3-13 選帝侯家の昼食会
鬱々とした気分を抱えたまま迎賓館に入ると、上着も飾りも取っ払って楽な格好をしたマクシミリアンがホールにいた。
見かけないお仕着せのどこかの侍従と話をしていたようで、リディアーヌが現れるとすぐに「あ、リディ。こっちこっち」と手招きした。
何事だろうかと思ってみたら、こちらから誘うまでもなく、「昼食を一緒をどう?」と誘われた。
ただそれは私的なお誘いだったわけではなく、どうやらその見慣れぬ侍従の仕える主……この迎賓館の隣の棟に滞在しているヘイツブルグ大公家からのお誘いだったようだ。
「選帝侯家同士の交流という表向き、青の家門はこういう時何かと忙しくなるから、大事な約束があると偽ってダラダラ食事をしないか、というお誘いだよ。次の予定まで時間もないだろうけれど、君は放っておくとすぐに食事を抜くからね。少しくらい食べた方がいい」
「……」
あぁ、いっそ抜いてしまいたい。なんて思っていたのがばれていたようだ。
「見たところ、リディもただの謁見で随分と摩耗したようだね」
「本当にね。でもこんな顔になっているのは謁見のせいではなくて、退出の途中で不作法に声をかけてきたヴィオレット嬢のせいよ」
「え、何? 押しかけて来たの? トゥーリの許嫁が?」
「押しかけて来たわ。トゥーリの許嫁が」
「何? 婚約者が昔の親友に未練たらたらなのを察して、私の婚約者にちょっかい出さないでーっ、とか言いに来た?」
ふざけているのは一目瞭然で、軽口で揶揄ったマクシミリアンにはもれなく呆れた顔をして見せた。
「そんなに可愛らしい話なら、調子を合わせて高笑いしながら婚約者さんを揶揄えたのだけれど。残念ながらお利口な私はイライラするしかできなかったわ。でもちょうどよかった。昼食くらいは気楽に済ませたかったの」
「君も苦労するね」
ただの上っ面な同意が、どうしてこんなにも心地いいのだろう。思わずほっと吐息をこぼすと、「次の約束があるから、着替えてから行くわね」と声をかけて手を振った。
部屋に戻ると、まずは早々と紫紺の装いを解いた。重たいマントが肩から下ろされるだけでも随分と体が軽くなる。
だが一瞬緩められたコルセットに開放感を覚えたのは束の間で、早々とグリーンのアルテレースを多用した草木の刺繍の美しい華やかなドレスを着付けられた。
この日のためにマダムが丹精込めて仕立ててくれた夜会服だ。
聖痕があるためどうしても胸元は深めに覆うことになるが、布の代わりに大きくタックを寄せたコサージュが華やかで、大胆に縫い付けられたアルテンレースと繊細なスカートの広がりがただつややかなシルクのドレスとは全く違った淡やかな印象を与える。刺繍にちりばめられた宝石の輝きまで、何度見ても嘆息する出来栄えだった。
重たい紫紺の飾りが付けられていた髪も装飾を外して下ろし髪にし、軽くヘッドドレスで抑えた。成人すると正式な催しではアップスタイルにするべきだが、私的な面会程度ならこれで十分だ。完全に夜の装いをするには早すぎる時間帯だから、飾り立てるのも最低限でいい。今は日常使いするようなピアスだけ付けておいた。
どうせ整えなおすことになる化粧もほどほどにさせておいて、露出を控えるための着け袖と上着を羽織る。上着はマダムが練りに練って選んでくれた紫紺のショールだ。普通は肩にかけ前をブローチで止めたりする丈の短い物が多いのだが、マダムが用立てたのは幅が通常より狭く、けれど肩にひっかけると床に着くのではというほどに長い一枚布だ。それを少し気崩した感じに腕にかける。
時折リディアーヌが部屋着の上からこうして布をひっかけていることがあったのだが、どうやらマダムはそのすこし気崩した風にみえる装いに、常々“気品”を感じていたらしい。そんな発想から生まれた上着だ。
まぁ、普通の上着より着脱も楽で身軽なので、リディアーヌも気に入っている。おかげで夜会用のドレスを着ながらも、ほどよくラフにも見える装いに仕上がった。
昼食の会場はこの迎賓館の中央棟の広々としたサロンだった。五人だけで座るには広すぎるけれど、一方は程よく衝立で部屋を仕切り、一方はカーテンと窓を取っ払って庭を望むテラスと一続きにしてあって、気さくなお茶会かのような様相にしつらえられていた。センスがいい。
選帝侯家の人間は何処に行っても何かと引っ張りだこで忙しいため、ヘイツブルグ家のコランティーヌ夫人が「議会の時同様、お互いにお互いを存分に利用しあいましょう」などと言って設けてくれた席のようだった。
ヘイツブルグ家からはそんな気の利く選帝侯の姉が。ダグナブリク家からは臣下に降った選帝侯の末の弟が。ドレンツィン教会領からはドレンツィンを治める枢機卿猊下の愛弟子がそれぞれ来ていた。前者の二人とはあまり面識がなかったが、ドレンツィンのフィレンツィオはカレッジ時代の同級生だ。男女三人ずつの班行動をとる際にもよく組んでいた相手であるから、久しぶりの再会を喜ぶことが出来た。
「ヴァレンティンの公女殿下は、もう半ば夜のお仕度のようね。これから面会でも立て込んでいらっしゃるのかしら?」
「立て込みそうだった所を、うちの侍女に“仕度の時間を失念しています”と叱られて、二件だけに絞らされてしまいましたわ」
「ほほほっ。ではあまりゆっくりしている時間はございませんわね。我ながらいい席を設けましたこと」
