3-13 虚構と現実(2)
side ヴィオレット
「あっ……」
そうして駆けつけた先で見つけた後姿に、思わず声がこぼれた。
それに気が付いたのか、リディアーヌがちらりとこちらを振り返った瞬間、興奮が体を震わせた。
本物だ。どうしたものか。小説で書かれていた『息を飲むほどに美しい生まれながらの王女』の実物は、想像していたよりはるかに美しかった。
陶器のように滑らかな白い肌に、ヴィオレットと同じようでやはり違う、銀に近いプラチナの髪。蠱惑的な琥珀色の瞳と、少し不愉快そうに歪んだ赤い唇。髪と同じプラチナの長い睫毛が重たげに瞬きに揺れて、ただ振り返るだけで、まるで何もかも計画されたかのようにドレスが美しく翻る。バサリと広げられた扇子に、そっと小首を傾げながら口元を隠しながら背を向けた艶やかな所作が、呼吸も忘れて見惚れてしまうほどだった。
あぁ、やはり彼女こそが私の理想の“王女殿下”だ。
っと、見惚れている内にも王女様が去ろうとしているではないか。
「あっ。ま、待って……」
慌てて呼び止めようとしたが、聞こえていないのか、彼女は足を止めない。急いで階段を駆け下りようとスカートを摘まんだが、間に合わない。
「待ってください、王女殿下!」
だから思わず声を張り上げたなら、くるりと、目的の人物が振り返った。
それに安堵しながら、急いで階段を駆け下りる。
「お呼び止めして申し訳ございません。ですがどうしてもお会いしたくて声をかけてしまったのです。どうかご無礼をお許しください……王女殿下」
あぁ、なんて無様で至らない挨拶だろう。もっと綺麗に髪を纏めて、綺麗な格好で来るんだった。まるでこの人と合わせ鏡であるかのように……いや、違う。そうじゃない。自分は王女になりたいわけじゃないはずなのに、何を思っているのか。
ヴィオレットの記憶では、最後に会ったのは八年半前。
あの時ヴィオレットもまた、謁見室で何ら臆することなく国王に苦言を放ち、凜と背筋を伸ばして背を向けた元王女に強い憧れを抱き、恐怖の象徴でしかなかった母の後ろからうっとりと去ってゆく王女の後姿を見つめ続けていた。
彼女は覚えているだろうか。ベルテセーヌの王城で、初めて挨拶した日のことを。最後に出会ったあの日の邂逅を。
彼女は一体、ヴィオレットに何という言葉を……。
「どこのどなたとお間違えなのか知らないけれど。本来であればまだ城の外にいるはずの皇太子殿下の婚約者が、皇王陛下への謁見に来た国賓を私的に呼び止めるのは褒められた行為ではないわよ。見なかったことにするから、もうお行きくださいな」
だけど返ってきたのは、この上なく不愉快そうな面差しと、思いにもよらない淡泊な返事だった。
もしかして、突然呼び止めるだなんて無礼を働いたせいだろうか。それともやっぱり、ヴィオレットがアルトゥールと結婚することになったせいで……。
「ご無礼は承知の上なのです!」
だから急いでそう言い訳した。これが失礼なことは分かっているが、なんとしてでも弁明したい。その気持ちが伝わったのか、じぃっとこちらを見つめる視線が彼女の足を引き止めている。この機会を逃す手はない。
「どうか一目だけでもお会いして、お話を聞いていただきたくて。あの、私、殿下には小さな頃にお目にかかったことがあるのです。覚えていらっしゃいませんか?」
まずは思い出して、警戒を解いてもらうのが先決だ。だからそう親しみを込めて声をかけたのだが、何故かその言葉には王女の傍らの誰とも知らない男性の、「殿下のご婚約者とご面識がありましたか?」なんていう無粋な言葉に阻まれてしまった。
そういえば先ほどは王女にばかり目がいってちゃんと確認しなかったのだが、一緒にいる男性は誰だろうか? 王女の“運命の相手”はアルトゥールだったはず。だから恋人や夫の類ではないはずなのだが、それにしては随分と馴れ馴れしい様子だ。
でもこれだけ“美形”ってことは、モブでもないはず。
「いいえ、初対面だと思うのだけれど」
そんな誰とも知らない人じゃない。こっちを見て、私の話を聞いて欲しい。こっちは胸がぎゅっとするような思いを堪えて話しかけているのだから。
「いえ、王女殿下とは以前……」
「ねぇ。貴女が私を“王女”と呼ぶのは、クロイツェン風の“嫌み”なのかしら? 到着早々、大した洗礼ね」
「え?」
だが返って来たのはあまりにも思いがけない言葉で、一瞬、何を言われたのかさえ分からなかった。
嫌み? 何故? それにクロイツェン風とはどういう意味なのだろうか?
