5-3 解帆(2)
side リディアーヌ / side ケーリック
応接室は貴顕のためではなく商談などに使われるのであろうランクのものだったが、気にすることもなく奥の座に腰を下ろしたところで、入室してきたケーリックがおろおろと周囲を伺い、パタリとしまった扉を不安そうに振り返った。
「あ、あの、姫様。どうして造船所に? それにその恰好。フィリック様や侍女の皆さん、それに護衛は……」
困惑するケーリックの前でパサリとフードを取ると、ますますケーリックは困惑した顔になった。今のリディアーヌは白金の髪を茶髪のウィッグで隠しているのだ。
「ひっ、姫様っ。その髪っ。そんな! 切った上に染めただなんて知れたら、フィリック様に叱られますよっ?!」
「ウィッグよ」
ちなみにこのウィッグはクロイツェンへの密航に使っていたアンジェリカから徴収したものである。まさかこんなものについてまで突っ込まれるとは思わなかった。しかも何故フィリックに叱られるだなんて発想になるのだろうか。躾けられすぎである。フィリックよりリディアーヌの方が上司なんだからな、と教えてやりたい。
「ウィッグ……なるほど、安心いたしました。ですが姫様がどうして一人でこのようなところに? あっ、ご指示のあったベルテセーヌからの船に対する監査の報はすべて通達いたしました。このアルテンの造船所に通ずる港が最後です。はっ……もしかして抜き打ち試験っ?!」
どうしてケーリックが一人でこんなところにいるのかと思いきや、どうやら指示した伝達を自ら行っていたらしい。プラージュの文官でも使えばいいものを。
「試験じゃないわよ。そもそもその仕事、貴方が直接しなくても良かったのよ?」
「いえ、フィリック様いわく、姫様の行かれる場所については何を聞かれても答えられるよう見識を広めておけとのこと。この仕事のついでに、プラージュの道や町、人のことについての把握を行っておりました。直接出向くことはフィリック様から許可を得てあります」
最近執務室にケーリックがいないことが多いと思っていたら、そういうことか。
「ではケーリック、もう一つ課題よ。今から私はちょっとフィリックに黙ってやることがあるのよ。貴方は仕事を終えて帰城した後、夜まで私が城内にいるかのように誤魔化す仕事をしてちょうだい」
「へっ? それはつまり、姫様はこのままお一人で出歩かれ、夜まで帰らないということですか?」
「……まぁ、そういうことだけれど」
大丈夫か? 大丈夫だよな。ケーリックだし。素直さが美徳の彼なら、きっとこの課題も粛々と……。
「いけませんっ! そんなの、バレた瞬間に私がフィリック様に瞬殺されます!」
「……」
フィリックめ。新人教育をあの冷血漢に任せたのは間違いだった……。
「貴方の主君はフィリックじゃなくて私なのだけれど?」
「ですが大公閣下からは、姫様が理解の及ばない行動をとっている時はすべてフィリック様に相談して確認しろと命じられていますし」
お養父様、お前もか。
「はぁ……困ったわね」
これはプラージュ行きが決まった時点で、養父もリディアーヌがこういう行動に出ることを危惧して予防線を張っていたのだろうか。そうかもしれない。
だがだとしたら、ここで見つかったのがケーリックだったというのは不幸中の幸いである。正直フィリックを言い負かす自信はないが、ケーリックなら何とかなる気がする。
「極秘中の極秘、フィリックにも明かせない大事な仕事なのだけれど」
「それでもいけませんっ。すぐに迎えを呼びますから、どうぞこのままお待ちください」
「駄目よ、ケーリック!」
フィリックにきっついお叱りを受けるのはすでに覚悟の上だが、今ここで連れ帰られたら怒られ損だ。断じて今フィリックにバレるわけにはいかない。
「言ったでしょう? 極秘のミッション中よ。でも極秘だから、今帰ったらフィリックは“対外的に”仕方なく私を叱らないといけないし、それにこの極秘任務に失敗したことについても叱られるわ。“貴方が邪魔をしたせいで”よ」
「うっ……」
さすがは素直さに定評のあるケーリックだ。見事にリディアーヌの言葉を信じて揺れている。
だがさすがにフィリックが知っていて見て見ぬふりをしているだなんていうのは無理があっただろうか。チラチラとこちらを見る視線が不安そうだ。
「はぁ……だったらこういうのはどうかしら? ケーリック」
