5-17 衝突と再会(2)
荷袋の中で上がった娘の声に、はっとリアーヌが振り返って巧みに馬の手綱を引いた。
すぐにリディアーヌの隣を駆け抜けケーリックの傍に付いたので、ルシールは二人に任せてリディアーヌが周囲を警戒する。
振り返った先で、すれ違った農夫がびっくりとこちらを見て目を瞬かせているが、彼はただの農夫だろうか。あやしい挙動はない。馬を連れているわけでもない。だがこうとなっては、こんなところでダラダラとしているわけにもいかない。
同じように察したのか、ケーリックが袋の口を開けると、飛び出してきたルシールが母の姿を見てそちらに飛びつこうとする。この危険な状況に眉をひそめつつ、泣く娘を放ってはおけなかったらしいリアーヌがすぐにルシールを自分の馬に引き取って宥めた。
「どうしたの、ルシール。大人しくしている約束だったでしょう?」
「きらきら、甘いの、おっことしたぁ」
そうケーリックを見て指さすルシールに、はっとしたケーリックが袋の中を確かめる。どうやら少し馬が揺れた時に、手に持っていた飴玉の瓶を落として袋の足元に落ちてしまったらしい。柔らかい布だから、取り上げたくても取り上げられなくて泣いてしまったのだ。
「ルシール、そんなことで」
リアーヌが困ったように窘めているが、もう今更もう一度袋の中で大人しくしてくださいとは言えない。
「リアーヌ様、ケーリック、このままパンテールまで駆け抜けましょう。私が先頭を!」
そう馬を前に出すと、はっとしたリアーヌも頷いて、ぎゅっとルシールを自分に抱き着くように促して後ろを着いてくる。一番後ろはケーリックだ。
だがその瞬間、ドン、ドドンッ! と大きな音が響き、地面が揺れた。
振り返った先で、館からじんわりと煙が立ち始めたのを見る。これは益々、猶予がない。ラジェンナ達が心配だが、戻ったところで足手纏いになる。
「急ぎましょう」
そう馬の腹を蹴るのに続いて、二人も馬を走らせた。
素人紛いのリディアーヌと違ってリアーヌは馬の操舵にも慣れているようで、一人竜交じりではない生粋の馬な上に娘をあやしながらという手間をかけながらもぴったりと着いてくる。
一気に馬でなだらかな山道を駆け下りて行くが、その途中、脇の森からぞろぞろと怪しげな連中が出てきたのを見た。どうやら火薬を運んでいた男達とは別の一団が潜んでいたらしい。
あの黒尽くめの恰好には見覚えがある。くしくも先般、ヴァレンティンで公子宮やリディアーヌの馬車を襲撃した連中と瓜二つだ。
元々、館に火を放ってリアーヌ達をあぶり出し、攫うないし害する予定だったのだろうか。
あちらに馬はないようだが、代わりに弓を番えている人影が見える。
弓はまずい。非常にまずい。あんなものを避けるスキルはさすがに持ち合わせていない。
「公女様!」
速度を上げるべきか。だがそうすると普通の馬に乗っているリアーヌ達が付いてこれるかどうか。そんなことを思っている内にも、リディアーヌの隣にリアーヌが馬を寄せてきた。途端、ヒヒンッとリアーヌの馬が戦慄いた。
はっとみれば、彼女の馬の尻に矢が一本刺さっているではないか。
「っ、こらっ! 貴女を逃がすのが目的なのに!」
そういいながら手を差し伸べたところで、すぐにリアーヌが手の中にルシールを寄越した。そうじゃない。リアーヌに、こっちに飛び移るよう求めたはずなのに。
だがその意は後ろから駆け寄ってきたケーリックが汲んでくれたらしく、崩れ落ちようとしている馬の上からケーリックがリアーヌを自分の馬に引き上げた。
こうとなっては、もう遠慮はいらない。全速力でパンテールに……と思ったが、いつの間にやら遠目に見えるパンテールの北西の城門からほど近い場所にも煙が上がっており、そんな城門からぞろぞろと騎兵が出てきている。あれは味方か、それとも敵なのか。
「ちょっと、あれどういう状況だと思う?」
「私に聞かないでください。用兵は素人です。姫様こそ、カレッジでは用兵学など取っていらっしゃらなかったんですか? 姫様の階級だと選択科目で一単位は必須ですよね?」
「軍令学の方を取っていたわ。用兵学と違って実技がいらないって、ミリムが言うから」
そんな雑談を吐きつつ、リディアーヌは咄嗟に森から出てきた連中から距離を取るべく、道を逸れて南寄りに、斜面の休耕地へと踏み込んだ。すぐに察したケーリックが同じように休耕地に踏み込んだかと思うと、「私は西寄りに回り込みます!」とリディアーヌから距離を取ってゆく。咄嗟ながらいい判断だ。
敵の狙いがジュードの身内だとして、妻子が別々の馬で別々の方向に駆けて行く。それだけで敵の動きを分散させられる。
よもやこんな状況を見てパンテールという王都への関門から兵が出てこないはずもないだろう。北門から出てきた連中が何者かは分からないが、回り込んで西門から入ろうとしたとして、“追われているだけ”のリディアーヌ達が問答無用に害されることはないはずだ。なので目指すは西門である。
これでもし西門まで向こうの手に落ちていれば成す術もないのだが。
しかしそんな心配を余所に、ピィーと耳に届いた聞きなれた鳥の声にはっと顔を上げた。
パンテールの北西方から飛んできて、リディアーヌ達の上を旋回している小さな鳥。夕闇に染まった暗い橙色の小さな体躯。
「ククの文鳥!」
ということは北西から出てきた兵は味方だ。
「ケーリック!」
「まさかのご夫人が弓の名手です! 散らしながら行くので先に行ってください!」
振り返ると、いつの間にかケーリックの後ろでリアーヌが弓を番えていた。まさか、武器まで扱えるとは……孤児と言っていたはずだが、馬の操舵技術にしても弓の腕にしても、よもやジュードが仕込んだのだろうか?
