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5-50 聖女の献身

「とにかく清潔なベッドに。部屋は」

「準備できています。暗幕を垂らして暗くしてあります」


 騎士達が率先して動き回る中、クロードは看守棟の看守用の仮眠室だったらしき場所へ運び込まれ、そのまま慌ただしく治療が開始された。

 アンジェリカはぴったりと寄り添って離れる様子を見せなかったが、今は治療の邪魔になるとも知れないので、「少しの我慢よ」と声をかけ、リディアーヌはアンジェリカと共に部屋の片隅で治療を見守った。

 塔では一日に二食が運ばれると言ってもささやかな物で、元々繊細なクロードはそれすらもろくに取れていなかったらしく、目に見えて分かるほどに骨が浮いていた。全身が荒れて数多の擦過傷や打撲痕がある。激しく免疫力を損ない、些細な衝撃にも鬱血するほどに弱っているのだ。それに合わせて、次々と投薬が為されてゆく。

 全身を丁寧にぬるま湯で拭い、一つ一つ怪我を治療し、膿んだ傷口を清潔な布で覆って、どんどんと薬の匂いに包まれてゆく。()えた匂いよりも薬の匂いが勝ってきたところで、やがて医師がほぅと息を吐きながら身を起こした。


「クロード様……」


 そんなアンジェリカの囁き声が聞こえたのか、患者の身内を安心させるような笑みを浮かべて見せた医師が、「どうぞこちらにいらしてください」と促したので、リディアーヌがアンジェリカの手を引き、その寝台の隣に連れて行った。

 躊躇いもなくベッドの傍に膝をついたアンジェリカは、怪我に(さわ)らないかを心配しながら恐る恐るクロードの手に手を重ねる。ミシェルが「もう大丈夫ですよ」と促すのを聞いてから、きゅっと握りしめると、これまで堪えていた涙がぽろぽろと(こぼ)れだしたようだった。


「クロード様……クロード様。遅くなって、ごめんなさい。とっても待たせてしまって。でも、もう安心してね。貴方をこんな目に合わせた人達はみんな捕まったわ。私も来たから。それに、聖水を持って来たの。きっとすぐに良くなるわ」


 何度も何度も名を呼ぶアンジェリカが、ほどなくはっとした顔で握っている手を見てクロードを覗き込んだ。指先が動いたのだろうか。


「クロード様っ」

「……アン、ジー」

「っ」


 声を確認したらしい医師がそっと指示を出すのを見つつ、アンジェリカの肩に手を触れ、少しだけずれるように促してやる。


「クロード様っ、聞こえますか? アンジェリカです。ここにいます。お傍にいます」

「……アンジー。無事、か?」

「ッ……えぇ。ええっ。私は、怪我一つしてなくて、とっても元気です。リディアーヌ様に助けていただいたんですよ。クロード様、貴方の方がボロボロじゃないですか。まったくっ……どれだけ、私を心配させてっ……」

「……良かった」


 アンジェリカは今にも泣き崩れそうな様子だったけれど、医師が調合した薬を手にしているのを見ると、ぎゅっと涙を拭い、立ち上がってクロードの肩に手を触れた。


「クロード様、お薬を飲めますか? あ……目が見えないかもしれませんが、布で覆ってあるんです。長く暗い場所にいたから、ゆっくり慣らさないといけないそうです。でもすぐに取れるそうですから。見えないと不安ですか? 私が、体を起こしてもいいですか?」

「……あぁ」


 クロードの背に手を入れ身を起こそうとしたが、アンジェリカの力だけでは心もとない。察したらしいヴェルノーがアンジェリカの手の上から力添えしてもいいものかと自分の手を差し出したので、アンジェリカが頷く。

 その手を借りて身を起こさせ、アンジェリカは自ら寝台に乗り上げて自分の体でクロードを支えた。

 最低限身を清めることはされたとはいえ、まだ到底綺麗とは言えない状態だ。だがそれでも迷いなくしっかりと体を支えて、大切そうに手を握る姿を見ていると、リディアーヌもほっと安堵の吐息が(こぼ)れるようだった。


 アンジェリカはとても強くなった。それは周りにいるかつての学友達が一番実感していたはずで、皆が皆歯を食いしばりながら、「私もいます」「俺もいる」と声をかけ始めた。

 時を同じくしてフランカが荷物の中から聖水を入れた小瓶が三つしまわれた革の鞄を持ってきてくれたので、それを医師に薬の効果を高めるものだからと渡し、そのままそっと部屋を出た。

