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3-36 別れの時(2)

「出ていく前に、問うわ。キリィ……キリアン。貴方はこれから、どうするの?」

「……」

「私的な復讐は許さない。でも貴方が苦渋を噛み締めてでも私の()(もく)として屈辱に耐えるというのであれば、いずれ、貴方の恨みは私が晴らすわ。もっとも……貴方がそんな思いをしなくても、私は私の恨みを晴らすでしょうけれど」

「……リディアーヌ様」


 ゆるりとこちらを見上げたキリアンに、思わず憐れみの表情を浮かべてしまった。

 彼もまた、オリオール家によって運命を歪まされた被害者だ。


「私は何をすれば……いいでしょうか」

「……何も指示なんてしないわ。ただ貴方が望むままに、ヴィオレットという人について知ればいい。貴方ができると思ったことを、すればいいわ。貴方が仕えねばならない王子も王女ももういないのだから、私は貴方に何一つとして強要なんてしないわ」

「……」


 返事は無かった。

 けれどリディアーヌが扉に手をかけたところで、ついてくる気配もなかった。

 きっと彼はこの後、再び素知らぬ顔をしながらヴィオレットの従士として傍に戻ることだろう。どんなにかアルトゥールに不審がられても、あのヴィオレットが庇わないはずがない。それをせいぜい、利用してやればいい。


「マーサ。必ずアンジェリカを連れて戻るわ。迎賓館には戻れないから、至急、すべての荷物を大使館に移動させて、受け入れの準備を」

「はい。かしこまりました」

「エリオット、騎士達を集めて。それから今すぐシュルトに……」


 扉を開けながら続けようとした言葉に、すぐその言葉を噤んだ。

 流石は、うちの文官だ。意図したのかどうかは知らないが、部屋の隅から困った顔のトレンツィーニ枢機卿猊下を連れたうちの文官が顔を出した。いいタイミングである。



「セザール殿下。彼女が貴国の貴族であることは存じている。だがこの状況で妃を侮辱され、こちらも黙って放免するというわけにはいかない。ひとまずこちらに……」


 アルトゥールがセザールをそう説得しようとしているようだが、そんな言葉を聞く必要はない。


「間違っていてよ、アルトゥール殿下」


 カツン、カツンと響くヒールの音と、ぽっかりと空間のできた断罪の場に歩み出ていく紫紺のマントに、皆が息をひっ詰めるのを感じた。

 ピリピリとした緊張感。好奇心の眼差しの中に混じる、嫌悪の感情。

 おろおろとこちらを見る不愉快なヴィオレットの視線。


「……リディアーヌ様っ。なんでっ……」


 はっと顔をあげたアンジェリカが、賢明に視線だけで“来なくていい”と訴えているようだった。これは、自分がおこした事件だからと。

 でもそれを見捨てておけるほどに、リディアーヌは薄情ではないのだ。


「間違っているとは?」

「はッ、ようやくのこのことお出ましのようね、リディアーヌ公女」


 アルトゥールの言葉にかぶせるようにしゃしゃり出てきたブランディーヌに、たちまちアルトゥールが不愉快そうに眉をしかめる。

 ヴィオレットの母だからと最大限譲歩しているのだろうが、王侯の会話を阻まれることは、それ相応の正しい人物に囲まれて育ったアルトゥールにとってただの侮蔑であろう。だが生憎と、それがベルテセーヌにおけるブランディーヌの立場というやつなのだ。自分が“何”の娘と結婚してしまったのか、少しは自覚できたであろうか。

 ハァと一つため息をこぼしながら歩み寄ったリディアーヌに、セザールが躊躇するように顔色を濁す。きっと彼もまた、これ以上迷惑はかけられないなどと思っているのだろう。だがそれは違う。


「まったく、よそ者達が勝手にあれやこれやと。アンジェリカは“私の連れ”だというのに」

「ッ」

「公女殿下ッ」


 周囲のざわめきなど知ったことではない。

 アンジェリカの傍らで剣を向ける騎士達をギロリと睨みつけると、流石にヴァレンティン選帝侯家の公女にまで切っ先を向けるわけにはいかなかったのだろう。おずおずと騎士達が後ずさってゆく。

 それをいいことに、リディアーヌはその場にゆるりと膝を折ると、アンジェリカに手を差し伸べた。


「リディアーヌ様……」

「お立ちなさい、“聖女アンジェリカ”。貴女はこんなところで剣を突き付けられ、座り込んでいていい立場ではないわ。ちゃんと、胸を張っていいのよ。貴女は教会によって聖女と認められ、このヴァレンティンのリディアーヌが“客人”としてもてなしている大切な方なのだから」

