3-21 神問再び(1)
我ながら……よく、頑張ったと思うのだ。
最後まで笑みを絶やすことなく、きっと変には思われなかったはず。自然と振舞えていたはず。私は、頑張ったはずだと。
気を利かせて迎賓館の二階の階段まで送ってくれたマクシミリアンだけは、「良く休んで」と察したように気遣ってくれたけれど、それ以上の過度な気遣いをすることはなく、リディアーヌの虚勢を尊重してくれた。
その代わり、扉が閉まるなり何もかも放り出したい気持ちになって、「今日はもう一人にしてちょうだい」と侍女らを追い払い、乱雑にドレスを脱ぎ捨て髪飾りを放り出しベッドに倒れ込んだことについては……仕方がなかったのだ。
翌朝、早すぎる時間に目を覚ましたリディアーヌが起き上がった時、散らばった装飾品を拾っていたマーサが怖い顔をして「お化粧も落とさず、お肌の手入れもせず。なんてことでしょう」と微笑んだことについても……そう。仕方が、なかったのだ。
「お疲れなのではと配慮したのが間違っておりましたわ。今お湯を準備いたしますから」
「……」
言葉もない。
まだ夜も明けきらないというのにあくせく働いているあたり、きっとマーサは昨夜からろくに眠りもせず、おかしな様子で眠りについたリディアーヌのことを気遣い続けてくれたのだ。それに、どうして文句が言えようか。
そんな中、どこかでゴォン、ゴォンと鳴り響き始めた鐘の音を耳にし、ふとリディアーヌは窓の外を見やった。
「マーサ。こんな時間から、何の鐘かしら?」
「鐘? あぁ……今は明け四つ。神殿の開門の鐘ですね。五つの、清めの鐘はまだです」
今日は婚儀の当日だ。神事は日も昇らぬ内から始まっている。
この日は夜明け前から鐘が鳴り、昨夜の内に禊を受けたはずの花嫁は次の夜明けを知らせる鐘と共に入城し、城の大聖堂で新郎と共に清めの儀を受ける。それから婚儀の時間までは、それぞれの部屋で、これから妃と共に国を考えて行く者として、あるいはこれから王家に入り国のために尽くす妃となる者として、各々が自分を見つめなおし決意を固め、自問自答して過ごす。そして昼、最も日の高くなる時間に、婚儀が行われるのだ。リディアーヌもかつて一度経験したことだから、その流れについてはよく知っている。清めの儀の流れも。その最中、人々がどう立ち回るのかも。
だとしたら、今しかない。
「マーサ、湯の支度はまだいいわ。白のガウンを出してちょうだい」
「白ですか? 他国の国賓は婚儀自体には参加いたしませんから、白をお召しになる必要はないはずですが」
「持って来ていない?」
「いえ、まさか。神殿からのお招きがある場合を考慮して、きちんと持って来ております」
じゃあそれを、と言ってひとまず放置したままになっていた化粧を落とし、マーサの差し出してくれたタオルで顔を拭った。
昨夜は湯につかれなかったから、乱雑に解いて放置していた長い髪も大変なことになっている。やはり先に湯につかろうかという気にもなったのだが、すでに四の鐘が鳴ったのなら早い方がいい。
そんなリディアーヌの様子を見て取ったのか、マーサがさっと髪を梳いて昨夜の香油の残りが邪魔にならない形に髪を結わえてくれた。用意してくれた白のドレスは、リンテンでの聖別に用いていたものだ。それに白い肩衣が縫い付けてあって、アレンジされていた。
やがて四つ半の鐘が鳴ったところで、「化粧は軽くていいわ」と色々な準備を始めたマーサを止め、軽く肌艶だけを整え、席を立った。
護衛に立っていたイザベラがリディアーヌの様子を伝えていたのか、そのまま部屋を出ると二階の階段前にフィリックが待っていて、「どこにお出でになるんですか?」と早速問うてきた。別に、隠す気はない。
「神殿に行って来るわ。誰もついてこなくていいわよ。行き先は神問の間だから」
そう口にしたところで、廊下の端で、ピクリとメイド服の少女が身じろいだのを見た。
ここまで見知らぬふりをしていたけれど……そうもいかなくなった。
「アンジェリカ」
「っ……は、いっ」