スクリと席を立つと、一歩、一歩と扉の前に立つケーリックを壁際まで追い詰めてゆく。
公女様に触れてしまわないようにとおろおろ引き下がるケーリックがついに扉にドンと背をつけると同時に、リディアーヌもその退路を塞ぐべくドンと両手を扉につけ、笑みを浮かべた。
昔、カレッジの図書室に置いてあった小説にあったシーンだ。愛読していたナディアが教えてくれた。これを世間では、壁ドンというらしい。相手の退路を塞ぎ圧倒的威圧により相手を意のままに落とす最終手段にして最終兵器。これをされたらもれなく相手は掌の駒と化すが、同時に『貴女様のお二人のご学友方がもれなくご面倒を仕出かす事態になるので、リディアーヌ様は決して真似をされてはなりませんよ』、だったか。
ちょっとよく意味が分からないが、尻尾と耳を垂らした犬のように恐々と小さくなっているケーリックを見ると、効果は覿面のようである。今なら何でも言うことを聞かせられそうだ。
「ケーリック。四の五の言ってないで、黙って着いていらっしゃい。今から帰城するその時まで、私の言うことにはすべて“はい”で答えるのよ」
「……ひ、めさ……」
「お返事は?」
「っ、ヒャイッ!」
よし。
これにて万事万端である。
◇◇◇
公女府の新入り文官ケーリック・フレイは、自分で自分をマメなだけの凡庸な文官と称することに絶対の自信を持つ、平凡な貴族の次男坊だった。
父は代々議政府の重役を務める侯爵殿で、兄はそんな父の後を何憂えなく継ぐことを期待された優秀な文官である。そんな父と兄とは裏腹に、幼い頃から何かとのんびりと庭の草木の上の虫を観察したり、妹の人形遊びに付き合ってあげたりする方が性に合っていたケーリックは、よもや叔父が自分のフレイ子爵家を継いでほしいなどと言い出すとは思ってもみなかった。
爵位を受ける以上はきちんと出仕せねばならない。こまごまとした書類仕事は嫌いではなかったので、まぁいいかと適当に官吏登用試験を受け、適当な部署に配属され、ほどなく書類仕事が早くて助かるからと、議政府直属の書記官に登用された。
大出世ではあるけれど、自分に求められているのは書記官から議政府の高官となるような出世ルートに乗ることではなく、そんなエリート達の仕事が円滑に進むよう、書類仕事に邁進することだろうと、ただ黙々と言われるがままの仕事をこなしていた。
それが一体、何をどう間違ったのか。
『公女府に欲しい人材だ』
ある日突然執務室の一番末席で書類を片付けていたケーリックにそんな声をかけたのが、この大公家の筆頭分家であるアセルマン家の三男にして公女殿下の懐刀であるフィリック卿だった。
この突然の申し出を受けた時にはいったい何の冗談かと、上司でもあるフィリック卿の兄君に助けを求めたのだが、ただキョトンと目を瞬かせたマドリック卿は『まぁ、好きにすればいい』だなどと仰った。
もとより自分は雑務をこなすだけの下っ端だ。引き止められなかったことに驚きはしなかったが、多少はがっかりした。だがそれをも吹き飛ばす勢いで、『でしたらいただいて参ります』などと言って、フィリック卿に公女府まで引きずられていったのだ。
公女殿下と直接お話したのは、その日が初めてだった。
見たことがあるという意味ではもっと昔、カレッジの頃から存じていた。ちょうど最終学年の頃、四学年に公女殿下がご入学なされてきたからだ。一度挨拶した程度で以後直接話すことはなかったが、ついつい目で追ってしまったのは仕方のないことで、それ以前、大公家の養子女殿下方の葬儀の日に見た感情もない冷たい雰囲気とは裏腹に友人達と子供らしく笑ったり怒ったりする姿をよくお見掛けしていた。
そのせいだろうか。ケーリックにとって公女殿下は、公女殿下である前に大公家の一人のお姫様という印象が強かった。
とはいえ大公家に官吏として勤めるようになってからは、方々で『このまま公女殿下が世継ぎとなられるべきだ』などという話も聞くようになっており、その方が才能豊かな御仁であることは疑いようもなく知っていた。
殿下の卒業後、周りに集められた側近達ももれなくそうした優秀の聞こえの高い者達ばかりであり、ケーリックにとってみれば彼らはみな“異次元の人達”といった感覚だった。
それがどうしたことか。まさか自分がその公女殿下の目の前に立たされ、その視線の中に入って認識されているということが奇妙で仕方がなかった。
『フィリック、どこで拾ってきたの。ダメでしょ。ちゃんと元の上司さんの所に返していらっしゃい』
