1-13 聖女からの脅迫(2)
「後宮にお仕えしていたジャニット婦人がお育てしていたのですから、決して市井育ちだからと気になるほどのことはないのです。学院に編入なさってからも、最低限の作法は出来ておりました。ただなんと申しましょうか……感覚がずれ……いえ。異なっている、といいましょうか……。天真爛漫といえば聞こえはいいですが、他人との距離の詰め方が異様で、とりわけ非常に軽々しく他者の身体に触れるものですから、異性への関心が高まる年頃の高貴な若君方はすぐに気を許してしまいました。手を取る、肩に触れる、腕を組む、はては人前で胸に泣き縋る……そんなものは日常茶飯事です」
隣で話を聞くエイデン助祭が驚いた顔で目を瞬かせている。
男女の距離が近い東大陸出身のエイデンにとっても、女性の側からそのように積極的に異性に触れる作法は存じていないのだろう。むしろ困惑する類のものであるようだ。
「それはもう、見ていられない程に恥ずかしいお振舞いで。我々聖職者などはいわれのない背信を着せられては困ると、全力で避けていたほどです。ヴィオレット嬢はそうしたアンジェリカ嬢をよく窘めていらしたのですが……ただアンジェリカ嬢は別に媚を売っているというわけでもなく、身分男女構わず皆平等にそのようにお振舞いでしたから、女子生徒の中にもアンジェリカ嬢にチヤホヤとされて気を良くする者もいまして」
「なるほど……ずれている、ですか。確かに、少々想像の付きにくい振る舞いですね」
抱いていたアンジェリカ嬢の印象とも少し違う、天真爛漫な幼子のイメージだ。だがそんな振舞いが許されるのは、せいぜい七、八歳。かろうじて十歳までだと思う。
「令嬢は謙虚な物言いで皆の気を良くさせましたが、私の目には上位者が情けをかけているかのように見えることが有りました。信心深いベルテセーヌ人にしては聖職者に対する態度も随分と……その。気さくでしたから。アンジェリカ嬢は自分の母方の出自を知っていたのではないかという気もしております」
市井から突然貴族の娘として引き取られ貴族の集まる学院に入れられて、なのにそのように爛漫に振舞えたというのは、なるほど、自分が実は王家の血を引く王孫だと知っている余裕なようなものを感じさせる。
臆することなく王太子に近付いたのも、自分がそうしても良い立場なのだという自負があったからであろう。
王太子の許嫁であったヴィオレット嬢もまたクリストフ一世の孫娘。ならばアンジェリカ嬢が同じクリストフ一世の孫娘として、『どうして私ではないのかしら?』という純然たる疑問を抱いたとしても不思議はない。
まぁなんにせよ、諸悪の根源は王太子だと思うけれど。
「王太子殿下の方はどうでしたの?」
「それはもう、瞬く間に落ちた、という感じでしたね。元々殿下は品行方正で非の打ち所のないヴィオレット嬢に堅苦しさを覚え、避けていらっしゃるご様子があり……まぁ、王太子妃となられる御方としては頼もしいとも言えるのでしょうが、お若い殿下には窮屈だったようです」
テシエ司祭の語ったその感覚は、リディアーヌにも覚えがあった。小さな頃、よく王宮に顔を出していたブランディーヌ夫人がそういう人だった。あの人がいる所では少しの気も抜けなかったものだ。
なるほど……ヴィオレットはあの人の子供だ。あの人に育てられたのだから、常に張り詰めたような空気を纏っていたことは想像に難くない。あれは息苦しいものである。
王太子にも同情してしまうが、しかしそれでもそれと付き合っていくことが求められるのが王というものだ。擁護する気はさらさら起きなかった。
もっとも、国許で令嬢達が語ってくれた『嬉々として国を去った』姿とは相変わらず結びつかない。あるいはこの『嬉々として』の方が誤情報なのだろうか?
