3-19 前夜祭(4)
ベネディクタが紹介してくれたのは、すぐ下の弟テオブレーズ皇子だった。生憎と他の弟妹はまだ幼いため、挨拶だけしてすぐに下がったらしい。テオブレーズ皇子もまだ十三歳であったけれど、そこはやはり皇妃陛下が色々と考えているのか……ベネディクタの傍で、しっかりと存在感を見せつけることを命じられているようだった。
その期待に応えて、幼い皇子とは一曲踊ってみせた。踊り終えるなりアルトゥールが「何をやっているんだ、君は」と苦言を吐きに来たけれど、そこはリディアーヌが何かを言うまでもなく、ベネディクタが「明日ご結婚なさるお兄様には関係ないではありませんか」と文句を言った。
どうやら二人の関係は思っていた以上に表立って対立的になっているようだった。
そんな兄姉を前に、じっと黙って観察しているテオブレーズ皇子の冷静さは、将来的に中々侮れない皇子に成長してくれそうである。
しばらくそうして彼らと話している内に、そういえばラストダンスを約束したマクシミリアンは何処に行ったのかしらと視線を巡らせた。
しかし視線が止まったのはマクシミリアンではなく、急ぎこちらに向かってきているシュルトで、リディアーヌと視線が合うや否や立ち止まった彼がコクリと頷いた。急ぎの報告があるのだろう。
なので「ちょっと失礼」と話をしていた人達から離れると、化粧室にでも行くふりをしながら扉を出た。するとすぐに、シュルトがやって来る。
「早かったわね」
「フィリック様が大使館経由ですでに情報を収集してくださっておりました。確かに、ひそかに国許を出た後、このクロイツェンに入ったようです。驚いたことに、フォンクラークからロレックへと。堂々と正規のルートを用いて入国しておりました」
「フィリックはどうしたの?」
「セザール殿下の元へいらっしゃるのをお見掛けしました。おそらくそのまま話し合われているのではないかと。会場には戻っていらっしゃいませんから」
「単に仕事熱心なだけなのか。それとも夜会から逃げ出したかっただけなのか。どうりで、筆頭文官なのにちっとも私の傍にいないわけよね」
「……」
シュルトもそれについては上司を庇えなかったようである。
フィリックは日頃内向きの場所にいる時はこれでもかというほど過保護なのだが、こういう外向きの場所では意外とリディアーヌを放置しがちなのだ。まぁ、リディアーヌなら自分がフォローなんてしなくても上手くやるだろうという信頼なのかもしれないが、こういう所を見ると、やはりフィリックにとって自分は“お姫様”というより“大公家の公女”なのだろうなという気がする。
お姫様扱いではなく、大公家の一翼として認められているという意味だから、悪い気はしないけれど……でもフィリック。それは、逆ではなかろうか?
「シュルト。フィリックを見つけたら、今後は内ではもっと跡継ぎ扱いしていいから、外ではお姫様扱いしなさい、と言っておいてちょうだい」
「え? 何故ですか?」
「……」
駄目だ。シュルトもソレだったか。
「うちの文官達は、私に甘いのか厳しいのか、分からないわね」
思わずそう呟いたところで、廊下の向こうからやって来るセザールと行き会った。どうやらフィリックは一緒ではないようだ。
「セザール」
「公女殿下。こんなところでどうされました?」
さっと周りの人通りを確認しながら歩み寄ってきたセザールに、リディアーヌも周囲の視線を気にかけて、「ちょっと休憩よ」なんて言って見せながら歩み寄った。
「うちの文官が何処に行ったのかご存じ?」
しかしすぐ近くまで行くや否や、声を潜めてそんなことを問う。
すでにセザールの方も、リディアーヌが情報を掴んでいることは察しているのだろう。距離が近すぎることに思わず一歩引き下がったようだが、すぐにコクリと首肯した。
「どういう思考回路からそうなったのかは分かりませんが、おそらくブランディーヌ夫人はすでに入城しているはずだと言って、広間とは真逆の北の庭園に下りて行きました」
「はぁ……相変わらず、怖いもの知らずというのか何というのか……」
どうしてよその国の皇城で、主に報告もなく勝手に自ら裏を取りに行ったりしているのだろうか。彼は騎士ではなく文官なはずで、しかも仮にも大事なヴァレンティンの筆頭分家筋であるはずなのだが。
「エリオット、フィリックには誰かつけてあるかしら?」
「スヴェンが」
「考えるより先に手が出る残念騎士じゃない……頭が先に動くフィリックに付けるには申し分ないけれど、今ばかりは裏目に出たようだわ」
