4-5 ザクセオン(2)
先の大公の墓所は、首都からは遠く離れたこの町の近くにある。それをリディアーヌは知っていた。町から少し行った先の山際の離邸が、かつて大公が隠居していた場所なのだ。
地図を見てすぐ、それに気が付いた。そのせいで気になってしまったともいえる。
部屋を出るなり馬車を用意させた大公に皆が首を傾げていたけれど、それにマクシミリアンとリディアーヌだけを同行させ、大公の案内する場所へと向かった。
もうあまり手入れもされていないのか、うっそうと茂る木々の間を山際に向かい、小さな湖の畔にひっそりと、その周辺だけ小綺麗に手入れされた小さな館があった。
馬車が到着するなり館の中から現れたのは上品な貴婦人で、すぐにマクシミリアンが「祖母だ」と教えてくれた。先の大公夫人ということだ。
「一体どうしました? ヘルムフリート。今回は同行者がいるためお墓参りは帰路に行うと……」
降りた息子に声を掛けた婦人は、すぐにその後ろから降りてきたマクシミリアンとリディアーヌにはっと言葉を噤み、とりわけリディアーヌを見てひどく驚いた顔をした。
リディアーヌとの面識はない。だがおそらくは、父の……クリストフ二世の面影をみたのだろう。
「あぁ……なんてこと。まさか……」
「お初にお目にかかります、前大公夫人。リディアーヌ・ド・ヴァレンティンです」
「ヴァレンティン公女……いえ、なんてこと……その面影は……」
「似ていると、よく言われます。生憎と私は、その父の顔をあまり覚えていないのですが」
「ッ……では……」
どうやら夫人はリディアーヌの出生を知らなかったようだが、さすがに実父を知る人からしてみれば気が付かざるを得ない外見だったようだ。
すぐに察したらしい夫人は悲痛に顔を歪めると、リディアーヌの手を取り、額を擦り付けた。
深く、謝罪を請うているかのようだった。
「ヘルムフリート、どうして公女をこちらに?」
「母上……それは……」
「私が大公様にお頼みしたのです。先の大公閣下の墓所に詣でたいと」
「何故……」
「恨みではありません。私はただ選帝侯家の公女として、選帝侯というものを全うした先人の墓所を素通りできなかっただけですわ」
「主人は“王女様”がいらしたと聞いたら、仰天して墓から飛び起きてしまいますわ」
「ふふっ。眠りを妨げることは、心ばかりの意趣返しと諦めていただきましょう」
そう軽く口にしたのが良かったのか、ほっとした様子の夫人は、「ご案内しましょう」と皆を館の裏手に誘った。
「初めてみる木だわ」
「キャラメルの木だね。この辺りに多い黄葉木だよ」
「……え? 何? キャラメル?」
それってお砂糖とバターを煮詰めたあのお菓子のこと? なんて訝し気に首を傾げたリディアーヌに、「嘘じゃないよ」とマクシミリアンが肩をすくめて笑った。
「秋になると黄金色に染まった葉がキャラメルのような香りを漂わせながら散ってゆくから、そう呼ばれているんだ」
「あ、そういう……」
とはいえマクシミリアンの言葉からは想像できない青々とした木々を見上げていると、「あの人の好きだった木です」と夫人が補説した。そんな、背の高い大きな木々の中にある墓石の前で立ち止まる。
国主の墓とは思えない、とても簡素な、小さな物だった。
誰からともなく手を組み沈黙して祈りを捧げる。
見たこともない人だからか、すでに墓石しかないその場所で感傷的になれというのは無理な話だ。だが少なからず、これが一つの心の区切りにはなった気がした。
これは許しだ。墓の下の前大公に対してではなく、心に引っ掛かりを覚えているであろう今の彼ら……マクシミリアンへの。
「これでもう……この話は無しよ」
「……ずるいよ、リディ。一方的な許しだなんて」
「私がいいといったのだから、いいのよ。墓の下の王女は、もうザクセオンを少しも恨んでいないわ。いいえ……むしろ、為すべきことを全うした選帝侯に、敬意を表すわ」
「リディはさ。私がお祖父様を快く思っていると知っていて、こんなことをしたの?」
「知らないわ。でも私の知っている貴方は、何となくそのお祖父様とやらの影響を受けている気はしたわ。言ったでしょう? 私は貴方を見て、選帝侯家がどういうものなのかを学んだの。その貴方に感じた尊敬を、この墓に眠る方に感じたわ。だからお会いしたかったの」
「……敵わないね」
マクシミリアンは多くを語らなかったが、多分そういうことなのだろう。彼はこの墓の下の人から、選帝侯というのがどういうものなのかを学んだのだ。
