5-9 ラジェンナ(1)
どこか少し飄々さを無くしたククに言われるままにいくつかの木の実と、明日の朝食に使えそうな山菜やらキノコやらを調達して宿営地に戻ると、張られたテントの中ですでにお嬢様がすやすやとお休みになっていた。虫よけも焚かれていて、ケーリックが色々と配慮をしたらしいことが見て取れる。
夜になるとうだるような暑さも和らいで、焚火の傍が若干ちょうどいい程になる。そんな焚火の傍で、ククが木の器にゴリゴリと木の実をつぶす音を聞きながら、ケーリックが淹れてくれたお茶を受け取った。
高価なものではないけれど、さわやかなフレッシュハーブの心地よい香りがする。侍女のハンナが淹れてくるお茶によく似た味だ。
「これ、ハンナに教わったの?」
「えっ、ど、どうしてそれをっ」
「いや、飲めば分かるわよ」
そわそわと恥ずかしそうに大きな体躯を丸めて見せる様子が若干気持ち悪い。まぁ、彼が年上の未亡人であるハンナにベタ惚れていることなんて、公女府の全員が知っていることだけれど。
「教わったわけではないのですが、遅くまで仕事をしているとよくハンナさんが差し入れてくださって……」
「へー」
聞いておいてなんだが、他人の色事には興味がない。
「ささ、出来ましたよ。これを少しの水に溶いて……御髪に触れてもよろしいですかい?」
「ええ、お願い」
頷くと、ククは丁重な様子で髪に触れ、結っていた紐をほどき、まずは真水で髪を梳いてくれた。久しぶりに他人に髪を梳かれ、心地が良い。うっかり眠らないようにしないといけないほどだった。
その髪にひたひたと木の実をすりつぶした液が練りこまれてゆく。独特な生木の香りがするが、気になるほどではない。それよりも塗られた先から髪がきしきしと痛んで感じられる方が心地悪いが、文句を言うよりも早く「ちょっとごわついて感じても我慢してください」と言われてしまった。まぁ、最初からそのつもりである。
やがて乾いた髪を、再びまとめ上げる。こうしているとごわつきもあまり気にならない。
「どうかしら、ケーリック」
「暗くてよくわかりませんが、確かに以前より暗く見えます。とても自然です」
「元の色が淡いんで、染めやすいもんで。明るいところだとあっしよりもうちょっと薄いグレーになってるんじゃないですかねぃ」
「目立たないならどんな色でもいいわ。それより今後の予定について話し合っておきましょう」
待っていましたとばかりに頷くケーリックが一瞬テントの方に目を向け、ちゃんと令嬢が眠っているのを確認して、再び頷いた。
「まずケーリック。ラジェンナ嬢については貴方、知っているのかしら?」
「はい。当時はまだ文官見習いでしたが、ちゃんと公女府で仕事をしていましたから」
つまり去年ヴィオレットについて調べていた時に出てきたマイヤール家の名はちゃんと覚えているということだ。それなら話は早い。
「ですがまさか、こんなところでそのマイヤール嬢に遭遇するだなんて」
「ええ。それにどうやらヴィオレット派とは思えない行動を取っているようね。まぁ、ヴィオレットの元友人だからといってヴィオレット派とは限らない、というのもあるけれど」
「それはそうですが」
だがそれでも今の状況が奇妙であることに変わりはない。
「目的は分からないけれど、マイヤール家の何らかの情報を知り王都に伝えないとと思って出奔したのであれば、私達が庇護して王都に届けるには十分な理由だと思うわ」
「ということは、私達の目的地もマイヤール領ではなく……」
「王都よ」
そういった瞬間、ケーリックの顔がぱぁっと明るくなった。
まぁ、元々ケーリックは反乱因子のはびこる渦中である南東部行きを快く思っていなかったから、当然の反応だろう。
「ではすぐに進路を北にっ!」
「まぁまぁ、お待ちください、フレイ様。山の中、不慣れな方々が道を逸れるのはお勧めいたしませんぜ。まずは麓へ無事に辿り着くことです」
「あ、はいっ、すみません、つい。あの、ですが麓はさすがにマイヤール家の追手などがおられるのでは」
「ええ、ですから上手く人目を避けねばなりません。幸いラジェンナ嬢はお一人で逃げていたようで、あっしらと一緒というだけで誤魔化しがききましょう。髪も隠せましたし、アルテンの上着もいい目くらましになります。ですが顔は隠せませんから、麓を出てからは極力大きな街道は避けた方がいい」
「王都までのルートを警戒されているのなら、いっそ山脈の東沿いより西に戻った方がいいのかしら?」
「安全なのはそちらでしょう。本人の目的通り、関所で南西鎮守の駐屯軍に託すのもアリだと思いますぜ。でもお姫様方も、一人増やして山を引き戻すほどの物資は持ち合わせていないのでは?」
