表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
169/232

5-4 町宿デビュー

 思いがけずケーリックを同行させることになってしまったが、『はいしか言うな』の命令に首振り人形もびっくりな勢いでブンブンと頷いたケーリックは、実に素直に後ろをついてきて、素直に船に乗って、素直に船上から海を眺めていた。

 思考回路が追い付いていないだけな気がしないでもなかったが、出航さえしてしまえばもう後戻りはできない。

 ほどなく日も暮れようかという頃になってようやく我に返ったのか、青い顔をしながら「私は誰に死を(たまわ)るのでしょうか」だなんて言い出したが、一体この数時間、何を考えていたのだろうか。分かるような分かりたくないような内容に、「私が無事にやるべきことをやり終えたなら、死なないんじゃないかしら」と言ったら余計に青褪めてていた。

 ケーリックには可哀想だが、あのまま残していって側近やプラージュの衛兵らに追いかけられる羽目になっては困るので、これは仕方のないことである。


 そうして二日足らず。乗船したのはアルテンの商船であったため、さすがの見事な航行技術でスムーズに進み、予定より少し早くオトメールの港を目視した。

 近いようで遠かった……九年ぶりの、ベルテセーヌだ。


  ***


「こうとなっては仕方がありません……姫様がそうとばれないよう、全力で頑張ります」


 丘が見えてようやく意を決したらしいケーリックは、アルテンの造船所でもらったアルテン人風の簡素な衣服と刺繍の施された上着を羽織っていて、ちゃんとアルテン人に見える。肌の色こそ白いものの、元々体格がいいからアルテン人の中に混じっていてもあまり違和感がないのだ。

 リディアーヌも一応アルテン人風の若い女性の恰好をしているが、馴染めているのかは微妙である。何よりも髪の色がいかにも北方風なので、ウィッグがなければ変装どころではなかっただろう。それでも、リンテンの時の(わが)(まま)お嬢様風よりははるかに馴染んでいる自信がある。

 やがて船が着岸準備に入ったところで、ここまで事情も聞かずに乗せてくれた船長に礼を述べ、ついでに今回のことを口外しないよう言いおいてから下船した。

 久方ぶりのベルテセーヌではあるものの、オトメールに来たのは初めてなので、まだ実感はわかない。その上、かつてベルテセーヌの学校で習った様子とは打って変わった薄寂れた雰囲気があまりにもプラージュとは対照的で、ケーリックが警戒に顔を引き締めたほどだった。


「あまり豊かな町には見えません」

「セザールからの報告ではジュードがこの辺りの反乱集団を鎮圧したとのことだったけれど……争いの爪痕が残ったままのようね」


 元々ジュードは内政に精通しているわけではない。この辺りの後始末はセザールか、あるいは国王の仕事なのだろうけれど、十分に行き届いているようには思えなかった。

 ただ、ヴィオレット派の(おん)(しょう)となっていたというかつてのきな臭い様子が鳴りを潜めているのは確かだった。

 人々は活気を失い、(うつむ)き、ため息をこぼしながら道の端を歩いているけれど、だからといって治安が乱れているとか物乞いが溢れているとか、そういう風潮はない。おそらくヴィオレット派の取り締まりが激化している今、関与していたと思われるのを恐れ、かつてのヴィオレット派の風潮の中で賑わっていた民達が自ら息を潜めた結果なのだろう。


「それで、姫様。我々はこれから一体どうするのですか?」

「ケーリック、ここから先は“姫様”は厳禁よ」

「では……公女殿下?」

「……」


 一緒じゃない、とか突っ込みたかったのだが、何分今後の予定を何も話していないのだから、一方的に責めるのも不条理だろうか。


「私のことはリディ……いえ。ディアナと呼んでちょうだい」

「ディアナ様ですか?」


 耳慣れない呼び方にケーリックは首を傾げたが、それが一番無難なはずだ。

 この国では、リディアーヌの名も、リディという愛称も目立ちすぎる。だがディーとかディアナなら珍しい名前ではない。そしてディアナというのは、リディアーヌが王女と呼ばれていた時分の愛称でもあった。

 リディアーヌをリディと呼んでいたのはヴァレンティンの親族達くらいなもので、後に兄もリディと呼ぶようになったけれど、六歳までは両親も兄もリディアーヌをディーとかディアナとか呼んでいたのだ。


