3-33 最後の宴(2)
ずっと注目の的になっていたからか、歩けばすぐに道が割れ、しかしリディアーヌの目的が視線の先の不穏な空間にあると分かると、誰も声はかけてこなかった。代わりにセザールが待っていましたとばかりに「ご機嫌よう、公女殿下!」なんて真っ先に声を挙げた。
どれだけ切羽詰まっていたのだろう。
「あ。リディアーヌお姉様」
対するベネディクタは一瞬安堵の顔を見せたけれど、しかしすぐに戸惑うように視線を泳がせた。この状況にリディアーヌを巻き込むわけにはいかない、と言った様子だ。
まったく、あのアルトゥールの妹だとは思えないくらいに可愛いではないか。逆に助けてあげたくなるというものである。
「ごきげんよう、セザール王子。貴方からの熱い視線に穴が開くかと思ったわ。私を呼び付けるだなんて、偉くなったこと」
「そんなつもりでは……」
勿論分かっている。ニコリと微笑んで手を差し出せば、少し困惑気に、しかし従順に、セザールはその手を取り、高く掲げて腰を折った。
西大陸の作法では無遠慮にキスなんてしない。こうして腰を折って額より高くレディの手を掲げてみせるのが、一番丁寧な挨拶だ。勿論、挨拶を交わせばすぐに手は離れる。それを女性の方から許すこと自体が、セザールを尊重していることの証左にもなる。
「こんばんは、ベネディクタ皇女。何かお困りではないかしら?」
「こんばんは、リディアーヌ様。困ってなど……いませんけれど。でも昼間はほとんどお話しできなかったので、お会いできて嬉しいですわ」
そう親し気に声を掛け合えば、もれなくブランディーヌが僅かに眉をしかめた。まさかクロイツェンの皇女とリディアーヌがこれほどに親しいとは思っていなかったのだろう。それは昨夜リディアーヌが随分と親し気にベネディクタと話している様子を見ていたはずのセザールでさえそうだったようで、「仲が宜しいんですね」と目を瞬かせていた。
「あら、王子殿下。リディアーヌ様は私がカレッジに入学した時からすでに、全校の女生徒達に憧れられている理想のお姉様だったのですよ。私はお兄様のおかげでリディアーヌ様によくしてもらえましたから、周囲にはとても羨ましがられましたわ」
「はぁ……やはり皇立のカレッジというのは、なんとも不思議な空間ですね。遠く離れたヴァレンティンとクロイツェンの殿下同士がこのように親しくなれるのですから」
「ベルテセーヌの先王妃陛下はヴァレンティン家のご出身で、皇立カレッジの卒業生でいらっしゃるでしょう? カレッジにはアンネマリー様の庭という、アンネマリー様が自らお手入れなさっていた小庭がありますのよ。ねぇ、お姉様」
「ええ。私も知らなかったのに、ベニー皇女が教えてくださったのよね」
「私は母に教えていただいたのです。お母様はアンネマリー陛下の三つ下の後輩なのですよ」
なるほど。ベネディクタと初めて会った時、最初から妙に好感度が高いなと不思議ではあった。兄の友人だからなのかと思っていたが、もしかするとベネディクタにとっての“ヴァレンティンの公女”は、母から聞いたアンネマリー……つまり、リディアーヌの実母の印象から来ているのかもしれない。
「先王妃陛下は、それはお美しい方でした」
「私もお会いしたかったわ。リディアーヌお姉様にも似ているかしら? たしか……えっと。伯母と姪になるのですよね?」
「ええ。でも私は生憎とそちら似ではないのです。あぁ、でもお養父様には……似ていると言われることがあるわね」
「ヴァレンティン大公殿下は酷薄の麗人として有名ですものね。お姉様の印象にもピッタリ」
「お養父様の噂については聞き流してちょうだい」
思わずそう素で答えたところで、ベネディクタがカラカラと可愛らしく笑った。
言葉なくただ上っ面に微笑んで見せているセザールの頭の中に浮かんでいるのは、きっと酷薄の麗人なんて言葉すらかすむような絶世の美女として知られていたレティシーヌ王妃の肖像画だろう――。
リディアーヌは“父親似”だ。祖母レティシーヌの写し鏡のように美しく、それゆえに父王に溺愛された長男クリストフ二世アンベール。ブランディーヌでさえ、あまりにも王妃に似た異母の兄にはたじたじと委縮し腰を折ることしかできなかった。
誰よりも穏やかな風貌で、お人好しなほどに人が良くて、それでいて自然と触れ難い。そんな人だったと、養父は言う。妙にブランディーヌにリディアーヌが嫌われているのは、根底に、レティシーヌや父に似ているせいという理由もあるのかもしれない。
そう思わずブランディーヌを見ていたら、きゅっと忌々しそうに眉をしかめられた。
「どう思います? ブランディーヌ夫人。私は“祖母似”と言われることが多いのだけれど」
「……ええ。本当に。よくもまぁそこまで似ましたこと」
「祖母をよく知る方にそう言われると、悪い気はしないですわね」