「そうよね。それに正直、山越えは大変だったから今更引き返したくないわ」
そう言ったところで、「そのつもりで馬を寄越すように連絡済みですしね」とククが苦笑した。すでにリディアーヌが山の東沿いを北上するつもりなことは分かっているのだ。
「すでに予定している道筋があるんですね?」
「私にはないけれど、ククに任せるつもりよ」
「初耳ですが……分かりました、任されましょう」
そう軽口を叩いたククは、リディアーヌが出した地図の山沿いにひかれた道を逸れる形で、いくつかの場所に指をさしていった。
「小さな町ですが、この辺りを通過しながら北に向かいましょう。大きな街道ではありませんが旅人や行商が行き交う里道が通っていますんで。それからココとココの鳥小屋に連絡をつけながら参りやしょう。追加の馬との合流はこの辺りです」
リディアーヌの書いた地図では何もない箇所ではあるが、さすがにククは詳しい。書き込んでいいわよ、と告げると、すぐにいくつかの細い線と、町のある場所に黒丸が書き加えられてゆき、さらに今後のルートが分かりやすくなった。
「追手の規模が分かりませんが、しかし遭遇しないということはないでしょう」
「クク、貴方アルテン語は分かる?」
「オトメールは本来南北と王都とを結ぶ拠点でございますから、一応の心得は。ただ話すとなると、発音や文法には自信がありやせんが」
「簡単な会話ができるようならそれで充分よ。ケーリックは分かるわよね?」
「分かりますが、私も任官して以来細々と勉強をしていた程度です。実際の会話の経験も、去年アルテンからのご使者がいらっしゃった頃に多少交わしたのみです」
「十分よ。人目に付くところではアルテン語を用いましょう。ラジェンナ嬢には簡単な受け答えだけ教えておいて、会話が分からなくても適当に相槌を打たせておけばいいでしょう。どのみち東部にアルテン語が分かるベルテセーヌ人はそんなにいないわ」
「なかなか乱暴な案ですが、効果はありそうですね」
「アルテン人は日頃から日よけのベールや面覆いを使うわ。多少女性が顔を覆っていても目立たないでしょうし」
そう口にしたところで、ククが「顔を隠した方がいいのはラジェンナ嬢ばかりとは限りませんから」と頷いた。
確かに。王都に近づくとなると、いつどこで“リディアーヌ王女”を見知った人に出会うともしれない。リディアーヌ自身を知らずとも、リディアーヌは父や祖母と瓜二つと言われるほど似ているらしいから、訝しまれる可能性もある。
一人顔を隠していると目立つが、二人ならそれも軽減されるだろう。ラジェンナ嬢を拾ったのはむしろ都合が良かったかもしれない。
チラリと眠るラジェンナ嬢を見やった。堅い地面の上では寝辛いのか、しきりに寝返りを打っている。だがそれは寝辛いことばかりが理由というわけでもないらしく、何度か、「駄目」とか「いやっ」とか、掠れた声で抵抗の言葉を口走っていた。一体何があって、お嬢様がこんなところまで一人逃げてきたのか。
「早めに詳しいことを話してもらえるといいのだけれど」
「そうですね。話すと楽になることもあります」
ケーリックの人道ある同情の言葉にはもれなくリディアーヌとククがびっくりと目を瞬かせてしまった。
これは、思いやりを忘れ情報の収集にのみ関心を抱いていた自分を恥じざるを得ない。
「令嬢からの情報収集はケーリックに任せましょう」
「ええ、それがよさそうです」
「えっ?! な、何故でしょうかっ」
「私達では駄目だわ。ええ、駄目よ」
「はい。たった今自分も自信を消失いたしました」
「え? え?!」
旅の道ずれがケーリックで良かった。
おかげで自分は、良心を失わずに済んでいる。
◇◇◇
翌朝は出立を遅らせて、ラジェンナに今後の予定についての説明と、それから簡単なアルテン語での受け答えについてを教えた。どうやらラジェンナは多少のアルテン語の基礎は存じていたようなので、アルテン語の雰囲気で適当な造語で話しているふりをしてもいいことと、それからリディアーヌを姉さんという意味の“アディ”と呼ぶこと、ラジェンナをアルテン風に“ジーナ”と呼ぶことなどを擦り合わせた。
ククはベルテセーヌの道案内人。フレイは従者。私達姉妹は母の出身地域であるアルメルタを旅行をして、ついでに父の用事で王都郊外のアルテン大使館に寄ってからアルテンに帰る予定であること。そんな話の肉付けをしておいた。