「貴方の名前も貴族的すぎるわね。ケーリック……ケール。リック。ケー……」


 あまりベルテセーヌっぽい名前にならない。


「確か貴方、ケーリック・フレイだったわね」

「はい」

「女の子の名前っぽいけど、まぁいいでしょう。いいこと、フレイ。私達は今から、アルテン出身の旅行者よ」

「……え?」


 ケーリックの顔がみるみる歪んだが気にしない。


「経験上、一般市民に溶け込むのは無理だと分かりきっているから、それなりの豪商のお嬢様か何かを装うわ。貴方は……兄には見えないわね」


 何しろ全く似ていないし、お兄様扱いはすぐにボロが出そうだ。


「従者のフリでもしてちょうだい。書記見習い時代はそういう仕事もしていたでしょう?」

「……あの、姫様。従者はいいんですが、名前……」

「とりあえず宿を見つけましょう、フレイ。あと“姫様”禁止」


 そう颯爽と(きびす)を返したなら、ケーリックも(あきら)めたようにため息をついて着いて来た。


「とりあえず、愛称で呼んだなどと知られたら私の処分がまた一つ重たくなりそうですので、“お嬢様”は(いか)()ですか?」

「そう? 別にいいけれど」


 まぁ呼び方なんて何でもいい。ちょっとでも前向きになってくれただけでも良しとしよう。

 何しろリディアーヌは外面だけは自信満々に見えても、その実、町暮らしも野良旅も、したことなんてないのだから。

 今になって思う。ケーリックを連れてきて良かった。


  ***


 その後、看板を見てリディアーヌが立ち入ろうとした宿屋は、もれなくケーリックが掴み止め、「ここは駄目です」と忠告した。

 何が駄目なのかちっとも分らなかったけれど、意を決したらしいケーリックがきょろきょろと辺りを見回し、露天の人達に何か話を聞いたかと思うと、道も知らないはずなのに迷いなく港町の奥の高台へと歩き出した。

 やがてケーリックが足を止めたのは、一見先程の宿と大して変わりない、三階建てで、ちょっと小奇麗になった程度の宿だった。だがケーリックはチラリと中を伺うとすぐに「ここなら大丈夫です」といってリディアーヌを中に通した。何が何やらさっぱりと分からない。

 ついでに無人の受付に戸惑っていたら、すぐにケーリックが番台のベルを鳴らして人を呼んだ。なぜこうも手馴れているのだろうか。


「はいはい、お待たせ。部屋かい?」

「はい。えっと……個室で二部屋。隣り合わせで空いていますか?」


 チラとこちらを伺ったケーリックの様子を見るに、部屋の予定を聞いていなかったことを思い出したのだろう。まぁさすがにフィリックでもないのに異性と同室で過ごすわけにはいかない。個室とやらで問題ない。


「空いてるよ。個室なら二階で、一泊一部屋三デフル。下の食堂を利用するなら食事代は割り引くよ。夕食は四百フル、朝食は二百フル。湯が必要なら、今の時間は一桶三十フル。井戸でよければこの一階の奥から裏手にあるから自由に使っておくれ」


 お金の使い方なら知っている。エヘン。ここでベタなお姫様払いなんてしないんだから。


「取り合えず二泊よ。今夜の夕飯と、それから湯もいただくわ」


 全部で十二デフルと八百三十フルね、と身に着けていた巾着から小金貨一枚と小銀貨三枚の十三デフルを置いた。それを女将さんがじっと見つめ、ほどなく顔をあげて首を傾げる。するとケーリックが巾着を取り上げ、大銅貨を一枚加えた。

 はて? 計算は間違っていないと思うが。むしろおつりがくるくらいでは?


「あいよ、十三デフルと五百フルね。お湯はすぐに運ぶかい?」

「お嬢様のお部屋に。追加で二桶。こちらに二桶」


 ()に落ちないが、何やら上手くいっているようだ。


「宿帳を書いておくれ」


 これかな、とペンを取ろうとしたが、すかさずケーリックが先にペンをとって宿帳とやらを書いた。なんでこんなに慣れているのだろう?