 もう、ここは大丈夫だろう。


「姫様」


 程なく廊下の先から顔を出したエラニエを見るに、部屋の準備ができたのだろう。一つ頷くと、先程待っている間にアンジェリカから返してもらった鍵をぎゅっと握りしめ、真っ直ぐと顔を上げた。

 リュシアンの時と違い、今は自分がここにいる。

 私にはまだ、彼らのために出来ることがある。


  ***


 案内してもらった浴室でフランカに暖かい湯で体を拭い、髪を梳いてもらったところで、エラニエの用意した部屋へ向かう。程なく、呼び寄せていた小柄な聖職者の少年が「お呼びと伺いました」とやってきた。

 ミシェル・アフィン・プラヴェール、といったか。プラヴェールは確か西側に基盤を置く教会家門の子爵家だったように記憶している。あまり教会の上層に食い込むような家門ではないが、代々聖職者を輩出していることでそれなりに著名な家だ。

 アンジェリカの聖女騒動の時にアンジェリカを庇う立場で傍にいたと聞いているから、聖女に関する知識があることは間違いなく、だが彼が今の立場でどれほどにこのベルテセーヌの聖女という物の事実を知っているのかは分からない。分からないが……今は、彼に頼むしかない。


「確か司祭見習い、でしたね」

「はい。今は王都で修練に入っています」

「私については、何か教会で教わっているのかしら?」


 そう問うと、ミシェルは一瞬どきりとしたように口を噤み、わずかに(ため)()ってから、「教会ではなく、クロード殿下から、少し」と呟いた。なるほど。十分だ。


「少々特殊な方法で、治療用の聖水を作ろうと思っています」

「っ……」

「アンジェリカが持ち込んだという体にするつもりです。ただここには必要なものが足りていないから、近くの教会で銀の水盤と清めの灰、ベルブラウを見繕ってきて欲しいの。生花が一番いいけれどもう散った季節だから、乾燥した物でもいいわ。教会の清めの時と同じ物よ」

「……分かりました。灰は()(あか)()に使われたものですか?」

「その方が質はいいけれど、祭壇からの落とし火の灰でも十分よ。急いでくれた方がいいから、御灯明の灰あまりないなら、真新しくその場で燃やしたサントベロの灰がいいわ」

「すぐに行ってまいります」


 そう頷いたミシェルを「護衛がてらについてまいります」というエラニエに任せ、彼が戻るまでの間に改めて冷たい井戸水を浴びて(みそぎ)の代わりとした。

 ベルテセーヌではまだ秋というに早い残暑の季節ながら、山間の水は身が凍るようだった。塔の冷たさと合わせても、こんな場所で冬を迎えていたらと思うとぞっとする。

 クロードが行方不明になったのは去年の冬だったが、塔に入れられたのがいつなのかははっきりしていない。それがせめても春を迎えた後であったのならばと思わずにはいられない。


 それからフランカの手を借りてある程度部屋の中も清めている内に、ミシェルが帰ってきた。驚いたことにミシェルは「教区長様から公女殿下宛ての荷物が届いておりました」と言って、王城の温室で季節外れに咲く最も質のいいベルブラウの生花を持ってきた。きっと教区長の耳にもクロードが黒の塔にいたことが届いたのだろう。

 そのミシェルにサントベロの聖木の灰で水盤を清めさせて、月の光の当たる窓辺に安置させた。そこからは誰一人としてこの部屋には立ち入りを禁じて、リディアーヌが手ずから、ここに持ち込んだ書庫の聖水を水盤にそそぐ。

 すでに二日経っているので、聖水とは名ばかりのただの綺麗な水だ。しかし月が昇り始めてからそこに聖女の鍵を沈め、ベルブラウの花を浸して水をかき混ぜれば、月色の光をちかちかと飛ばしながら、シャリ、シャリン、とか細い音が漂い始めた。

 とても不思議なことに、聖女がこの手順を踏むと水が不思議な音を刻むのだ。

 その音がどんどんとか細くなって聞こえなくなると、かき回していた花をそのまま沈め、また次の一本を手にしてシャリ、シャリンとかき混ぜる。

 そうやって四本、五本となった辺りで、完全に音がしなくなった。

 やはり、聖女書庫で聖水を作るよりも多くのベルブラウが必要だった。それに水の輝きも淡い。

 月も本来聖水を作るべき満月の日ではないから、効能としては落ちるし儀式用にはならない。しかしはらんだ光を見れば、決してただの水でないことも明らかだった。

 あとはやることもないので、持ち込んだ毛布にくるまって長椅子でうとうとと舟を漕ぐだけなのだが、くしくも月明りを取り入れる窓から外にまっすぐと黒の塔が見えて、結局寝付くことはできなかった。