スヴェンは家柄もひときわよく腕も立つ上、寡黙で情報漏洩の心配などもない優秀な騎士なのだが、何といっても“自分で考えない”。よく言えば盲目的に主を信頼していて、悪く言えばただひたすらに言われるがまま、役目にだけ徹する。同じように、考えるよりも手が先に出る女性騎士イザベラと二人、“残念騎士”と呼ばれているうちの側近連中随二の問題児達だ。
だが、腕は立つ。腕は立つのだ……。
「すみません、公女殿下。やはりお止めした方が良かったですか?」
「まったく貴方のせいではないわ、セザール」
うちの子達の思い立ったら即行動すぎるところが問題なだけだ。
「北の庭と言ったわね?」
「ええ。この先の小広間の手前の休憩室にいたんですが、そのベランダから下りて行きましたよ。驚いたことに、隠し階段があって……」
何故フィリックがそんなものを知っていたのか、後で問い詰める必要がありそうだ。
「情報を感謝するわ。セザール……貴方もくれぐれもお気をつけて」
「公女殿下も……」
心から心配そうにそういうセザールの肩をポンと一つ叩いてあげてから、言われた通りの方角へと向かった。
手前の方には休憩室などで個別の話をしている人達もまだちらほらいたようだが、奥の方に来ると流石に人も少なく、できるだけ人目に付かぬよう追従の側近達のほとんどは部屋に残してエリオットとイザベラだけを連れてベランダから隠し階段とやらで庭に下りた。木々に隠れるようにして柵の一部が開閉式になっており、確かに階段があった。
こんな隠し階段を使うような賓客が他にいるはずもなく、裏手の庭には灯りも少なかった。見回りくらいはいるようだが、北の庭とやらにも特に警戒をする必要もなく入れた。
何故北の庭なのかと思ったが、なるほど、庭を挟んで小さな離宮がある。日頃使うような場所でもないだろうに、煌々と灯りが入っているのを見るに……まさかブランディーヌはあそこに入ったのだろうか。
「フィリックは何をどうして、そんなことを知ったのかしらね」
「フィリック卿はおそらくすでにこの城の大半の地図が頭に入っておいでですよ」
「どこからそんな地図を入手したのか問い質したいのだけれど……私、見てないわよ?」
「私も地図は見ていませんが、こちらに着いてからこの方、騎士達に事細かな立地をあげて指示を出しておられましたから、クロイツェンに来る前に得てきた知識なのかと思います」
その“どこか”を是非知りたい。まったく、不思議な男である。
「文官が騎士達に指示を出すことについて、意見はないの? 筆頭護衛騎士さん」
「フィリック卿の指示に間違いはありませんから」
そう即答するエリオットに、リディアーヌも肩をすくめた。
残念なことに、事実である。本当に、優秀過ぎる文官で困る。
「でもスヴェンにはあとで厳重注意しておきなさい。フィリックは一応私の腹心で大公家の分家筋なのだから、危ない所にのこのこ行かせず、全力で引き止めて、とりあえず私に指示を仰ぎなさい、って」
「それに関しては、厳しく言い聞かせます。効果があるといいのですが」
そこは諦めないでちょうだい。エリオットさん。
そんな話をしながら庭を少し歩いたところですぐ、人の話し声が聞こえてきてリディアーヌは口を噤んだ。
淡々とした会話のようであるが、鷹揚なようで棘を感じる甲高い声色も、それに対して短く言葉を返している低く抑揚のない声色も、どちらも聞き覚えのある声だ。なんでそんな状況になっているのか……ゆっくりと足を向けたなら、庭の途中の少し開けた場を前に突っ立っているスヴェンを見つけた。
あちらもすぐに気が付いたようで、一瞬警戒を見せたものの間もなくそれがリディアーヌ達であると察すると、さっと腰を折った。
忠誠心だけは、確かなんだけど……。
「いつからヴァレンティン家はそのように度の過ぎた口をきくようになったのかしら? 公女は部下の躾が成っていないのではなくて?」
「殿下は関係ございません。私はただ純粋に、どうしてこんなところに貴女がいらっしゃるのかと問うているだけですのに……はぁ。何故こうも話が通じないのか」
「話が通じないのは貴方の方です。貴方に私の行く手を阻む権限がどうしてあると思うのかしら! おどき!」
「お断りします。権限などございませんが、しかし主にご納得いただけるだけの情報を得ることが私の仕事ですから。それに我が主は貴殿の顔を見るとひどく気分を害されるので、いらっしゃらないでいただきたいというお願いをしているだけです」
「よくもッ」
あぁ……うん。まぁ、ね。まさかフィリックがこんなところでひそかにブランディーヌと談合してる、だなんて思っていない。でもだからと言って、そんな理由でブランディーヌを足止めていたとも思わなかった。うちの子、何言ってるんだろう?
