3-17 前夜祭(2)
アルトゥールに釣られてくれたおかげで、リディアーヌの周りからも随分と人が減った。ちょうど華やかな舞踏曲も奏でられ始めたものだから、「踊りませんか、奥さん」なんて言ってセリヌエール公がナディアを誘ってダンスホールに向かった。仲睦まじい様子が、何とも微笑ましい。
曲は伝統的な“挨拶”を意味する曲だ。ダンスが娯楽ではなく儀礼に比重を置いていた時代の名残で、どんな行事でも宮城で催される夜会では大抵最初に奏でられる定番である。今宵は舞踏会というわけではないので参加は任意だが、身分の高い者が最初に踊ってくれないと、それ以外の人達が踊れない。かといってホールを閑散とさせるわけにもいかない。なのでアルトゥールも妹姫にホールに引っ張り出されたようだし、無論、国賓として招かれているリディアーヌもこれに加わるべきだろう。
「リディ、私達も踊らない?」
なので察し良く、すぐにマクシミリアンが手を差し出した。断る理由は無い。
「ええ、喜んで」
そういえばラストダンスの話はしたけれど、ファーストダンスの話はしていなかった。これでは益々周囲に誤解されてしまうが、リディアーヌがその手を取ったところでうちの文官から咎める言葉はない。むしろ、「私は情報の収集に行ってまいります」だなんて送り出されてしまった。まぁ、理由は分かっている。
「君と踊るのは四年ぶりだね」
「貴方、とても背が伸びたから不思議な感じだわ。それに……大きくなりすぎよ。手をまわすのに一苦労じゃない」
背中が遠くて、昔よりもお互いの距離が近くなってしまう。代わりにマクシミリアンの方は随分と悠々と身幅に余裕のある様子だ。ずるい。
「ははっ。大きくって。四年前だって、そんなに貧弱だったつもりはないんだけど?」
「まぁ、トゥーリよりは大きかったわよね」
何百回と踊ったことのある慣れ親しんだステップを、程よく適当に、程よく丁寧にこなす。
あまりかしこまらず、少し手を抜きながら適当に踊るのが私達のスタイルで、でもそれが意外と受けるのだ。おかげでダンスの試験がある時はいつもマクシミリアンにパートナーをお願いした。アルトゥールのエスコートは生真面目で正確でとても踊りやすいけれど、マクシミリアンはもっと上手に転がしてくれる感じがする。当人はまったく意識しているわけではないのだろうけれど。
「リディの文官、パートナーじゃなかった? 悪いことをしたかな?」
「いいえ、まったくよ。彼、外見だけは紳士らしいけど、運動神経が壊滅的なの。あれは体よく貴方のおかげで逃げられてほっとしているのよ」
「くくっ。本当に?」
「本当よ。皇宮の成人式ですら策を弄してデビュタントのダンスをさぼったほどだもの。フィリックが公式行事で踊ったのは生涯でたったの一度だけ。私が七、八歳くらいの頃、まだよちよちとしか踊れなかった私の手を形式的に握って踊っているふりをした時だけよ。子供すらまともにエスコートできない木偶の坊ぶりに、以来、うちのお養父様からは“お前はもう二度と娘と踊るな”のレッテルを貼られているわ」
「なにそれ、想像したらものすごく可愛いんだけど」
「あぁ、でも私も他人のことは言えないわね。ここ最近は弟としか踊ってないの」
「弟って、十歳くらいの?」
「八歳」
「くっ……見たい。それ、絶対に可愛いやつだ」
「帝国一、可愛いわよ」
隠すことなく弟自慢をしたところで、「うちの弟だって可愛い」と言い返すマクシミリアンに、つい苦笑してしまった。
「そういうミリムはどうするの? カレッジ時代と同じなら、この後何十人と踊る羽目になるんじゃなくて?」
「いや、もうさすがにそれは無理かな。あの頃は若かった……」
「ふふっ。まだ二十歳じゃないっ、私達!」
どうでもいい雑談をしている内にも、曲は終わりに近づいてきた。最後の音色に合わせてくるくるといつもより沢山回されて、挨拶を交わせば終わりだ。
この序曲は、何度か調子を変えながら同じ曲が繰り返される間、少しずつ加わる人が増えて行き、ある程度自分より上の立場の人が抜けるまで下の者が抜け出せないという暗黙のルールがある。リディアーヌほどの身分になれば抜けるのもそう難しくないのだが、他の面々は周囲の踊っている身分層を見極めながら出入りしないといけないので、中々大変だ。
