5-20 今後の手筈(3)
セザールが案内したのはほど近い場所にあったやや小ぶりな書斎で、どうやら日頃はセザールが使っている部屋らしいことが雰囲気から見て取れた。
奥の大きな机に促されると、すぐに彼の侍従らが手紙に必要なものを揃えてくれたので、まずはロマネーリ教区長への手紙を仕上げた。封蝋は青ではなく、白い封蝋だ。この家に選帝侯家の禁色の蝋を置いていないのも理由の一つだが、聖女から聖職者への手紙である以上、青である必要がないためでもある。
「それで、殿下。南部を実際の目でご覧になって、いかがでしたか」
わざわざ別室に来た本題はそれではないだろうが、ひとまず雑談と言った風に問われた言葉に、ぎゅっと封に印を捺したリディアーヌはゆっくりとため息を吐きながら印を浮かせた。
「言いたいことは多々あるけれど……そうね。一言にまとめるのであれば、ヴィオレット妃の残した影響にほとほと呆れたとでも言っておきましょうか」
「兵や民達の苦悩の声は、王都近郊にいる私にも届くほどです」
「ラジェンナ嬢が憐れだわ。実家のことは仕方がないけれど、どうか彼女には寛大な処置であることを期待するわ」
「殿下は相変わらず、まっすぐな気質の年下の女性に甘いですね」
「弱いのよねぇ、あぁいう子」
そう素直に認めながら、封蝋が乾いたのを確認して傍に立つシュルトを通じてセザールに渡した。それを「お預かりいたします」とセザール自らが丁寧に受け取る。
「ジュ―ドに妻子がいたことに驚いたわ。どうして知らせてくれなかったの?」
「私も知ったのは最近です。それに内縁の関係でしたから、お伝えするのも躊躇われて」
ジュードは兄が解放されれば間違いなく、王子の称号を取り戻す。ただでさえ王家の分家筋が減っている現状、民達に英雄と呼ばれているジュードを放っておくことは出来ないだろう。
だが王籍簿に名のある王族は平民とは縁付けない。神々に、正しきベザの血の継承を誓約しているからだ。ただ、それは表向きの話。
「適当に、どこかの貴族の養女にしてしまえばいいでしょう?」
「それも難しいのです……」
「何故?」
「リアーヌさんは孤児院の出身なのですが、あまり環境のいい孤児院ではなく、十代の幼い頃より花売りをしていました」
それが? と思って首を傾げたリディアーヌに、セザールが口ごもった。花売りの何が問題なのかわからずに益々首を傾げていたら、シュルトがそっと、「花は花でも色事の方の花でしょう」と口を挟んだので、ようやく意味を理解した。
「兄上のいた鎮守府が孤児院を摘発して、そんな生活から解放されたんです。ルシールも間違いなく兄上の子です。しかし貴族社会ではそういうものを見過ごしてはもらえません」
「つまり、ジュードが望んでいないのね」
「はい。歯牙にもかけられないような末端貴族の夫人ならいざ知らず、兄上は王族です。しかも、リュシアン兄上の同母の、ただ一人の弟です。その正妃は多大な役割を担います。ですがリアーヌさんは読み書きすらかろうじてという教養です」
セザールの言葉には少しの厳しさが有って、決してリアーヌを王子妃としては認められないと思っていることが窺えた。
少なくともリュシアンが復権すれば、ジュードはその一番の右腕である。その妃に王族女性としての気品と手腕を求めるのは当然のことで、長らく政治に携わってきたセザールらしい見解だろう。それはリディアーヌにもよく分かるものだった。
「兄上は私の反対も察しているでしょうが、それ以上に兄上自身が、リアーヌさん達にそんな無理を強いたくないと思っているはずです。王家の妃がどれほどの重責を担うのかを知らない兄上ではありません。それにただでさえ今の王族にはクロード殿下とアンジェリカ嬢の逸話もあったばかりですから」
「えぇ、そうね……これ以上、貴族達に不満材料を与えるわけにはいかないのは事実だわ」
仕方がないことだ。それでも思わず零れ落ちたため息に、こういう社会に巻き込まずにリアーヌ達をそっとしておいてやりたいというジュードの気持ちも大いに理解できた。ジュードは王族社会の恐ろしさを身をもって知っているのだから猶更だろう。
「だったら手っ取り早く、貴方が助けて差し上げたら? 貴方だっていい年して未婚のまま、ふらふらとしていられる立場ではなくなったのではなくて?」
「う……」
おそらくセザールも周囲からその手の話は嫌というほど聞かされているのだろう。顔色を濁したかと思うと、ニコニコと微笑んで回避しようと試みたようだった。
多分、これがいつもの常套手段なのだろう。だがリディアーヌはそんなものに目をくらませてあげるお人好しではない。
「ラジェンナ嬢はどう? 彼女ならこれからの教育次第で十分に国内の社交を率いていける人材になるでしょうし、物怖じしない利発さは外交でも貴顕らに好まれるわよ」