だから公女様の最初の一言が拾ってきた犬を捨てて来なさいだなんていうような哀愁たっぷりの言葉であったとしても、何一つショックではなかった。いや、むしろそれで当然だと全力で頷きかけたくらいだ。
『姫様、弖が早くて書類の作成に長けた文官が一人欲しいと言っていたでしょう。ざっと見て回った限り、彼が一番手早くて正確でした。惜しむらくは少々そそっかしいのと出世欲に乏しいことですが、そこは私が上手く使えるように致しますので』
高評価……だったのだろうか。フィリック卿の言葉に驚いている内にも、くるりくるりと掌でペンを転がしていた公女様はじぃっとこちらを見て、ほどなく憐れむようなため息をつきながら、『貴方、フィリックが指導官だなんて最悪よ。大丈夫?』だなんて仰ったのだ。
正直、言葉の意味なんてろくに考える間もなかった。このヴァレンティンのトップに君臨する家のお二人を前に無理だなんて言えようはずもなく、何も考えずに『頑張ります!』と答えていたのだ。
それが、ケーリックが公女府に配属された経緯だった。
それから二年間、文官見習いとして公女府に勤めた。
ただの議政府書記官と違い、公女府文官は自ら考え公女様を補佐する重職だ。自分にそこまでは求められていないだろう、などという油断はすぐに吹き飛び、次々に舞い込む書類仕事は、なるほど、世間で言われている『このまま公女殿下が後を継いでくだされば』という評判の出所を実感するものだった。
それでいながら公女府の正式な文官は、たったの二人しかいなかった。書記官は他にもいるのだが、どうにも公女殿下やフィリック卿の求める基準に達する文官はいなかったらしく、ケーリックも書記官や他の文官見習いらと共に仕事をしながら、自分が正式な文官になんてなるのは無理なのではと思っていたくらいだ。
それがある日、来年には昇進になるなどという告示を受け、とんとん拍子にこの地位に就いた。今でも正直、どうして自分が公女府の文官になれたのかが不思議なくらいである。
だが今になって思う。公女殿下とフィリック卿が求めていたのは、ワンと鳴いて素直に言うことを聞く使い勝手のいい文官……もとい、“犬”だったのではなかろうかと。
「ケーリック、何を黄昏ているの? ヴァレンティンを出るまでは誰に見つかるとも知れないから、船室にいなさいと言ったでしょう?」
拝啓、日和見な次男を見捨てず適当に好き勝手育ててくださった父上、突然のぼんくらな次男の大出世に苦言の一つも言わず祝ってくれた兄上。ケーリックは今日、公女殿下のご命令に従い、公女殿下の“国外逃亡”のお手伝いをすることになってしまいました。
ちょっと変だなぁ、とか、えぇ、確かに思っていたのです。ですが私などがどうして公女殿下に否を申せましょうか。私の仕事は殿下のお仕事を円滑にするべく、淡々と言われた仕事をこなすことなのですから、これは正しいことなのです。
ですが申し訳ありません。次にヴァレンティンの故郷の土を踏む時、多分私はいろいろな方から滅多刺しにされること間違いありません。願わくば親類縁者にまで類が及ばないことを祈るばかりですが、多分フィリック様はご容赦くださらないと思いますので、ご覚悟いただきたい次第……と、それを伝えることもできず、こうして船上からヴァレンティンを眺めている次第でございます。親不孝な出来損ないで申し訳ありません。せめて私が帰るまで、楽しい余暇をお過ごしください。
あ、私、無事に帰れるかどうかもそもそも分からないんですが……。
「聞いているのかしら? ケーリック」
「ひぇっっ」
こんなにも公女殿下に近づいてしまったと知られたら、フィリック様ばかりでなく公女様に想いをお寄せになっている王子様方からもグサッとされそうだ。
あぁ、フィリック様。私は一体、どうしたらよかったのでしょうか?
「今更後悔したところで遅いわよ。もう船はプラージュを出てしまったのだもの。次に陸を踏むのは二日後。ベルテセーヌのオトメール港よ」
「……泳ぎを習っておくべきでした……」
「この辺、海竜が出るわよ?」
いっそこのまま海竜にパクリと食べられてしまった方が、楽に死ねるのではないでしょうか。
拝啓、かつての上司マドリック様。もしも生きて帰れたなら、どうか再び議政府の末席でちまちまと机仕事だけをこなす日々に戻していただけるよう、伏して願い奉ります。