あぁ、セザールの作り笑いが引きつっている。おほほほほ。
実のところ、セザールは今のベルテセーヌの王族の中でも、リディアーヌと一番血筋が近い王子だ。彼の生母はレティシーヌ王妃の従姪で、リディアーヌとセザールの金色の瞳は、このレティシーヌ王妃の家系に遺伝するものである。それも、セザールがブランディーヌに嫌われる一因だ。
お互い、難儀なことである。
「でもでしたらやはり、私がヴィオレット妃と似ているなどというのは勘違いですわね。実際、私は夫人とは少しも似ていませんもの」
「……ええ、まったくね。誰がそんな愚かなことを仰ったのかしら」
「クロイツェンの皇妃様です」
キパッと答えると、もれなくセザールがパッと口を塞いで粗放を向いた。思わず笑いそうになったのだろう。おほほほほほ。
「ふぅ……貴女とは一度、しっかりと腰を据えて話し合うべきね」
「あら、オリオール侯爵夫人。大層な物言いをなさるのね。まぁクロイツェンの皇太子妃殿下のご生母になられたのですもの。図に乗るのも仕方がないというもの」
「図に乗る、ですって? 公女……少し見ぬ間に、随分と口が悪くなったようね。いくら公女とはいえ、公の場での目上に対する口の利き方くらいはお勉強なさらないと」
「口が悪い? まぁっ、おかしなこと」
遠慮のない物言いにベネディクタが少しおろおろとこちらを見たけれど、心配ないとばかりにその背をそっと叩いてあげた。
そう。心配なんてする必要はないのだ。
ベルテセーヌの王室は、もう長い間、慣例的にブランディーヌに頭を押さえられてきた。彼女が王女のように振舞おうが、臣下達の前で王を叱り飛ばそうが、誰もそれを咎めはしなかったし、王すらもそういうものだと受け入れていた。だからリディアーヌも“王太子妃”になった時、そういうものなのだと刷り込まれてしまった。
でも彼女達と距離を置いた今は違う。
「セザール王子、私、貴国の侯爵夫人にもっと慮った方が良かったかしら?」
「とんでもございません。このように選帝侯家の公女殿下に失礼な口を叩く我が国の者を、寛容に処していただけているだけでも感謝しております」
「ッ」
「今だけよ。友人の義理の母になった方に、こんなところで恥をかかせるわけにはいかないから」
「貴女ッ……聞いていれば先ほどから、何様でっ」
「公女様よ」
トンッと胸を叩いて答えたなら、もれなくどこかで誰かの笑い声がした気がした。
え、ええ。ちょっと恥ずかしかったわよ。私も。
「旧知に免じてご忠告しますわ。クロイツェンにとって絶対に機嫌を損ねてはならない存在が、この帝国には五つ存在しています。ブランディーヌ夫人、貴女の言動が、拗れかけているヴァレンティン家との関係に憂慮しているアルトゥール殿下の足を引っ張らうよう、お気を付けくださいませ。もし私と悶着を起こせば、貴女の娘は、この国でさぞかし肩身の狭い思いをしながら生きて行かねばならないでしょうから」
「……驚いたわ。まさかそれほどまでに傲慢になっていただなんて」
「傲慢? いいえ。自分の価値を知っただけです。私はもう、貴女の視線におびえていた“幼子”ではないんですから」
「いつまでそんなことを言っていられるかしら? セザールなどに嫁いだら、貴女はまた私の思うがままよ」
「えっ?」
その言葉には、何も知らなかったベネディクタが真っ先に驚きの声を挙げた。
それからちら、ちら、とセザールとリディアーヌをみて、それから再び「えっ?!」と首を傾げた。その様子に、リディアーヌもつい苦笑してしまう。
どうやら、かつて兄が熱心に口説いていた“お姉様”がセザールと結婚するだなんて、彼女には微塵も想像がつかなかったらしい。実に優秀な皇女様だ。
「ふふっ。だそうよ? セザール」
「はぁ……重ね重ね……あぁ、一体私はこの二日で、何度貴女に謝罪せねばならないのでしょうね。ただでさえ父のせいでヴァレンティン大公閣下に睨まれているのに、帰国したら、一体閣下からどんな苦情の手紙が届いているのやら。いっそ、“説教をしたいからセザールを人質に寄越せ”くらい言われるんじゃないかと思っております」
「あら。悪くないわね。うちはいつでも絶賛人手不足なのよ」
「公女殿下」
呆れた顔で苦笑したセザールの様子に、ベネディクタも何やらほっと胸を撫で下ろしたようだった。
「ブランディーヌ夫人。これでもう分かったでしょう? いい加減、ヴァレンティンにちょっかいをかけるのはおやめください。恥ずかしい……」
「ッ貴方まで私に楯突こうというの?!」
「そもそもどうして、楯突かれないと思っているんです? オリオール家が権勢を誇っていられるのは、ベランジュール前公爵殿下とシャントール侯爵が沈黙してくださっているからにほかなりませんよ」
