラークではより危険視されているそうね」
「……」
「アンネマリー先王妃陛下は、国王陛下の墓所で急にお倒れになった。立ち会ったのは当時典礼卿の地位にあったオリオール候ただ一人。貴方は風上で、墓所の香木を絶やさぬようにする任に付いていた」
「仰る通りです」
「そしてあなたは香炉に、そのわずかに紛れ込んでいた……紛れ込ませていた、香木を投げ入れた」
「はい」
静かに頷いた言葉に、もう言葉はいらなかった。
「どうやら侯爵夫人もこの香木について存じていたようだけれど……でも、そんなことはどうでもいいわ」
最初から、王がろくに楯突くことの出来ないブランディーヌを正攻法で追い詰めようなどとは思っていない。上手く罪に問えれば良かったが、そうでなくとも構わなかった。
理由は至極明快だ。
「ペステロープ家は先王暗殺の嫌疑で、一族郎党、四十九人がこの城で斬首に処され、墓所を作られることもなく、憐れに滅んだわ」
「っ……」
「国王陛下に問います。先王殺し手引きの真犯人であり、先王妃殺しの実行犯であるオリオール候の罪とは、いかほどのものでしょうか」
まっすぐと玉座を見上げたリディアーヌに、その意図をようやく知ったらしい国王が驚嘆に息を飲み、それから苦渋に顔を歪めながら、ほどなく重苦しい息を吐いた。
「一族郎党、極刑である……」
「っ、私は関係ありませんッ! ルベールス! 貴方ッ、私の恩をッ」
「ブランディーヌ、貴女と国王陛下との関係に興味はないわ。貴女の夫は、ヴァレンティン公女にしてベルテセーヌ先王妃であったアンネマリー陛下を毒殺した。それだけよ。ペステロープ家の四十九人を断頭台に送った貴女なら、その意味は言わずと分かっているはずよ」
「っ……」
真っ青な顔で呆然としたブランディーヌは、しかしほどなく目を輝かせたかと思うと、赤い唇の端を吊り上げながらデッセル卿を見た。
「貴方ッ。デッセル卿ッ! 貴方ならお判りでしょうッ? こんなことで夫の罪に連座させられたなどと知ったら、母を慕うヴィオレットがどれほど悲しむかッ」
「ん?」
ゆるりとこの情景を静かに見ていたデッセル卿は、チラリとブランディーヌに視線を寄越すと、困ったように首を傾げて見せた。
「申し訳ありません、オリオール侯爵夫人。私は私の主より、ベルテセーヌ、フォンクラーク、ヴァレンティン三国との交渉と事後処理のために使わされてきた文官です。公僕としてある程度妃殿下の面目を守る義務はありますが、特に妃殿下のお身内を庇うようにとは命じられておりませんし、ましてや王族殺しとは……なるほど。妃殿下が望んで侯爵家を追放され、元お身内を告発される決意をされたのも当然です」
良くできた文官である。彼はこの場を利用して、ヴィオレットはもはやオリオール家とは無関係であるから、連座するはずがないということを主張しているわけだ。分かっている。こんなことで、ヴィオレットのことまで追求してアルトゥールと事を構える気は最初からない。
それに、守りたいのはヴィオレットではなく、オリオール家を裏切る決意をしたマリシアンの方だ。そのためならついでにヴィオレットを不問にするくらい、なんてことない。
「確かに、ヴィオレット妃の告発のおかげでこのように真相が分かったのですから、妃殿下には感謝の言葉をお伝えせねばなりませんね。元より、実はとある女性からこのような嘆願書を預かっておりますの」
そう言って用意していた最後の材料である瀟洒でシンプルな白い封筒を、シュルトの手で司法官に託す。
「これは……オリオール家に対し、侯爵夫妻を除き、摘発に貢献した者と当時未成年であった者に対する減刑の嘆願書、でしょうか。差出人は……」
口にしかけた司法官が、綴られた名前を見てバッと大仰にリディアーヌを振り仰いだ。
その視線にゆっくりと首肯する。
「差出人は……キリエッタ・バレイス・ド・ペステロープ」
ざわりとざわめいた貴族達の驚きは当然だ。ペステロープ家は一族郎党、彼らの目の前で、すべてが処刑されたはずなのだから。
だがそうではない。
「エドゥアール殿下は、ペステロープ家にかけられた嫌疑が偽りであることを存じておられたわ。だから父の訃報を伝えられたその日の内に、その場にいた幼馴染を匿い、国外へ逃がしたの。彼女はすでにペステロープの名を名乗ってはいないただの平民の女性よ。だからそれを探ることは先王子殿下の名において許さないわ。けれど幼くしてすべての身内を殺された彼女は、自分達と同じ恨みを持つものが現れることを望んでいないからと、己の身を顧みず、こうして嘆願書を書いてくれたわ。国王陛下、そしてオリオール候。貴方達が引き起こした大虐殺を繰り返す気はないからだそうよ。それは、ただの悲劇だからと」
「っ……」
ペステロープ家は無実なのだ。無実で有りながら、殺されたのだ。そうと明らかになった以上、もはや国王にも責はある。
それでも直接その責任を問わず、先王子女が国を追われたことも追及しないのは、その先王子女がすでに死んでいるせいだ。
「国王シャルル三世。ヴァレンティンは、オリオール家の罪を許し、長きにわたって我が国の元公女を害した真相を放置し続けてきた貴殿に遺憾の意を示すとともに……」
ぎゅっと、堅くこぶしを握り締める。