首を傾げると、たちまち王女は一つ不満そうにため息を吐いたものだから、思わず咄嗟に「ご、誤解ですッ!」と声をあげた。何の事かは分からないが、嫌みだなんてとんでもない。
「私はただ心から王女殿下にっ」
だが弁明しようと必死に開いた口は、「王女?」と言いながら背中に振ってきた婚約者の声にたちまち噤まされてしまった。
アルトゥール皇子……早すぎるっ。相変わらず目ざといったらありゃしない。
それに、しまった。確か王女は王女であったことを隠している。ヴィオレットも小さな頃、国王に召集され、“王女の死”に関して決して語らぬことを神々の前で誓約させられた。王女は死に、彼女は公女となったのだ。
まぁ、ヴィオレットには信心なんてものはないから、誓約なんてどうでもいいのだけれど。
でも原作ではアルトゥールがそれを知るのもっとずっと後で、親友がずっと胸に秘めてきた隠し事にショックを受け、だがそれを受け入れ合い、彼らは悲劇を乗り越えるための愛を語らい合う……あの美しいシーンを実現させるには、ここでヴィオレットが余計なことを言うわけにはいかない。
だからそれを取り繕うべく、『いえ、言い間違いました』と口を開こうとしたのだけれど、それよりも早く、王女自身が「トゥーリ、城の管理が成ってないわよ」という言葉で完全に無視をした。
そのあまりにも淡々と否定する言葉がなぜかショックで。同時に、一国の皇太子相手に随分と気さくに話すのだと驚いた。
「すまない、リディ。事故が起きたようだ」
ましてやアルトゥールの続けた言葉には、ずくりと胸が握りつぶされたようだった。
リディ……彼女は殿下に、愛称で呼ばれているのだ。なんて仲が良さそうなのだろう。
「手順を違えたことは俺から詫びる。ヴィオレットは随分と君に会いたがっていたのに、俺だけ会ってしまったから、叱れないんだ。ちょっと目こぼししてくれ」
「目こぼしって……」
何を言っているの? と言わんばかりの嘆息交じりの微笑みに、アルトゥールが小さく笑った気がした。滅多に笑ったりする人じゃないのに……気のせいだろうか?
目の前で言葉を交わす二人の姿が、どこか遠い。そう……これは嫉妬だ。
でも自分は今、どちらに嫉妬しているのだろうか? 祖父に罪があるにもかかわらずリディアーヌに親しく接してもらえているアルトゥールに? それとも明日、契約とはいえ結婚するはずの恋人と親しすぎるリディアーヌに?
彼はリディアーヌの両親の死に関与した現皇帝の孫だ。それなのに軽口を聞き合う友人同士だなんて、有り得るのだろうか? いや。そもそもこの時点で、彼女は本当にアルトゥールに心を開いているのだろうか?
