4-21 狼さんが来た理由
思えばもう随分と前、まだリディアーヌが帰国して間もない頃に、側近達が集まって何やらこそこそとやっていたのを覚えている。
あの時はどうせまたリディアーヌの困った所についてでもこそこそ話し合っているのだろうと、上司の心得とばかりに見なかったふりをしてあげたのだが……間違っていた。やはりちゃんと、問い詰めるべきだった。
ため息をこぼしながらティーカップを傾けて、たっぷりの蜂蜜を入れたお茶で喉を潤す。アロア離宮のこの美しい裏庭は、心を落ち着けるのに最適だ。
だが不思議なことに、この数日いい加減にしてほしくなるほどべったりとくっついて離れなかった侍女や騎士達の姿が全くない。それだけ忙しくしているのか、あるいは気を使って見えない場所に控えてくれているのか。
答えはそのどちらでもなかったらしく、間もなく先程までとは打って変わってこざっぱりと身綺麗にした“悪友”が、「や、リディ」なんて暢気な様子でやって来た。
その姿に、やはり夢ではなかったのだと、再びため息がこぼれてしまう。
「ため息で出迎えなんて酷いな」
「まったく……どうして貴方がこんなところにいるのかしら、マクシミリアン」
新緑の美しいフォレ・ドゥネージュの森。青く染まりきるには少し早いベルブラウの薄藍の花。さわさわと涼しい春の終わりの風と、森の香り。見慣れたヴァレンティンの景色とこの山際に張り付く古い城の一角に、彼がいることが不思議でならない。
まるで昔からここに住んでいるかのようにしっくりとした様子で東屋の柱に手をかけ訪ねてきたその男は、ザクセオン公子マクシミリアン――今、皇宮で行われている帝国議会に出席していたはずの、友人である。
今の今まで、そんな報告は少しもなかった。
マクシミリアンは相変わらず市井にでも溶け込めそうな地味なローブを羽織っていたけれど、国境を通過した以上はその時点で入国が分かっていたはずだ。なのに誰もリディアーヌにそれを知らせなかったのだから、意図的だったとしか言いようがない。
しかも城門をくぐったとかそういう報告もなく、いきなり城壁の内側の人目もない林道で、何者かに追われながら現れたのだ。驚くなという方が無理である。
正直、言葉を交わしてなお、未だに目の前の光景が信じられない。
「はぁ……一体私は、誰と誰を咎めればいいのかしら? 取り合えず貴方をここまで連れてきたらしいシュルトかしら? それとも現在進行形でこの離宮の私的な裏庭に客を寄越しておきながらちっとも姿を見せない側近達のすべてにかしら?」
皇宮の成人式後、シュルトは今少し情報収集をしてからの帰国となる連絡が来ていた。そのシュルトが先程、何故か襲撃を受けていた公子様の後ろから追いついてきた。ここまでマクシミリアンを連れてきたのはシュルトだ。先程は顔を見た瞬間ペコッと頭だけ下げて、主人に帰国の挨拶もせずに逃げ去りやがった。彼は特別に、この後お説教六時間コースを振舞ってやらねばなるまい。
「正直、私も驚いているよ」
そう苦笑しながらガゼボに足を踏み入れたマクシミリアンはリディアーヌの傍に立つと、挨拶のキスのためか手を出すよう求める仕草をした。なので呆れながらも手を差し出す。
だがどうしたことか。その手はいつものように優しく扱われることは無く、強い力に引き寄せられたかと思うとドンとテーブルに押さえつけられた。
テーブルの上のティーカップが跳ねて甲高い音がする。
カランカランと転がったのはティースプーンだろうか。押し付けられた背中がジンとして、強く掴まれた腕が痛い。そしてそんなリディアーヌを上から見つめたマクシミリアンの面差しが……何故だろう。見たこともないほどに、冷ややかだ。
まるで怒っているかのよう。だが怖くはない。ただ不思議なだけだ。