女の支度には時間は有ればあるほどいいですから、なんておっしゃる夫人に、隣でドレスなんてものにはとんと関心のないらしいダグナブリク家のチェーザル公が肩をすくめた。
「そちらのドレスは本当に素敵ですこと。見たことのない素材ですわね」
「アルテンレースですのよ」
「まぁ! このように大きなものを見たのは初めてです。なんてこと。このように使えるのね。日中の日の下では華やかに。夜にはきっと幽玄な印象を与えるでしょう。淡い御髪と相俟って……なにやらもう、人外じみていらっしゃいませんこと?」
「ふふっ。人外?」
なんです、それは、何て言いながらフォークにキッシュを突き刺し、口に放り込む。片意地張らない会話のおかげか、思ったよりも手が進む。
「それに気になっていたのですけれど……ザクセオン公子。貴方方、何やら妙に恰好が似通っていませんこと?」
「おや、ようやく気が付いてくれたんですか? 夫人」
わざと調子に乗るかのように言ってみせたマクシミリアンは、苦笑しながら、リディアーヌのドレスの胸元のコサージュを指先で弄んだ。白いシルクの花びらに、アルテンレースで黄色い花芯と緑の葉をあしらいエメラルドを飾り立てた茶の花のコサージュだ。
見ている皆が様々に呆れたり顔を赤くしたりしているから、こういうことは止めていただきたいものである。遠慮なく、「こらっ」と手を摘まみ上げた。
摘まみ上げてすぐ、そのシャツのカフスボタンに目が留まってしまった。
綺麗な緑。葉の形を象った、エメラルドグリーンのカフスボタンだ。
「あら? これ……どこかで見覚えがあるような……」
「見覚えも何も、リディが昔くれたやつだよ。貰ったアルテンレースの色によく合うからと思ったんだけど……ふふっ。気が合うね、リディ。君もまさか、茶の木と茶の花をモチーフにして来るだなんて」
「……ドレスを仕立てた時、ちょうど貴方から茶葉が送られてきたばかりだったのだもの」
貴方をイメージしたから、だなんてことは口が裂けても言えなかった。
だがどうやら思わずコランティーヌ夫人が突っ込んでしまったのは、ただマクシミリアンがクラバットに添えている揃いのアルテンレースのせいというだけではなかったようだ。この調子だといざ正装した時、アルトゥールがいい顔で『お前達なぁ』と眉をしかめてくれることだろう。
「今からトゥーリのしかめ面が期待できそうだわ」
「リディはさ……トゥーリにばかり夢中で、意匠を合わせた相手をパートナーにして周囲に何を言われるのかなんて、微塵も気にしてないよね」
「あ」
今更気が付いたあまりにも間抜けな事実にはっと顔をあげると、もれなくそんなリディに免疫の有るフィレンツィオが声をあげて笑った。
「ふふっ。お二人は学生時代のままですねっ」
「もっと厳しく言ってやってくれないか、フィレンツ」
こほんっ、と咳払いをしてはぐらかしたついでに、マクシミリアンが肩にひっかけていた上着からヒョンとポケットチーフを引っ張り出した。別に、理由は無い。何となく恥ずかしくて悪戯したくなっただけだ。
でもそれはそれで子供っぽくて恥ずかしいから、はぁとため息を吐きつつ、その白いシルクと黄と緑のアルテンレースをくるくると織って花の形にした。した……というか、なんとなく巻いていたらそうなった。
ただ手慰みにしただけだったのだが、フィレンツィオが「紐がありますよ」なんてどこからともなく差し出してきた物だから、きゅっと根元を絞った。我ながら、いい出来である。
「いいわ。こうなったら思う存分、トゥーリにいい顔をさせてあげましょう。付き合ってちょうだい、ミリム」
席を立ち、改めてマクシミリアンの上着のポケットにきゅきゅっと花を詰め込んだなら、実にいい顔で微笑んだマクシミリアンが、そのまま「光栄だよ、リディ」と手を取って甲にキスをした。もう慣れた。
「本当に、何の身にもならない話しかしなかったけれど。私はそろそろ時間だから、このまま席を立たせていただきますわ」
「いいえ、十分に楽しませていただきましたわよ、公女殿下。また後程、お二人が皇太子殿下にどんな顔をおさせになるのか、楽しみにしておりますわ」
他人のことは言えないいい顔で微笑むコランティーヌ夫人とは気が合いそうだ。
チェーザル公は少し困惑気にしていたけれど、免疫の有るフィレンツィオは聖職者とは思えない笑顔で「私もとても楽しみです」だなんて言っていた。これは……聞かなかったことにしておいた方がいいだろうか?
そのままマクシミリアンが扉までエスコートしてくれたので、別れしな、ちょっと指先で織りたてのコサージュの形を整えてから、ポンポンとその胸を叩き、「ほどほどにね」と呟いておいた。
でないと、留まることを知らないんだから……。
でもおかげで、随分と気がまぎれた。
自分の棟への階段に向かいながら歩み寄ってきたマクスが、「セリヌエール公爵夫妻が城門をくぐりました」という知らせを伝えてくれたかと思うと、少しジッとリディアーヌを見つめてから、「良いお顔になられましたね」と言った。
「コランティーヌ夫人はとても気さくな方ね。結婚されて選帝侯家を出られてなお、強い影響力を持っていると聞いていたけれど……」
納得したわ、と呟いたリディアーヌに、傍らでフィリックが深く頷いた。