4-3 初夜(2)
side アルトゥール
「デッセル」
説明するのも億劫だとばかりに、今も昔も態度の変わらない、むしろ淡泊さに磨きがかかったような文官に代理説明の役を任せた。案の定、デッセルはよく理解していたようで、「わざわざ説明するまでもない、とのことです」という言葉に集約した。
「ですが、その……」
それでも引き下がらずに背後を気にし続けていたマックスは、やがてはっとした顔をすると恭しく引き下がった。
その開けた扉から、夜着にケープを羽織ったヴィオレットが顔を覗かせた。
薄い衣に下ろし髪。無防備な姿に、手にはティーセットを乗せた盆を持っている。
何をしに来たのかは見ればわかるが、自分の側近というわけでもない異性がいる場にこんな時間にこんな格好で現れるというのは非常識だ。周囲の侍女達もそれを止めなかったのだろうか。いや、止めなかったのだろう。現に、マックスが止めもせずに扉を開けているのだ。
「お仕事のお邪魔をしてごめんなさい、アル……あの、お茶を淹れたの。疲れているでしょうから、少しでも助けになれたらと思って」
「あぁ、わざわざすまない。だが君がそんなことをせずとも良い」
「やらせてください。私にはこのくらいしかできませんから」
もっと手伝えたらいいのだけれど、などと言いながら歩み寄って来たヴィオレットが、書類の積みあがる机に盆を置いて、カップにお茶を注いだ。
ほのかなハーブの香りとかすかな紅茶の香気。レモンと砂糖が添えられていて手が込んでいる。だが今はそれに意識を向ける事すら億劫だった。
「有難くいただく。それより君は早く部屋に戻りなさい。淑女がそんな恰好で自室の外を出歩くものではない」
「っ……あっ。やだ、私ったら……恥ずかしい」
恥じらって見せるヴィオレットに、マックスが「殿下は我々の目がお気に障っておられるようです」などと笑って見せる。
そのように根拠もなく主の気持ちを代弁するような愚かな真似をする男ではなかったはずなのだが……ここのところ、ヴィオレットの機嫌を取るような言動が増えた。その様子にはアルトゥールばかりでなく、デッセルも眉をしかめて、「私は仕事に茶々を挟まれることの方が気に障ります」などと口にした。
すかさずマックスがそれに何やら言い返していたが、正直興味はなく、フゥと吐いたため息に二人の口を噤ませる。
「控えろ、マックス。仕事の手が止まったのは事実だ。それからデッセルはわざわざ突っかかるな。面倒が増えるだけだ」
「失礼いたしました」
すぐに謝罪したデッセルは、「宜しければデッセル卿も、一休みなさいませんか?」と言ってお茶を淹れようとしていたヴィオレットに「私は結構です」と止め、自分の仕事をごっそりと手に脇の机に着いた。
関わっていると口を挟まざるを得ないからと、自分の仕事に没頭して無視することにしたらしい。仕事の上では有能なのだが、なんとも極端な男だ。それでも、近頃主君を蔑ろにしたかのような態度の増えたほかの連中よりははるかにマシだ。
「あの……アル。大変そうなのは……見てわかるのだけれど……」
どうやらヴィオレットはまだ用事があるらしい。
自分も仕事に戻ろうとしたところでかけられた声に、ペンを浮かせ、顔を上げる。
面倒でも、相手はこちらに取り込んでおかねばならないからと繋ぎ止めた契約相手だ。彼女が満足に過ごせるよう尽力することもまた仕事である。
「構わない、なんでも言うといい」
ここ最近すっかりと慣れてきた柔らかな口調に、緊張した様子だったヴィオレットの面差しが少し和らぐ。
「実は一つ、お願いがあって」
「何だ?」
「その……ベルテセーヌに派遣していた私の従士のこと、なんですが」
「従士?」
あぁ……従士とは名ばかりの、血の気を纏った用心棒の事か。
腕が立つことと、ヴィオレットのために働くという言葉の真偽を確認するという名目でベルテセーヌに派遣していたが、程なく音信不通になり消息の途絶えている男の事だ。ベルテセーヌで野垂れ死にでもしたのかもしれない。今更その安否など問われても困るのだが。
しかしそんな懸念とは裏腹に、ヴィオレットは「キリアンがクロツェンに戻っているんです」と言葉を続けた。
「戻っている? その男は冬の間、音信が途絶えていたんだぞ?」
「し、仕方がなかったんですっ。教会本山の聖騎士達の動きが活発になっていて、動きを封じられていたのだと」
「何だと?」
その手の報告はブランディーヌ夫人からは聞かなかった。あたかも何もかもが上手くいっているかの如く話していたが、やはり真っ向から信じるには値しない内容だったようだ。
「それに先程も、入れ違いになってしまって上手く情報が伝わっていなかったけれど、先んじて私にアンジェリカ嬢のことを知らせる手紙を寄越してくれていたんです。ベルテセーヌからアンジェリカ嬢を追ってヴァレンティンに入って、今回もヴァレンティンの一行に紛れ込んでクロイツェンに入ったそうです。なのにあんな事件になってしまい、キリアンも監視の厳しくなったヴァレンティン一行に戻ることはできないからと、顔を見せてくれたんです」
何やら都合が良すぎやしないか?