「先程助けてあげたばかりの友人に対して、何事なの? ミリム」
「助けてもらったことに関しては感謝している」
まぁ……リディアーヌも、どうやら馬車に向かっていられたらしい弓矢からマクシミリアンに助けられたようなのだが。それはそれ、これはこれ……。
「じゃあ一体これは……」
「何事だろうね……胸に手を当てて、よく考えてみるといい」
「……腕を掴まれているせいで、胸に手を当てられないわ」
そうチラリと掴まれている腕を見て暗に痛いことを訴えたけれど、何故かぎゅうとその力は強まるだけだった。
さて、これは一体……誰かが何かを囁いたのだと思うが、日頃嘘くさいほどに温厚なこの男を怒らせているのは何なのか。襲撃のせい? ヴァレンティンの治安はどうなっているのか、とか? いや、そんなことでこんな意味不明なことをする人ではないはずだ。
襲撃の件が関係ないとすると、思い当たるのは……私達のもう一人の悪友? いや。今更マクシミリアンをこんなにするような驚きの情報はないはずだ。
だったらセザール? ふむ。リンテンで会ったのはもう結構前のことで、何事もなく終わっている。すでにベルテセーヌに求婚状に対する断りも届いているはずで、帝国議会に行っている叔父様の口からもそう聞いているはずだ。
あるいはフィリックは……すでに本人の口からやましい関係はないときっぱり告げられているし、あれ以来、過度な私的空間への出入りもさせていない。やはり違う。
じゃあ……リュシアン? うぅん……たしかにその話題はリンテンでも出したが、今はベルテセーヌ国内での正念場であって、まだリディアーヌはそちらに何ら干渉していない。というかできていない。リュシアン絡みの何かを言われるとも考え難いのだが。
「生憎と、よく考えても思い当たる節がまるでないわ。一体何をそんなに怒っているの?」
「怒る? 怒る、か。少し違うかな」
「違うの?」
じゃあ何故そんなにも怖い顔をしているのだろう。
「君は本当に……もどかしくなるほど、口が堅い」
「必要なことならちゃんと言うわ。でも困ったわね。貴方が挨拶もなく突然私を押し倒している理由に検討が付かないの。ヒントをくれない?」
お養父様のことだとか、ベルテセーヌのことだとか。何か言われれば思い出すかもしれない。
しかしそんな悠長な問いに付き合うつもりはなかったのか、罰だと言わんばかりに首筋に顔を埋め噛みついてきたマクシミリアンに、「ちょっとッ」ともがいた。
どうしたことか、掴まれた腕がびくともしない。
まだ少し濡れた髪が冷たくて、くすぐったい。
「っ、ミリムッ」
「なんか、リディ……甘い」
「気のせいだからっ。噛まないでちょうだい! お腹が空いているの?!」
「あぁ。空っぽだ」
「マーサ! ハンナ! フランカ?!」
侍女を呼んでみるが、誰一人として出てこない。
いないはずがないのに、一体どうしたことか。
そうしている内にもマクシミリアンはカプカプと首やら肩を甘噛みしてゆく。
繰り返される熱と水音に、妙な気恥ずかしさが募る。
「っ、ミリムっ、いい加減にっ……」
「まだ思い当たらない?」
「何に?!」
こんな状況で何を思い当たれと?!
そう素直に叫んだところで、顔をあげたマクシミリアンが一つキョトンとした顔をしたかと思うと、訝しそうに顔を寄せてきた。
妙に蠱惑的で凄艶とした瞳に当惑する。
なんだろう。そんな目で見つめられていたら、どうしたらいいか分からないじゃないか。
「リディ……」
それにそんな憂えた声で名を呼んで。今にもキスなんてしそうなほどに……ん? キス? ちょっ、本気?!
「ミッ、ミリムッ、ミリムさんッッ、ステイ!」
「?」
「ス、ステイ! 聞こえてる? ステイ! お座り!」
「……」
「……」
あ、離れてくれた!
