5-10 ラジェンナ(2)
「ディアナ様は、不思議な方ね。アルテンのよほどの豪商の世継ぎなのか……いえ、まるでこの帝国の王侯の姫君とお話ししているかのようだわ」
おっと……さすがに持論がお姫様目線すぎただろうか。まぁ、こんな暴論が言えるのは、自分が周囲から口出しされない身分であるおかげである。その自覚はある。
「まぁ、多くの殿方には嫌われる意見でしょうけれど」
「でもその割には、フレイさんもククさんも、ディアナ様をとても慕っておいでのように見えますわ」
「フレイはいいとして、ククはどうかしら……」
私もこの男がよく分からないのだけれど、と指をさして見せたら、「こんなにも真摯にお仕えしているのに」と笑われた。冗談だか本気なのだかわからない男だ。
「まぁ、うちのお嬢様は少々特殊ですよ。ですがその曲がりない自信が、私達を安心させてくれます。男性とか女性とかなく、ただ純粋に仕えたいと尊敬させてくれる主です。そういう方には自然と仕える者が集まるものです」
「まぁ、フレイ。いいことを言うわね」
「突発的な今回の旅に私を巻き込まないでいただけたなら、もっと理想的でした」
「ごほんっ」
でも素直に着いて来てくれたのだから、十分である。まぁ、若干フィリックとリディアーヌの保護者とはき違えている感がある点については問題あるが。
「ヴィオレット様は……私にとって、初めて私の話を真剣に聞き、『やればいい』と言ってくださった方だったのです」
ついにラジェンナが自ら口を開いたヴィオレットの話題に、前のめりになりそうなところを堪えながら、何でもないかのように静かに相槌を打ってみせる。
「女性だからと抑圧されるのは間違っている。やりたいことをやって、認めさせればいいと。実際、次々と新しい商品を生み出し、惜しみなくそれを慈悲とされるヴィオレット様は本当に素敵で、理想的でした。王太子殿下を袖になさり始めた頃はさすがに驚きましたが、この国で最も尊い殿方すらろくな文句も言えぬほどの名声を築かれたヴィオレット様は、私の憧れだったのです」
「……そう」
本当は、そのやり方の杜撰さがどれほど王家を追い詰めたのかを反論したいところだったが、いらないことは言わずに口を噤んでおいた。少なくとも、当時のラジェンナにとってヴィオレットが眩い存在であったのは確かなのだろう。
「ヴィオレット様は私が語る領地の未来の姿の話もよく聞いてくださって、何度も褒めてくださいました。きっと上手くいくと、そう自信も与えてもらいました。でも結局、父も兄も私の言うことなんて聞いてくださらなくて、それどころか王太子殿下とヴィオレット様の関係がよろしくないと聞くや、私に次の婚約者の座を狙えだなどと……浅ましい家族が恥ずかしくて、ヴィオレット様に顔向けもできなかったほどですわ」
想像はしていたが、マイヤール侯爵というのは中々典型的な権門貴族の当主だ。まざまざと目に浮かぶような内容である。
だが“浅ましい”というのは如何なものだろうか。南部に強い地盤を持つ貴族の当主として、中央ではなく南部から王太子妃を出さんと目論むことは決して不自然なことではないし、領主としては実に真っ当な反応であろう。私欲のためか領地のためかは知らないが、それが後者であるなら、王家とて無下にはしなかったずだ。ラジェンナ嬢が才知ある女性として聞こえていたなら猶更に。
「ですから私、王太子殿下がヴィオレット様にあらぬ罪を着せて追放処分になさった時、本当に憤りを隠しきれませんでした。ヴィオレット様は前々からご覚悟なされていて、周到に準備もなされていましたけれど。でもやっぱり、許せませんでした。だから私が、手引きをしたのです。王家の出す罪人のための馬車なんかではなく、私が、マイヤール家の馬車でヴィオレット様をフォンクラークに逃がしました」
驚いたでしょう? と言うラジェンナ嬢に、すでに知っていた話ではあったものの、大げさに「まぁ、大胆なことをなさったのですね」と驚いてみせた。