シャントール家は廃妃ユリシーヌの実家だ。ユリシーヌとその王子達の失脚によって中央を離れたとはいえ、今も人望のある権門貴族である。セザールがすでに彼らと親しくしていることは、リディアーヌにとって軽々しく看過できるものではないのだが……それでもブランディーヌに幅を利かせられるよりはマシだ。
「……そう。いいわ。貴方達がそのつもりなら、私もそれ相応に対処するだけよ。そう……例えば公女。貴女、“アンジェリカ”と随分と親しくなったようね」
「……それが、何か?」
「気弱なあの子は、クロード王子に何かあれば、さぞかし悲しむ事でしょう」
ピクリと小さく指を動かしたリディアーヌは、チラと隣のセザールを窺う。顔色こそ変わっていないが、すぐに言葉が付いて出ないのを見ると、考えているのは同じことだろう。
何故か行方不明のまま、今なお行方が知れないクロード――もしや、ブランディーヌはその行方を存じているのだろうか? いや、むしろ……。
「皇太子殿下、ならびに皇太子妃殿下のご入来です!」
だがその先を言葉で探るよりも早く、そんな声に阻まれた。このタイミングでやって来るとは、間の悪い。
「リディ」
入来を聞いて、離れていたマクシミリアンもやって来る。
これからしばらくはお披露目の時とは違って正式に挨拶と祝辞を述べる場になるから、来賓の中でも最も格の高いリディアーヌとマクシミリアンは真っ先に祝辞に足を運ぶことになる。そしてそれは皇太子の実の妹であるベネディクタも、王子として来賓しているセザールもだ。
「話はついた?」
「残念ながら。でも、いいわ。セザール……」
「ええ、分かっています。ベルテセーヌのことは、ベルテセーヌが。いつまでも、貴女に頼ってばかりいるわけには参りません。兄上に叱られてしまいますから」
「……貴方は“ソレ”さえなければ、私ももう少し親しみを覚えられたのだけれど」
「仕方がありません。それだけ、私にとってはそれがすべてなのですから」
そしてそのすべてのためなら、彼は何者にもなれる。
悪者でも、恥知らずでも、卑怯者でも。だから、嫌いになれないのだ。
「リディはどうしてこんな難儀な男にばかり好かれるんだろうね」
「貴方含めね」
「……返す言葉もない」
そう言いながらもさらりとリディアーヌの手を取り、この場から離れることを促したマクシミリアンに、「それではこれで」とセザールに声を掛け、また「ベニー皇女はご一緒に参りましょう」と声をかけ、この場から連れ出した。
予定は狂ったが、無事に皇女はブランディーヌから解放できた。
「私、お母様に、しっかりと夫人を監視しておくように、と言われていましたのに」
「セザールに任せましょう。兄の陰謀に貴女が苦労する必要なんてないわ」
「まぁ、ふふっ。お兄様には、リディアーヌお姉様がそう仰ったからって言い訳しますよ?」
「ええ、いいわよ。存分に使ってちょうだい」
そんなことを言いながら上座の近くまで歩を進めたところで、皇王皇妃夫妻に挨拶を交わしたアルトゥールとヴィオレットが再び下座の中央に下りて来る。ここでファーストダンスを踊るのが新郎新婦の役目だ。
伝統的なワルツが奏でられる間、客人達は嘘でもそれに注目して持て囃すもの。リディアーヌも経験がある。自分の時は、何しろ相手はともかくリディアーヌの方は十一歳という子供で、到底大人の男性とダンスを踊って賛美されるようなものではなかったはずだ。上手い下手ではなく、身長差と体格差がありすぎた。それなのに世界で一番素晴らしかったと言われて素直にドヤれるほど世間知らずではなかったし、もっと言うなら、あの時はそんなものにまったく興味もなかった。それを思えば、二人のダンスはとても様になっている。
アルトゥールは昔から何をしてもそつなくこなす人で、ダンスだってなんだって苦手な物なんてない人だから、驚いたりしない。ヴィオレットは……普通に踊れていると思うけれど。でも不思議だ……あのブランディーヌに厳しく王太子の許嫁として躾けられていたにしては、平凡だ。
アルトゥールが上手くエスコートしているけれど、踊りながら何か恥ずかし気に口を開いたり囁き合ったりしている様子は、よく言えば睦まじく、悪く言えば、踊りながら自分の稚拙さを慰めてもらっているような、おままごとのようにも見えた。
まぁ、多少目線が厳しくなっている自覚はしているけれど。
それが済めば、祝宴は一気に舞踏会の様相となる。身分の高い者が率先してダンスホールに出ていくことで、皆がその後踊りやすくする役目を担うものだが、それにはベネディクタ皇女が「私は先に踊ってまいりますわ」と、折よくひっ捕まえた従兄を強引にホールに連れ出した。それを見送りつつ、リディアーヌ達はまず真っ先に挨拶の方へと向かう。
あまり早すぎる挨拶というのも無粋なものだが、生憎と、私達の間にそんな配慮は存在しない。




