1-11 ルゼノール伯爵家
アンジェリカ嬢の聖別の儀が行われるリンテン教会領は、形式上は大司教様を統治者としているものの、実際は皇帝直臣の三伯爵家により統治されている土地である。その中でも代々中核的存在として領政を担っているのがルゼノール伯爵家だ。
そんなルゼノール家のもう一つの特徴が、代々当主に女性が多いという点である。
およそルゼノール家の男子は皇帝陛下の政務機関である帝国院か、教会に入る。なので必然的に女子が家督を継承することが多いのだそうだ。現当主も女性だ。
この土地は、かつてヴァレンティン領からリンテンのさらに先にある寄宿学校に向かう道中に何度も滞在した領地でもある。その頃の楽しかった思い出と相俟ってか、街が見えると心も沸き立った。
ただ今回は楽しいだけのお出掛ではなく、今後を左右する大事な計略のための来訪だ。今日の所は聖別の儀場となる教会の前を素通りしたが、決して学校に向かっていた頃と同じ気持ちではいられない滞在となることは間違いない。
やがて竜車は、街の奥の城の前で停まった。リンテンでも領都にあたるこの付近一帯を治めるルゼノール伯爵家の居城にして政庁である。
教会と良好な関係を築いてきた地元の名士に相応しく、居城には教会建築の意匠が盛り込まれており、とても上品ながら細工を凝らした作りをしている。もはや文化財と言ってもいい古い城だ。
竜車を下りると、木々の香りに交じって、教会の苦い香木の匂いがした。盆地だからか、湿度が高い。ヴァレンティンより気温も高く感じられ、白い石畳に照り返す太陽の熱がもう真夏のよう。カァン、カァンと鳴り響く教会の鐘の音が幾重にも重なり、熱気と合わさって独特な雰囲気を作り出している。
そういえば、この季節にリンテンを訪れるのは初めてかもしれない。
まばゆい空を仰いだのは一瞬のことで、すぐにも中央から進み出てきた若草色のドレスの貴婦人がリディアーヌの視線をひきつけた。
「ようこそお出でくださいました、リディアーヌ公女様。少し見ぬ間にまたお美しくおなりあそばされましたこと」
一国の公女を相手に大手を広げ軽々しい口調で出迎えた貴婦人に、さりとて咎める言葉は何処からも飛んでこない。むしろ軽やかな歓迎の言葉が、長旅に疲弊しているリディアーヌに余計な配慮をさせないようにしてくれた。
ハグを交わせば、昔懐かしい、太陽と香木の香りがした。
「歓迎痛み入ります、ルゼノール女伯。おば様はまったくお変わりがございませんわね」
そろそろ六十に近い年頃だというのに、それを感じさせない随分と若々しい貴婦人は、アレクサンドラ・フィボラ・フォン・ルゼノール女伯爵。この城の主である。
「公子様もお元気ですか?」
「ええ。そろそろ長旅もできそうな年頃。こんな折でなければ連れて来てあげたいのですが……あぁ、このお守りはデリクが作ってくれたのですよ」
チャリと腕のメダルを見せてあげたならば、女伯の毅然とした面差しが、ただ一介の祖母のようにほころんだ。
彼女はフレデリクの実の祖母であるものの、選帝侯家というはるか格上の存在に対する遠慮があるのだろう。ただの一度しか孫の顔を見たことがないにもかかわらず、彼女がリディアーヌにそのことの不平を漏らしたことは一度としてない。
もっとも、もし当時兄が不幸に見舞われること無く無事にヴァレンティン家へと帰っていたなら、名実ともにアンリエットは兄と結婚し、公子妃となっているはずだった。当然両家はそのための準備を始めていたのだから、ルゼノール家の人々と一部の家臣、そしてヴァレンティンの臣下達はみなフレデリクの出生の秘密を知っている。フレデリクが本来であればベルテセーヌの正当な王位継承者であることも、知っている。知っているからこそ、ますます女伯はフレデリクのことを安易に口にできない。その出生の秘密こそが、幼いフレデリクの身の安全を守っているのだ。
それが申し訳なくもあり、心苦しくもあり……だがリディアーヌの複雑な面差しに何を思ったのか、アレクサンドラは一層面差しをほころばせると、実の身内のようにリディアーヌの手を取り上げ歓迎を示してくれた。
きっと兄が身分差も厭わずアンリエットを愛したのも、こんな暖かな家庭で育ったアンリエットが、幼い頃から重荷の多かった兄を癒してくれたからなのだろう。