「あら? ではラジェンナ嬢はどうして今王都に? 実は私達、山を越える前の関で、南東部は今“ヴィオレット派”が集まっていて危険だから気を付けるように、などと言われたのですけれど」
「……」
一度悲痛の面差しで俯いたラジェンナは、ほどなく顔を上げると、か細い吐息をこぼした。
「分かりません。一体どうして、こうなってしまったのか。こんなの、ヴィオレット様の望んだことではないのです」
「というと……?」
「ヴィオレット派のことは存じています。南東部がその温床になっていることも、リベルテ商会が発端になったことも。リベルテ商会はヴィオレット様がこちらにいらっしゃった頃に行っていた商売を一手に担っていた商会です。ヴィオレット様が追放になられた後も勢いは盛んで、マイアール領にも出入りしておりましたわ。私はヴィオレット様と既知だったことと、商会長もヴィオレット様から私のことを宜しくと言われていたそうで、実際、商会のおかげで私もこれまでできなかったことができたりと、信頼をしていたのです」
そうしてラジェンナはリベルテ商会の手を借りて、自らも次々とやりたかった施策をこなし、マイヤール領でその存在感を発揮していった。
「けれど気が付いた時にはなぜか私より父の方が商会と懇意になっていて、私の施策はどんどんと捨て置かれるようになってゆきました。それどころか、父は商会と結託して南東部に傭兵を集めるようになり、城には外国人が出入りするようになっていって。それがクロイツェン人だと知った、すぐ後です……ヴィオレット様が、クロイツェンの皇太子殿下とご婚約されたと聞いたのは」
「……」
「私、ヴィオレット様はフォンクラークにいらっしゃるのだと。ええ……知らなかったのです。クロイツェンにいたことすら。何も。何一つ。私は、ヴィオレット様の親友であったはずなのに。そう思っていたのは私だけだったんです」
自嘲するようにこぼした声だったけれど、やがて自ら首を振ってそんな憂鬱な気持ちを打ち払ったラジェンナは顔を上げて見せた。
「だから私、手紙を書きました。友であると信じて。どうして教えてくれなかったのかと」
「返事はありましたの?」
「ええ、すぐに。フォンクラークで衝撃的な出会いを果たして恋に落ちたのだと。それを聞いて、仕方がないと思いましたわ。友の幸せを私も嬉しく思いました。知らせられなかったのも、皇太子妃様ともなれば仕方ないのだと。ただ、ベルテセーヌではその頃から妙なことが増え始めました。ヴィオレット派を名乗る暴徒が地方を襲う事件があったかと思えば、アンジェリカ嬢が行方不明になり、王太子殿下も行方不明になった上廃太子されて。クロイツェンが仕返しをしているのだろうかと思うと、少し怖くなりました」
いかに見識が広くとも、彼女はただの貴族令嬢だ。国家を揺るがすような事件を目の当たりにして恐怖しないわけがない。
「だから私、再びヴィオレット様に手紙を書きました。ベルテセーヌでは不穏なことが続いていて心配であることと……そして、ヴィオレット様はベルテセーヌを恨んでいるのかと。返事はありました。そこには、『恨んでなんていないしベルテセーヌの平和を心から望んでいる』と。民が傷つくことも不安を抱く人がいることも自分の望んだことではなくて、皇太子殿下にも敵討ちなんて望んでいないと伝えていると。
でも私、それを見て初めて、疑念を抱いてしまいました。マイヤール領には確かにクロイツェン人が出入りしていて、各地で起きている暴動の主導者達はリベルテ商会に関係があり、ヴィオレット派を名乗っているんです。それに私はマイヤールの城で確かに、『ヴィオレット様が王太子殿下の失脚は成功すると仰った』と言っている人の言葉を聞きました」
「……ええ」
そうか。彼女も気が付いたのだ。ヴィオレットの言葉のまったく嚙み合わない矛盾に。
争いも復讐も望んでいないと言いながら王太子の失脚は望んでいて、ベルテセーヌなんてどうでもいいと言いながらクロイツェンの計略を見過ごし、自分の名が使われているのにそれを歯牙にもかけない。彼女が真に政治に長け、優れた為政者の素質を持った女性であったなら、こんな愚かなことをするはずがないのだ。
