1-3 議会報告(1)
それから十日が過ぎた頃、ようやくこの大公国の主である大公ジェラールが帰国した。
一国の統治者たる大公殿下であり、また皇帝選出権を担う選帝候閣下でありながら、質素な革の鞍の騎竜に荷物と一緒にまたがって大通りをのんびりと行く様子は間違っても国主には見えなかった。
伸びた髪を無造作に革紐で結わえ、出立前に綺麗にされたはずの無精髭が再び伸びて、ついでに豪奢な国章入りのマントが今にもずり落ちそうに肩に引っかかっている様子にはハラハラとしてしまう。周囲の騎士達が立派な分、ある意味遠目でも一際目立ってはいるが。
だが国民もそんな大公様には慣れたもので、驚いた様子もなく、ただ帰国を祝う盛大な出迎えの列が出来ている。その間をゆっくりと時間をかけて上ってきた叔父は、城門を潜り、城の表で出迎えていたリディアーヌとフレデリクを見た瞬間、威厳すら脱ぎ去って破顔なさった。
「おかえりなさいませ。長旅ご苦労様でした」
「はぁ……我が家、最高……」
「お養父様ったら……せめてお部屋に戻るまでは取り繕ってくださいませ」
そう苦言を溢しながらも自ら地竜の轡を取ってあげたリディアーヌに、颯爽と竜を飛び下りた叔父がぎゅうぎゅうと抱き着いてきた。
「今戻った、リディ。留守居役、ご苦労だった」
「お養父様も。でもお言葉だけ立派でも行動で台無しですわ。あと、お髭が痛くってよ」
チクチクとするチークキスから逃げ出すと、叔父が残念そうに自分の無精髭を撫でた。
しかしすぐにリディアーヌの後ろからチョコンと顔を出したフレデリクを見つけるや否や、先程以上のデレデレ顔で反省もなく抱き着いた。
「おーっ、デリクも出迎えてくれたのか。どれ、大きくなったかな」
ぐっと抱き上げた叔父に、何度も丁寧なご挨拶の練習をしていたフレデリクが慌てふためいている。まったく。
「折角ご挨拶の練習をしていたのにね、デリク」
「ふふっ。でも帰ってきて下さってとっても嬉しいです。養父上」
そうぎゅうと叔父に抱き着き返したフレデリクは、本当にいい子である。ただそこで、「だよなぁ」とデレた顔で頬ずりしている叔父には聞かせないで欲しかった。慣れている臣下達の生暖かい視線が身に沁みる。
だがそんなリディアーヌの周囲を見渡す視線の中に、キョトンと驚いて立ちすくんでいる帝国風の装いをした二人の人物が目に留まってしまった。
叔父様ったら……お客様がいるんじゃないの。恥ずかしい。
「ようこそ、フォレ・ドゥネージュ城へ」
フレデリクに頬ずりしながらだらしのない顔になっている叔父から視線を妨げるべく立ちふさがり挨拶をすれば、二人の内の文官風の恰好をした一人が察しよく前に出て礼を尽くした。
確か以前皇帝陛下にお目にかかった時に見かけたことがある。皇帝側近の一人だ。
「拝謁致します、ヴァレンティン公女殿下。このたび皇帝陛下の命を受けご同行させていただきました、帝国院内皇庁所属ゼーレマンと申します。こちらはザイツ卿です」
ザイツ卿は、ピシリと踵を揃えて胸に手を当て頭を垂れた仕草を見ても、文官風の格好とは裏腹な武官としての印象を受けた。ゼーレマン卿の護衛として来ているのだろう。
「陛下のご用向きはまた後日、場を整えてお伺いいたしましょう。今日はどうぞ、ゆるりと旅の疲れを癒してくださいませ。お部屋を準備させますわ」
そう控えていた侍府長に視線を向け二人を案内するようにと指示を出すと、ゼーレマン卿も察しよく、「ご配慮感謝いたします」と従ってくれた。
本当ならば叔父がしゃんとして威厳を見せる所なのだが、帝国議会での自由奔放な叔父を知っているゼーレマン卿らが気にした様子もなく接してくれたのは不幸中の幸いである。
「お養父様、お客様を放り出すだなんて」
「皇帝に押しつけられて勝手についてきただけなのだから、あれは客じゃない」
「皇帝“陛下”でしょう? 学び盛りのデリクの前での失言はお控えになって」
中々言動を改めてはくれない叔父だけれどこの言葉は響いてくれたらしく、傍らの少年を気にしたそぶりを見せると、「皇帝陛下」と言い直した。
「とにかく報告会だ。リディアーヌ、全高官ならびに担当官を一時間後に議場に集めろ」
例年なら、疲れたから報告は明日にしよう、だなんて言い出すのに珍しい。これは何やらよほどのことがあったのではなかろうか。
「すぐに仕度いたします」
そう頷いたリディアーヌに、叔父は城内へと向かいがてら、ポン、と何故か頭をひと撫でして行った。
何事だろう?