アンジェリカ嬢を追ってヴァレンティンに? つまり以前からそのことを知っていたわけだ。それでいて今日の事件で入れ違いにならねばならないようなタイミングまでそれを知らせなかったのは何故だ。しかもこのタイミングでヴィオレットの傍に戻って来たというのか? 一体、何を考えての事なのか。
「信用できないな」
「気持ちは分かりますが……でもアル、彼は“大丈夫”です」
その物言いに、ピクリと顔を上げてヴィオレットを見た。
時折彼女が見せる、妙な自信と確信に満ちた物言い。これは彼女の知る“未来への確信”に対する物言いだ。
「本当に……問題ないんだな?」
「扱いにくいことに違いはないですけれど……でも大丈夫です。信じてください」
「……分かった。いいだろう。傍に置くなら、側近として何か正式に身分を与えた方がいいが……」
「本人は今のまま、影に徹することを望んでいます。元々経歴的に、表に立てるような者ではないからと」
「近衛の中にもそうした仕事に従事する役職はある。名目上、近衛の所属として手続しておこう」
「有難うございます、アル」
ほっと安堵したように息を吐く様子を横目に、まだ引っかかるものはあるものの、そのまますぐに近衛に対する指示書を仕上げた。
この程度は大した手間でもないが、書き終えるにはそれなりに時間がかかる。その間もヴィオレットが下がらず、まだ何か言いたそうにもじもじと佇んでいるようだったため、「まだ何かあるか?」とこちらから問うてやった。
出来る事なら、急ぎではない話は明日に回してもらいたいものだが。
「その……それからもう一つ……えっと、だから、つまり……」
中々話し始めない様子を急かすでもなく、ペンを走らせながら静かに待つ。
「こんなことを言うのは何だけれど、契約とはいえ、今宵は、その……いえ、えっと。だからつまり、あまり根を詰めないで……私は先に休ませてもらいますけれど、私が罪悪感を感じずにゆっくり休めるよう、アルも程よい所で切り上げて、ちゃんと休んでください」
何を言い難そうにもごついていたのか知らないが、途端に口早に大して意味もないような言葉を言って踵を返した後姿に、一瞬視線を寄越し、すぐに興味を失って再び書類を見下ろした。代わりに、内扉から隣室に去って行ったヴィオレットに、「妃殿下!」とマックスが気にかけた様子で声を掛けていた。
扉が閉まると、たちまちマックスがむすりと非難したような視線でこちらを見やる。
「殿下……いかに利害によるご結婚とはいえ、これはあんまりでございますよ」
「何がだ」
マックスの苦言に面倒だという気持ちを隠すことなく答えながら、書き上げた指示書を処理積みの山に積み上げる。
不審に思いながらもヴィオレットの望み通り、用心棒の復職、それも近衛の所属として正式に認めたではないか。なのに何を非難される謂れがあるのか。
「殿下は周囲の噂などお気になさらないでしょうが、婚儀の初夜に夫が寝室に訪ねてこないなど、夫人にとってどれほどの屈辱でしょうか。殿下がお忙しいことは百も承知しておりますが、ご結婚なされた以上は責任を持って妃殿下を遇するべきでございます」
「……」
あぁ……ソッチか。煩わしい。煩わしいが、理には適った言葉なのかもしれない。
だが自分達は契約結婚だ。本当の夫婦になったわけでもなければ、元よりただの契約相手を妻として抱く気も無い。ヴィオレットもそのつもりなのだと思っていた。
だが先程のあの様子……しかも外扉ではなく、皇太子妃の部屋から通じているアルトゥールの寝室を経由してやって来たのを見ても、ヴィオレットはアルトゥールの訪れを待っていたのだろうか。
離婚前提を提案したのはヴィオレットの方だ。だったら清いままに、表向きの関係である方が良いはずではないか。だがヴィオレットは契約を持ちかけてきたあの頃と比べても、明らかに気持ちを寄せるようになっている。それに気が付かないような鈍感ではない。それに、どう対処するべきなのか。
「……ひとまず、言わんとしていることは分かった。朝までには寝室に戻る。体裁も整える。だが遅くなるのは確実だ。ヴィオレットには“私の部屋”で、きちんと休んでおくよう伝えてくれ」
こう言っておけば満足だろう。そう思って選んだ言葉に、案の定マックスは隠すこと無い喜びの様相を見せると、「かしこまりました、そうお伝えいたします」と、ヴィオレットの後を追う形で寝室の方へ下がっていった。
パタンと閉まった扉に、思わずフゥと吐息がこぼれてしまったのは仕方の無いことだ。
「殿下はご自分の寝室に他人が出入りすることなど、好まれないのかと思っておりました」
しばらく口を噤んでいたデッセルの言葉に、今一度たまらず吐息を吐く。