 首を傾げつつ、女将に続いて階段を上り、奥の案内された部屋に向かった。開けてもらった扉をくぐったところで、再びケーリックが小銭を渡しているのを見た。


「夕飯は夕の(いっ)(とき)から。食べれないものがあるなら先に伝えておいておくれ」


 そう気のいい様子で告げながら女将さんが去るや否や、「で?」と首を傾げたら、もれなくケーリックが肩をすくめて苦笑した。


「私、計算間違いしたかしら?」

「いえ、まさか。姫……お嬢様に足りなかったのはただの下町の知識です」


 そんなまさか。ちゃんとお金という物を準備していたというのに。


「えっと。とりあえず、お金という物をご存じでいらしたことに驚いています」

「馬鹿にしてるでしょう?」

「いえ、まさか。銀貨銅貨なんて見たことないのではと。実際私は(ひと)り立ちするまで見たことありませんでしたから」


 む。そう言われると意地を張る気も失せる。


「計算は間違っていませんでしたが、足りなかったのはお湯代ですね」

「三十フル?」

「ひと桶三十フルです。こういう町宿は(たらい)に湯を張り手拭いで体を拭うだけで、備え付けの湯桶はありません。盥を満たすのに必要な量が、大体どこでも六桶から八桶ほど。船を降りたばかりで髪もお拭いになりたいかと思い、(すす)ぎ用に追加でもう二桶頼みました」

「なんというトラップ……」


 これは知らなくても仕方がない。


「残りはチップです。この辺りは立地の良い宿なのと、融通を聞かせてもらうため、多めに。その甲斐あって、一番奥の人の往来がない角部屋を割り当ててもらえました」

「そんなことまで考えていたの?」

「当たり前です。姫様に何かあったら、帰国後、私の首が胴から落ちますから」


 船上で妙に悲壮感を漂わせながら茫然としていたのは見間違いではなかったらしい。


「えっと。チップって何かしら?」

「サービス料みたいなものですね」

「サービス料? 私もカレッジに通っていたころはそれなりに寮を抜け出して町を散策したつもりだったのだけれど、そんな制度はなかったわよ?」

「姫様方が出歩かれていたのはカレッジのすぐ麓の町ですよね? あの辺りは貴族や富豪向けの町ですから料金自体にサービス料が含まれていますし、それに聖都は元々聖職者がチップを(わい)()のようだと忌み嫌うので、チップ自体が禁じられています。代わりに一般向けの下町に行くと、教会への寄進箱が置かれていますよ」

「ケーリック、貴方随分と詳しいわね」

「私は学生時代、その辺りにも時折行っていました」


 ちょっと恥ずかしそうに言ったケーリックに、そもそも聖都のカレッジ出身だったことを初めて知って驚いた。そういえばケーリックはこう見えて、結構いいところの侯爵家のお坊ちゃまなんだったか。


「チップってどんな時に渡すのかしら?」

「特に決まりはありません。先程のように融通を利かせてもらいたい時や心遣いに感謝をした時などに、数十から数百フル。分かりやすく、小銅貨を一、二枚渡しておけば良いです。格式のあるい店では小銀貨を。先程のようにおつりをチップとして取ってもらうこともよくいたします。あ、平民は基本的におつりは返してくれないものと思ってください。チップを渡したくない時は先に両替えをしてもらってぴったりの金額を払うか、端数を値切るかいたします。両替えに応じてくれない店もあるので、小銭を多く持っておくのが基本です」


 ふむ。となると、この巾着袋に入っている小銭では少々心もとないだろうか。


「何も考えずに、適当に持ってきたわ」

「というか姫様、一体どこで現金なんて手に入れられたんですか?」

「貴方と合流する前に寄ったアルテンの金属細工工房で宝飾品を適当に換金したのよ」

「え……ということは公費ではなく私費ですか?」


 ケーリックが慌てて自分の分は自分で払います、と言いかけたが、「はした金よ」とあしらっておいた。そもそもケーリックのお給料はリディアーヌの公女府から出ているのだし、後々経費として提出してもいい。第一この程度、その気になればいくらでも増やせる。


「最初の宿が駄目だったのは何故?」

「それは……そうですね。まず、町宿には二種類あります。宿屋兼食堂と酒場兼宿屋。前者は部屋も比較的綺麗ですし、先程のように湯のサービスをしてくれたりと、宿からの収入も期待している食堂ですね。後者は酒場がメインで、上階に酒場客が泊まれる空間があるというだけの場所です。個室があることは少なく。あったとしたら、それは、その……」

「あぁ……そういう所ね」

「ごほんっ。大体相部屋で、掃除なども行き届いていない、粗末な所が多いです」

「最初の宿は綺麗に見えたけれど」

「ですが立地が良くありませんでしたので避けました。最初の宿は港から近かったので、おそらく港での取引を目的とした中小規模の行商向けです。個室もあってそこそこの宿代を取る店でしょうが、酒場兼行なので礼儀のない男性客が大半であったはずです。なので住民から比較的治安のよい界隈と女性店主のいる店を伺い、こちらを選びました」

