4-2 初夜(1)
side アルトゥール
「ヴァレンティン大使館より竜車が出立いたしました」
夜が深まる中、広い机に灯った橙色のランプの灯りを頼りにカリカリと走らせていたペンを上げる。書き物をしていたせいで、年若い側近文官の言葉を聞き逃してしまったようだ。
なんだと? リディアーヌがどうしたと?
「殿下?」
「……出立は明日……と、言わなかったか?」
「存じませんが、確かに大公家のものと思われる竜車でした。旗は立っておりませんでしたが、竜車が六台。追従する騎竜が複数」
「六台?」
多すぎる。すぐにも思い当たった可能性に眉をしかめた。
手に力がこもったせいか、ペンから滴り落ちたインクが書類を汚す。せっかくここまで仕上げた急ぎの仕事が台無しだ。ため息を吐いてペンを置き、ぐしゃぐしゃと書き損じた書類を握りつぶした。
「迎賓館のマクシミリアンはどうしている」
「お姿がございません」
淡々とした文官の言葉に思わず舌打ちして、がさがさと前髪をかき乱した。
相変わらず好き勝手しやがってと笑って流すには危う過ぎて、なんてことをしてくれたのかと腹を立てるには資格が足りな過ぎる。
『私の義兄と義姉は、ヴィオレットのために殺されたも同然なんだから』
耳に残る言葉を幾度も思い返して、コツコツと指先で机を叩く。
『それに彼女は、貴方に大きな隠し事をしているわよ。貴方のためでも私のためでもない。自分の目的のための、大きな隠し事を』
フォンクラークで初めてヴィオレットの後ろ姿を見た時、喉から手が出るほどに欲しかったものがこの手に落ちてきたような錯覚を覚えた。
表情も、顔立ちも、髪色も、瞳の色すら違うのに、それでも時折感じる妙な既視感。触れることのできない遠い彼女とは違って、手を伸ばせば届き、いとも容易くこの手に落ちてきた紛い物だ。
はじめはただの戯れで、“彼女”によく似た姿への興味と、次々と新たな商品を生み出してゆく才に関心を抱いた。それでも用事が済めば忘れられる、一時の思い出となるはずの人だった。その後ろ髪を引き止めたのはヴィオレットだ。
『私は、貴方の望む“両方”を手に入れる方法を知っています』
彼女は西大陸の淑女とは思えないほどに躊躇いもなくアルトゥールの腕を掴むと、迷いもない淡紫の瞳でまっすぐと見つめながらそう言った。
ベルテセーヌのヴィオレット……それはただの勘違いした利己的な主張なのか、あるいは緻密な計画と計算による謀略なのか。
だから、試した。
例えば彼女が次々と生み出していた物珍しいパンのアイデアを盗ませて別の店で似たような物を売らせてみた。だが彼女はそれにさしたる手を考えることもせず、結局客達もまた『やはり本家には敵わない』とで戻った。『どうせ真似できない』と最初から高をくくっていた様子は傲慢であり、それでいて本人は少しもそんな気など無く『同じようなパンを食べられる店が増えるならいいことじゃない』などと言うのだ。
またヴィオレットはこちらが名を明かさずとも誰と知っているような様子で、それでいて媚びへつらう様なことはなかった。誰におもねることもなく堂々と自分の考えを貴び主張する様子は、良く言えば自立的で正直者、悪く言えば厚顔で強情である。婚約破棄の騒動を起こしたのは王太子ではなく彼女の方であったとしても驚かないだろう。
妙に殺気のこもった怪しい用心棒をどう取り込んだのかは不思議だが、そんな人物からも少なからず信を得ていた様で、彼女の持つ求心力については認めざるを得なかった。彼女の媚びない態度は、どうやら一定の人々を強く引き付けるらしいのだ。
あるいはその名声を耳にしたフォンクラークの王太子がヴィオレットを囲い込もうと策を弄したが、情報を得たヴィオレットは誰に相談するでもなく早々と荷造りをはじめ、夜逃げの計画を立てた。権力のある相手を頼るでもない様子は相変わらずであったが、周囲を心配して見せつつも周囲に『私達は大丈夫』と言われてすぐそれを信じて逃げ出そうとした短絡的な行動には、あまりのおかしさに笑ってしまったほどだった。