「それで殿下は、爛漫としたアンジェリカ嬢に瞬く間に惹かれたのね」
「アンジェリカ嬢は、感情を真っ直ぐと伝えます。嬉しいことは嬉しい。悲しいことは悲しい。そして嫌なことは嫌だと。アンジェリカ嬢に悪気があったのかどうかは分かりませんが、少なからずそうした言動がヴィオレット嬢を追い詰めたことは間違いないでしょう。ましてやそのアンジェリカ嬢に聖痕があったなどとなれば……あぁ、彼女の爛漫で分け隔てない態度は、神の慈愛にも似たものだったのかと。そう思わされた気持ちというものも、まったく分からなくはありません。若い修道士の中にはそうして心動かされたものも多かったようです」
そんなことを言いながらも、テシエ司祭の面差しは嘲笑的で、どうやらその若い修道士達とは違って懐疑心を抱いているようだ。
「テシエ司祭はいかが思っておられるのですか?」
「……そうですね。正直……」
ちらり、とこちらを見た眼差しが真剣で、リディアーヌもつい口を引き結んでしまった。
“その目”を知っている――。それは、王の子を見る目だ。
「私がベルテセーヌの教会に戻ったのは三年前。その前は聖都にて修練しており、その修練のためにベルテセーヌを離れたのが八年前……まだ今の王太子殿下がそうとは呼ばれておらず、そして公女殿下……貴女様が、“王女殿下”とお呼ばれしていた頃です」
その話がリディアーヌにとってタブーであることは重々承知しているのであろう。テシエ司祭の声色は控えめだった。しかしその声色にはただ声を潜めているだけではない、つい昨日の出来事のように懐かしがっている様子が垣間見えている。
「私は、あの不幸な事件が起きる半年前……貴方様が王女殿下としてベルテセーヌにお戻りになり、王太子妃殿下とおなりあそばされる直前に、修練でベルテセーヌを離れました」
「……えぇ」
「そのせいでしょうか。私にはいまだに、かつての王太子殿下があのような凶事を目論んだなど、とても信じられません。とても勤勉で、聡明で……そして先王陛下をこよなく尊敬していらした。そんな殿下がもし今ベルテセーヌ王室に貴女様と共に並び立たれていたのだとしたら、このような馬鹿げた事件はあり得なかったはずです。このような……そう。こんなのはまるで、子供のママゴト。茶番です」
「……」
その言葉に対する感情は複雑だ。
“かつての王太子”……そう呼ばれるその人を、今なおどんな感情を持って思えばいいのか、リディアーヌには整理がついていない。
兄が継ぐはずだった王位継承権を奪った男の息子。愛する兄を殺し罰された、信じていたはずの人。それを恨みに思い、絶望し、拒絶し……だが今になって思えば、あの時の事件がひどく奇妙に感じる。それはテシエと同じだ。
『違うっ。私ではない! 信じてくれ、ディー! リディアーヌ!』
近衛兵に引き倒されながら懸命に声を張り上げていたあの人の姿が……今も瞼の裏にこびりついて離れない。
誰もが知るほどに勤勉で、思慮深くて、多くの罪悪感を抱えながら、先王の遺子であるリディアーヌを娶り宝物のように遇し、慮らんとした人だ。それほどに政略的であり、そして為政者であらんとした人だった。
あの頃の城を知っている者であれば、今のこの政略度外視で国を混乱に貶めた王太子とそれを取り巻く学院内の情勢に呆れ返るのも仕方がない。
事実、リディアーヌも話を知った時にはひたすら呆れた。
だがたとえ呆れるような事件であったとしても、それはもう起きてしまったことなのだ。
「正直なところ……私も話を聞いた時には、王太子殿下の軽率な振る舞いが微塵も理解できませんでした。ですがテシエ司祭。アンジェリカ嬢に聖痕があったとなると、それはもう子供のままごとではすみません。国王陛下がその場でアンジェリカ嬢をお選びになったのです。これはもう、皇帝陛下や教皇聖下までもが注目する、国を越えた大事です」
「っ……ええ。はい。そうですね」
正直このままどちらもこちらも皆馬鹿馬鹿しいわよねと本音を語りたいところではあるが、リディアーヌがここにいる目的はあくまでも“アンジェリカ嬢の聖痕をそうと認めること”にある。どれほど王太子が軽率で、アンジェリカ嬢の背後が気になっているとしても、偽物だと証明して再びリディアーヌが聖女に祀り上げられ、利用されては困るのだ。
だからリディアーヌがせねばならないのは、“アンジェリカを認めさせること”である。
正直、アンジェリカ嬢がどんな人物であるのかはどうでもいいのだ。よほどの悪女でなければ、それでいい。そしてそれは確認できた。