何しろ、二人の再会の時期はヴィオレットのせいで狂ってしまっている。もしかしたら、まだその時期ではないなのかもしれない。
「ヴィオレット、皇王陛下に謁見に参った国賓を留め置くのは体裁が悪い。もういいいか?」
「はい……大切なお客様に失礼を働いてしまいました。申し訳ありません」
言葉を尽くさずとも理解し合っているかのような二人のやり取りに、むしろヴィオレットの方が、早くこの状況から抜け出してしまいたかった。
やはり話すなら、王女と二人きりじゃないと駄目だ。
「トゥーリ、こんなことで私に時間を割くよりも、もっと他にヴィオレット嬢を紹介すべき相手がいるんじゃないかしら?」
王女は自分ではなく、彼との会話を望んでいる。
「君達以外に礼儀を冒してまで俺が取り込まねばならない人物が他にいるとでも?」
入り込めないような空気があって、まるで異物はヴィオレットの方だと言われているかのような、妙な惨めな気分だ。
「例えば、セザール王子とか? 私にも“すぐに会いたい”だなんてお誘いが来ていたわよ」
自分とは関係のない話に、半分ほどしか会話に意識を傾けていなかった。だがさすがにその名前には、キョトンと顔を上げて目を瞬かせてしまった。
セザール……セザール? 誰だっただろう? すぐに思い出せない。“王女の夫”の名前ではない。それは忘れもしない、ちゃんと覚えている。彼女達の助けとなる優秀な王弟殿下の名前でもない。当然、あの愚かな元婚約者クロードの名前でもないし、彼の同母弟のザイードでもない。
あぁ……そういえばもう一人、印象の薄い王子がいた。結婚式にはベルテセーヌからも王族が来ると返事があったという話は先だって聞いていて、皆が『どの面下げて』とピリピリしていることは知っていた。だがそれでも特に感情が巻き起こらなかったのは、その時にも聞いたはずの“セザール”という人物に、何ら印象が湧き起こらなかったせいだ。
なのに王女はセザール王子と“会いたい”と連絡がくるような仲だと?
うぅん……どういうことだろうか?
「あ……」
いや、そういえば小説にもその王子は出てきた気がする。他でもない、クロード王子失脚の過程で内部からそれに加担して、廃嫡されていた王子を救い出す手助けをした王族がいたはず。それがセザール王子ではないだろうか。
そしてその廃嫡された元王子こそが、小説においてヴィオレットの運命の相手だった王子だ。
たしか、幼い頃に忘れられない時間を過ごしたことのある思い出の王子――なはずなのだが、当のヴィオレットにとっては印象が薄い。”すみれ”としての記憶が混じっているせいだろうか。
この結婚式も、そこに帝国中から様々な人が集まることも、原作にはないイレギュラーなのだが、しかしまさかこんな形で元王子を救い出すキーマンと接触することになるとは思わなかった。だが危険視することは無い。多少状況が変わっていたとしても、そのセザールという王子は紛れもなく、ヴィオレットやリディアーヌの“味方”だ。少なくともベルテセーヌの現王権派の人間ではない。
はぁ……何やら少し感激だ。自分の知らぬところで、しかし物語はちゃんと正しい方向へと進んでいるのだ。リディアーヌ王女と反現王派の王子の密会だなんて、まるで小説の舞台裏を覗いているかのようではないか。
「じゃあ。非公式な対面はお互い不本意でしょうし、私はもう失礼するわ」
あっ。行ってしまう。そんな。今の件をもっと聞きたいのにっ。
思わず足を踏み出しかけたヴィオレットに、そっとアルトゥールが手を上げ、「あぁ、また後で」とヴィオレットを止めた。
あぁ、去ってゆく後ろ姿まで、颯爽としていて素敵だ。
なのにどうしてこの再会は、理想としていたものにはならなかったのだろう。一体どうして。何が原因なのだろう? やっぱり、この結婚のせいなのだろうか?
