3-26 お披露目(1)
そうこうしている内に、昼前から起きて何やらやっていたらしいフィリックが顔を出し、「回廊御覧に出向いて参ります」と声を掛けにやって来た。
回廊御覧は、婚儀を終えた皇太子夫妻が民衆に挨拶に出向く道中、婚儀自体には参加できない賓客達が先んじて花嫁の様子を見るべく回廊の脇に集まって見送るというものだ。
正式な催しではないため、ただの覗き見のようなその催しに大公代理ほどの身分の者が出向くことはない。ただ外の賓客達の反応を見るにはいい機会なので、フィリックは様子を窺いに行くつもりだったらしい。
昨日まではシュルトに行かせると聞いていたはずなのだが、「公子殿下がいらっしゃるのであれば姫様の監視は必要ないでしょうから」なんて言っていた。非常に不本意である。
国民へのお披露目が終われば、今度は広間で正式に国内の貴顕と賓客達に皇太子妃をお披露目する儀式となる。こちらはリディアーヌ含め、選帝侯家が必ず出席せねばならない催しで、むしろこれがメインイベントである。なのでフィリックが迎賓館を出て程なく、最後の支度を整えるべくリディアーヌも一度部屋に戻った。
化粧を直し、ドレスの裾を整え、肩衣をかけ、さらに重苦しい紫紺の綬にマントを羽織り、大ぶりなサファイアのブローチで飾緒を止める。そうしている内にも、ジャサントの花を摘んでいたフランカが、再びマクシミリアンを連れてやってきた。
こちらもすでに紫紺の綬とマントを身に着けていて、益々重苦しい装いが一層気品を際立たせていた。
やがて次の鐘が鳴り始めたところで、「さぁ最後のお仕度を」というマーサが腕まくりをして、ジャサントの生花をリディアーヌの髪に飾り出した。それを興味深そうに見ていたマクシミリアンが「やりたい」なんて言い出すとは、流石に誰も想像していなかったけれど。
何故か妙に器用なマクシミリアンに見事に花を飾られてしまったものだから、リディアーヌもマクシミリアンのポケットチーフを引き抜くと、残った花をさっと茎で縛り、絹とアルテンレースのチーフにくるんでポケットに押し戻してあげた。
***
昼の時刻が夕の時刻へと傾き始めた頃、マクシミリアンのエスコートで迎賓館を出た。
たちまち、建物の中にいては気が付かなかったどこからともない熱気を感じた。国民へのお披露目があったばかりだから、きっと気のせいではなく、皇都全体が賑わっているのだろう。静かなようでいて静かではない気配が伝わっているようだった。
城の中でも、お披露目の場となる建物までずらりと並んだ貴顕達の馬車の列はさすがの量だった。これはもう、国中の貴族が詰めかけているのではなかろうかという盛況だ。流石は、皇太子の結婚である。
とはいえ、そんな中でも王家選帝侯家は特別待遇だ。長々と連なる列を追い越し貴賓用の門からスムーズに馬車を下りると、すでにいい時間になっていたので控えの部屋に立ち寄ることもなく、建物中央の儀場に向かった。
夜にはすぐ隣のメインホールで祝宴が開かれる予定だが、その前に大切な儀式がある。それが、“王籍簿”の披露だ。
王籍簿は日頃、皇帝の住まいである皇宮の禁書庫に保管されており、外部に持ち出されることはない。帝国創建以来、すべての王家と選帝侯家の系譜を記録し続けている最も貴重な国書なのだから当然だ。記録も管理も、すべて禁書庫で行われ、そしてそれは皇帝ですらむやみには開かぬものである。
ではどういう時に開かれるかといえば、その系譜に誰かの名が刻まれる時だ。
例えば王侯家の直系に子が生まれると、春の帝国議会の期間に国主が皇帝陛下に申請して名を書き加える。その場合、禁書庫の司書の他に、皇帝陛下と、王や選帝侯が二人以上、あるいは大司教以上の位の聖職者一人が立ち合うことが規定されている。なのでこれらの人々以外は、王籍簿を目にする機会はない。
だがリディアーヌは一度だけ、それを目にしたことがある。“王女リディアーヌ”の死を刻んだ時だ。
皇帝陛下と養父。そして立ち会いを務めた枢機卿猊下と、禁書庫の番人であったゼーレマン卿。その中で、皇帝陛下が自ら王女の死を綴った。兄の死と共に。一方で、ヴァレンティン家の系譜に公女リディアーヌと公子フレデリクの名が刻まれたのもその時だ。だからリディアーヌはそれがどういう物なのかを知っている。
とはいえ、よもや自分の死や誕生のために王籍簿を見る者など他にはいないだろう。それ以外でもしも王籍簿を見る機会があるとするなら、それは“結婚の時”だ。
本来、王家の結婚は夏に行われる。春の帝国議会に合わせて、結婚する者とその婚約者は皇帝陛下に謁見し、結婚を申請する。そこで許可をもらい、王籍簿に伴侶の名が書き加えられるのを見届けるのだ。それを以て、事実上“結婚”したことになる。