今宵、一曲目で抜けていいのは本日の主役皇太子殿下だけなので、とりあえずリディアーヌは最低でも二曲目までは踊らないといけない。ただ同じ相手と続けて踊るのはタブーなので、さて次はどうしようかと周囲の様子を窺っていたところ、「さっきから何度もナディアと目が合うんだけど」とマクシミリアンが苦笑した。そのマクシミリアンの視線の先を見たところで、リディアーヌはセリヌエール夫妻ではなく、隣でコランティーヌ夫人に振り回されているチェーザル公の切実そうな目と視線が合った。夫人のご年齢を感じさせない華やかなダンスの方に、ついつい目を引き付けられてしまったのだ。
最後の挨拶を交わしてマクシミリアンと離れると、間髪入れずにチェーザル公がやってきたので、二曲目のお付き合いをした。どうやらチェーザル公は、はつらつとダンスを楽しんでいるコンランティーヌ夫人に振り回されたことで疲弊し、次はある程度手を抜いても許されそうな相手を探していたようだ。
ダグナブリク家と縁を作っておくという意味でも断る理由は無かった。
「コランティーヌ夫人は踊りの名人ですわね」
「公女殿下はご存じないでしょうが、我々より上の世代では“止まらずの貴婦人”として有名人ですよ。よもやそれに一曲目から捕まるとは……勘弁してもらいたいものです」
でも夫人のあの様子だと、まだまだ止まりそうもない。リディアーヌは選帝侯家後継として二曲目で抜けられるが、あのままコランティーヌ夫人が踊り続けるなら同格のチェーザル公も三曲目まで付き合わねばならないかもしれない。
決してダンスが得意というわけではなく困っているらしい公の様子には、思わず同情して苦笑してしまった。
「私の方は……あぁ、ほら。ミリムったら、やっぱり囲まれてるじゃない」
「公子殿下は高貴な身分でありながら気さくですからね。レディ達も声を掛けやすいのでしょう。あの様子だと、序曲が終わった瞬間からレディ達に引っ張りまわされそうですね」
「確かに人当たりは穏やかかもしれないけれど……正直、実際は誰よりも酷薄なんじゃないかと思うことがありますわ。変かしら?」
「いいえ。何しろザクセオンの長公子殿下ですから。そういうものでしょう」
チェーザル公もよく分かっている。その理解ある言葉に薄く苦笑を浮かべたところで、曲は終盤に差し掛かった。
「ところで公女殿下。もう一つ、お願いをしても?」
「これ以上踊れという注文以外でしたら、お聞きしますわよ?」
ズケズケと物を言い合えるような関係ではないので、願いといっても大した内容でもないだろうと軽い気持ちで答えたら、まだ曲も終わりきらない内から早々とチェーザル公は足を止め、リディアーヌの手を取り会場の端へと誘導しはじめた。
二人の様子を窺っていた人達がふっと驚いた眼差しで追いかけて来るのを感じる。顔には出さずとも、リディアーヌも突然のことに驚いた。かといって、曲が続いているので、皆もそれを不躾に追いかけるわけにはいかない。
結局、曲が終わると同時にすっかり人気のない場所まで連れ出されていた。決して不自然ではない見事なエスコートだった。これはつまり、序曲のループから自然と抜け出すために、その理由として使われたわけだ。
「手慣れておいでですわね」
「兄がよくこうやって人を避けているのを見て学んだんです。高貴なレディのためという理由ほど、人々を納得させるものはありません。公女殿下のおかげで助かりました」
「私こそ、大いに学ばせていただいたわ」
身分が下でも、上手く上の相手を使えばこうも容易く抜け出せるのか。なるほど。
そう思いながら何ともなしに周囲に視線を巡らせたところで、壁際からこちらを見ている青年と目が合った。どこにいるのかと思いきや……。
「探していた人にもお会いできたようですね」
「チェーザル公……もしかしてご存じだったのですか?」
「既婚で、ついでに臣籍に降って選帝侯家に対する権限などないにも等しい私は、公女殿下ほどに大変ではありませんから。隅々までじっくりと見物できるだけですよ。殿下はどうやら“あちらの殿下”のことをお気にかけていらっしゃる用でしたので、序曲から解放していただくせめてもの見返りにと思いまして。余計なことでしたか?」