いいや、諦めるのはまだ早い。フォンクラークの元王太子の件だって、原作とはかなり変わったのに何とか落ち着くべき所に落ち着いたじゃないか。リディアーヌ王女とだって、事情を話せば誤解も解け、理解し合えるはず。今はまだ警戒されているようだけれど、きっと王女とも親しくなり、ゆくゆくは協力関係になれるはず。
「ヴィオレット?」
「っあ……すみません。思わず後姿に見惚れてしまって」
「見惚れる? ふっ。相変わらず、変なことを言うんだな。今言うべきことは他の言葉じゃないか?」
「勝手をしてすみません?」
「いいや、それはいい。俺に君の行動を制限する権利はない。君は好きにしていい。止めるべきことはちゃんと止める」
その言葉にほくりと顔をほころばせる。
それはただのそういう”契約”だからにすぎない。なのに彼は律儀に、約束の通りに、ヴィオレットの自由を尊重してくれる。一見利害で動いていそうなのに、その実、彼は契約相手に嘘を吐かない。その誠実さが胸をときめかせるのだ。
「冷たくされた割に、元気だな」
「今は誤解があるだけです。きっとリディアーヌ殿下のお心も溶かして見せますから、ご安心ください。私、得意なんです」
「ふっ。無用の心配だったようだな。ベルテセーヌの王子の名を出され、少しくらい動揺しているかと思ったのだが」
「あ」
そういえば、そうだ。元々故郷という印象も薄いせいか、注意が足りなかった。もう少し気にする素振りくらいは見せるべきだっただろうか。
「気にはしています。ただ私、セザール様とは殆どお会いしたことがなくて。意外にも殿下が親しそうで驚きましたれど、でもそんなに悪いことでもないかと」
「ヴァレンティンとベルテセーヌの関係を極力絶ちたい俺からすれば、十分に悪いことなのだが?」
そういうものだろうか? でもヴィオレットには、無理にヴァレンティンとベルテセーヌの関係を絶たねばならない理由が分からない。だってリディアーヌ公女は、リディアーヌ王女なのだ。王位を奪った今の王を恨んでいるはずだし、それにどうせいずれ今の王権は転覆する。
原作では隣国の混乱にリディアーヌ王女はいい顔をしなかったような描写があった気がしないでもないのだが、しかし最終的にはそれで王女を支持する元王子が復権するのだから、問題はない。
アルトゥールはその未来を知らないから、無駄に警戒をしているのだろう。
「いえ、大丈夫ですわ。むしろ彼は現王の断罪に必要な人材ですから、大事にしないと」
「そうか。君が言うなら、そうなんだろう」
さわさわと髪を撫で、皇子宮に戻るよう促す手に押されるままに歩き出す。いつまでも髪を撫でる手が恥ずかしくて、微笑まし気にこちらを見る皆の視線が気になる。
「あ、あの……殿下。手……」
「誰も気にしない。賓客も集まっているし、契約と知られないよう多少噂になるくらいがちょうどいいだろう。それより、名前で呼ぶんじゃなかったのか?」
「それはっ」
ううっ。確かに、もうすぐ結婚するんだし。名前で呼ぶべきだ、って。そんな話を昨夜したけれど。でもやっぱり、なんだか恥ずかしくて。
「……ア、アルトゥール」
やっぱり恥ずかしい。アルトゥール、なんて。名前が長いせいで恥ずかしさも倍増しだ。
「あの……やっぱり、ただの契約ですし……」
「バレバレの契約なんて逆に非難の的だろう。名前くらい大したことじゃない」
「……じ、じゃあ、せめて……愛称で呼んでも、いいですか?」
立派な名前をしっかり言うより、もしかしたらハードルが低いのではなかろうか。そう思って問うた言葉に、「愛称?」と首を傾げたアルトゥールは、少し考え込んだ後、耳元に顔を寄せ、「何と呼びたいんだ?」と問うた。
無駄にかっこいい所作は心臓が壊れそうになるので止めて欲しい。
でも、どうしよう。愛称……愛称。自分で言っておいて何だけれど、やっぱりいくらなんでも馴れ馴れしすぎただろうか。
「いえ……やっぱり……」
「言ってみろ、“ヴィオ”」
あぁもうっ。恥ずかしいッ。
恥ずかしいけれどっ。
でも、王女とは愛称で呼び合っていた……それを思い出すと、なんだか胸がもやもやして。
王女はなんて呼んでいた? トゥーリ? それが彼の愛称なのだろうか。でも他人と同じなんて嫌だ。私だけの愛称がいい。
そう。だったら……。
「……アル」
短い響きのこの愛称なら、呼ぶハードルもちょっとは低いし。それに、王女とも違う。私だけの、彼を呼ぶ言葉……。
「あの……“アル”というのは、駄目ですか?」
あまりにも捻りの無さすぎる愛称は、お気に召さなかっただろうか。口を噤んだアルトゥールに緊張したけれど。
「いや、いい……そう呼ぶといい」
ふと口元を緩めてそう言った“アル”に、ぱぁっと顔がほころんだ。
我ながら単純だ。単純だけど……でも、幸せだ。
「はいっ。ではそうお呼びしますね。アル」
ニコリと微笑んだ婚約者に、ちょっと恥ずかし気に頬を染めながら、そっと身を寄せた。
私だけの特別な名前だ。
そのことにほくほくと、どうしようもなく頬が緩んだ。