なんと偽善的で、利己的なのか。それでいて本人は“皆のため”だなんて感違い甚だしいことを言うのだから、いっそその傲慢ぶりに感心したほどだった。
恋焦がれた彼女とは、あまりにも乖離した人だ。
それでもなおただ嘲笑い背を向け忘れ去ることが出来なかったのは、きっと自分の浅ましい“欲”のせいなのだろう。
『貴方の望む“両方”を――』
果たしてその言葉がどれほど信用できるものなのか……疑わなかったわけがない。
ヴィオレットの提案した“契約婚約”ではない、この“契約結婚”を選んだのは、そうせねばならない理由が出来たせいだ。
単純に婚約などと言う中途半端な状況で野放しにするには危険すぎる相手だと判断したことが一番の原因だ。
彼女はリンテンで、見事に“予言”を的中させてみた。どう考えてもただ情報を得ただけでは判断し得ないことまで知り得ていた所業には、『神が彼女にそう囁いたのだ』と言われも疑えないものであった。だが同時に、未来を知るすべを持つ者がいるとして、どうしてそれを放置できようか。確実に自分の手元で監視せねばならなかった。
あるいは、母のせいであったと言ってもいい。
『婚約? いえ。貴方がちゃんとその方と婚儀を上げ皇太子としての責任を果たすというのであれば、この母がその令嬢を後見しましょう』
ヴィオレットという、過ぎた力を持ちながら政治的に未熟な少女を傍に置くには、皇国の実際の権力者である母の後ろ盾が必須だった。だからそれを飲んだ。
母が何故かリディアーヌをクロイツェンに迎え入れることに否定的であることは知っていた。母は日頃の辛口がどうしたとばかりにリディアーヌの才知に関心の言葉を噤まなかったが、『彼女のような者を義娘としたいものね』とは言っても、『彼女を義娘にしたい』とは決して言わなかった。
理由は知らない。だが母は彼女のような外見だが、彼女のような才知はないヴィオレットを選ぶことを二つ返事で承諾したのだ。実に奇妙なことである。
「あいつらのことだ。夜中にわざわざ出立したのはわざとだろうが……ミリムはどこまでリディを送り届ける気だ?」
まさかロレック、はてはその先の海まで着いて行く気じゃないだろうな、と呟いたところで、「ロレックとは限りませんが」というデッセル文官の言葉に眉をひそめた。
そういえばリディアーヌはこちらに来る時も、何故か一般的なロレック経由ではなく、ドレンツィン大司教領経由というルートで現れたのだ。今回も妙な策を凝らしている可能性は大いにある。
「城門は閉まっていたはずだが、その様子だと止められはしなかったようだな」
「七王家相手ならまだしも、選帝侯家が相手では留めるわけにも参りません。それに、両殿下はアルトゥール殿下と既知であることが良く知られていらっしゃいますから」
特に、誰それは城門を通すななどと指示をしていたわけでもない。それが仇となったか。
「滞在は何処だ」
「まだわかりません。城門を出て、そのまま止まることなく駆けて行ったようでございます。各地には、青い旗が通過したら知らせるようにとの伝令は出してあります。伝令よりも早く、国境を越えてしまうようなことがなければよいのですが」
「いくら何でもそれはないだろう?」
そう口では言いながらも有り得なくはないと思ってしまうのは、友人達がそれほど突飛なことを平気で実現させる非常識な人達であることをよく知っているせいだ。
『貴方が誰を選んだとしても、貴方とは良き友でいたかったのに……』
別れの言葉が、ずきりずきりと頭を殴り続けている。
彼女はどうして、何も言わずに去ってしまったのだろうか。
夜が明けてからでいい――暗に、このまま去らないで欲しいという言葉であったというのに。