「でも自害はよくないわね。生きていて下されば、直接会って、“死んでいなかった私”と話もできたし、恨み言も言えたのに。ずるいわ」
「君が死んだふりをしていたと聞いたら、お祖父様は同じことを言うと思うよ」
「いいのよ。私は“ふり”なんだから」
コツコツと友人を肘で小突いていたら、驚いたようにパチパチと目を瞬かせた夫人が、何とも言えないような感情のこもった声色で「まぁ」と呟いた。
自分の孫と、自分が防げなかった凶刃で亡くなった王の子がこんな風に親しくしているのを見たら、彼は何と言っただろう。きっとそんなことを考えてしまったのだろう。
「マクシミリアン。やはりお前も、帝国議会についてきなさい」
「はい?」
唐突な話だったのだろう。大公の言葉に、マクシミリアンはすかさず首を傾けた。ただ行動に表情がついていっていない。笑顔なままなのが声色と不釣り合いで怖い。
「ちょっと、ミリム、顔。驚くなら驚いたらしい顔をしなさい。チグハグで怖いから」
「あ、いや。驚きすぎて顔を作る余力が」
はっきり“作る”とかいうものだから、間もなく彼の父がため息を吐いた。まぁ、そんな息子の処世術くらいは承知していただろうけれど。
「それで、父上。何故突然?」
「皇帝陛下は、もう長くない」
それには誰も、驚かなかった。
むしろ驚かなすぎたせいで、大公様の方が「百も承知か」と呆れた顔をしたほどだ。
「そりゃあまぁ、そういう噂は耳に入っていますから。リディも知ってたみたいだね」
「私は本人から言われたわ。『おめでとう、自分はもう長くない』って」
「……」
「嘘じゃないわ。本当に、こういう言い方だったわ」
正確にはちょっと違っていた気がしないでもないが。
「ごほんっ。あー、だから……マクシミリアン」
「あ、はい。何でしょう」
「見ておきなさい、今の皇帝を。思わず口にしてしまった一言のために、多くの悲劇を生み、多くの後悔を背負いながら玉座に着いてしまった皇帝を」
「……」
さわさわと、大きな木の大きな葉が風にこすれて静かに、騒がしい。
まるで世界にここだけ切り取られたかのよう。
「皇帝戦において、選帝侯家は複数人の選帝卿を立てる。私の跡取りであるお前は選帝伯としてザクセオンの意志の一端を担うことになるだろう。私は、クロイツェンから皇帝を立てる。立てねばならない。だがお前は、お前の好きにしなさい」
「おかしなことを言うんですね。選帝侯は己を補佐する者として選帝卿を任じるはずです。だったら私にもそれを強要すべきでは?」
「幼い頃から友人として親しませていた皇太子の婚儀の祝宴を途中で抜け出した上に、ベルテセーヌの元王女を連れて電撃帰国するような息子に何を強要できる」
「おっと……それを言われると……」
「かつて愚かな私は何の疑いも抱かず、クロイツェン七世を推戴した。私がすべてを知ったのは父が死んでからだ。愚かだろう? だがどんなに愚かでも、私にはそれ以外の選択肢はなかった。私にとって父がそれだけの力を持った国主だったからだ。だがお前は違う」
「……」
「だからこそ、皇帝というものを見ておけ。留守居ばかりでは知る機会がないからな。知っておくべきだ。ザクセオンとして」
「……そういうことなら」
簡素に答えたマクシミリアンはそれからしばらく沈黙していたけれど、どこかでピィと鳥が鳴いたのを機に、ふとリディアーヌを振り返った。
見せた顔はもういつも通り。張り付けたような変わらぬ穏やかな笑顔だった。
「聞いた? リディ。やったね。一緒に船旅だよ」
ただその言葉は、いつもより少しだけ……わざとらしかったかもしれない。
きっとリディアーヌの知らない父と子の関係が、有るのだろう。背を向けたままの大公が、どこか物寂し気に感じるのは気のせいではないはずだ。
マクシミリアンだって……分かっているだろうに。
「暢気なことね、ミリム。帝国議会なんて、煩わしいことだらけでしょうに」
「見学だけなら気も楽だ」
「ミリム……私が五年生の時、突然皇帝陛下に議会に呼び出されて大変な目にあったことを忘れたわけじゃないわよね?」
「あ……」
そういえば、あったね……とわずかに顔をひきつらせたマクシミリアンに、クスリと笑ってやった。
「変な気を使わないでちょうだい。そんなの望んでいないわ」
「使ってないよ」
「言い直すわ。船旅を快適にするため、私に気を使って、ちょっとはお父様と仲良くしてみせなさい」
「それは……ハードルが高い」
勘弁して、なんて囁く冷たい顔のマクシミリアンをコツンと肩で小突いてやった。
この人にも苦手な物があることを、初めて知った。