◇◇◇
ここ、ヴァレンティン大公国は、大公の役割上、多くの政務機関を置く。
政務を統括する議政府を頂点に、大公国の内政を担当する内務官と、選帝候家としての外政を担当する外務官。内務官の下に八省三院と四小府。他にも細々とした部署があるが、およそアセルマン候をはじめとする議政府の議政官上席者と、内務外務十三部署の長、侍府長・騎士長・内衛長・外衛長・学府長らを加えた二十二名が国の重臣になる。
帝国議会後の報告会ではこれに加えて副官やなんやと議会に参加していた外務官達、それに大公ジェラールやリディアーヌの側近が加わり、近衛府の参謀、司法院の立会人、議政府の書記官なども参加するので、総勢は五十名を超える。その準備は前もってしておかねばならない。
無論その点に手抜かりはなく、すでに机には事前に届いた書類を精査した上でまとめた報告書が並んでいるが、旅の汚れを落とした大公本人が側近らを引きつれてやってくるまでの短い間、リディアーヌはたった今彼らが持ち帰った残りの書類を確認して、どう対処するのかの指示を出さねばならない。
なので叔父を居城の前までお見送りすると、お姫様にはあるまじき速度で本城の大会議室へ向かい、早速机いっぱいに書類を広げて仕分けをしていたアセルマンの隣に並んだ。今年も実に膨大な量である。
「あら、叔父様宛の恋文」
書類の中でも大公個人宛ての手紙の類は臣下がおいそれとは覗き見ることができないため、身内であるリディアーヌが最初にしなければならない確認だ。その中に、いつもなら議会中にすべて放り捨ててしまって残らない私的な手紙が紛れ込んでいた。
それどころではないと分かってはいたけれど、好奇心には敵わない。そそくさと封を切って便箋を取り出すと、たちまち紙とインクの匂いばかりだった部屋に甘ったるい香水の匂いが広がった。これは強烈だ。
「むふっ……ごほっ。ごほっ……」
「姫様、何を遊んでおいでですかな?」
「遊んでなっ、ごほっ」
しばらくむせている内に、ようやく香りが霧散してくれた。
一体こんな凶器を忍ばせたのは何処の誰か、と封筒の差出人名を確認したら、よりにもよって皇帝陛下のご尊妹にしてクロイツェン皇国先王の皇女殿下のお名前だった。
「ひっ……叔父様、ついにとんでもないものを引っかけて来たようよっ……」
「……エリーザベト皇女殿下でございますか」
横から覗き見たアセルマンも名前を確認すると一つ目を瞬かせ、次いで首を傾けた。
「はて。殿下は私の妹とカレッジの同級だったはずですから……そろそろ五十に届かんという年の頃かと思いますが」
「ひっ」
うちの叔父が四十三。年齢差として無くはない話なのかもしれないが、五十を前にした貴婦人が寄越すにしては品も礼節もない手紙だ。頭が痛くなる。
もしかして、帝国から付いて来てしまったお客様はコレの件なのだろうか? なんという面倒臭い物を……。
いや、しかし仮にも皇帝陛下の妹君が心を籠めて書いたお手紙だと思うので、丁寧に封筒に戻して、未だ空席の叔父が座るべき席の目の前に置いておいてあげた。皇女殿下に慮ってのことである。決して、香水まみれの面倒な手紙を持ち帰ってきた叔父に腹が立ったからではない。
そうこうしている内に、湯を浴びてきたらしい叔父が、まだ若干濡れたままの髪をカシカシと拭いながらやってきた。大事な会議に出るとは思えないほどの軽装で、だらしなく胸元のボタンを開け切っている様子はきっと部屋を出た時そのままなのだろう。リディアーヌは慣れているが、いくらなんでも居並ぶ重臣達の前で気を抜きすぎである。
たまらず追いかけてきたメイドをとっつ構えた侍女長が怖い顔をして、「しゃんとなさいませ」とタオルを奪い、上着を差し出した。叔父はそれを嫌そうに一瞥しただけだったけれど、侍女長の後ろでリディアーヌがニコリと微笑んであげたなら、流石に気まずそうに一つ二つ、ボタンを留めてくれた。上着に袖を通す気はないらしい。
まぁ……ちょっとはましになったか。
「おい、リディ……この手紙は?」