「……勘弁してください、公女殿下。私は私の血を後世に残す気はないんです」
「贅沢なことを言うのね、王子殿下」
そう茶化しながら席を立ち、セザールの前の席へと場所を移した。
「そういう公女殿下こそ、どうなさるんですか? “兄上”のこと」
セザールがこんな突っ込んだことを問うのは珍しい。多分これまでは聞きたくても聞けずにいた問いなのだろう。
ただその答えについては、リディアーヌ自身もまだよく分かっていないのだ。だからぼんやりと虚空を仰ぎ、かすかな吐息をこぼすしかできなかった。
「どうしたものかしらね……」
てっきり、迷う余地もなく否定の言葉が出てくると思っていたらしいセザールが驚いた顔で目を瞬かせる。
少し前までのリディアーヌであれば、もう自分はベルテセーヌとは関係がないのだからとすっぱり否定できたかもしれない。だが神問によって知った事実と、養父が隠していた母の嫁いだ理由のことを考えると、どう答えるべきなのか、迷わざるを得ない。
リディアーヌが未婚を貫いたところで、ヴァレンティンを継ぐフレデリクの子に聖女の因子が受け継がれたのでは意味がない。かといってリディアーヌが子を残したところで、それもまた濃い聖女の因子を受け継ぐ火種となる。聖女の因子がベルテセーヌのもので有り続けるためには、聖女の子はベルテセーヌの子でなければならない。それがどうしても引っかかる。
〈貴方達が、ベルテセーヌを――〉
母が残した言葉は、息子エドゥアールに対しては王位のことを。そして娘リディアーヌに対しては聖女の因子のことを言っていたのだろう。何しろ母は、そのためだけに恋人と別れ、ベルテセーヌに嫁いだのだから。
「こうとなったら、やっぱりセザール、貴方を婿にでも貰おうかしら」
それで子が生まれるようなら、ジュードの養子女かなんかにしてベルテセーヌに送り返してもいい。
無論冗談半分ではあったのだが、そんなことを呟いた瞬間、「おいおい、それは穏やかな話じゃないな」だなんて言って書斎にジュードがやって来たものだから、もれなくセザールが青い顔で飛び上がった。
「あ、兄上ッ、誤解です! 今のは公女殿下のお戯れでっ」
「ちょっと、必死すぎよ、セザール」
なんだか私がふられたみたいじゃない、と呟いたら「公女殿下!」と叱られた。
ふむ。そんなに悪い意見でもなかったと思うのだけれど。
「そんな話をするために俺を省いて密談を?」
「で、ですから誤解で」
セザールが必死に言い訳をしているが、ジュードの顔がもう半分弟を揶揄って遊ぶ兄の顔になっている。彼らの間にはもう、九年分のブランクなんてものはないのだ。昔と変わらない関係に、思わず口元が緩んでしまった。
「弟で遊ぶのはその辺にしてちょうだい、ジュード。先にセザールを揶揄ったのは私だけれど、別室に移ったのはラジェンナ嬢のいないところで詰めたい話があったからよ」
そう言ってからふとジュードの後ろを窺い、彼がダリエルを連れてこなかったのを見ると、うちのシュルトに「ダリエル卿も呼んでちょうだい」と伝言した。ジュードの参謀である彼にも密談には参加してもらいたいところである。
ジュードが腰を下ろしセザールにも座るよう促したところで、すぐにもシュルトがダリエルを連れて戻ってきた。すぐ外にいたのだろう。
「それで本題だけれど。シュルト、私のベルテセーヌ訪問の理由は『公子宮ならびに公女襲撃に関する謝罪の要求』あたりで間違いないかしら?」
「はい。一応、そうなっております」
うちのお養父様だかフィリックだかあたりが考えそうなことである。
「貴方達は先行のようだけれど、“公女”はいつ入る予定なのかしら?」
「後続と共に入る予定になっています。なので五、六日後でしょうか。あぁ、アンジェリカ嬢を同行させる旨についてはすぐに鳥を送らせ、騎竜で追わせます。すでにプラージュにいますから、出立している後続には途中で追いつけるでしょう」
ついでにダリエルとの間で、しばらくはヴァレンティンがアンジェリカの周辺の警護と保護を担うことなども詰めておいた。
「セザール、クロードのことは何か進展はあったかしら?」
「いいえ。リンザール家に関しての調べは順調に進んでいますが、それでもまだクロード殿下については何も出てきておりません。不自然なほどにです」
「行方不明の経緯も妙なんだ」
そう口を開いたジュードに、ダリエルも頷く。
「いかに愚弟とはいえ、それなりの軍を率いていた大将が唐突に消えるなんてのはおかしい。それでいて痕跡の一つも出てこないのだから、どこかを転々としているというよりは絶対に見つからないどこかにいるか、あるいは……」
すでに死んでいるか、なのだ。
「アグレッサ妃への追及が始まってしまえば、アグレッサを生母とするクロード殿下の捜索も、王子ではなく罪人の捜索になりかねません。その前には見つけたかったのですが」