流石にもうバレているのではと察していたのだろう。名を呼ばれたことに随分とびくついたようではあったけれど、アンジェリカは変にごまかしたりはせず、おどおどと歩み寄ってきた。
「あ、あの……リディアーヌ様。私……」
「アンジェリカ。貴女はここには来ていないし、私は相変わらず何も見ていないわ。でも今だけ……アンジェリカ。貴女に預けてある“鍵”を、いただけるかしら」
「あ……はいっ。勿論です」
はっとして体のあちこちを見たアンジェリカは、すぐぱっと自分の右手を見て、手を持ち上げ、長いメイド服の袖をめくった。そこに幅広い革のバンドのようなものを付けており、どうやらそこに鍵をしまっていたらしい。目立たないし、簡単に誰かに奪われたりもしないような、いい場所である。
そこから久しぶりに手元に戻ってきた鍵を受け取ると、少し見つめてから、仕方なく、ぐっと自分の胸に押し込んだ。身体自体に出し入れするのは、痛くはないがむずむずと妙な感覚がして嫌いなのだけれど、ここ以上にいい隠し場所はないのだ。
初めて見る皆は随分と驚いたように目を瞬かせていたが、生憎と昔から“こう”なリディアーヌには、驚かれる理由の方が分からない。
「それで、姫様。何故、神問の間に?」
「何故って。神問の間なのだから、当然、神問のために決まってるじゃない」
「……」
あれ。なんでそんな変な顔をされるのだろうか。
そう思ったところでふと、そういえばリンテンでの神問の間での出来事は誰にも話していないことを思い出した。知っているのはリディアーヌとアンジェリカだけだ。
「あー……だから、えっと……」
「……それは、婚儀が行われようかというような大聖堂に出向かねばならないほどの事で間違いないですか?」
「……ええ、そうよ。清めの間、新郎も新婦も禊の間は出ないし、二人と神殿以外の者は立ち入れない規則。だから、貴方達も連れて行かないわ」
「それは……」
イザベラが少し心配そうにこちらを見たが、「規則よ」と言えば、仕方なさそうに頷いた。
「分かりました。ですが神殿の前までは、騎士も侍女も連れて行ってください。できれば私も着いて行きたいところですが、何分、今帰ったばかりですので」
「……」
相変わらず……なんでうちの文官は、夜に働くのだろうか。何をしていたのかは聞かないであげた方がいいのだろうか。
「だったら貴方はさっさと休みなさい。まったく、放っておくと留まることなく働くんだから。エリオット、スヴェンに命じて、昼までフィリックを部屋に閉じ込めておきなさい」
「はい」
「昼までは長すぎます」
フィリックは何か苦言を言っていたが、聞く耳は持たなかった。
人が増える前がいいから、早々と迎賓館を出てしまいたい。そんなリディアーヌの様子は分かっていたようで、会話をしている間にもマクスが馬車を用意してくれていた。そのままエリオットとマーサだけを連れて迎賓館を出る。
いつの間にか、まだ頭も出していなかった日が地平線を越えたようで、道はうっすらと明るんできていた。まさしく、夜明け頃と称していい時間帯だ。土地柄か、ヴァレンティンよりも朝の明ける時間が早いように思う。
神殿に着いて馬車を下りたところで、門を固めていた聖騎士が驚いた顔で行く先を止めようとしたけれど、リディアーヌが「聖女が神問の間への立ち入りを所望していると伝えてちょうだい」と口にすると、慌てて道を開け、知らせに走ってくれた。
今はまだ清めの儀が行われているだろうから、大聖堂の責任者である教区長様も、今日の神事を取り仕切るために本山から招かれた枢機卿猊下も、どちらも席は外せないはずだ。なので話を聞いて慌てて飛び出してきたらしい司祭様には、「神事が終わるまで待たせていただくから急がないで」と伝え、大聖堂に直結している神事進行者のための控室で待たせてもらうことにした。
本当は勝手に新問の間を開けてしまいたいところなのだが、流石に教区長様に話も通さず、他国で勝手は出来ない。いや、聖女と言えば何でもまかり通りそうなところだが、しかし神事の最中に神問の間を開ける真似はしない方がいいだろう。