「私はアンジェリカ嬢の人柄を知りたく思いましたが、それは大衆の目から見て、アンジェリカ嬢が悪と断言されるような人間でないことを確認したかったからです。元より私はすでに余所者。ベルテセーヌの国政に口を挟むつもりはございません。私はただアンジェリカ嬢の聖痕が本物であった場合、それをそうと口にしてよいのかを知りたかったのです」
「……公女殿下。いえ、あえて“聖女様”と呼ばせてください。聖女様。貴女様はアンジェリカ嬢の聖痕が本物であるかもしれないと、そう思っておられるのですか?」
「見てみるまではわかりません。けれど私は別に、聖痕を独り占めしたいだなんて思っていませんわよ。アンジェリカ嬢の聖痕が本物であったとすれば、現王室にとってどれほどの吉兆でしょう。宰相家の令嬢を国外に追いやってまで受け入れたご令嬢なのです。偽物であった……だなんて。その方が恐ろしいですわ」
違いますか? と見据えたところで、テシエ司祭がごくりと息を飲んだのが分かった。
中々に聡い見解をしている司祭様だ。こう言えば、リディアーヌがこの状況を聖女などという偶像ではなく、“一人の為政者”として判断していることにも気が付くだろう。
つまり、ベルテセーヌはすでに、今更それが“偽物でした”だなんて言えない状況なのだ、と。そう言っているということに。
「聖女様……そういえば、お伺いするのを忘れておりました。私は何用にて、密かにこのような招きを受けたのでしょうか」
ほら、察しが良い。その満足な反応に、満足げに微笑んで差し上げる。
「テシエ司祭。どうやらこの聖別の儀を催す方々は、あちらこちらに策を凝らし、事実を捏造したがっている様子。私を聖別の儀に呼んだのは、元聖女自らアンジェリカ嬢の聖痕を偽りと証言させるためであるように思っています」
「……」
「ですがそんなことをして何になりましょう。はっきりと申し上げておきますが、私は検分を請われて参列したのみ。結果がどうあれ、私がベルテセーヌに再び根を下ろすことは断じてないのですから、慮っていただく必要はありませんわ」
「ッ……そ、そのような」
ベルテセーヌ教会は、ヴィオレット嬢もいなくなりアンジェリカ嬢の聖痕もまた偽物となれば、この四方八方塞がれた状況の中、王室はただ唯一の活路……つまり、すでに教会が本物であると認めているリディアーヌという聖女を再びベルテセーヌの王室に迎えるはずだと考えているのだろう。それが、同じアンジェリカ否定派でありながらブランディーヌ夫人とは違う点だ。
だが、そんなことは絶対にありえない。もしそんなことになろうものなら、リディアーヌがどうこう以前に、そもそも今回の件にリディアーヌを巻き込もうとした皇帝が、厄介者と化したリディアーヌを暗殺せんとするだろう。
リディアーヌはこの儀式で、皇帝やブランディーヌの望むままにアンジェリカの聖痕を否定することはなく、それでいて彼らから裏切り者として睨まれないよう、あくまでもリディアーヌの意図以外の“認めざるを得ない状況”によって、それを証明しなければならないのだ。
そしてそれは、アンジェリカが“本物である”と周囲が声を上げる結末でなければならない。そのためにも、聖職者達の協力は必須なのである。
「私はただこの目で儀式を見届けるだけです。それが本物であれ偽物であれ、私はそれを見届け、そしてただヴァレンティンへと帰ります。私はヴァレンティンの公女です。そう、“皇帝陛下”がお認めになっているのですもの」
「……」
もう分かっただろう。リディアーヌはもはやベルテセーヌの聖女ではない。ベルテセーヌに根を下ろすことは、もう二度とない。そしてすでにヴィオレットを罪人とした王家が、その言葉を取り消すはずもない。
では教会はどうすればいいのか。どうすべきなのか。
ただすべてを失い、混乱をもたらすのか。それとも、本物でも偽物でも……聖女という偶像を、手に入れるのか。
「私はただ、儀式が最も平穏に済むことを、心より願っております……」
「ええ、テシエ司祭。貴方には神々が憂うことのないよう、儀式をお手伝いいただけたらと思っております。真の聖職者たらん貴方が、聖女を利用しないことを願っていますよ」
「お任せください……聖女様」
粛々と頭を垂れた声色に感情は感じられなかった。
だがそれこそが、彼が感情ではなく理性を選んだことを明らかにしていた。
リディアーヌは見たままを受け入れる――この目が、信じたままを。私が信じるままに。
幼い頃のリディアーヌを知っていると、彼は言った。だったら分かるはずだ。リディアーヌが何を見たいのか――。
ベルテセーヌを混乱なく諫めるためには、“貴方達”が声を上げるしかない――。
これはそういう、“聖女からの脅迫”である。