「ベルテセーヌの使者も半数ほどが国境入りいたしましたよ。滞在はフォルタン伯爵家に任せてありますが、公女様は宜しければ私共の城に滞在して下さい。久しぶりに“姪”が顔を見せて下さったのだもの。私に持て成させてくださいませ」
「有難うございます、おば様。沢山お土産も持ってまいりましたの」
「それは楽しみですこと。さぁ、中に入りましょう。ご一緒にお茶はいかがですか?」
差し出されたエスコートの手を有り難く頂戴し、城の扉を潜る。
城の中は、かつてカレッジに向かう途中に宿泊させていただいていた頃と何ら変わることのない、懐かしい様相だった。かつては母も、叔父も、そして兄も。ヴァレンティン領から聖都の寄宿学校に向かうのに、皆この城に泊まったのだ。
アレクサンドラがいつも用意してくれるのは、政庁の並ぶ表向きの空間でも客間などのある東の棟でもなく、領主一家の私的な空間である奥向きの、女性の居室がある四階の客間だ。
客間といっても子供が多い時は当主の娘の居室になることもある部屋で、周辺には侍女や付き人が寝泊まりできる空間も備わっている。昔、母もよくこの部屋に泊まったのだと聞いたことが有る。
そんな馴染みの部屋に腰を下ろすと、旅の疲れも感じさせることなくセカセカと仕事を始めたフランカの手を借りて、旅の装いから公女らしい昼の装いへと改めた。
ふぅ……ひとまず、無事についた。
「ルゼノール女伯は、快い貴婦人でいらっしゃいますね」
髪を結い直しながら、フランカがリディアーヌの気を紛らわせるかのように軽い口調で語りかける。そういえばカレッジにはいつもマーサを同行させていたから、フランカが女伯にちゃんと会うのは初めてなのか。
「えぇ。アンリエット義姉様をお育てした方だもの。当然ね」
少しの切なさを感じつつも呟いたところで、「あ、でもフレデリク公子様とはあまり似ていませんね」と続けたフランカの軽口が、リディアーヌの顔をほころばせてしまった。
こっちは真剣に女伯との関係を計りかねているというのに、なんという率直な意見だろうか。少し気持ちが軽くなる。
「デリクはお兄様……父親似だものね」
「あら、姫様似ではありませんか? アセルマン候がよく、幼い頃の姫様にそっくりだと仰っておいでだと聞きましたよ?」
「……」
アセルマンめ。周囲に何を吹き込んでいるのか。まぁ、悪い気はしませんけどっ。
「いずれにしても、快く迎えていただけたことは良かったわ。聖別の儀にルゼノール家は直接関与しないけれど、いざという時には助けを期待できるかもしれない。少なくともルゼノール家内に滞在場所を設けていただけたのは有り難いわ」
「教会では息が詰まりますものね。食事にお肉が出ませんし」
「まぁ、フランカったらっ」
そこなの? と苦笑したところで、扉を叩く音がした。規則正しく丁寧なノック音は聞き慣れた音だ。きっと下の階の部屋に案内されていたフィリックだろう。
「入って」
声を掛ければ、案の定身なりを整えたフィリックが従士達を連れて顔を出した。早速、これからの動きに関する話をしに来たのだろう。聖別の儀は明後日。前もって色々と準備をするにも、時間はない。
「座って待っていてちょうだい」
そうテーブルを指し示したところで、フランカも気持ちばかり手早く髪をまとめてくれた。最後の髪飾りは軽く手で制して、さっさと立ち上がる。
「お待たせ。様子はどう?」
「守備は良く、しかし自由度は高く、気遣いもしていただき、城内の者もみな友好的です。第一段階としては好調な滑り出しといえるでしょう」
実に淡々と分析したフィリックの言葉に、困ったような苦笑が浮かんだ。
言わせたのは自分だけれど……フィリックにとってアレクサンドラ女伯は父の従姉という縁戚なのに、相も変わらず他人行儀が過ぎる。
「教会の様子はどうかしら?」
「まだベルテセーヌ教会の者達は揃ってはいないようですが、出入りは慌ただしいですね。ルゼノール家の侍従が今日にでも揃う予定だと言っていました」
「教会側の顔ぶれは先に把握しておきたいわね。ルゼノール家から把握できないか、頼んでみましょう」
「かしこまりました」
あとは……と話し合っておくべきことを考えていると、突如扉の外をゴンゴンと叩く音に意識を奪われた。