幸いにして神官が気を使い侍女を入れることを許してくれたので、マーサがお茶を淹れてくれて、静かに過ごすことができた。
すぐ隣で行われている神事の音が漏れ聞こえてる。
招かれている枢機卿猊下のよく通る声が、朗々と神話を説いている。
パシャン、パシャンと水音がして、神官たちの鳴らす錫杖の音が幾重にも甲高く鳴り響く。
あぁ、そうだった。そういえば、そんな感じだった。
錫杖の音は聖堂内の反響でとても大きく聞こえるため、小さな頃のリディアーヌは思わずびっくりしてしまって、脅えているのかと勘違いした“彼”が『悪いものを振り払う音だ。心配ない』と言い手を握ってくれたのだ。そんな必要は全くなかったけれど、その妹を宥める様な態度が、リディアーヌをとても落ち着かせたことを覚えている。
あの時リディアーヌは、まだ十一歳だったのだ――。
結婚がどういうものなのかなんて何も理解しておらず、ただ目的と義務のためだけに祭壇に立っていた。それを彼も知っていたはずで、そして祭事の間中ずっと、彼は“夫”ではなく“臣下”のごとく振舞い続けた。
リディアーヌの手を取り祭壇に誘い、リディアーヌが大聖堂の重厚なセンターラインを闊歩するためにエスコートしてくれた。あの儀式は、結婚ではない……リディアーヌを再び王女としてベルテセーヌに抱かせるための儀式だった。
実に冒涜的で……しかし、最も重たい契約だったと思う。リディアーヌにとっての結婚は、未だにあの時の印象のままだ。
だから今すぐそこで、友人とヴィオレットが清めの儀を受けていると言われてもピンとこない。あの二人に、何を誓約することがあるというのか。何の利害があるというのか。
今神々に神問などしようものなら、『この不心得者め』と叱られそうだ。
「その神問というのは、ヴァレンティンに帰ってからではできない事なのですか?」
暫し儀式の音に耳を傾けていたが、やがてこの状況に慣れてきたのか、マーサがそんなことを問うた。
確かに、招かれざる場所でわざわざ知られていない聖女の肩書を名乗ってまで危険を冒す必要があるのかと言われればその通りだ。だが生憎と、ヴァレンティンではできないからこその、クロイツェンなのだ。
「勿論ヴァレンティンの大聖堂にも神問の間はあるわよ。でも生憎と、“聖典”がないのよ」
「聖典?」
そもそも神問の間をよく知らないマーサが首を傾げる。
「神問の間は、ただ聖典と聖典台があるだけの部屋よ。でもその聖典が大事で、神々のお答えを聞くには特別な聖典でなければならないの。ヴァレンティンの聖典では駄目なのよ」
元々聖典は、地上に降り立った“星の子”に授けられた聖なる典籍のことである。初代皇帝はそれを七つ書き写させ、各王家の聖堂に納めさせた。最初の一つは、今は聖都の大聖堂に大切に保管されていると聞く。その原典から正しく分かたれた物だけが、“神の言葉を語ることができる聖典”であるらしい。
実は聖別の後、ヴァレンティンに帰ってからも神問を試してみたのだ。だがヴァレンティンの大聖堂にある聖典に神の言葉が現れることは無かった。最初はただ神々が答えてくれないだけなのかとも思ったのだが、そうではなかった。
どうやらリディアーヌがヴァレンティンで神問した言葉は、ちゃんと神々に届いていたらしい。神々はその場で答えられない代わりに、アンジェリカに対し、彼女の持ついつでもどこでも一方的に神々が語り掛けて来られる特別な聖典を通じて、『神問は我等の語り得る真の聖典の前にてせよ』という指示を出していたのだという。
リディアーヌはそのことを、アンジェリカがヴァレンティンに来てから初めて聞き、知ったのだ。
「手紙でアルセール先生に聞いてから知ったのだけれど、原典と聖女がそれを書き写したものだけが本物の聖典なのですって。初代聖女の写本七冊は各王家に配られたわ。選帝侯家は元々皇帝の直臣扱いだから、原典を初代皇帝が所持していた帝国初期時代、わざわざ配られなかったそうよ。そう簡単に書き写せるものでもなかったからと」
「まぁ」