「さぁ? 高貴な方からのお手紙のようですし、お養父様がご自分でご対処なさるのが宜しいのではありませんか?」
早速自分の席に置かれた手紙に気が付いたらしい叔父は顔色を濁して佇んだ。
一度開封したせいで香水の香りが漂っていて、身を清めたばかりの叔父には触りたくもない類の物のようだ。無論、知っていてそこに置いたのだが。
「リディアーヌ……」
どうやら触るどころか近づくのさえ嫌らしい。おろおろと立ち竦んだあげく、なんとも情けない顔でリディアーヌに助けを求めてきたものだから、つい苦笑が溢れてしまった。ちょっと気が晴れた。
「コラリス侍女長。大公様が席に着けずに困っているようだから、お手紙を回収して、お部屋に届けてあげてちょうだい」
ちょっと待てと言わんばかりに叔父が視線を寄越したけれど、よくできた侍女長は弁えていますとばかりに銀盤に手紙を回収した。そのまま腹心の侍女に手に託され、会議室から持ち出されてしまう。
「私にアレをどうしろと?」
「どうとでもお好きになさると宜しいのではありませんか?」
「いやいや、アレが義母になどなった日には、お前にとってもこの世の終わりだぞ」
う……うん、なるほど。そう言われると確かに心が揺れる。
「そのご様子ですと、今年も色良いお話は聞けなさそうですね」
「何を言う。君達のお父様が君達だけのお父様でいてくれるんだから、もっと喜べ」
「成人した娘に一体どんな反応を求めているんです?」
まぁ、女性にうつつを抜かして内政を疎かにされたり、下手な義母を連れてこられて折角の平穏な家庭が乱れるよりははるかにましだけれど。
そんなどうでもいいような雑談をしている内にも、慌ただしかった机の上の整理が片付いたらしい。「よろしいでしょうか」と声をかけたアセルマンに促されるようにして、報告会は幕を開いた。
報告会は例年、決まった順序に従って行われる。
そもそも帝国議会は決まった日程に則って決まった内容について話し合われるので、毎年大きな異同はない。まずは同行していた外務官から、今年の帝国議会で既決された内容の告知と、選帝候議会の方であがった議題と採択が報告されてゆく。
どれもこれもすでに皇帝裁可が下った内容なので、多少説明を求めることが有っても議論せねばならないようなことはない。議論したところで無意味だからだ。
そうして既決済みの内容が淡々と報告されると、今度は大公留守中の領地のことを議政府の長であるアセルマン候が報告する。一応留守居役の責任者はリディアーヌだが、リディアーヌはアセルマンの報告に多少横からどういう判断を下したのかを口添える程度である。
ヴァレンティン領は立地の割に豊かな土地なので、毎年さしたる問題が起こるようなことはない。多少問題があるとすれば、最近妙に物品の流通に南方や東大陸の品が増えていることと、城の裏山で雌の飛竜が営巣を始めたことくらいだろうか。その旨を報告し、情報収集の継続と密猟等の痴れ者が出て竜を刺激しないよう警戒していることを伝えておいた。
「何、飛竜だと? どこだ? どのあたりに営巣したんだ?」
ちなみに子供みたいにわくわくしはじめた叔父の言葉は、「それで次に」と続けたアセルマンによって一瞬にしてぶった切られた。相変わらずの関係で安心する。
ここまではいつも通り、順調だった。いつも問題になるのはこの先だ。
つまり、議会という公式の場以外で取り交わされた非公式のやり取りに関する内容だ。いつも大体ここで頭を抱え、時間を費やすことになる。
ましてや今年は目に見える形で帝国からのお客様がくっついてきた上に、厄介な手紙まで持ち帰ってきている。叔父が何かしでかしてきたのではとの不安もひとしおである。
「まず先程も報告いたしました七王家の一つ、シャリンナ王国国王の代替わりにつきまして、新王の動向ですが」
馴染みの外務官が淡々と報告する内容を耳に入れつつ、目の前の書類に目を落とす。シャリンナの先王はもう随分と老齢であったようだし、今代も少なからず親族間での骨肉の争いはあったようだが、およそ順当な者が王座に即いたようである。