大使館という言葉が出てきた下りでラジェンナが困惑したようにリディアーヌ達を見やったけれど、商業都市出身のラジェンナに下手なアルテン系の商会の名前なんて言っても怪しまれるだけだろう。適当に、「父が大使様と懇意なの」と、あたかも最初からそういう予定であったかのように誤魔化した。まぁ、嘘ではない。アルテン大使は養父ヴァレンティン大公と知らぬ間柄ではない。
それから昼を前に、リディアーヌ達は出立した。馬にはリディアーヌとラジェンナが。ククはリディアーヌ、ケーリックにはラジェンナの馬を引かせて、昨日よりはゆっくりとした“馬らしい速度”で進んだ。
ただの貴族であり文官であるケーリックに歩き旅をさせるのは忍びなかったのだが仕方がない。それでいてケーリックは不満の一つも漏らすことはなく、予定通りあれやこれやとラジェンナに話しかけ、気をほぐすことに尽力してくれた。
「先日、知人の土産話にアンパンなるものについて聞きました。このベルテセーヌ出身のお嬢様がフォンクラークで流行らせたものだとか。お食べになったことはありますか?」
食べたこともなく書類上で情報を得ただけの物を持ち上げてさりげなくヴィオレットのことに話を結び付けてゆくケーリックに、「まぁ、アンパンをご存じなの?」とラジェンナも顔をほころばせる。その顔を見るにつけ、ケーリックが申し訳なさそうに顔を歪めるのだが、あれさえなければ完璧だ。幸い、ラジェンナが気付いた様子はないが。
「聞けばヴィオレット様というのはこのたびクロイツェン皇国の皇太子妃殿下におなりだとか。あちらではこれからどんな珍しいものが流行するのかと、興味があります。ジーナお嬢様は妃殿下のことをご存じですか?」
「え? えぇ……まぁ」
ふむ。かつてヴィオレットと親しかったはずが、あまり反応が良くない。
「私はヴァレンティン大公領で聖女アンジェリカ様をお見掛けしましたよ。なんでも恋のライバルでいらっしゃったとか」
面白おかしく世間の噂を楽しむかのようにリディアーヌが口を挟むと、ラジェンナはますます顔を青ざめ、「そんなことは」と呟いた。
「違うのですか? まぁ、現実は物語とは違いますよね」
「ヴィオレット様は初めから、王太子殿下にはご興味がおありになりませんでしたから」
「まぁ! 面白そうなお話ね。ぜひ聞かせてくださいませ」
そのずけずけと明るい物言いが良かったのか、少し苦笑したラジェンナはポツリポツリとその辺りの事情を語ってくれた。
大略はリディアーヌがすでに知っている通りだったが、ラジェンナの視点でみるとまた話は新鮮なものに感じた。ラジェンナが当時ヴィオレットの思いに同調して協力的な行動をとっていたのは確かなようだが、話を聞く限り、どうやら女性の自立や権利的なものへの関心が原因であるようだった。
先程アンパンの話に食らいついたように、ラジェンナ嬢は元々商業や経済に強く関心があるのだろう。だが女子である彼女は兄や弟と違って領地の経営に関わらせてもらえず、不満をため込んでいた。そんな時、王太子に反目して自立的な行動をとり、かつ商業的に成功を収めるヴィオレットに出会ってしまったのだ。ラジェンナにはヴィオレットの成功が、眩く、羨ましく思えたのだという。
「アルテンでは女性も舟を漕ぎ、商売をすると聞きます。本当ですか?」
「ええ。私はそうしたことに縁がありませんが、女性の船乗りもいますわね。まぁ力仕事はやはり殿方のお仕事であることが多いですけれど」
女性でも逞しい体つきの者が多いアルテン人を思い出しながら口にすれば、すぐにラジェンナは羨ましそうに吐息をこぼした。
ベルテセーヌでも王都では女性の行商など珍しくないのだが、南部は閉鎖的な領地が多いので、きっとマイヤール家も女性は家のことのみに従事するといった傾向が強いのだろう。
とはいえ、子を産むことが命がけで、その子が無事に成長できる確率が高くない以上、ある程度女性が家という物に従事せねばならないのは仕方のないことだ。リディアーヌも義姉を出産で失っているし、母も流産を経験している。祖母レティシーヌ妃も出産と流産で幾度も体調を崩し、祖父王の来るもの拒まずを発症させたほどだ。家の存続が王侯貴族の義務である以上、“やりたい”の前に“やれない”が先立つことを知っている。
それに貴族の女性は嫁ぐとその家の内政を任されたりすることも多いので、いずれ他家の者になる以上、実家の家業に深く関わらせないことも珍しいことではない。普通はそれに違和感を抱くこともないのだろうが、ラジェンナ嬢は自分のやりたいことをやりたいようにして王太子をも袖にしたヴィオレットの傍にいたことで、自分もまた自立した一人の貴族としての未来に焦がれてしまったのだろう。