ちょうどリアーヌの手から放たれた矢が、先頭で追ってきていた男を射抜いた。かなりの名手である。
こうとなっては遠慮はいらないだろう。あまり大きく旋回せず畑の柵を飛び越えさせて、荘園とこちらとに分けて向かってきている騎兵の方にまっすぐと進路を変えた。
途中いくつか矢が飛んできたが、この竜種交じりの馬の頑丈さは類を見ず、たやすく矢を避け、はたまた指示するまでもなく蹴り落としてくれた。ちょっと動きが不規則すぎて酔いそうだ。
北西に向かうと同時にこちらに向かっていた襲撃者とも距離が縮まってしまったせいか、一本の矢が顔のすぐ傍を通過してローブを射抜く。一歩間違えれば頭に刺さっていたのでこれにはさすがに心臓が飛び跳ねたが、幸いにしてフードを落としただけであった。
同時に向かってきていた兵が放った矢が襲撃者の射手を射抜き、そのまま敵へなだれ込む。これを不利と見て取ったのか、襲撃者達が踵を返して森の中へと逃げ走り始めた。
半数の兵がそれを追うように森へ分け入って行き、もう半数がリディアーヌ達の傍を一気に駆け抜けて丘の上の荘園の館を目指す。振り返ってみれば館には今ももくもくと煙が上がっている者の、火の手は見えない。大丈夫だったのだろうか。
その兵達の最後尾から離れた数人が、こちらとケーリックの方へとそれぞれ駆けて来る。その様子を見て、“助かったのだ”という安堵の深いため息が零れ落ちた。
「恐れながら、ご事情をお伺いしたく」
パカパカと軽快に馬の蹄を鳴らして近づいてきた騎士の丁寧な物腰にほっとしつつ、腕の中で震えているルシールを一度抱きかかえなおして顔を上げる。
そして、その問いに答えようとした瞬間――。
「ッ、ディー!」
懐かしい声。懐かしい呼び方。懐かしい、人――。
まっすぐと駆け込んでくる黒鹿毛の馬に乗る男性。
まだ少年だった従兄であり義弟であったその人は、想像していた通りに成長して、でも想像していたよりもずっと砕けた装いと苦労をしたであろう風貌で、それでもよく知っている表情を浮かべながら馬を飛び降り、駆け寄ってきた。
リディアーヌがおろおろと馬を下りるのに手間取っている内にも、まさに飛んでくるというにふさわしい様子で駆け寄った彼が、ぎゅう、と馬の下から腰に抱き着いてきた。
わずかに馬が戦慄くが、びくともしない。
逞しい肩。大きな腕。力強い手の平。腰に顔をうずめた彼の、見違えるはずもない懐かしい金茶の髪。兄弟の中で一番濃い、ユリシーヌ譲りの色だ。
恐る恐る伸ばした手で髪に触れる。少しごわついて、指に絡む癖毛。指先に触れた肌の熱さが、彼が生きていることを教えてくれる。
「……痛いわ、ジュード」
ポツリと呟いた言葉に、腰を抱く腕がさらに強くなり、そのまま馬から引きずり降ろすように抱え上げられ、地面へと降ろされた。
並んで立つと分かるが、随分と背が高くてがたいも大きい。九年――それだけの時間、彼は王子という身分を離れ、辺境の最も過酷な環境の中で、一兵士として己に苦役を課し、鍛錬し続けたのだ。
ほのかに焼けた肌。見慣れない額や腕のざらついた傷跡。一国の王子とはかけ離れた荒れた手と固いマメ。彼の負った九年間が、深くその体に刻み込まれていた。
「そろそろ放して。ルシールが潰れてしまうわよ」
そういってようやく腕をほどいたジュードはふとリディアーヌがローブにくるんでいた少女を見やる。おかげで振り返ることのできたルシールが、「あ、パパだ!」と声を上げたものだから、はっと口に手を添えて困惑気にリディアーヌを見た。
そんなに動揺せずとも、もう事情は聞いている。
「えっと……これは、その。つまり……何?」
「旦那様」
折よく、迂回していたケーリックとリアーヌも合流してきた。