メイドにしては荒っぽい音で、かといって騎士が付けている篭手の金属音はしていない。はて、誰であろうか。ひとまず扉の前に立っていた護衛のエリオットに頷いて見せる。
かと思うと、エリオットが口を開くよりも早く、「お姫様!」と、背の高い女性が飛び込んできた。
「ようこそ、リンテンへ。お早いお着きでしたね!」
その顔を見た瞬間、「まぁ!」と、思わずリディアーヌも腰を浮かせた。
この北方には珍しい濃い色合いの髪。堀の深い整った顔立ちにくっきりと簡潔な化粧。恰好は一応ドレスだけれど、スレンダーかつシンプルで動きやすそうなもの。それでいてちっとも気品が損なわれないのは、彼女の引き締まった体つきが群を抜いて美しいからだ。
流石、ペンより先に剣を握ったと噂の小伯爵。
「お邪魔しておりますわ、クロレンス姉様」
ぱっと飛び込んできてすぐ、女伯そっくりの目元を緩ませながら手を広げて抱き着いた相変わらずのその人に、クスと笑みが零れ落ちた。女伯はよくこの“娘”に、『一体誰に似たのか』と溜息をお吐きになるけれど、彼女のこの男勝りで明るい雰囲気は嫌いじゃない。
いつも風の匂いを纏っているけれど、今日はそれに少し海の香りが混じっている気がする。はて。たしかにリンテンは海にも面しているが、港とはそれなりに距離があったはず。
「どこかにお出かけだったの?」
「あぁ。ベザの方までちょっとね。姫様の到着に間に合わなかったよ」
「ベザ……聖都ベザリオン?」
それは、“ちょっと”という距離ではないと思うのだが。
「もっと飛ばしたかったんだけど、連れが非力でね。明後日の儀式に参加するための教皇庁の立会人をベザリオンから連れて来たんだ」
ちょっとまって。それはクロレンスの実弟であり、今回リディアーヌの為に多大な労力を割いてくださったアルセール司祭なのでは?
「今日お着きだったの? ならご挨拶を……」
「いいよいいよ、愚弟のことなんて」
全然よくないよ、クロレンス姉様。
アレクサンドラ女伯は、先代の早世により若く二十代で爵位を受け継いだそうだけれど、領地をきっちり運営する傍ら、二男二女を立派に育て上げた御仁でもある。
長女がこの家の跡継ぎであるクロレンス。二十代の頃には家を出て皇帝直轄領で騎士として働いていたなどというお転婆で、後にそこで知り合った騎士と結婚し、領地に戻って来たと聞く。若々しく見えるが、年齢としては三十代後半の二児の母だ。
長男は皇帝陛下にお仕えする文官のクロヴィス。クロレンスの弟で、皇帝の寵臣エッフェル候に気に入られ婿となっている。帝国議会中にはヴァレンティン家の縁戚として、いつも叔父のしりぬ……ぐふんっごふんっ。親しくして助けてもらっている。
次男が教会に入ったアルセールだ。アルセール司祭といえば理論派、教学派としても呼び声も高い御仁で、枢機卿エティエンヌ猊下の肝煎りだ。今回の聖別の儀の立会人として選ばれるにもふさわしい立場で、同時にリディアーヌに既知ある人物であるから、まさに今回の聖別の儀のキーマンとも言うべき人物である。
そして末の娘が、フレデリクの生母でもあるアンリエットだ。兄姉とは少し年が離れているから、皆に可愛がられて育ったのだと聞く。
長女クロレンスは奔放ではあるけれど、当主として忙しい母に代わって弟妹をしっかりと育て上げた頼れるお姉さんだ。少なくともアンリエットは、『困った人だけれど私にとっては母のような人』と言っていた。
とはいえ、放っておいたらこのままダラダラと玩具にされるだけなので、リディアーヌはクロレンスを誘ってお城のサロンに向かった。アレクサンドラとの約束があるためだ。
◇◇◇
サロンに着くと、アレクサンドラだけではなく、優しげな雰囲気の男性と、その隣に小さな子供達が座っていた。クロレンスの夫エミールと、息子と娘だ。
「あら、貴女も一緒だったの? 私はまだ帰城の報告を受けていなくってよ、次期伯爵」
「あ、ただ今帰りました、母上」
何とも軽い報告に、アレクサンドラが深いため息を溢した。
それを眉尻をたらしつつ見やったエミールが、「お帰り、クロレンス」と言葉を続ける。どうやらクロレンスは夫や子供達にも先んじてリディアーヌの所に来たらしい。