「っ……」

「どういうことだ、リディ。君はわざと、彼女をクロイツェンに連れてきたのか?」

「そうです! 公女はきっと殿下とヴィオレットの成婚を邪魔しようとッ」

「少し黙ってくれ、オリオール夫人」


 アルトゥールがジロリと睨みつけて低い声を唸らせると、流石にビクリとブランディーヌが口を噤んだ。その顔が屈辱と、そして少しの恐怖に引きつっている。ざまぁない。


「とんだ言いがかりですこと。アンジェリカは昨日も今日も、私の滞在している迎賓館にいたのよ。なのに、アンジェリカ嬢がこちらに忍び込もうとしていたですって? クロイツェンの城の構造なんて何も知らないのに、一体どうやってここまで来たというの? そこのベルテセーヌの騎士紛い達も、一体どこでこのただのか弱い少女を引っ掴まえ、この場に引きずり出したのかしら。“ヴァレンティンの客人”に対して、なんと野蛮なことを」

「……確かに、当人の言い分を聞くべきだ。アンジェリカ嬢。何故、こんなことを?」

「ッ、私じゃありません! 私はただベレニーとっ……迎賓館で、水を取りに地階に行っただけです! それを一方的に襲われてっ。こうしてメイドの恰好までして身を隠して、公女殿下のお邪魔にならないよう気を付けているというのに、どうして私がそんな真似を!」


 チラリとこちらを見たアルトゥールに、リディアーヌも頷いて見せる。


「だがリディアーヌ公女。君は何の意図でアンジェリカ嬢を?」

「だから誤解ですわ、アルトゥール殿下。私、今朝も貴方に言わなかったかしら? 私は訳あって、“聖女様の命”で、探し物をしているのだと」

「ふむ……」


 アルトゥールも思い出したらしい。

 アンジェリカの方は何が何だか分かっていない様子で目を瞬かせているが、幸いにして今朝方、口から発した“でまかせ”が役に立ってくれている。


「妃殿下には、過去の忌まわしい出来事を思い起こさせてしまったようで謝罪をしますわ。でも、他人がすべて自分のために行動していると思い込むだなんて、流石に自意識過剰が過ぎやしないかしら?」

「なっっ……」


 ヴィオレットの頬が真っ赤に染まった。

 それでも反論が口をついて出ないということは、思う所でもあったのだろうか。まぁ実際、その通りであるし。


「つまり、関係がないといいたいのか?」

「言ったでしょう? 聖女様は神々に請われ、“探し物”をしているのよ。帝国に十一しかない正聖典の、失われた最後の一つ……それを探すためには、どうしても各国の“十冊の聖典”への神問が必要なの。でも妃殿下がいらっしゃる以上、アンジェリカ嬢はクロイツェンには来られないでしょう? だから私がその“足”と“後ろ盾”を買って出たのよ。アンジェリカ嬢を“聖女”だと認めた聖別の儀には私も参加していたのだから、ヴァレンティンがアンジェリカ聖女を助けるのは当たり前でしょう?」


 聖女、聖女と連発したところで、やはりクロイツェン貴族の反応は悪い。

 だが「当然でございます」と言葉を継ぐように歩み出てきたトレンツィーニ枢機卿猊下の言葉には、流石に意識を向けざるは得ないだろう。


「やれやれ、まったく嘆かわしい……聖女様にこのような仕打ちができるとは。信心深きベルテセーヌにも、このような恐れ知らずがいらしたのですね」

「ご安心を、猊下。そちらの数名が常軌を逸しているだけですわ」

「ッ」


 ブランディーヌの顔色が悪い。だが自業自得だ。

 猊下に“恩”を売っておいてよかった。


「……」


 ジィっとこちらを見つめるアルトゥールの視線に、リディアーヌもまたじぃっと静かにそれを見つめ返した。

 昔はこんな時間が二秒も続けばどちらからともなく『何よ』『何だよ』なんて笑い合ったものなのに。今のこの沈黙は、ただ利益と情を天秤にかけ、どちらに傾くかを待っているだけの時間だ。


「……アル。教会を敵に回すのは……」


 その沈黙を破ったのは、ヴィオレットのそんな囁きだった。やがて「ふぅ……」と不本意を孕んだため息を吐いたアルトゥールに、リディアーヌも安堵のため息をこぼす。

 ヴィオレットが何を考えているのかは知らないが、実に都合がいい。


「セザール王子。聞いての通り、聖女アンジェリカは訳あって、ヴァレンティンが保護しているわ。いいかしら?」

「はい。お恥ずかしながら、不作法にも聖女様に切っ先を向ける様な不届きものがいる我が国にお帰り願うわけには参りません。ですが公女殿下のお傍にいらっしゃるのでしたら、何よりも安心です」