  ***


 アンジェリカが訪ねてきたのは深夜の事で、念のために立ち入らないように伝えてもらい、翌朝、今一度ベルブラウの花で聖水が劣化していないのかを確かめてから、銀盤のままアンジェリカに託した。


「布を浸して、体を拭ってあげて。目には直接ではなく、布を使って五分ほど覆ってあげるといいわ。それから先に三本ほど汲み置いて、治療の前と後、それと薬の効能を高めてくれるから、次の投薬の後にももう一本飲ませて。夕には聖水の効能は消えるから、今日中にすべて惜しみなく使ってしまいなさい。できるだけ日の光には当てないように」

「分かりました」


 ミシェルの手を借りて水盤を運んで行くのを見送れば、リディアーヌの仕事も終わりだ。

 ふぅと息を吐いて長椅子にしなだれたところで、「お疲れ様でございました」と(いたわ)しそうに入ってきたフランカが、食べやすいリゾットや果物を並べてくれた。


「アンジェリカのことが心配で、体より心の方が休まらなかったわ」

「私もです」

「アンジェリカはちゃんと眠れたのかしら?」

「一応お部屋は用意していましたが、夜の間もずっと殿下のお傍にいらっしゃいましたよ。蜂蜜とミルクをたっぷりと溶かしたお茶を何度かお勧めしましたが、そちらはきちんと召し上がってくださいました」


 根を詰めないようにと言いたいところだが、アンジェリカの気持ちも分かる。「無理がないよう、よく見ておいて」とだけ頼んでおいた。


「それで、姫様はこれから(いか)()なさいますか?」


 そう問うたのはマドリックと文を取り交わしてあちらの様子を伝えてくれたばかりのケーリックで、ひとまずダリエルの寄越した文官やマリシアンを連れてクロード収監に関する情報収集をするようにと命じた。


「看守長やほかの看守達の動きにも気を付けて。エラニエ卿はケーリック達の警護をお願い。差配はすべてあちらの文官達に任せて、決してヴァレンティンが主導に見えないようにだけ気を付けてちょうだい」

「かしこまりました」

「それから私は……」


 公女が自らよその国の重犯罪者を収監する場所で勝手に調べ物をするわけにはいかないので、あくまでもできるのは人手を貸し出すことだけだ。だから大人しく部屋に閉じこもることくらいしかすでにすることはないのだが、クロードの様子によってはもうしばらく聖水作りをする必要があるだろうか。


「確かここから青の館は半日ほどの距離だったわね」

「はい。移送する許可はいただいていますが、すぐに移りますか?」

「ここの環境もそうよくないでしょうし、クロードが動かせる程度に回復したら先生に提案してみてちょうだい。私も少し……あちらで調べたいことがあるの」


 そう告げたリディアーヌの様子に何を思ったのか、ケーリックは深く突っ込むことはせず、「かしこまりました」とすぐに出て行った。


  ***


 その日の内に訪ねてきた医師からもここを離れた方がいいと聞かされ、看守棟ではクロードを動かす準備が始まった。幸い極度の栄養失調と免疫低下はあったものの、怪我は重篤でなかったそうで、注意を払ってゆっくりと動かす分には大丈夫だと判断された。

 それよりも精神的なダメージの方が重かったようだが、こればかりは時間をかけるしかなく、今日もアンジェリカがつきっきりで、穏やかにヴァレンティンでの健やかな日々の話などをしているという。その甲斐があってか、少しばかりだがクロードの口元にも笑みが浮かぶ瞬間があったと聞いた。


 念のために残っていたベルブラウの花でもう一度聖水を作り、翌朝同じようにやって来たアンジェリカに聖水を渡した。昨日の聖水もアンジェリカが知っている物よりはるかに効いたらしく、またアンジェリカも少し心に余裕ができたのか、クロードがどんな話に笑ったのか、どんなふうに綺麗に傷が良くなったのかなどを雛鳥のようにピーチクパーチクと語ってから病室に向かった。

 気丈として見せてはいるが、やはり不安なのだろう。

 幸い、人の心に寄り添うことを生業とするミシェルがしっかりとアンジェリカのケアもしてくれているというから、過度なお節介は働かずに見守った。

 移動はその日の昼前から始まり、出来るだけ揺れずにゆっくり運べるようにと竜車ではなく馬車を用いて、座席を取り除いた空間に毛布を敷き詰め、クロードとアンジェリカ、ミシェルらを乗せて出発した。