「ケーリック……貴方って、意外と考えていたのね」

「どういう意味かは聞かないでおきますね……」


 思いのほかケーリックが旅暮らしで役に立つことが分かった。なので手っ取り早く荷物を広げて、所持金や換金できるものについての情報の共有と、ケーリックからも今後気を付けるべきことのレクチャーを受けた。


「できる限り宿帳などのようなものも、私にやらせてください」

「あら、どうして? さすがに文字は書けるわよ」

「姫様の字ではすぐに貴族とばれますから」


 よく意味が分からず首を傾げると、キョロキョロと辺りを見回したケーリックは机に置かれていたカードを見つけ、それを差し出してきた。あまり綺麗ではないブロック体で、簡単な部屋の説明書きと、裏に井戸やご不浄の場所などを記した簡単な見取り図が書いてある。新設なカードだ。


「平民はこのように、一文字一文字をブロック体で記します。基本的に筆記体は読めないと思ってください」


 なるほど。通常王侯貴族が使うのは筆記体だ。それっぽくブロック体にしようとしても癖が出るのは(まぬが)れないし、どうしたって装飾的な字体になってしまう。


「イレーヌ達は普通に読んでいたけれど」

「大公家に出入りを許されている御用商会や商業組合長などと一緒にしてはいけませんよ。それに彼らも、読めても使いません。筆記体は特権階級の証明のようなものなので」

「そういう貴方はすらすらとブロック体を書いていなかったかしら?」

「無駄に長らく議政府で書類関連の雑務を受け持っていたわけではありませんから。一般向けの指示書の清書などで分かりやすい字体が求められることもあったんです」

「意外と知らないことってあるものね」


 そんな関心をしていると、「お湯をお持ちしました」という幼さのある声がして、ガチャリと戸が開いた。

 入っていいとも言っていないので驚いたが、ケーリックはそんな様子もなく「ご苦労様」と言って入ってきた二人の女の子にチップを渡した。


「言い忘れていましたが、こちらのお嬢様はアルテンの高貴なお嬢様でいらっしゃいますので、返事がないときは扉を開けないよう、宿の皆さんにお伝えいただけますか? 驚いてしまわれますので」

「返事ですか? はい、わかりました。あの、お湯は」

「奥に準備して差し上げてください」


 そういってさらにチップをはずむと、ぱぁっと顔を輝かせ、二人できゃっきゃとはしゃぎながら奥に(つい)(たて)を立てる。まさか、お湯とやらはこの部屋の中で浴びるのだろうか?


「ひ……ではなく、お嬢様。使用人などはおりませんが、お一人で大丈夫でしょうか?」


 考えてなかった。湯桶とやらのシステムがよく分からないのだが、でも体を拭うくらい一人でも……う、うん? えっと。いつもマーサ達はどうしてくれているのだったか?


「……ハンナさんを連れてくるべきでしたね」

「繊細なハンナをこんなところに連れてこられるわけないでしょう」


 それを言うならフランカを、だ。まぁフランカでも連れてくる気はなかったけれど。


「君達、チップをはずむからお嬢様の手伝いをお願いできるか?」


 すかさず粗末な桶に運んできた湯を注いでいた女の子達に声をかけたケーリックに、「ちょっと」と眉をしかめる。

 誰とも知らない人の手を借りるなんて嫌だし、それにこんな小さな女の子達に手伝わせるだなんて気が進まない。だが女の子達は慣れているのか、「喜んで」と満面の笑みを浮かべた。どうやらここまで散々はずんできたチップが効果を発揮しているらしい。


「お嬢様、こんなところで警戒する必要もありませんし、今は手をお借りしてください。お嬢様なら一度手伝っていただければすぐに覚えられるでしょうから」

「……貴方、ちょっと私より町暮らしに詳しいからって調子付いているみたいね」

「えっ」


 おっかなびっくりと肩を跳ね上げたケーリックに、「冗談よ」と笑ってやった。確かにケーリックの言う通りだ。こんな無謀を始めたのは自分なのだから、大人しく言われた通りにしておこう。

 それにほっとして隣室に下がったケーリックが、どこぞのお姫様のごとく羞恥心なくお世話されるお客様に女の子達がキャーキャー騒ぐ様子にドキドキハラハラしていたことなど知る由もなく、こうしてリディアーヌは町宿デビューを果たしたのである。






評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