「ザイード王子を人質にしかけたほどのブランディーヌが、クロードを出汁にアグレッサ妃をゆすったり脅したりといったことはしていないのかしら?」
「それも不思議な点ですね。少なくともそういう気配がないのは、徹底してクロード殿下を隠すためなのか、あるいは利用できない理由があるのか」
「利用できない理由?」
ブランディーヌに慈悲が有るわけでもないのに、と首を傾げたジュードに、ダリエルがすかさず「現王派を失墜させた後の新王候補かもしれませんよ」と言う。
ふむ。一度はヴィオレットによって権威を失墜させられたといっても過言ではないクロードだが、ブランディーヌにとってクロードほど扱いやすい王子もいないはずだ。リュシアンやジュードは論外であるし、セザールもこのところ表立って政治的な動きをしており、アンザス候など反オリオール側の人間と親しくしていて扱いにくい。だったらもう一度、権威も何もかも無くし、母すら断罪された後のクロードとなれば、それほどの駒はないだろう。
「ブランディーヌが自ら皇位に即く気なのかとも思っていたけれど、そうではないのかしらね」
「それこそクロードを擁立した後で、貴族らが猛反対をするのは間違いない。だったらもうブランディーヌしかいないじゃないかと妥協する……なんてのも有り得ないシナリオではないだろう」
もっともそれもこれも、クロードの兄達が完全に失脚していればの話だ。
幸いにしてジュードもセザールも威を保っているし、今後の計画が上手くいけばリュシアンも解放される。ブランディーヌに復権の余地などないが、逆に言えば、追い詰められたブランディーヌがクロードを人質として持ち出してくるのが最も嫌なシナリオだ。
だからこそ、早くこちらでクロードを保護したいのだが。
「追い詰めたところで、南東部で反旗が上がる可能性も高いわね」
「こればかりはどちらに転がろうとも避けられないでしょう」
そうきっぱりと言うセザールに、「簡単に言ってくれる」とジュードがため息を吐いた。
誰もジュードに先陣を切れと言ったつもりはないが、ジュードはそれを自分の役目だと疑いもなく思っているのだろう。それが彼の歩んできた九年間を象徴しているかのようで、少し胸が痛い。
「リンザール家の行っていたブラックマーケット関連の調べで、特に南東部に多くの売却が行われていたことが分かっています。売却資金は先だってお知らせしていた通り、シビーユ家を通じてブランディーヌ夫人の資金源に。そして南東部へ売られた子供の多くが傭兵として育てられ、それがまたブランディーヌ派などの手足として再び売買されるというルートですね。公女殿下、以前ヴァレンティンでも南東部ベルテセーヌ人が襲撃をかけたとのことでしたが」
「ええ。東部訛りと南東部の短剣術を用いる襲撃者を一人捕虜にしているわ」
「同じ頃、青の塔にも襲撃があったんです。まったく同じ特徴でした。ただこちらは背後関係を尋問したところ、ブランディーヌ夫人とは関係のない中央貴族の名が出てきて、襲撃の理由もアルナルディ元正司教の信奉者で、ロマネーリ教区長が訪ねた場所だから、といったようなことを」
理由は偽りだろう。だが偽りを述べられるほどに襲撃者が忠義を持っているというのは看過できないことだ。
「厄介なのは、その傭兵達が乞食同然の立場から救い上げられ、傭兵という職に就いた、と信じていることです。彼らには国に対する謀反を行っているという自覚が有りません。それに孤児院の改革や施しなどで功績を残しているヴィオレット妃を神格化しているような言動も見受けられましたから、おそらく南東部でそういう教育を受けているのでしょう」
「教育って……傭兵の貯蓄は、ここ二、三年なんていう規模ではなく、もっと昔からあったということかしら?」
「はい。少なくともリンザール家と南東部の取引記録は十年以上も前から……それこそ、先王時代から残っていました。活性化したのは、先王陛下がお隠れ遊ばされてからですが」
先王――リディアーヌの父を狙った暗殺事件は、確かに皇帝の一言から始まったが、実際に指示を出したのは当時のフォンクラーク王であり、実行したのはベルテセーヌに潜んでいた暗殺者だ。リディアーヌは長年、その暗殺者達の素性と、どうやって父の居場所を知ったのかが気になっていたのだが。
「まさか……なんてこと……」
思わず頭を抱えて吐いた深いため息に、誰もが黙って、リディアーヌに深く考える時間を与えてくれた。
父母を死に追いやったのは皇帝と当時のフォンクラーク王だ。そこにペステロープ家の関与を絡め先王派を排斥したのがオリオール家である。それが、今までのリディアーヌの知るすべてだった。
だが南東部への人身売買に、ブランディーヌ夫人と密接な関係にあるリンザール家が関わっていたのだとしたらどうか。リンザール家を通じて、最初から南東部とも繋がっていたのだとしたら?