 リディアーヌはこれに先立って竜車で青の館に向かうと環境の良い部屋を見繕って病室を調えさせる傍ら、王都から送られてくる情報の整理に当たった。

 すでに王都ではリュシアンの復権が正式に布告されており、さらに南東での反乱によりマイヤール候をはじめとする首謀者に対する刑罰の布告も下った。ただ聖女アンジェリカからの嘆願という形で一族郎党の処分とはならず、マイヤール候に突き落とされたマイヤール夫人や、重要な情報をもたらし貢献したラジェンナ嬢などはひとまず謹慎処分に処され、この後新王即位の恩赦で釈放されることになったという。

 このあたりは随分とダリエルが根回しをしてくれたというから、ラジェンナ嬢と一緒にマイヤールの上城で証拠の収集などをしながら、ラジェンナ嬢とは随分と打ち解けたのかもしれない。

 ただしマイヤール家自体は滅門となったため、ひとまず母方の遠縁の子爵家の預かりになるらしい。


 ブランディーヌ夫人については最後まで浅ましいほどに自分の無実を訴えたそうだが、すでに極刑の布告を受けたアグレッサ元王妃が積極的に告発しているという。それに続いて、フォンクラークのバルティーニュ公からの協力もあって、ブランディーヌがクロイツェン側から得た人材を使って国境を脅かしたこと、また反乱の誘発に関与したことも明るみに晒された。極めつけに、王の許しもなく王太子であったクロードをかどわかし黒の塔へ幽閉したこともこれから告発されるだろう。

 だがここに至って、『我が国も無関係ではないため』という理由をつけたクロイツェンからの使者の来訪を告げる書状が届いた。リディアーヌにも、『出来ればこの面会には立ち会っていただきたい』という要望が届いたため、今宵聖水を作り終えてアンジェリカに託したら、その足で王都に帰ることにした。

 いずれにせよ、先王子と先王女の毒殺事件についてだけでなく、先王暗殺に関する追及には同席したいと思っていた。いや……むしろ、それこそリディアーヌが同席せなばならない内容だ。


(ようやく……ようやく、ここまで来た――)


 ギシリと椅子を鳴らして立ち上がり、美しい大きな窓から木々の生い茂る庭を見やる。

 かつてリュシアンが日々を過ごしていたという青の館の父の書斎は、思っていた以上に大きく立派な場所だった。それは何なら城の書斎よりも私的で居心地がいいのではないかというもので、柔らかい起毛の絨毯に濃い黄色の長椅子と、深い赤味のある本棚や机に至るまで、どれもリディアーヌの知らない父の面影を残した場所だった。

 机の上の瀟洒なランプ。簡素だけれど丈夫そうな月白色の羽のペン。螺鈿の細工の小箱に詰まった私的に用いるための蝋やシーリングスタンプ。机の上に家族の絵姿なんてものはなく、代わりにあったのはかさかさに乾いた押し花に薄い黄色のリボンをかけた置物で、気高いヴァレンティンの公女であった母が贈るはずもないような素朴なものだった。


『我が同志、我が慰めにして、我が友――エーリリテを想う』


 そんな言葉の刻まれた石造りの簡素な石標を見つけるのは簡単なことだった。書斎から見える人為的に()(なら)された小道の奥に、沢山の小さくて可愛らしい花々の中、ひっそりとそれは立っていた。

 エーリリテとやらが誰なのかは知らないが、きっとここには父が棺もないままに墓所の代わりに詣でていた弔いの場所なのだろう。

 幸か不幸か父は祖父のような不義理な男性ではなかったようで、刻まれた年号は母との結婚より古く、ここで浮気でもしていたのかなどという娘の疑いは露と消えた。だが父がここで別の誰かを想っていたことは確かで、あるいはその石標が墓標のように見えることを思えば、その人はすでに亡くなっている……それも、不慮というには(たち)の悪い理由での死であったことが察せられた。

 私は意外と、自分の父の事すらもよく存じていなかったのだ。


 それもそうだろう。父を失ったのは六歳のことで、その六歳の記憶としても、父母は皇帝戦のためにほとんど国を空けていた。

 皆が尊敬する父だからとリディアーヌも例外なく父を尊敬して愛おしく思っていたけれど、実際の所はどうであったのか……それを聞ける人がいないことは、むしろ幸いなのかもしれない。






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