馬を止めるなりぱっと下りたリアーヌがジュードに駆け寄ると、丁寧に一礼してルシールを自分の元に引き寄せる。邪魔をしてはならない、と諭すかのようだった。
「リアーヌ。無事でよかった」
「私は大丈夫でございます。公女殿下が事前にご忠告下さいましたから」
そうリディアーヌを持ち上げるように言うリアーヌとリディアーヌの間を、またジュードの視線が行き来した。
その視線が何を意味しているのかはすぐに分かった。
「……公女……公女か。そうか。ディーが、本当に……」
たちまち、ぎゅうっと胸が苦しくなった。
九年前の断罪の日、リディアーヌは誰一人として庇うこともできず、墓所で炊かれる香木にくらくらと意識を惑わせていた。リュシアンが、ジュードが、ユリシーヌが罪を言い渡され鎖をかけられてなお、視線で追うことすらできずに呆然としていた。
ジュードと会ったのはあの日が最後だ。兄の無実を叫びながら、王籍を削られ、悲嘆に足を絡める母を必死に支え、心にもない避忌の視線に晒されながら引き立てられていった。
リディアーヌが王からひどい提案をされたのも、それを断った養父がリディアーヌを連れだしてくれたのも、それより後の話だ。ヴァレンティン大公は王都に入ったその日の内に、国民達に罵倒され、石を投げられ、辱められるジュードとユリシーヌに見向きもせず、エドゥアールの遺骸と幼いリディアーヌを連れてこの国を去ったのである。
そしてほどなく、リディアーヌ王女の死が布告された。
ジュードがそれを聞いたのはいつのことだろう。少なくとも彼の周りにはその時誰一人として王室の事情に精通した者はおらず、その“狂言”を彼に教える者はいなかったはずだ。
彼は、彼が可愛がった従妹であり兄嫁であった王女の死を、信じてしまったのだ――。
「ジュード……貴方、いつから……」
「去年だ。ダリエルに聞いた。だがまさか本当に……本当に、君が……」
「ごめんなさい……ジュード」
思わず伸ばした手で、ぎゅっと服をつかみ、額を摺り寄せた。
大きな手の平が昔のように髪を撫で、でも吹き出しそうな複雑な感情をぎゅっと堪えているかのようでもあった。
「馬鹿……馬鹿だよ、ディー」
「……えぇ」
「それほど俺達を苦しめたかったのか?」
「……」
「あぁ、そうだよな。当たり前だ。俺達はアイツを守れなかったから。でも酷い。酷いじゃないか。君は俺達から君まで奪ったんだ。分かるか? それがどんな絶望をもたらしたのか。母上がどれほど気に病み、失意のままに亡くなられたのか」
「そうね……すべて、私のせいだわ」
「馬鹿だ。本当に、本当に馬鹿なことをしてくれた。ディアナ」
「……えぇ」
甘んじてその言葉を受け入れていたら、再び強く抱きすくめられた。
まるで、本当にその人がそこに生きていることを確認するかのように、必死に。
この肩にそっと染み込んだ熱い雫の感触は、きっと気のせいではないだろう。
「ディー」
懐かしい声。懐かしい呼び方。
甘い夢を見ながらも甘くない現実に心を閉ざし、じっと責務を全うしていた幼い王女に、唯一子供らしい顔をさせることのできた、もう一人の兄。
「ディー……」
彼の呼ぶその愛称が、好きだった。
リディアーヌでもディアナでもない、ただの幼い子供を呼ぶようなその声が、好きだった。
「あまり、子ども扱いしないで。私、もう二十歳なのよ?」
「あぁ。だがそれでも君は私達の小さなディーだ。間違いなく」
今もほら。彼の目に映るリディアーヌは、ごりっぱな公女様になってなお変わることなく、ただの小さな妹なのだ。それがむず痒いような、こそばいような。
「生きていてくれて、本当に良かった――ディー」
捨てた名で呼ばれてなおこの瞼が重たく湿り気を帯びてしまったのは、仕方がない。
そう。仕方がないことなのだ。