「……いいえ」
それはよかったです、なんて言いながら早々と去ってゆくチェーザル公に肩をすくめてしまった。
何が、“権限などないにも等しい”だ。他でもない、ダグナブリク選帝侯閣下が最も才能を買っているからこそ臣籍に降して重宝しているのが、末の弟であるチェーザル公だというのに。それを知らないはずがないではないか。
何やら上手く誘導されたようで気に入らない気がしないでもないけれど、でも実にいい仕事をしてくれた。一人になったリディアーヌに向かって歩み寄ってきたのは、目立たぬようひっそりと身を隠していたセザールだった。
***
セザールとは、求婚状とそれに対する分厚い苦情を送りあって以来だ。苦情の分厚さに、ヴァレンティン家がどんな心証を抱いていたのかは一目瞭然であるし、それでいながら保留という決断を下した理由と温情が分からないセザールではない。
だからこそ、顔馴染みでありながら自分からリディアーヌに近づくことは一切なく、許しを待っていたのだろう。昼間の不躾だったご令嬢にも見習ってもらいたい慎み深さである。
「セザール王子。まずは貴方が王子の称号を得たことについては喜んであげるとして、あの厚顔無恥な“求婚状”はどういうつもりなのか、お伺いしようかしら?」
よく分かっているであろうセザールは、リディアーヌが出会いがしらから早々とセザールの腕を引っ掴んですぐ後ろのテラスに引きずり出したところで文句も言わず、大人しく従ってくれた。ましてや挨拶もせず苦言を告げたことについても、承知しているとばかりに深々と頭を下げ、「どうか愚かな我々を許してください」と謝罪した。
彼には他にも思う所が多々あったので、当然、頭を下げるくらいで許さなかった。事の罪深さは他でもないセザールが一番よく分かっているはずだ。リディアーヌの怒りに彼は一切の弁明もせず、粛々と苦言を受け入れた。
「色々と度を越して助言をしたにもかかわらず、いいように国をかき乱されて、ましてやこの機に乗じて随分といらない策を巡らせているようじゃない。クロードを廃太子して、自分は王子の位を得て、さぞかし満足している事でしょうね」
「誤解です。私はそんなつもりは毛頭なく。ましてや求婚だなんて……そんなことをして、貴女や“兄上方”がどう思われるか。それを知らない私ではありません」
「その“兄上方”を引きずり出す計画なんでしょう? 私にはベルテセーヌの王位継承に口を挟む権利なんて微塵もないけれど、一言の釈明すらなかったことには心から怒っているわよ」
「そんなつもりでは……」
「それで結局、クロードもアンジェリカも行方不明。ヴィオレット派とやらの黒幕も捕まらず、リュシアンとジュードの名を借りて噂を分散させただけの中途半端。そんな中、一方的に私の名前まで利用しようだなんて。ヴァレンティンの怒りが怖くないようね」
「公女殿下……」
まぁ、セザールの意思ではないだろう。それもこれも、恥知らずなシャルルの独断であることくらいは百も承知だ。しかしそのシャルルを抑えることもできずに中途半端な仕事をしたセザールにだって罪が無いわけではない。どうして許せようか。
「はぁ……まぁ、こちらとしても。この婚儀が終わるまでは返事は出さないし、公の場ではそれ相応に接するわ。でもそれだけよ」
「十分です。公女殿下がベルテセーヌを蔑ろにしないでくださる。それがどれほどの温情なのかを私は弁えています。こうして直接顔を合わせていただけることが、どれほど恥知らずなことなのかも」
随分と卑屈な言葉だが、その言葉でどれほどセザールが反省しているのかは伝わった。もとより、彼も本気でそんなことを言っているわけはないだろう。これはただの、リディアーヌが鬱憤を晴らすためだけのデモンストレーションだ。
「……まぁ、少しは気が晴れたわ」
「それは良かったです」
許す気にはならないけれど、このくらい吐き出しておけばいいだろうか。
「取り合えず、これでこの件は決着にしましょう。もうこれ以上の謝罪はいらないわよ」
「お心遣いを有難うございます」
別に、心遣いじゃない。無駄にカリカリしていることが生産的ではないだけのことだ。