この時、王籍簿の“写し”を受け取り、国許に戻ってから大々的な式を挙げ、王籍簿に名が刻まれたことを公表する。事実上、このお披露目を以て夫婦と認めることが多いが、王籍簿に名が刻まれた春の時点で、夫婦といって障りないわけである。
“王女リディアーヌ”の結婚の時は、何しろリディアーヌがまだ幼く、しかも皇帝陛下によって父母を殺された元王女だったため、皇帝陛下に謁見もしていないし、自ら結婚の承諾も貰っていない。あの時は春の議会中に国王シャルル三世が申請し、同行した王子リュシアンだけが王籍簿への記載に同席した。だからリディアーヌは王女の死が刻まれる時に初めて、自分の結婚が本当に王籍簿に記載されていたことを目にしたのだ。それが死を刻まれる瞬間であったのは、いささか皮肉であるが。
ただそれは例外である。普通は全て議会中に行われる。
しかし今回のアルトゥールとヴィオレットの結婚も、ある意味では例外であった。
アルトゥールはおそらく計略にかかるタイミングと、ベルテセーヌからの横槍を防ぐという目的もあって、わざと、帝国議会の時期より前というこのタイミングで式を挙げた。よもや皇帝の許可なく式を挙げるということはないから、おそらくヴィオレットと二人、先んじて皇帝陛下に私的に謁見して、王籍簿にも名を刻んだのだろう。皇帝の身内であるからこそ許された特別な待遇である。
だからこそ、本当に王籍簿にそう記されたのかという確認は大切だ。今回のお披露目の儀が通常よりも盛大な儀式次第として準備されているのもそのせいだろう。
そして王籍簿の写しを確認するのは、婚礼の儀を行った聖職者と五選帝侯家の役目だ。
大事な儀礼を兼ねたお披露目であるから、衣服もそれ相応の格式と、一目で身分の分かる恰好が求められる。主催者である皇王夫妻が白地の衣に紅の重苦しいマントを羽織っている事しかり、七王家の者は紅を纏う。同様に選帝侯家の者もまた、白を基調に紫紺を纏う。
ただ同じ選帝侯家でも、ただの使節と大公代理を任される直系とでは用いる色合いや格が違うから、ただ二人正式な大公代理として出席しているリディアーヌとマクシミリアンはただでさえ似通った格好になる。その上、示し合わせたように同じ花、同じレース、同じ紋様をあしらった装いに、特別な関係を疑わない者はいないだろう。
案の定、お披露目の会場に現れた二人には皆の視線が引き寄せられた。中にはもうこの日の主役の二人が来たのかと、思わず道を開けて頭を下げてしまった人がいたくらいだ。
だが誰一人としてそれを咎める人はおらず、皆がほぅと嘆息する中、脇目もふらずに真っすぐと中央の絨毯を進み、すでに入場されていた皇王夫妻に挨拶した。
当たり前だが、皇王陛下が非常になんとも言い難い顔で、「そなたらに、主役を引き立ててくれ、なんて言葉は無駄だと分かっているのだが」などと仰った。
それから間も置かず、甲高いラッパの音と朗々とした声色が、この日の主役たちの来訪を告げた。
婚儀は何にも染められていないまっさらな白を基調とする。だから花婿も花嫁も衣装は白で、しかしこれが皇族の結婚である以上、彼らは深い紅の装飾を纏う。
紅いルビーと金の宝飾。紅色の綬。国章の刻まれたマント。但しマントは表が白で裏が紅という、儀式用の物だ。それ自体は慣例通りだが、現れた花嫁――ヴィオレット妃の装いには、会場が少しざわついた。
花嫁が贅を尽くした晴れ着を纏うことは、古今東西変わらない。とはいえ王侯の挙式ともなると教会の古く伝統的なベザリクス調を取り入れた露出を控えた白のドレスを纏うのが一般的だ。完全に露出がないわけではなくレースや薄布で創意工夫されるのが今の流行ではあるが、首回りや肩はケープやレースなどで覆い、しっかりと裾を引く長い裾が特徴だ。袖は長袖ならショートグローブ、袖が短い場合はロンググローブを纏う。腰には長いトレーンと、頭上には銀冠と金糸銀糸が刺繍されたベールを付けるのが伝統である。お披露目は王籍簿の写しを確認する儀式であり結婚式と同じほどに大切な儀式であるから、やはり正装で参加すべきだ。
だがヴィオレットときたら、マントがベアトップの胸元は覆ってくれてはいるものの、腕も首も肌が顕わで、足元ときたら正面は膝が見えようかというほどに短いアンダースカートに、サイドとバックだけ長い斬新な形状をしていた。そのフィッシュテールラインは物珍しく華やかでいいのだが、如何せん、スカートの下でくっきりと人目に付く足のラインは控えめに言っても“淫ら”だ。
「女の私ですら目のやり場に困るわ……」