「そのまま、そのままっ。いい子だから、待て、よ!」
「……」
「……」
「……リディ、僕の事、犬か何かだと思ってる?」
「違うわよっ! ただの貴方の自業自得よっ!」
頬をくすぐる髪としっとりと首筋を濡らす舌が、フォレ・ドゥネージュの森に住まう狼達に押し倒されてペロペロと愛情たっぷりに挨拶される時との既視感を感じさせた……などとは言えない。
「はぁぁぁ……」
離れてはくれたけれど、何やら妙な脱力感を感じながら、腕で目を覆いながらため息を吐いた。マクシミリアンの行動の意味が全く理解できない。突然何事なのか。
「抵抗しないんだね」
「してたわよ?!」
何言ってるの? と驚いて目を瞬かせたら、何故かマクシミリアンも同じ反応をした。心外である。自分の力の強さを分かっていないんじゃないだろうか。
「してたの?」
「してたわよ。見て見なさい、この赤くなった腕」
「……」
「……」
なるほど、反省はしていないわけね。
「グーデリックにも?」
「はい?」
なんで今さら、そんな過去の名前が……。
「……」
「……」
「……はぁぁぁ」
なるほど。あぁ、なるほど……。
「一体どこのどなたなのかしら。貴方にリンテンでの出来事を吹き込んだのは」
「事実なんだね?」
こんな体勢で話すことでもないと起き上がろうとしたら、マクシミリアンの腕にぐっと引っ張り起こされ、そのまま腕の中に抱きすくめられたまま、膝の上に乗り上げさせられてしまった。
何これ。異様に恥ずかしいんだが。
「っちょっと、ミリムっ」
「どこからどこまでが事実? フォンクラーク王はあろうことか、君がグーデリックの子を身籠っていないか心配だ、などとふざけたことを言って来た」
「ちょっ……」
なんてこと……お前が原因か、フォンクラーク王!
「どんな侮辱よ! 今すぐ殴り飛ばしてあげたいとんだ誹謗だわ!」
「取り合えず胸ぐらを掴んで投げ飛ばしてはおいたけど……」
「ミリムさんッ?!」
この人、そんな武闘派だったかしら?!
いや、そういえば、スルーしていたけれど、先程当たり前みたいに矢をいなしたり、ナイフを投げたりしてたな、この人。
あぁ驚いた。はぁ、驚いた。
「馬鹿ね、ミリム。そんな安っぽい“煽り”にまんまと乗って、手を出したの? 貴方らしくないわ」
「安っぽい? リディ。どんなに安っぽくても、それを聞いた私がどれほど耐え難かった分かる? 国王殺しをしでかさなかったのは奇跡だよ」
「嘘だと分かっていたから殺さなかったんでしょう? そんな事実が有ったなら、貴方がどうこうする前にうちの側近やクロレンスがどうにかしているわよ。グーデリックを捕らえたのはエリオットとクロレンスなんだから」
「ふぅ……」
一つ息を吐きながらリディアーヌの肩に額を埋めたマクシミリアンに、何やら可愛さを感じてしまった。つい手を回して柔らかな髪を撫でてしまったのは仕方がないことで、その思いがけない心地よい指先の感触に、止めることが出来なくなってしまったのも仕方がないことだ。
なにこれ、気持ちいい。
「……リディ、誘ってるの?」
「誘ってない」
ごほんっ。
「まさかミリム、貴方そんな噂を鵜呑みにして、はるばるヴァレンティンの首都まで来たの? ザクセオンよりは近いといったって、直轄領からそんなに簡単に来られる距離じゃないわよ? なのに議会を放り出して、しかもたったの一人で」
「選帝侯議会の閉会までは耐えた。あと、単騎の方が早い」
「そういう問題ではなくってよ」
「それに噂を裏付けるような報告を寄越したお節介な連中がいたんだよ」
「どこの誰よ。そんな馬鹿なことをしたのは」
「……」
「……?」
何、その反応。
いや、待って。今のこの状況。マクシミリアンが動かざるを得なかったほどの、説得力のある情報源? 激しく嫌な予感がするのだが。
「……まさか……“うちの子達”なんじゃないでしょうね」