「例の、アンジェリカ嬢の一件については何かわかったのか?」
「先んじてお伝えしたこと以上には特に。ただ、エリーゼ夫人が『妃殿下に騙された』と言って何度も殿下にお目通りを願っておりました。私の一存で追い返してしまいましたが」
「それでいい」
エリーゼは物心もつかぬ頃に乳母を務めていたこともあり、特に母の信頼厚い侍女でもあった人物だ。規律正しく作法に精通した貴婦人だったはずだが、それがどうしてこんなにも愚かな事件に加担してしまったのか。
アンジェリカの一件とて内々に捕縛して意見を求めてくれれば何とでもしようがあったものを、ブランディーヌなどに引き渡して祝いの場に引きずり出すなど……エリーゼにそのつもりがなかったとしても、責任がないわけではない。
何よりも、この事件でヴァレンティンとの関係を決定的に悪くした。エリーゼをヴァレンティンの迎賓棟に付けたのはリディアーヌの滞在を快適にさせるためであったのに、何故その真逆のことを起こしていながら、聞く耳を持つと思うのか。有り得ないことだ。
「リディは、『聖典を探している』と言っていたな」
「教区長殿にお伺いしましたが、世界に十しかない神の言葉を記す聖典であるとか。行方不明になっている残る一つを探し出すことは、教会の長年の悲願であると言います」
「そんなものを探してどうするんだ?」
「私に聞かれましても。私もクロイツェン人ですから」
くしくもクロイツェン人というのは、信仰心はあっても教会とは距離がある間柄だ。こうした教会内部の秘事にはまったく精通していないし、ヴィオレットやリディアーヌの言っていた“聖女”なるものについても、よく理解できていない。
ヴィオレットいわく、ベルテセーヌの王位継承の儀式において重要な役割を果たす王女のことだというが、そうと聞いたところで、今回の聖典の話とは何ら繋がらなかった。所詮はベルテセーヌ内部の話ではないのか。それがどうしてクロイツェンで聖典探しをするのか。不可解極まりないが、今朝見た限りでは、教区長どころか枢機卿猊下でさえ、リディアーヌが聖女の指示で聖典探しをしている事に何ら疑問を抱いていないようだった。それどころか、猊下などは気色ばんで見えたほどだ。
「つまり聖女アンジェリカがいたことは致し方がないことだと……猊下は相変わらずそういうお立場なわけだな?」
「はい。ちなみに本人が言っていた通り、迎賓館ではメイドか侍女の真似事の様なことをして過ごしていたのは事実なようです。迎賓館のメイド達も証言しておりますし、本日の夜会のその時まで、まったく迎賓館を出ておらず、城内の地理に疎かったことも確かなようです」
ということはやはり、ブランディーヌの言っていたような婚儀の妨害目的だとかヴィオレットを標的にした策略目的であったとかは考え難いわけだ。いや、元よりリディアーヌが庇護していたのだから、彼女が随行者にそんな馬鹿なことをさせるはずがない。考えるのも馬鹿らしいことである。
「リディは随分とヴィオレットに対して反目的だったな」
「殿下も、お二方がお会いになる以前から合わないであろうことは推測できると仰っておいでだったではありませんか」
「そうだが……あれほどにリディが毛嫌いするとは思っていなかった。ましてや、オリオール家とは深い因縁がありそうだったが……」
「調べますか?」
「ああ、念入りにだ。どうやらヴィオレットが話していない内容……あるいは理解していない内容がまだまだありそうだ。ブランディーヌ夫人の過ぎた態度も気にかかる」
ヴィオレットには利用価値がある。同時に、目を離して放任しておけない事情がある。ゆえに手放すという選択肢は無いのだが、それによって益々ヴァレンティン家が疎遠になるようでは困る。これはどうにか、早急に対処せねばならない事案だ。