 アンジェリカはチラリとセザールを見やると、少し困惑した様子でリディアーヌの後ろに隠れた。大変な最中、“逃げ出すことになってしまった”ことへの罪の意識なのかもしれない。でも今は、リディアーヌの傍にいることがベルテセーヌのためなのだ。


「一日でも早く、貴国で内乱を誘発させようと(もく)()む“ヴィオレット派”なる集団が沈静化し、貴方の大切な弟殿下が無事見つかることを願っているわ。その殿下を愛おしみ、心から案じ続けているアンジェリカのためにも」

「我等を庇護してくださっているヴァレンティン大公に恥じぬよう、尽力する所存です」


 ギリとブラディーヌがこぶしを握り締めているようだったが関係ない。

 そしてこの場ではっきりと、“ヴィオレット派”がベルテセーヌに内乱を呼ぼうとしていると発言した以上、アルトゥールだってこのままリディアーヌを放置はしておけないだろう。でもそれでいいのだ。


「リディ……」

「残念よ、トゥーリ。私は私の大切な友人に、心からの祝辞を述べ、語らいたかったわ」

「……あぁ。俺もだ」


 だけどそれはもう、叶わない。


「ヴァレンティン公女――事情は分かったが、しかし私もまた私の妃の心情を思えば、その娘を城内に留め置くことはできない」

「ええ、無理もないことです。私とて、私の滞在先に忍び込んで少女に暴行を加え誘拐するような人がいるところに滞在なんて続けられないわ、皇太子殿下」

「っ……」


 だから。

 だから、トゥーリ。

 私の、大切なかつての友人――。


「ここでの用事も、すべて済んだことだし……帰国させていただくわ。アンジェリカと共に。貴方には精々、私が帰路で不幸に見舞われないことを祈っておいて欲しいものね。うちの“大公様”は生憎と、娘のことになると常識のタガが緩いから」

「知っている」


 ボソリと呟かれたその言葉は、多分本心だと思う。


「夜の内に()てなどと、公女に失礼なことは言わない」

「ご親切に有難う。だったら明日の朝にでも発ちましょう。見送っていただく必要はないわ」


 そう言って早々と背を向けたリディアーヌは、俯くアンジェリカの肩をそっと撫でて慰めると、次いでセザールを向き直った。


「貴方とはもう少し、話をしたかったのだけれど。後日、また時間を取ってもらえるかしら」

「はい。私も早々と失礼をすることになるでしょう。すぐにご連絡させていただきます」

「その時までに、少しでもアンジェリカが安心できる話題が増えていると嬉しいわ」

「最大限、努力いたします。幸い、このような場所で思いがけず、弟に関する手がかりを得られたようですから」


 そうブランディーヌを睨んだセザールには、ヴィオレットがさっと顔を青褪めさせた。

 彼女もきっと、自分の母が今この瞬間、何をしているのかに気が付いたのだろう。それでいて、どうするのかは……いや、心配する必要なんてない。“残る”と決めてくれたキリアンが、いずれ知らせてくれるだろう。


「行きましょう、アンジェリカ。大丈夫? 怪我はないかしら?」

「神殿の馬車をお使いください、聖女様、公女殿下。それと宜しければ、神殿にお立ち寄りください。聖水が少し残っております。お譲りいたしましょう」

「お気遣いを感謝いたします、猊下。アンジェリカ、神殿に寄ってゆきましょう。聖水は傷や心の疲れを楽にしてくれるわ」

「……はい。はいっ……」


 ぽろ、ぽろ、と涙をこぼし始めたアンジェリカをそっと紫紺のマントの下に包み人目から隠し、自らエスコートする。

 アルトゥールとの別れは……きっと、こんなものになるのだろうと、覚悟していた。

 だから、苦しいほどに胸は痛いけれど、悲しくなんてない。

 しかし必死に視線だけを巡らして探したもう一人の友人の姿を見つけきれなかったことに関しては、深く落胆した。


 せめて彼とだけは……マクシミリアンとだけは、笑って別れを告げたかった。

 でもクロイツェンの無二の存在たるザクセオンの公子にそんなことを求めるわけにはいかないだろう。


 あぁ、嫌だ。嫌だ――。

 私はもうこれ以上、大切なものを失いたくなんてないのに――。






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