きっと、クロレンスにとってのリディアーヌは、若くして亡くなってしまった妹の代わりなのだろう。エドゥアールの急死で結婚もさせてあげられず、子供を守るためとはいえ出産やその死に目に家族にも会わせてあげられず、さらに婚外子を生むという教会と縁の深い家門にとってはきっと何よりに不名誉に合わせてしまったアンリエット。なのにその原因たる私がこのように遇されてしまうのは、やはり気後れしてしまう。
クロレンスは、「ただいま、私の可愛い坊や達」と、人目もはばからずに夫の頬にキスをして、子供達を抱き上げ額に口付けている。きゃっきゃと可愛らしい子供達を見ていると、兄がアンリエットに惹かれた理由が分かるかのようだった。
私達兄妹も、幼い頃は……父と母が生きていた頃は、こうだったはずだ。けれど私はそれを、もう覚えていない。両親を失った衝撃と奪われた幸福に、かつてのことを覚え続けることができなかったせいだ。
「まったく、貴女と来たら……ごめんなさいね、公女様。いつものことながら」
「ええ、いつものことなので気に致しません。それに私はこのルゼノール家の和やかな雰囲気がとても好きです」
そうアレクサンドラの嘆きに苦笑を返しつつ、勧められた席に着く。エミールは気を使ったのか、幼い子供達がいてはご迷惑でしょうからと下がっていった。
もう少し見ていたかったけれど、今はそれどころではないので仕方がない。それにあんまり見ていると、うちの可愛いフレデリクが恋しくなって、飛び帰りたくなってしまう。
「子供はいいぞ。姫様、そういう予定は?」
そんなリディアーヌの表情に何を思ったのか、クロレンスは席に着きながら何とも率直な、けれどきっと何の含むものもないそんなことを言った。
別に、子供が欲しいと思ったわけではないのだけれど。
「生憎と。私、その辺は“お養父様”に似たようなの」
「あー、大公様はなぁ。あれはシスコンを拗らせているから」
「シス……え?」
初めて聞く言葉に首を傾げていると、「これっ!」と、女伯の叱責が飛んだ。シスコンは何か良く分からないが、どうやら大公様に対して使うには不敬な言葉だったようだ。どういう意味だろうか。
「まったく。貴女といるとヒヤヒヤするわ。いくら身内しかいないといっても、少しは気になさい」
「これは申し訳ありません。少し黙っていますか?」
「そうして頂戴」
「あ、姫様。うちの子なんてどうですか? もう十年もすれば男前になりますよ」
黙っているといった傍から、はっとしたように思いつくままを口にするクロレンスに、アレクサンドラの溜息だけでなく、ついでにリディアーヌの後ろに控えるフランカの微笑が聞こえた。
「クロレンス姉様の子供達が可愛らしいのは存じていますけれど、でもミシェルはまだ七つではありませんか。うちの甥と同じですよ?」
「そうか。フレデリク公子ももう七つになるのか……早いものだな」
「ええ。とても大きくなりました。いつかミシェルにも会わせてあげたいわ。従兄弟同士なのだもの」
「あ! じゃあ、公子の恋人にうちの娘はどうだ? 四歳で、年頃も合う!」
う、うん。クロレンス姉様と呼び慕う彼女の娘なら歓迎と言いたいところだけれど、クロレンスとてフレデリクの父親の複雑な身の上は知っているはずだ。ご当主たるアレクサンドラにお伺いも立てずに答えていい提案ではない。
そんな困惑を見て取ったのか、「いい加減になさい、クロレンス」とアレクサンドラが助け舟を出してくれた。
「大公家の公子様に失礼にもほどがあります。大体、うちは女子が後を継ぐことが多い家柄。そういうことはもう一人二人、子供を産んでから物申しなさい!」
女伯の理由付けもそれはそれでどうなんだと思わなくはないのだけれど……ただおかげでクロレンスはとても大人しくなった。
本当ならもっと彼らの団欒とした様子を楽しんでいたいところだが、生憎と今日はそうもいかない。クロレンスもそれについては分かっているらしく、「仕方ないねぇ」と背筋をしゃんとさせた。
さて。ここからの話題は当然、このたびこのリンテンで催されることになった、アンジェリカ嬢の聖別の儀に関してである。
「詳細は大公殿下から書面にてお伺いしましたけれど。もう一度、公女様ご自身からお伺いしてもよろしいでしょうか?」
「ええ。まずは女伯、このたびはリンテンでの聖別をお許しをいただいて、感謝しております。アルセール先生にもとても尽力いただいて……これなら、公平な儀ができることでしょう」