「純潔を奪われたというのが嘘でも、薬を盛られていいようにされかけたのは事実なんだろう? リディ、忘れてもらっては困るよ。私は君とトゥーリのいつも通りの嘘と分かり切った流言にさえ嫉妬を隠し得ない、心の狭い男なんだよ」
「忘れて、いないわ」
少なくともクロイツェンからの帰路、それをとくと実感した。
「どうして言わなかったんだ。それを知っていたなら、私はクロイツェンで一瞬たりともトゥーリを庇ったりなんてしなかった。トゥーリの計略が原因で、私は私の最も愛おしい人を傷つけられたんだから。グーデリックが目の前にいればこの凄惨な気持ちをどうにかできたんだろうが、すでに皇帝陛下の判決が下っているという。だったら私はこの憤りをどこで晴らせばいい?」
どうしよう。リディアーヌにだって、その方法は思いつかない。
「でもだからって私に八つ当たりだなんて。私だって好きで隠していたわけじゃないわ。話したくなかっただけよ。なのにそれを今更私に思い出させているのは貴方だわ」
「……」
その自覚はあるのか、少ししょんぼりとして見えるマクシミリアンに、まったく仕方がないとばかりに頬を指先で撫でた。
そんな指先に素直に頬を預けて来る様子が、益々うちの狼さん達みたいで愛おしい。
なんだこの生き物。マクシミリアンというのはこんなに可愛い生き物だっただろうか?
「あ、あの……ミリム?」
「何?」
「……恥ずかしいのだけれど」
「自分で弄んでおいて、何を言っているの?」
「弄んでないっ」
それを言うなら、リディアーヌを膝の上から下ろしてくれないマクシミリアンの方がそうではないか。
「……相変わらず難儀な人ね」
「リディもね」
「単騎でいきなり城までやってくる貴方ほどじゃないわよ」
「私をそれほど慌てふためかせるのは君だけだよ」
「だから私のせいだって?」
「そうじゃないって言える?」
「……まぁ、グーデリックの件は……その。色々と、反省しているわ」
ごほんっ。
「ねぇ、リディ。他には? 何をされたの? どこを触られた?」
「ちょっと……」
「言って」
「……」
言わないわよ、恥ずかしい。
「そう。言えないほど恥ずかしいことをされたの?」
「っ……」
言っている傍から再び首やら耳やら甘噛み出したマクシミリアンに、「こらっ」と慌てて頭を押さえる。相変わらず、びくともしない。
「何するのよっ。再現でもするつもり?!」
「それもいいね」
「まったく良くないわよ。アレは“悪い思い出”なの。なのにどうしてそれを真似するの?」
「上書きすれば、悪くない思い出になるかもよ?」
「真顔で恐ろしいことを言うわね」
素直に驚いた。もしかしなくてもマクシミリアンめ。頭のねじが一つ吹き飛んでしまっているんじゃないのか? 困った男だ。
どうしようか。このまま放っておいて、どうにかなる気がしない。かといって再現されるのは困る。いくらなんでも困る。
困った。あぁ困った。
「はぁ……仕方がないわね。ミリム」
パン、とその両頬に掌を添えると、グリーンの瞳と目が合った。
見慣れた瞳なはずなのに、どうしてこんなにも気恥ずかしいのだろう。
どうしてこんなに……愛おしく思えるのだろう。
「いいこと。これは特別な。とってもとっても特別な……うちの可愛いフレデリクにしかしたことのないことなんですからね」
「リディ?」
「その代わり、これでもうこの件の話は無しよ」
言葉で言って分からないなら、態度で示すしかない。
チュ、と額に触れた唇に、マクシミリアンがポカンとした顔でこちらを見上げる。
一気にこみあげてきた恥ずかしさに慌てて膝から飛び降りようとしたら、もれなくギュウとこれまで以上の強く抱きすくめられてしまった。
「ッ、ちょっとっ、ミリッ……」
「もう、無理。可愛すぎて無理っ。どうしてくれるの? リディ」
「知らなっっ……」
「あね……うえ……?」
はっっ!
「……」
「……」
「少年。今ものすごく大事な所だから、もう少し待ってくれるか?」
「マクシミリアンッッ、ステイ!!」