「その後、いつの頃なのかは知らないけれど、追加で何冊か作られたらしいわ。いずれも持ち主を点々としたけれど、今は皇帝陛下の居城の大聖堂に一冊。ドレンツィン大司教領に一冊。そしてリンテンに一冊。残る一つは……」
ドキドキとマーサが続きを聞きたそうにしているのを見たけれど、残念ながら、リディアーヌはそれに苦笑を浮かべた。
「行方不明なんですって」
「そんなに貴重なものがですか?!」
「人には決して取り出せぬ棺に納められ、もう長く日もを見ることもないまま眠っている、と言い伝えられているのだそうよ。誰かの死と共に葬られるか何かしたのかしら」
「はぁ……神秘的なお話ですね」
神々の存在というのを間近かに感じたことのないマーサはまるで吟遊詩人が語る伝説か何かのように捉えたようだけれど、これはただの事実だ。
「では姫様。リンテンでは駄目だったのですか?」
「確かに、安心して籠れるというのならリンテンでしょうけれど、帰路、わざわざ大聖堂に立ち寄っていたら目立つわ。でも今この清めの時間のクロイツェンの大聖堂なら……」
「聖職者以外には誰もいないため、目に付かない?」
「そうよ」
くしくもクロイツェンという懐のど真ん中でありながら、今この時間帯が最も誰にも邪魔されない場所なのだ。何しろ、いまここには新郎新婦と聖職者しかいてはならないのだから。それなのにリディアーヌが入ってくることを許されたのは、リディアーヌが聖女であるということをクロイツェンの教会の人々が知っているからに他ならない。マーサまで入ることを許されたのは、おそらくここがクロイツェンだからだろう。クロイツェンの聖職者達は、西大陸の聖職者達ほど規則に厳しくない。
だがさすがに本山からいらしている枢機卿猊下はいい顔をしないだろう。そのため儀式が終わりの気配を見せ、コンコンと扉を叩く音がすると、リディアーヌはマーサに「この部屋を決して出ないように」と言っておいた。
「お待たせいたしました、公女殿下……いえ。聖女様と、お呼びしてよいのでしょうか」
顔を出したのは枢機卿猊下ご本人だった。
会ったことは無い方だが、立派な金糸と薄藍のストラ、豪奢なカズラ、格式高い帽子が、その人が枢機卿本人であることを物語っている。
「トレンツィーニ枢機卿猊下にご挨拶を。大切な儀式の最中に、申し訳ありません」
「とんでもございません。こうして滅多に聖地からお出ましになることのない聖女殿下にお目にかかる日がこようとは。感慨深く存じます」
顔立ちからして東大陸出身の枢機卿だと思うのだが、流石にその地位にまで上るとなると聖女に対する認識も深いようだ。腹の内は分からないけれど、少なくとも恭しくリディアーヌに挨拶をしたかと思うと、「神問の間を開けよとのお話でございましたね。すぐにご案内を」と、自ら先導してくれた。逆に、恐れ多すぎる気がしないでもない。
教会というものは、およそどこの国でも作りは変わらないはずである。それはさして信仰心が高くないなどと言われているクロイツェンの大聖堂でも変わりなく、歩きながら、何となく枢機卿猊下が遠回りをしているのでは、というのは察せられた。おそらく、人通りの少ない道、ないし新郎新婦の居場所に近づかない道を選んでくださっているのだろう。
正直、クロイツェンの教区長にどれほど“聖女”の称号が通用するのだろうかと思っていたのだが、教区長はおろかほとんどクロイツェン教区所属の聖職者ともすれ違わなかったように思う。
ただ最後の最後、神問の間が見えてきたところで、廊下の向かいから何やら勇み足に立派なストラを翻した男性が飛び出してきたように見えた。おそらく、教区長だ。だがそれをしっかりと目にするよりも早く、枢機卿猊下は神問の間の扉を開けた。
「さぁ、どうぞ。殿下」
さて、これは……教区長とは会わない方がいい、という配慮なのか。それとも猊下自身、何か思うところあってのものなのか。
少なくとも目的を果たすことが第一であるから、リディアーヌも猊下の意図通りに振舞い、教区長には目をくれることもなく神問の間へと扉をくぐった。