「選帝侯の名において、王を弾劾いたします」
馬鹿な、そんな権限は、などと騒ぐ貴族達は、「黙れ」と彼らを見下ろしたリュシアンの低い一言に口を噤まされた。
「権限はある。選帝侯家とは王を見定め、量るもの。たとえ選帝侯に直接王を裁く権利がなくとも、弾劾を申し立てる権限はある。そうだろう? 国王」
「……その通りだ」
ゆるゆると息を吐いた王は、やがて長らく守り続けてきた玉座から立ち上がると、これが最後だとばかりにカンッと錫杖を突いた。
「すべての罪は明らかとなった。ここに、国王シャルル三世の名を以て宣言する。かつて国内に外患を引き入れ先王暗殺に加担し、また先王妃を毒殺した咎を持って、オリオール侯爵ピエリックを没官没爵の上、極刑に処し、晒し首とする。これに連座し、オリオール家并びに三親等のことごとくを庶人とし、余罪を洗った上で相応の罪に問う。但しペステロープ嬢の嘆願を受け、十四年前に未成年であった者に関しては、この件で没爵以外の罪には問わない。だが九年前の先王子毒殺、ならびに今回の謀反の件に加担した者はこの内ではない。司法官はそのことを重々承知の上、罪状を諮り上申せよ」
「はっ!」
「それから……王太子リュシアン」
名を呼ばれたリュシアンが上座を見やる。
その深く影を落とした眼差しを一度じっと見つめたシャルルは、諦めたように息を吐くと、錫杖を掲げた。
「長きにわたり罪人を宰相の地位に置き、謀反の首謀者を陞爵するという愚政を敷いた余に、国家を治める資格はない。余はここに、余の愚行を明らかにしたその功績を認め、王太子リュシアン・ルーシウス・ユル・ド・ベルテセーヌへの譲位を宣言する。王太子リュシアンは速やかに錫杖を受け、余の過ちを正せ」
本来譲位は、たとえ選帝侯家から弾劾を受けたとしても、臣下達に意を問い、了解を得て行われなければならない。だがこの場のこの空気の中でそれに否を口に出せる者がいるはずもなく、皆がごくりと固唾を飲む中、望んでもいなかったはずの錫杖を受け取るべく、リュシアンは不自由をする足で階段を上り、錫杖を受け取った。
本来ならば、王太子は王の前に傅き、謹んで受け取らねばならないのだろう。だがその慣例すら打ち破ったリュシアンは、受け取った錫杖を握り締めると、ただ玉座を開けた王を睨み据えた。
「誰もが知っている。お前は、簒奪者の王だ。そして私は、その簒奪された座を受け継がねばならない咎人だ。王位はお前から譲られるのではない」
そう言ってゆるりと振り返ったリュシアンの視線を受けたリディアーヌは、これがせめてもの慰めになるのならばと進み出て、中座でゆるりとドレスを摘まみ、膝を落とした。
「ヴァレンティン大公家公女リディアーヌが、王太子リュシアン殿下の戴冠を心より言祝ぎ申し上げます」
その宣言に、はっとした貴族達がバラバラと膝をつき、「言祝ぎ申し上げます」と続けた。
こうして静まり返った謁見の間に、顔を上げたリディアーヌはそっと跪く貴族達を見下ろした。
九年前の予定とは随分と違ってしまった。
だがこれで……これでようやく――。
「公女……余の愚行を、この場で謝罪し……」
振り返ったリディアーヌの視線が王の口を噤ませた。
謝罪? ふざけている。申し訳ないなどという気持ちがなかったから、この王はあれほどの悲劇を引き起こし、また黙秘し続けていたのだ。上辺ばかりの“楽になるための謝罪”など、どうして受け入れようか。
「シャルル、貴方が謝罪をするべきは私に対してではないわ。本気で貴方に謝意があるというのであれば、一族郎党無実のままに惨殺されたペステロープ家の墓も無き大地に。無実と知りながら九年もの長き苦節を味わわせた貴方の子供達に。憐れなままに亡くなった貴方のかつての正妃に。そして先王夫妻の墓前に、その許しが得られるその時まで、生涯膝を擦り切らせ、声を枯らし、謝罪を嘆願し続けて。そして許しが得られるまで二度と、貴方のせいで大切な人を失った者の前に現れないで」
「ッ……」
すでに亡くなった人が、許しを与えることは出来ない。
どんなにか謝ったところで、シャルルは生涯許しを得られはしない。
それがせめてもの、シャルルへの復讐だ。
「ディー……」
労し気にこちらを見たリュシアンの眼差しに、リディアーヌは一つ、今にも泣きそうに視線を落とすと、静かに吐息をこぼした。
これで、終わった。
長く抱え続けていた復讐が、ようやく。
この国に残されていた愁えが、ようやく。
何もかもが、終わった。
終わったけれど……。
「……リュス……疲れたわ」
「……あぁ……そうだな」
静かな同意の言葉に、リディアーヌはそっと、玉座を仰いだ。
よじりよじりと、父の膝によじ登った幼い頃の記憶が、今も鮮明だ。朗らかな笑みを見せた父の笑顔を覚えているけれど、果てしてそれが事実であったのかすら、今は迷ってしまっている。
だがそれでも、あの玉座の人の娘であったことを、誇りに思っている。
仇は、討った。
どうしても手の出せないただ一人だけは引きずりおろすことが出来ないけれど、少なくともそれ以外のすべてに決着は着けた。
だから……だから、お父様、お母様――。
私はもう、この国の王女であった自分を捨ててもいいでしょうか――?