「場の提供は教皇庁からの正式な要請を受けたもの。私は教会領を預かる者として、その命を受けたまでのことでございます。私にも息子にも、お気遣いはいりませんよ、公女様」
そう自分達の立場を明確にしたアレクサンドラに一つ頷くと、再び話を続ける。
「今回の聖別の儀は、ベルテセーヌ王国エメローラ伯爵の息女アンジェリカ嬢の聖痕の真偽を確かめるための儀です。聖痕はベルテセーヌ王室の王女に稀に現れる物ですから、いち伯爵家の令嬢に顕れたことは王室の品位を問われるものです。ましてや聖痕が本物であったならばその持ち主を臣家に置いておくわけにもゆかず、聖女を迎えるため王太子クロード殿下は先の婚約を破棄するなど、政治が絡む一件となっていますわ」
アレクサンドラはコクリと頷いたけれど、根の真っ直ぐなクロレンスとしては納得いかないのだろう。あからさまに眉根が寄っていて、なんとも物言いたそうな顔だ。
その気持ちはリディアーヌにも分かるが、すでに起きてしまっていることはどうしようもない。我慢してもらおう。
「アンジェリカ嬢の聖痕が本物であったのかどうかは王家における重大事ですから、今回私は皇帝陛下の要請を受け、“実物を見知っている者”として招請を受けました。まぁ……結局は自分でお膳立てをすることになりましたが」
何しろ皇帝も教会もぐずぐずと煮え切らなくて。いや、きっとその間に色々と根回しをしたかったのだろうが、アルセール先生のおかげでその辺は全部すっ飛ばし、慌ただしくこの日を迎えることが出来た。先生とこのリンテンには本当に感謝している。
「私共もお役に立てたのであれば何よりでございます。それで、公女様。私共は場を調えるお手伝いは出来ますが、教会はあくまで教会の自治内。出来ることは多くはございません。貴女様の御身をお守りする術は、きちんと目算が立っておられるのでしょうか」
それが一番の気がかりですよ、と言うアレクサンドラの視線はとても真剣で、もっと他に気にすることもあるであろうにと、苦笑してしまう。
まぁ、危険が全くないと断言することは出来ないけれど、でも不安もあまりない。
「リディアーヌ公女殿下は現状、我らがヴァレンティン家唯一の成人後継者というお立場です。御身をお守りするためには万全の策を整えてありますので、ご心配には及びません」
リディアーヌの代わりにそう断言してくれたのはフィリックだ。
あまりにも冷静かつ淡々としているものだから、何か秘策があるのね、とアレクサンドラも安堵した顔をして見せたのだけれど……うん、言えない。いざとなれば権力を振り回して、皇帝直臣家や騎士様方に脅しをかけて逃げるつもりだ、だなんて。
ただ何かを察したのか、クロレンスはニヤッと嬉しそうに口元を緩めた。彼女の場合は、察したというより、もしかしたらその場の雰囲気に乗じて暴れてもいいのでは、だなんていう期待な気がしないでもない。
「安心して良いと言うのであれば、安心いたしましょう。他に、出来る範囲でのお手伝いであれば何なりとさせていただきます。何かございませんこと?」
「よろしければ儀式に参加なされる教会の司祭様方に、前もってご挨拶しておきたく存じます。例えば……アルセール先生に」
「ええ、勿論でございます。当人からは、教会に顔を出し、夕方には挨拶に参りますとの連絡がありました。公女様とひそかにお会いできるよう、取り計らいましょう」
それは願ってもないことだ。
「それからベルテセーヌの教会からも、すでに何名か司祭様方がいらしているとか」
「勝手ながら、今夜は皆さまを招いて正餐会を催すつもりです。長旅にお疲れの事かと存じますが、公女様もこの場にお招きしても宜しいでしょうか」
流石は熟練の女伯爵様だ。こちらから何かをお願いせずとも万全の場を整えて下さっている。
「光栄です。喜んで参加させていただきます」
「聖職者と一緒の正餐会なんて楽しいものでもないでしょうに」
だがリディアーヌとは打って変わって、クロレンスは不満そうだ。
何しろ聖職者を持て成すための正式な晩餐では豆と野菜が基本で、使える肉や魚にも限りがある。すべての肉類が駄目なわけではないが、およそ王侯貴族の食卓においてご馳走とされるような大型の獣や竜などは禁忌中の禁忌だ。きっとそれがクロレンスには物足りないのだろう。
もれなく母女伯のなんとも嘆かわしい重たいため息が吹きこぼれた。