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3-37 別れの時(3)

 教会に立ち寄り、そのまま城を出てヴァレンティンの大使館へと向かう道すがら、アンジェリカはずっとリディアーヌの膝に泣き縋りながら、「ごめんなさい、ごめんなさい」と謝罪し続けていた。

 確かに、危険を(かえり)みずこんなところまでついてきてしまったのはアンジェリカの考え無しのせいだ。だがそれ以来、おそらくベレニーから()(さと)されたのだろうが、今までずっとメイドのふりをして、本当に大人しく、慎ましく過ごしていた。知りたいことも、思いのままにヴィオレットに聞きたいことも、沢山あっただろう。それでもリディアーヌを信じて、ぐっと耐えてくれていた。なのにそれをぶち壊したのはブランディーヌだ。


 でもこれで、アンジェリカもブランディーヌの恐ろしさは実感したことだろう。

 そして今アンジェリカが必死に謝罪を口にするのは、もしかしたらそのブランディーヌの手にクロードが落ちているかもしれないと察してしまったせいだ。その謝罪の言葉には、きっとクロードへの謝罪も沢山詰まっていたのだと思う。

 アンジェリカは真実、本心で、愛しい人を想っているのだ。

 それが少し……羨ましくて。恨めしい。


「姫様……実は、お客様が……」


 だから大使館に着いてすぐ、こちらに先着していた侍従のロベルトがそんな声を掛けてきた瞬間、何もかも放り出して客人がいるというテラスに駆け付けた。

 深い夜の(とばり)の中、建物の明かりにぼんやりと照らし出された飴色の髪。

 こちらを振り返ってゆるりと細められた、新緑の瞳。

 何もかもを解いてしまうような柔らかな空気。

 その人を見た瞬間、たまらずその胸に飛び込んでしまったのは、きっと仕方がないことなのだ。


「……リディ」


 少し困惑気に。でもくすぐったそうに。突然飛びつくだなんていう不作法をした友人をその腕に抱きすくめ、宥めるように頭を撫でてくれる人。

 またどこかにお菓子でも隠し持っているのか。甘苦いチョコレートとクラリとしそうなリキュールの香り。

 黙って気づかわし気にやわりと回された腕の遠慮がもどかしくて、強く、強く(すが)りつく。

 そうすれば少しずつ。きゅっと、きつい腕が冷え切った身体を締め付けてくれた。

 その力強さが、安心する。決してほどけることのない執着に、安堵してしまう。

 一体、どれほどそうしていたのか。

 髪を梳く指先は留まることなくリディアーヌを宥め、頬に伝わる心臓の音が、少しずつリディアーヌを慰めてくれた。


 怖かった。この人まで失ってしまったのではないかと考える事か。どうしようもなく。

 なのにどうして、こんなところにいるのか。


「ミリムの……ばか」

「ふふっ。ようやく口を開いてくれたと思ったら。酷いなぁ」


 馬鹿だ。本当に。

 こんな私を、大切にしてくれるだなんて。

 でもいつまでもこんな風に甘えてなんていられない。それは分かっていて、名残を惜しみながら緩んだ腕から距離を取り、胸を押す。

 けれど今ばかりはリディアーヌの一方的な我儘にマクシミリアンも容易く為されるがままにされる気はなかったのか、突き放そうとした手がそのまま絡めとられ、コツン、と額を額で小突かれてしまった。

 痛くは……ない。


「な、に……?」

「まったく。こっちは散々耐えてあげているっていうのに。酷いよね、リディは」

「……どつきたいのを?」

「何言ってるの?」


 何やら会話がかみ合っていない自覚はある。


「君がもう少し……トゥーリよりももう少しだけ、私を好きでいてくれて、私を頼ってくれたなら……こんな、まどろっこしい思いをせずにいられたのかな」

「……何を言っているのよ」


 マクシミリアンは、アルトゥールなんかより百倍いい男だ。これほどまでに()(やす)くリディアーヌを甘えさせておきながら、これ以上どれほど好きになればいいというのか。


「そういうんじゃ無いんだけどね……」

「変よ、ミリム。私、間違ったってトゥーリにこんな真似しないわ」

「……うん。知ってるよ。知ってるから……」


 だから、羨ましいんじゃないか――。

 そんな意味の分からないことを言った気がしたのは、気のせいだろうか。

 おかしなミリム。こんなにも特別だと言っているのに。


「でもだからこそ……辛かったよね。リディ」

「っ……」

「こんな別れ方を望んでいたはずがないんだ。できる事なら、文句を言い合いながら、でもちゃんと祝福して、少し揶揄って、そして“またね”と声を掛け合いながら去るはずだった。そうであればいいと、願っていたよ」


 でもそれはできない。もう、決して。


「ねぇ、リディ。君がこんなにも苦しんでいるというのに、私は君に何を言ってあげればいいのかが分からないんだ。君をこれほどまでに追い詰めているものが何なのかを、知らないから」