シャリンナはこのヴァレンティン領とは大陸の西端と東端といっていいほど離れているので、新国王がよほどの暴君でもない限りはこの程度の情報で充分だ。
「新王は積極的な海上貿易の活性化を志しておられるようで、これまでほぼ無縁であった当国へ接触を図らんとする様子が多く見受けられました……が」
「そうだったか?」
興味すらなさそうに答えた叔父の一言が、外務官の言葉の続きを見事に代弁していた。
なるほど、この叔父が相変わらず無言で突っぱねて、あちらも取りつく島もないままに議会は終了したということだ。
ヴァレンティン大公は選帝候の一柱。領地こそ西の大陸の片隅の雪深い山地という辺境だが、帝国創建以来の家格と血筋を維持してきた家柄で、帝国に対する影響力は計り知れない。ゆえに毎年議会中、その当主に接触しようという人は膨大で、非社交的な叔父でなくたってある程度応対する相手は厳選しなければならなくなる。叔父とてその中の誰の優先度が高いのかくらいは分かっている。
ただ如何せん、叔父は本来こなせるであろう相手との交渉の十の内三つもこなしてくれればましな方だというほどの無精者だ。七王家の王すら袖にされるのだから、“難攻不落の氷壁”“絶対零度の大公殿下”などと噂されるのも仕方のない事である。
それに先日受け取った手紙で、叔父は皇帝と教皇、そして現皇帝を輩出している七王家筆頭クロイツェンの皇王に捕まっていると言っていた。上位三者に引っ張りだこにされていたのなら、他の新興王家の新王など記憶に残る暇もなかっただろう。
選帝候という皇帝選出権を担い、帝国議会にも歴然たる発言力を有している立場なので、およそどの王家も代替わりをすれば真っ先に選帝候とのパイプを築こうとするものなのだが……少しばかり、シャリンナの新王陛下に同情してしまう。
「シャリンナと他国との貿易トラブルは建国以来続いている問題よ。近年我が国でもシャリンナから近いエトリカ島やシドニール島の嗜好品が需要をあげているから、安全性の確保は他人事ではないわ。我が国に対して友好的に接しようとしているくらいなのだから、新王が南行路の海賊統制を促進してくれることを期待するところね」
「仰る通りです」
大公家の暫定跡取りであるリディアーヌからまともな返事が返って来たことに安心したのか、外務官もどこかホッとした顔をしている。いつもながら、議会に同行する皆には叔父が気苦労をかけているようで申し訳ない。
「外交部署と商工会との連携を密とし、シャリンナと積極的な交渉に当たれるよう、方針を模索してゆきましょう。いい機会だから、南方諸島から入ってきている物品のリストも欲しいわ。情報収集をお願い」
「かしこまりました」
その他の社交関連の報告は、どれも特に大事となるようなことはないものだった。我が家は当主が適当な分、若い外務官が皆とても頼もしいので、こちらからあれこれという前に充分な情報収集を行なってくれていることが多い。おかげでスムーズである。
しかし今年はそんな中でも一際若い青年に順番が回ってきた途端、周囲の外務官達までぴりっと顔色を引き締めた。どうやらよくない報告もあるようだ。
しかも珍しく叔父までもが顔色を濁していて、リディアーヌをチラリと見るなり、「さぁ、厄介ごとだぞ」と恐ろしいことを口にした。なんだこれ、怖い。
「えー、次は……バラチエ卿?」
「はい。七王家の一つ、ベルテセーヌ王国に関する報告です」
初めての大会議に緊張した面差しで、手元の資料をぎゅっと握りしめながら席を立ったバラチエ卿は、チラリとリディアーヌを見るとすぐに再び資料に目を落とした。
もしかしなくても、リディアーヌにも何か“関係がある”ことでも起きたのだろうか。恐ろしさに拍車をかけるから、そういう匂わせは止めて欲しいのだが……。
「本議会中、皇帝陛下からの認可があり、ベルテセーヌ王太子の婚約が発表されました」
「うん??」