彼女はヴィオレットの言う“女性の不自由”という言葉に囚われ、ただ自分達女性が“憐れな奴隷だ”という価値観に陥り、逆に自らを閉じ込めてしまったのかもしれない。
「ラジェンナ嬢。恨むべきは他人ではありませんわよ」
「ッ……」
「恨むべきは、貴女自身が“自分はチャンスももらえない憐れな女性である”という悲壮感に捕らわれてしまっていることです。ご存じ? 殿方なんて存外、ちょろいものですのよ」
そう笑ってみせると、すかさずケーリックが肩をすくめた。
まぁリディアーヌの場合は最初から大公家の成人継嗣が一人しかいないという特殊な状況ではあるけれど、そうでなくとも、女主に振り回されている自覚のあるケーリックには到底否定できない言葉だったのだろう。
「ヴィオレット妃は王太子妃となることより商売に従事し、新たな商品を生み出し流通させることに楽しみを見出されたのだとか。そんな王意に背くような彼女を王太子妃になどできなかったベルテセーヌの事情はもっともですし、逆にクロイツェンでそれが受け入れられたのは、あちらはすでに皇太子殿下の勢力が盤石で、ヴィオレット妃が何をしでかそうとも制御できるだけの力をお持ちだったからね。そういう事情の違いでしかないわ」
「事情の、違い……」
「貴女は何をなさりたかったの? 領地経営への参入? 商売への参入? それともただ家から解放され、反発したかっただけ?」
「反発は……あります。でも私はただ父や兄達より上手くやる自信があって、領地をもっと富ませることも、上手く立ち回って見せることもできるのです。けれど父はそれを認めてくれません」
「でもそのご領地は、貴女のお父君がお受け継ぎになっている領地であって、貴女の領地ではないわ。貴女は領主の娘というだけで、自身で爵位を持っているわけでもない。だったら貴女にその領地を好き勝手にする権利がないのは当然ではなくって?」
「ッ」
この言葉には、馬の手綱を取るククもパチリと目を瞬かせてリディアーヌを見上げた。
「領地に関われるのは次期領主だけ。女性が家督を継げないルールはないのだから、自分の方が兄弟より優秀であることを誇示すればいいだけよ。それでも頭の固い殿方達の中にはそれを良しとされない方もいるでしょう。だったら手っ取り早く、頭の柔らかい殿方に嫁いでしまえばいいわ。幸い貴女は侯爵令嬢でいらして、選べる範囲は広いわ。そして上手く、自分無しには家も守れない木偶に育ててあげればよろしいのよ」
「で、木偶……え、えっと。ええっと……」
困惑するラジェンナとは裏腹に、ククが声を上げて笑った。
「さすが、うちのお嬢様は過激ですね」
「不平等を嘆いたって一朝一夕にどうにかなったりなんてしないのだから、自分にできる戦い方をするべきでしょう? 貴族の結婚はどうせ政略結婚なのだから、ちょっとでも都合のいい相手を選ぶのは当然のことよ。いいこと? 家督を継ぐのは男性かもしれないけれど、女性だって、誰を家督継承者にするのかを左右させるだけの力は持っているのよ」
少々暴論である自覚はあるが、決して偽りでもない。妻の価値と才能で、次男三男に家督が譲られることも珍しいことではない。この国の家督は男子優勢だが、必ずしも“長子優勢”なわけではない。
「まぁ、それを良しとしてくれる殿方は少ないでしょうから、殿方が楽に家督を継ぐのに比べるととんでもなく困難で不公平ではあるけれど、でもその分、遣り甲斐もあるでしょう?」
「……そんなことが、できるとは」
「できるとは思わないから、粛々と家に従い、夫に従う。私はそれも別に悪いことだとは思わないわ。家門を円滑に回してゆくには必要な我慢ですし、それを我慢とは思わない女性の方が大多数でしょう。それに横槍を入れて悩ませることもないわ」
「……はい」
「でも一歩家庭の事情に踏み込めば、城でえらそぶっている殿方が妻の尻に敷かれていることだなんて珍しくはなくってよ。オリオール侯爵様はとってもいい例ね」
笑わせるつもりで出した例だったが、ラジェンナには笑えなかったようだ。むしろ失笑してしまったようなので、ごほんっと咳払いして誤魔化した。
「城勤めに従事する殿方の代わりに領地の経営に携わっている夫人も大勢いるわ。自立したいからと侍女勤めや家庭教師をしている方々もいるし、何なら騎士もいらっしゃるわね。結局はそれを許してくれる相手を選べるかどうか。その気概を本人が見せられるかどうか。生まれた環境を恨むのは、ただ生まれ持ったレールに反発しているだけの子供のないものねだりよ」
「……」
さすがに少し言い過ぎただろうか。だがラジェンナの顔に絶望はない。むしろじっと真剣に何かを考えこむ様子で、その顔は次第に逞しく、凛々しくなっていった。