 熱くなった目頭を、ぎゅっと堪える。


「君が必要としている、君が本当に欲しい言葉は何?」


 今にもあふれ出してしまいそうな言葉を噤むため、必死に口を引き結ぶ。


「君に安らぎをあげるには、どうしたらいい?」


 甘やかな言葉の誘惑がリディアーヌの弱った場所に沈み込む。

 耳を閉ざすべきなのに……体が、もっともっとと、理解ある言葉を求めてしまう。


「私はね……君をこれ以上、曖昧な言葉で慰めたふりをして送り出したくないんだ。君はこうして私を頼ってくれることもあるけれど、でも結局いつも、何も言わずに突き放す。ねぇ、リディ……これでも私はそれなりに、そんな君のことを、酷いと恨んでいるんだよ」

「それは……」

「いや、いいんだ。私はリディのそういう所も好きだから。そういう君をかっこいいと思うし、気高く思う。そんな君だから、私はこれほどまでに焦がれて止まない。でもね……」


 涙の痕を拭う指先が、いつになく力強い。

 歪んだ顔が、見たこともないほどに心からの哀愁を孕んでいる。


「でも、不安にもならざるを得ないよ。だってリディ。君はトゥーリに別れを告げた時、私にも別れを告げた気でいたでしょう? 酷いよね……まったく」

「……だって。貴方は……」


 ザクセオンの、マクシミリアン公子だから。


「お願いだよ、リディ。リディアーヌ。私から離れて行かないでくれ。私は何があっても、決して君を手放したりなんてしない。ずっと君の最愛の友であり続けるから。だから私をこれ以上不安にさせないで。君を失う事なんて、生きる意味を失うにも等しいんだから」

「……」


 そんなのは大げさすぎるわ。

 そう言いたかったはずなのに、口はただ空気を()んだだけで、言葉にしてはくれなかった。

 もしかしたらリディアーヌも、知っていたのかもしれない。知っていて、でもそれに甘えたら抜け出せなくなってしまうことが分かっていたから、踏み出せなかった。

 だって、すべてを知って、話してしまったら……そしたら“私達”はどうなってしまうのか。本当にそれで、彼を失わずに済むのか。

 だって。だって……大切な人の死に、よもやザクセオンまで関わっていようものなら――。


「リディ――それでもまだ、私は君に、心を許してはもらえない? 君の抱えるその秘密を、打ち明けてはくれない?」


 あぁ、なんて馬鹿な人。

 そしてなんて、なんて馬鹿な、私。

 その顔に偽りがないことを、ずっと昔から知っていた。その深い愛情がどれほど尊いものであるのかも、知っていた。

 でも怖かった。愛情が深ければ深いほどに、失った時の悲しみが大きなことを知っていたから。絶対に、この人だけは失いたくなかったから。


「ミリム……」

「うん」

「……やっぱり貴方は、馬鹿だわ、ミリム」

「君をそれほどまでに好きでいることが? 私はそれを、馬鹿なことだとは思わないよ。君のせいで色々と馬鹿なことをしでかしている自覚なら有るけれどね」

「……」


 その話をして……それが安寧だとは限らないのだ。

 だけどもう、無理だ。このままこの思いを一人抱え続けていたら、壊れてしまう。

 どうせもう、失うしかないような崖の淵にいるのだ。それで失ってしまったとして……今以外に、それを堪えられる瞬間もない。

 そしてきっと私は……そうして、早く楽になりたいだなんて。もう、それを望んでしまっている。

 硬く硬く……口と噤み続けてきた。それを口にしてしまうと、かつての決意が()()にされてしまうかのようで。

 けれどそれはもう、叶わない。

 もし真実を口にしたと知ったなら、今度こそ皇帝陛下は厄介者の“王女”を殺そうと思うだろうか。だから少なくともその時まで……“皇帝”が死ぬその瞬間までは、絶対に漏らしてはならないと、そう思って来たのに。

 すべてを知ってもらいたいだなんて。そんなことをして余計な荷を背負わせるだなんて卑怯だと思うけれど。でも硬く心に秘していたはずの決意も、友人の甘やかな言葉の前にはどんどんと弱くされてしまう。


「ミリム……」


 だから必死に。

 駄目だと思う気持ちと、すべて話して解放されたいと思う気持ちと。

 そのせめぎあいの中、少しだけの勇気に、背を押してもらって。


「ミリム……私は……」


 どうかこの“賭け”が、私から彼を奪わせませんように――。


「私は、リディアーヌ……リディアーヌ・アンネレット・クリスティナ・ド・ベルテセーヌ。ヴァレンティン大公の姪で、ベルテセーヌ先王クリストフ二世アンベールの長女、先王妃アンネマリーの娘。そして――」


 皇帝クロイツェン七世に両親を殺された――“墓の下の王女”。






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