ラジェンナはその違和感に気が付いてしまった。彼女は果たして、本当に自分が憧れ羨むような才知ある素晴らしい女性だったのか。それは本当に、自分が憧れるべき“貴人”のあるべき姿なのか。
「それで、一体何が貴女をここまで突き動かしたのかしら?」
「……ブランディーヌ様です」
「オリオール侯爵夫人?」
ピクリと眉が寄った。
「ヴィオレット様の目的は王太子殿下の失脚。それで、かつていわれのない婚約破棄をされ貶められたヴィオレット様の名誉は晴らされたはずです。けれどヴィオレット派は解散の気配もなく、そのまま王室全体への敵意を向け、暴動を起こしました。そんな中、うちにはたびたびオリオール家から、兵を出すように、といった要求がくるようになりました。何に使うのかは知りません……ですが、元王太子殿下が行方不明になった時も、うちからオリオール家に人手が派遣されて程ない頃のことでした」
「……なるほど」
この頃から、ヴィオレット派とブランディーヌの目的は一致していたわけだ。ということはクロイツェンで成婚の儀が行われるより前から、おそらくヴィオレットがそうと知るより前から、ブランディーヌが自ら南東部のヴィオレット派と誼を通じていたことになる。
となれば帰国後、リディアーヌの元に使われて来た暗殺者の素性もはっきりした。同じように、ブランディーヌの命を受け、南東部から出た兵なのだろう。そしてその兵とやらがどこで補充されていたのかは、すでにセザールからの情報で知っている。リンザール家が関わっていたという人身売買がそれだ。かの事件はまだ調べが続いている途中だが、かなりの数の男性が南東部に売られていたらしいから、リンザール家が集め、マイヤールで教育され、ブランディーヌの手足となっていたのだろう。随分と話が繋がってきた。
「一度はそれで、ヴィオレット様の正義が正当とされたのかとも思いましたが、ほどなく南西部ではジュード殿下がお立ち遊ばされて……あ、ジュード殿下はご存じですか?」
「ええ。南西部では英雄と呼ばれていらっしゃるそうで、色々な噂をお聞きしましたわ」
「ふふっ、英雄ですか……ええ、まったく、その通りです」
一つ遠い目をして見せたラジェンナは、深いため息をこぼした。
「暴動を鎮圧し、暴徒から民を開放したのです。間違いなく英雄です。ヴィオレット様が何を考えていらっしゃるのか私には分かりませんが、でもジュード殿下の行いが正しいことと、それがベルテセーヌの平穏に繋がっていることだけは分かります。同時に、じゃあヴィオレット派とは何なのか。マイヤール家は何なのかと……」
考えてしまったわけだ。
「では貴女が領地を出たのは……」
「父が、ジュード殿下を害する計画を立てていることを知りました。一体父が次の玉座に誰を据えようと考えているのかは存じません。ですが私を王太子妃にするつもりがあるようですから、未婚の王子殿下のどなたかなのでしょう。ですがそれは、従順に言うことを聞くだけの、もしかしたら今の国王陛下のお血筋ではない誰かであって……そしてそれはつまり、反逆です」
「……ジュード……殿下を、害するですって?」
「はい。お父様……マイヤール侯爵は、ジュード殿下とその陣営に対して攻撃を仕掛ける気なのです。国王陛下の許可なく貴族を私的に断罪したことや南西辺境軍を動員したことなどを理由に誅伐を加えるなどと言って。それにジュード殿下に計画を狂わされ恨みを抱くヴィオレット派の暴徒が集められていて」
「待って。許可なくって……許可はあるでしょう? すでに国軍の指揮権が与えられているし、辺境軍の動員も西部の貴族領主の正当な要請を受けてのことだと聞いているわ」
「私も、そう聞いていますわ。父にもそう訴えました。ですが……」
まぁ敵方にはそんな事実なんてどうでもいいか。いざとなればなんとでもでっち上げられる。
「いずれにしても、こんなこと、あってはならないことです。これが実現したら、せっかく落ち着き始めたベルテセーヌは再び……いえ、今まで以上の戦火に見舞われます」