南東部は、フォンクラークとの関がある。
ヴィオレットはその関を通って、断罪後にフォンクラークに逃亡している。
当時から、オリオールとリンザール、リンザールと南東部、そして南東部とフォンクラークとが誼を通じあう間柄だったのだとしたら?
もしもそうなら、暗殺者達を引き込んだのは……。
「オリオール……あるいはマイヤール家もまた、“お父様”の死にも関わっているのね」
思わず呟いた言葉に、「ディー」と心配そうに囁いたジュードが固く唇を噛んでいるのを見た。
マイヤール家はペステロープ家の滅門後、三度にわたる陞爵の申し出を断わり、最終的に現国王の勅によって侯爵家となった。だからこれまで疑いの目を向けたことがなかったのだが、まさか、マイヤールすらもそちら側だったというのだろうか。
そして彼らによって擁立された現王が、それを全く知らなかったはずはない。それは現王の子であるジュードやセザールにとって、ただ悔いるなんて言葉では表現できないほどの感情を湧き起こさせるものだっただろう。それはリディアーヌも同様だった。
「……ヴィオレットはどこまで知っていて、“マイヤール嬢”の手引きでフォンクラークへ逃亡したのかしら。本当に分かっていて、『オリオール家の罪を知っている』と豪語したのかしら」
見た限りラジェンナ嬢は存じていないようだったが、同じようにヴィオレットがマイヤール家の事実を知らなかったとしても、マイヤールを通じてフォンクラークと誼を結んでしまったことは国家反逆を追刑されてもおかしくない事態だ。
彼女は果たしてそれを、知っていたのだろうか。あるいは知らずに、無恥にも罪を重ねたのだろうか。
「少なくともあの偽善者が、今私達が抱えている失望と憤りを理解し得たとは思いません」
クロイツェンにいた頃よりはるかにはっきりとしたきつい評価を下したセザールに、リディアーヌもただ同意する気持ちで頷いた。
かつて先王を弑したものと同じ集団が、今再び南東部で謀反に加担している。彼らはヴィオレットを先王暗殺に関わるフォンクラークへと逃がし、黒幕たるクロイツェン七世の孫と縁付かせた。そして何より彼らは、“ヴィオレット派”を謳っているのだ。
クロイツェンに喧嘩を売るつもりはなかったけれど……これはもう、さすがに見過ごしてはおけない。
「ジュード、セザール……」
ゆるりと立ち上がったリディアーヌに何を思ったのか、ぱっと席を立った二人が心配そうに歩み寄る。その二人の手を取り上げて、ぎゅっと握りしめた。
堅く鍛えられ、分厚く、痛ましく傷ついたジュードの手。華奢でなよなよとしていながらペンだこができるくらい、密かに水面下で努力をし続けていたセザールの手。卑しい簒奪者の子でありながら、自分と同じ血の流れた憐れな従兄達。
彼らが自分達の身内を怨み、剣とペンを取ってくれることがどれほどの覚悟であるのか、それが分からないリディアーヌではない。
その決して当たり前ではない伸ばされた手を額に掲げる。
「貴方達がここにいてくれることに、感謝を」
そしてそれと同じほどに、謝罪を。
これほどまでに私達の関係がこじれてしまったのは、ふがいなく倒れた父と、兄。そして何もできずに逃げるしかなかった、私のせいなのだから。