思わずため息を吐いたリディアーヌに、その声が聞こえたのか、ふとフィリックがこちらを振り返った。それにつられるようにブランディーヌの視線も向いたかと思うと、ここぞとばかりに気色ばんだ。逆にフィリックの方は、何とも嫌そうな顔である。せめて逆の表情をしてもらえないものだろうか。
「エリオット、何故姫様をお連れした」
「逆に、何故貴方は勝手をしているのかしら?」
エリオットに掛けられた苦言にはリディアーヌが自ら返答し、仕方なさそうに道を出て、フィリックの隣に立った。幸い怪我などはない。舌論以外は無かったようだ。
「会場にお戻りください、姫様。そちらで人々に顔を見せ、ヴァレンティンの存在感を見せつけることが貴女の役目です」
「もう十分に見せつけてきたわよ。皇子殿下とも踊って差し上げたわ」
「アルトゥール殿下と?」
「その可愛らしい弟殿下と」
「……何をなさっていたんです?」
詳しく報告を、なんていうフィリックには、「話は終わっていませんわよ!」とブランディーヌが口を挟んだ。
「この私を無視するなど、身の程知らずな」
まぁ……そりゃあそうなるよねと同情は禁じ得ない。
だが“身の程”といったか。それについては異論がある。
「誰かと思ったら、ブランディーヌ夫人ではありませんか」
「何を白々と。ようやく挨拶という礼儀作法を思い出したのかしら。貴女は相変わらず、昔から……」
「“大公代理”である私がこの国で今礼を尽くさねばならない王侯は、この国の両陛下と皇太子殿下、ザクセオンの大公代理以外には一人としていないはずなのですけれど。一体、礼儀がなんですって?」
「ッ……」
ひとまず釘を刺したところで、改めてフィリックを見やり、そのタイをわざとらしく整えてみせた。フィリックは嫌な顔をしているが、こうも親しい様子を見せればブランディーヌだってフィリックを馬鹿には出来ないだろう。
自分でも不思議だが、私は意外と、フィリックを蔑ろにされたことに怒っているらしい。
「フィル。貴方、私の文官として仕えるうちに自分の本分を忘れたのではなくって? アセルマン家はヴァレンティン家唯一の分家筋で、私とデリクに次ぐ大公家の継承家門でしょう? 一介の侯爵夫人にあぁもいいように言われて、何を平然としているのよ」
「……なるほど、失礼いたしました。“うちの殿下”を悪く言われて、私も気が立っていたようです」
そう言われてすぐに喚き散らさない理性は流石はブランディーヌであるけれど、表情は雄弁に不満さを現しているようだった。口には出されずとも、どうして“王女”である自分が一介の侯爵令息に蔑ろにされねばならないのかと言わんばかりだ。
だがベルテセーヌでどれほど影響力を持っていようとも、彼女の公的な身分は伯爵家出身の侯爵夫人だ。彼女は“王女”ではない。
「それで? 貴方達はこんなところで、何を立ち話していたの?」
「何ということもありません。夫人が夜会にいらっしゃろうとしておいででしたので、空気を読んで辞退して欲しいとお願いしていただけです」
「……」
弁えなくていいとは言ったが、煽っていいと言った覚えはない。なんでこの子はこうも極端なのだろう。
「公女。貴女の部下ならば貴女からきちんと言い聞かせなさい。何故私が貴女の部下の言う事を聞かねばならないのかしら。躾が成っていないといったことは撤回しませんわよ」
「ええ、躾が成っていないのは事実なので、それは別にいいですわ。まぁ、貴女に言われる筋合いはないですし、フィリックは躾をして聞いてくれるような部下ではなく、むしろ私の“家庭教師”だった人ですから……筋違いな話ですけれど」
実際に家庭教師だったのはフィリックの父と兄だが、成人後に大公家の仕事を始めたリディアーヌを筆頭文官として指導したのはフィリックだ。だから先生というのも間違いではない。
「それに私も彼と同じ意見ですわ。ブランディーヌ夫人。貴女が顔を出せば、アルトゥール皇太子殿下はいい顔はなさいませんわよ。何しろ、私が貴女を大層嫌っていますから」
「随分と愚かなことを言うようになったのね。貴女の感情などどうでもいいことだというのに。はぁ……ヴァレンティンなどに行ったせいで、そんなことも教われなかったのね」
「あら、夫人ったら。私のことを、混乱甚だしく見向きもされなくなって久しいベルテセーヌの王女と勘違いなさっているのではありませんか? 私は“ヴァレンティン”ですのよ。アルトゥール殿下がどれほど選帝侯家を意識し、繊細に気を配っていらっしゃることか。それを貴女がぶち壊したりしたら、さぞかしヴィオレット嬢も自分の母をお恨みになることでしょうね」
「何を知ったようなッ……!」
「知らずとも分かるわ。貴女がここに招かれたのは、さしずめ明日ご結婚なさるヴィオレット嬢を身分のない平民ではなく後ろ盾のある令嬢として嫁がせるための皇太子殿下なりの苦慮なのでしょう。けれどそれをヴィオレット嬢が受け入れなければ、無意味なこと。貴女の名がヴィオレット嬢の生母として、“王籍簿”に記されることもありません」
みるみる歪んだブランディーヌの面差しに、リディアーヌは胸の底で嘲笑う。
やはりそうだ。彼女は今も昔も変わっていない。自分の名を王の系譜に連ねること……それにどれほどの執念を燃やしているのか。リディアーヌはそれを、よく知っている。