言われるまでもなく、その通りだ。不審感さえぬぐえずにいる相手の隣で無防備に寝るなどできようはずもない。もしも今後もヴィオレットがそのつもりであるなら、今から気が重いことだが……いや、流石にヴィオレットもそのくらいは弁えているものだと思いたいが。
「宮内に別途、仮眠室を整えておきますか?」
「そうしてくれ」
デッセルの評価がまた一つ上がった。
淡々とした返答に淡々と頷いたデッセルは、それから長らく煩わしいことには触れず、黙々と書類を精査し、明日でもいいような仕事まできちんと机に積み上げてくれた。
これは気を利かせているのか、それとも暗に苦言を体現しているのか。
やがて夜明け前。青い旗の竜車が思ってもみない方角から皇都を出たとの報告を受けたのを最後に、すべての仕事を纏めて席を立った。
もうすぐ夜が明ける。こんな時間まで、悪友たちは夜通し竜を走らせていたのかと思うと、虚無感がひとしおであった。
もしも叶うことならば、自分もこんな息の詰まるような場所ではなく、彼らとともに旅がしたい。
きっとリディアーヌは未婚の淑女の貞節なんて微塵も思い当たらず、夜通し同じ竜車で友人達と語らうだろう。マクシミリアンは着いてきてしまった厄介な友人に含みある笑顔をしながらチクチクと文句を言って、でも素知らぬ顔で座るアルトゥールを追い出したりはしないのだ。いつものように揶揄い合いながら、いつものように文句を言い合って、笑いながら旅をして、そして人目も憚らずに皆で美しい夜明けに背伸びする。
もう二度と経験することはない、夢のまた夢だ――。
「多少でもお休みになられた方が良いかと存じますが。寝室にお戻りになられますか?」
仕事を切り上げたのを見て取ったのだろう。デッセルも早々と自分の机を纏めて席を立った。徹夜に付き合わせてしまった。
「そうしよう。お前ももう休め。明日は遅くていい」
そうひらひらと手を振って、仕方なく内扉に向かう。
今すぐにでも広々としたベッドに倒れ込み眠りに落ちたい気分だが、果たしてそれが叶うものかどうか。
そう隣室に入ったところで、窓辺の長椅子でコクリコクリと船をこきながら眠るヴィオレットを見つけた。
侍従やら侍女らが気を利かせたのか、身体にはシーツがかけられ、クッションが添えられていて、決して寝苦しそうではない。だが婚儀を上げたとはいえまだ他人にも近しい異性のベッドに一人潜り込むようなことは慎んだらしい。彼女らしいことだった。
おかげで自分のベッドで思う存分朝までの短い時間を過ごすこともできるが……だがここでヴィオレットを放置して、一人安眠をむさぼるなどということは許されまい。仕方なくヴィオレットに歩み寄り、背中と足に腕をまわして抱え上げる。
薄暗い部屋で黙って眠っている姿を見ると、やはり少しばかり、リディアーヌの面影を感じる。だがこの手に触れる感触も、体温も、何もかもがやはり彼女ではないことを知らしめる。面影は所詮、幻想でしかないのだ。
「ん……ん、ん……」
流石に目が覚めたのか。うっすらと開いた目が、段々と意識を覚醒させてゆき、ほどなく「あっ」と恥じらったように頬を染めさせた。
「アル……お仕事、終わったんですか?」
「あんなところで寝ているとは思わなかった。ベッドを使えばいいものを」
「そうは行きません……あの。それより、下ろして……」
「案じずともすぐに下ろす」
そうベッドに下ろしたところで、ヴィオレットは恥ずかし気に隅に小さく座るばかりだったが、正直それにあれこれと甘やかな声を掛けて関心を引くほどの気力は残っていない。
早々と逆からベッドに入り込むと、ヴィオレットに背を向ける形で横になった。
警戒心を捨てたつもりはないが、今すぐにでも眠れそうなほどなのは、それだけこの一日が重たかった証拠なのだろう。
「あ、あの……アル……」
「すまないが、夜が明けるまでに少しでも眠りたい。君もきちんと休んでおけ。それとも俺がいると休めないか?」
クルリとヴィオレットへと体を向けて囁けば、カッと耳まで赤く染めたヴィオレットが必死に否定するかのようにシーツに潜った。
「ア、アルが眠れないんじゃないかと心配しただけですっ。貴方が気にしないならいいんですっ。私も気にしませんから!」
そんなことを言いながらすっぽりと顔までシーツで覆う姿に、音もなくほっと吐息を吐いた。
これなら少しは、静かに眠れそうだ。
すでに皇都を出た竜車で、二人は何を話しているのだろうか。
彼らはかつてのように……いや、かつてよりも近く。肩を寄せ合い、微睡み合っているのだろうか。
決して戻ることはできず、選ぶことのできない光景を想うと、疲れ切っているはずなのに、結局一睡もすることはできなかった。