「相も変わらず……俺の友人は、隠し事が多い――」
カタリと席を立ち、背後の窓のカーテンを押しのけ夜闇に目を凝らす。
今宵も城内は煌々と明るく、皇太子の婚儀の夜としてお祭り騒ぎになっているのであろう城下もいつになく眩い。それでいてこの部屋が最もほの暗く張りつめているのはどういうことなのだろうか。
だがこの静寂は嫌いじゃない。
思えば昔もよく三人で、寮の消灯時間も過ぎた夜更けにこそこそと集まって夜を過ごしたものだ。
色濃い本とインクの匂い。薄暗い部屋を照らす暖かい燭台の光。本の文字を目で追いながら、くだらないことをこそこそと語り合い、どこからともなくマクシミリアンが持ってきた甘味を批評し、背徳の時間を楽しんだ。
カレッジのパーティーの後にも、よく三人で立入禁止の塔屋に登り、講堂の眩い灯りを見下ろしながら語らったものだ。
だが今やもう、そんな時間は訪れない。
二人はこの場にアルトゥールを残し、二人だけで夜闇へと去ってしまったのだ。
分かっている。仕方の無いことだ。もう自分達は子供ではなく、かつてとは違った物を選び、受け入れて行かねばならない。他でもない“変化”を選んだのは、自分自身だ。
なのに何故こんなにも胸が苦しいのだろうか。
「殿下、失礼いたします」
コンコンと扉を叩く音と共に部屋の内扉を開けて顔を出したのは、侍従のマックス・ヴェラーだった。
今宵はまだまだ片付けねばならない仕事が立て込んでいる。侍従がわざわざ声を掛け入室許可を求めてやって来るような事情は無いと思うのだが。
「呼んでいないが。何だ?」
「その……殿下。もう随分と夜が更けましたが、お休みにはなられないのでしょうか」
何を言っているんだ? と首を傾げながら、デッセルの差し出した書類を受け取る。聞く耳も持たずに追い返したというエリーゼ夫人の処分に関する意見書だ。
「この状況で、うかうか休んでなどいられるものか」
何ともなしにそう口にしながら、書類を机に置いてカリカリと気になった点に文字を書き加えて行く。
最後の一文字を書き終えたところで、デッセルがすかさず書類を引き抜き、次の書類を置いた。こちらは騒動に対する国内貴族達からの意見書の類だが、冒頭からして、ただここぞとばかりに苦言を申したいだけの頭の痛い内容が連なっていた。
出来る事なら無視してしまいたいが、これらすべてに目を通し、適切に彼らとの議の場を設け質疑を交わさねばならない。明日も顔を合わせる貴族達であるから、なおさら今夜中に把握せねばならない内容だ。
それだけではない。今日の出来事のせいでおそらく明日からの賓客達の帰国も大幅に予定が変わるだろう。ベルテセーヌなども、すでに帰国の準備をしているはずだ。そうした出入りの時間調整や市中街道への布告。警備体制の再編。見送りの場所と人選。それまでにこなしておきたい面会や根回し。時間はいくらあっても足りないほどだ。
だというのに、マックスは妙にソワソワと気になるそぶりで隣の部屋を窺っている。一体隣の寝室がなんだというのか。
「あぁ、そういえば殿下。今宵は婚儀の初夜なはずですが、ここにいて宜しいのですか?」
そんな視線に先に察したのはデッセルの方で、だがそうと聞いてなおアルトゥールはピンとこない様子で眉をしかめた。
どういう意味なのかは分かるが、だがこの結婚は契約結婚だ。一部の側近達にはそのことも話してあり、デッセルも、そして今そこでおそらくヴィオレットのことを気にしているのであろうマックスも、婚儀の夜が特別な夜でない事くらいは弁えているはずだ。少なくとも、そう思っていた。
だというのに……。
マックスがいつからか妙にヴィオレット贔屓に振舞うようになっていったことには気が付いていたが、よもや主の仕事の手を止めさせてまで進言に来るとは思わなかった。
近頃妙に一部の側近達が煩わしく思えてならないのは、こういう所だ。