思わず呟いてしまった言葉に、ごほんっ、と咳払いしたマクシミリアンが、「決して見てないよ。私はリディ一筋だから」と意味不明なことを言った。
ベールはトレーンは真珠とクリスタルをあしらったレースがふんだんに重ねられていて可愛らしいが、その可愛らしさが肩にかけた格式高い紅のマントの威厳を損なってしまっている。マントの下にチラチラとみえる腰元の無駄に大きくて幼稚なリボンもそうだ。どこぞの巷の花嫁ならそれでもいいのだろうが、皇太子妃と言うにはどうにもちぐはぐだ。それはこの場にいる大半が感じていることだろう。
身分と肩書きを背負っている以上、何でも好きなものを着ればいいというものではないのに。
それに何よりも皆の目を引き付けたのは、ヴィオレットが胸の前に持つ花束だ。花嫁が花束を持っているというのも不思議な光景なのだが、その白い花束の中に混じる紫色の小花が問題だ。
リディアーヌも、アンジェリカから多少、ヴィオレットについての話は聞いていた。だからもしかしたら奇抜な格好をしているかもしれないとは思っていたが……これは流石に、ざわつかざるを得ない。
「よりにもよって“紫”だなんて」
「なんてこと……」
思わず耳に届いた周囲のざわめきに、チラチラと周りの視線がリディアーヌ達を窺うのを感じた。
選帝侯家の色は、“青”だ。だが実際には今二人が纏うような、やや紫がかった“青紫”を象徴色としている。こうした公的な場では、資格のない者がそうした王家選帝侯家をはじめとする“禁色”とを身に着けるのはタブー中のタブーだ。
ヴィオレットが持っているのはヴィオレットという名前にちなんだ花であって、あくまでもメインを白に添えているという意味では、わざわざ文句をつけるほどの物ではない。とはいえ、こんな場で禁忌に抵触しかねない上に選帝侯家の心証を損ないかねない色をわざわざ身に着ける理由も無いはずだ。
「トゥーリが付いていながら……何をしているんだろうね」
思わずそう呟いたマクシミリアンの言葉には非常に同意する所で、しかしそれが分からないアルトゥールではないはずだ。だとしたら知らなかったのか、あるいはいっそわざとなのか。
「そんなに私達が揶揄い続けたのが気に入らなかったのかしら?」
「いやぁ、流石にこんな場所で真っ向から批難するのも大人げないしなぁ」
「あら、まって? でもこの状況、よく考えたら……」
ふとマクシミリアンを見て、それから自分を見下ろして。そして再びマクシミリアンをみたリディアーヌに、ふとマクシミリアンも何か思いついたような顔をして目を瞬かせた。
同じく、皇王夫妻に挨拶に向かっていたアルトゥールが二人の目の前でつい足を止めたかと思うと、ジッと視線を向け、途端、嫌そうに顔を歪ませた。
ほら、やっぱり。別に、“そういう”意図はなかったのだけれど。
「お前たちが結婚するんじゃないんだからな……」
大公代理として恥じない最大級のおすまし顔が一瞬にして崩れ去り、思わずリディアーヌとマクシミリアンの顔に、呆れたように悪友を見る昔懐かしい表情がよぎった。
「最高の誉め言葉だよ、トゥーリ」
「おい」
「主役より目立ってごめんなさいね」
「思ってないだろう?」
まったく、と言うアルトゥールは、今一度二人の友人をじっと見つめると、再びため息を吐いた。
色合いや宝飾品が似るのは仕方がないとはいえ、珍しいアルテンレースまでぴったりと柄が揃っているのだから、示し合わせてあったことは一目瞭然である。だがそのせいか、流石に冠やベールは身に着けていないものの、下手をすればリディアーヌとマクシミリアンの二人の方が結婚のお披露目にふさわしいような正装になっている。
「私達のせいじゃないわよ? 貴方達の自業自得だわ」
「何故、婚約もしていない二人の友人が揃いの恰好で現れると予測できるんだ? いや、昨日の今日だ。お前達なら絶対にこうなるだろうとは思っていたが」
「思ってたんだ」
「まぁ、思ってるよね」
そう軽口を叩いたところで、アルトゥールが再びハァと深いため息をついた。それを困惑気に、隣のヴィオレットがクイクイと袖を引っ張った。
花嫁はこの場で正式にお披露目をされるまで、来賓と口を利くことが出来ないのだ。それを見て、「お前達への苦情は後だ」などと言ったアルトゥールが、何事もなかったかのようにヴィオレットを促し、予定通りに皇王夫妻の元へ向かった。
お披露目をも差し置いて選帝侯家の大公代理に声を掛ける様子は、きっと周囲に、やはり皇太子が彼らと特別な仲なのだという印象を与えたことだろう。こういう所も、アルトゥールはちゃっかりしている。
いや、ただ本当に、ひとこと言わねば気が済まなかっただけな気がしないでもないけれど。