「ええ、考えるまでもなく明らかだわ」
「どうしてお父様はそんな愚かなことを……最近はお父様の傍にいつも、クロイツェン人がいます。そしてクロイツェンは、ヴィオレット様が……」
くっと言葉を詰まらせたラジェンナに、リディアーヌも口からこぼれそうになった苦言を噤んだ。思うことはあるが、ラジェンナが悪いわけじゃない。
「それで、ラジェンナ嬢。その話をお聞きになったのはいつのこと?」
「話を聞いたその日のうちに領地を飛び出しました。ですから……もう、七、いえ、八日」
八日……まずい。それだけあれば、マイヤール領を出た刺客はすでに王都に近づいている。あるいは刺客を直接送ったのではなく伝令を送っただけですでに潜んでいる者達がいたのだとしたらもっと早い。
どうしたものか。良い手駒を得たことに安心しきっていたが、どうにもとろとろしているどころではなくなってきた。
「クク」
「はいはい。鳥ですね」
「大急ぎでよ」
そう命じて馬を止めると、すぐに手綱から手を離したククが腰に下げていた鞄から手紙の準備を整える。その手慣れた様子にびっくりとラジェンナ嬢が目を瞬かせているが、今はそんなことに構っている時間も惜しい。差し出された筆記具に急ぎ得た情報を書き綴って丸め、カチカチと何かの道具で火を熾したククが蝋を溶かすのを見ると、手紙の繋ぎ目を向ける。垂らされた蝋には前回と同じで、ククが急ぎを記す印を捺した。
その青い色の封蝋に、ラジェンナ嬢が「えっ」と声を上げる。これはもう、下手に商人のフリをしているわけにはいかないだろう。まぁ実際、商人の娘というにはほど遠い態度を何度も取っているし、これほど突っ込んで内情を聞いたのだ。今は良くてもラジェンナも次第に我に返って疑念を抱き始めるだろう。
「生憎と今は鳥がおりませんから、次の村まで急ぎましょう。馬を連れてきてくれている仲間が来ているはずで」
「ラジェンナ嬢、こっちの馬に乗ってちょうだい。ケーリックはそっちの馬に。ククは走って追いつけるのでしょう?」
「全速力はさすがに無理ですぜ。自分はあくまでも鳥飼いなもので」
「だったら次の村まで貴方が止まらずに行ける速度で誘導してちょうだい」
「かしこまりまして」
困惑しているラジェンナを早々と馬から降ろしたケーリックが、ひょいと抱えてリディアーヌの後ろに乗せる。何かを察したのか、最初はおろおろとしていたラジェンナもやがて大人しくリディアーヌの腰を掴んだ。
もう一匹にケーリックがまたがると、ほどなく今までより少し早い駆け足で馬を走らせる。思った通り、ククはまるで早歩きをするような飄々とした様子でこれに着いてきた。
「あ、あの……ディアナ様」
「ごめんなさいね、ラジェンナ嬢。貴女がマイヤール嬢である以上、私達も慎重にならざるを得なかったのだけれど、たった今、そんなことを言っていられない事態になったわ」
「えっと……」
「貴女はジュードへの襲撃を止めようとしてくださっているのよね?」
「はい。そうです。これ以上マイヤールが罪を重ねなくて済むように」
「だったら目的は同じよ」
ククが少し速度を上げたので、それに合わせて少し速度を速める。
喋り辛くなるが、喋れない速さではない。
「あの……貴女方は、一体……」
「知らない方がいいこともあるわ。でも……」
この行動は、ヴァレンティンのためなんかじゃない。確かにヴァレンティンのためにもなるが、リディアーヌが自ら動いたことも、自ら首を突っ込んだことも、どちらもヴァレンティンとしてではなく、ジュードを兄弟のように思うリディアーヌ個人の衝動によるものだ。
だからこれは、リディアーヌが“誰か”なんてどうでもいいことで。
「私はただの、ジュードの味方よ。彼を助けたいと思い、助けねばならないと思っている、彼の古い、古い、友人よ」
そんな呟きに、ラジェンナは何を思ったのだろうか。
それから次の村に着くまでの間、彼女はじっと口を噤んで、ただ固く握りしめたこぶしを静かに震わせていた。




