0-1 序幕
帝暦六三一年、春――。
二つの大陸を制し長きにわたる栄華を誇り続ける帝国の、今もっとも煌びやかであろう皇城のプライベートテラスで、うす暗くなり始めた夕闇に身をさらす一人の淑女が、重苦しい空気に瞼を閉じた。
輝く月の光をそのままに編み上げたような髪が冷たい風に吹かれ、今にも風景に溶け込んでしまいそうな郷愁の中、ガラス玉のように透き通った瞳にけたましく輝きはじめた星の代わりにそっと二人の友人を見据えた。
夜が似合いの黒の髪の友人と、朝が似合いの金の髪の友人だ。
こうして並んでいると、ひどく懐かしく、楽しかった日々を思い起こさせる。
だが私達は変わってしまった。かつてのままでありたいと願い、かつてのように語らいあう一方で、口にできない胸の奥深くのつっかえが増えてしまった。
「貴方が誰を選んだとしても、貴方とは良き友でいたかったのに……」
どうか、この関係が絶たれないで欲しい。
どうか私から、この友を奪わないで欲しいのに。
私は今、二つの最愛のうちの一つを失おうとしている。
「リディ……」
乱暴に席を立ち言葉も無く出てゆこうとした背に、黒い髪の友人の、らしくもない数多の感情を飲み込んだ声色がかけられ、後ろ髪を引いた。
かつての親友を前にこのまま出てゆくには非情すぎて、けれど今はまともに顔を合わる気にもなれない。
「いい。そのままでいい」
それを察したのか、愁えているというにはこざっぱりとした吐息をこぼした。
「次に話す時は、もう少しだけ……そう。昔のように、また話したい。たとえ相容れないことがあっても、変わることなく真っ向から互いを尊重しあえていた、あの頃のように……」
昔のように……それがどれほど難しいのかは、彼が一番よく知っているだろうに。
「お前達は散々俺を、薄情だの真心がないだのと揶揄うが、これは本心だ」
ふと振り返った先で、振り返ったことを後悔した。
友人にだけ見せる、らしくもない微笑が胸を締め付ける。
別に、この友人を嫌いになったわけじゃない。突き放したいわけでもない。
なのにどうしても、心が咎めて素直であれない。
「俺の言葉を信じてくれないか? リディ」
“信じない”“ありえない”そう軽口を叩いて笑いあえていたあの頃の方が、きっと私達は素直で、真心に満ちていたのだろう。
でも今は嘘でも、そんな言葉を口にはできなかった。
「私はいつでも、貴方を信頼しているわ。なのにどうして今更、そんなことを聞くの? アルトゥール」
ただ少しだけ、かつての郷愁に微笑みを。そして叶わないであろう事実に愁えを帯びて。
そんな心にもない嘘を吐く。
最愛の友に、背を向けながら。
金の髪の友人がこの背を支えてくれなかったなら、きっと私は今この瞬間に、歩むべき方向を見失い、ただただ立ち竦んでしまっていたかもしれない。
縺れる足は、一歩、また一歩と踏み出すたびに重たく郷愁にからめとられてゆく。
その重苦しいほどに愛おしい郷愁が、今はただ、歩みを奪うための足枷になってしまった。
私達のしがらみは、もう決して元には戻らないほどに、絡まりきってしまったのだ――。
◇◇◇
ヴァレンティン大公国公女リディアーヌ・アンネレット・ジェム・ド・ヴァレンティンの人生には、幸福と同じほどに受難が多かった。
その人生を幸福に塗り替えてくれた二人の友人は、きっと人生の中でも家族の話の次に語るほどに大きな存在であり、そのことを否定するつもりはさらさらない。
黒の髪の友人アルトゥール・フォン・クロイツェンと、金の髪の友人マクシミリアン・フォン・ザクセオン。悲劇のどん底にいたリディアーヌを他愛のない時間で包み込んでくれた最愛の友である。
だがそうであるがゆえに、彼らとの決別は悲劇でもあった。
「こんな別れ方を望んでいたはずがないんだ。できる事なら、文句を言い合いながら、でもちゃんと祝福して、少し揶揄って、そして“またね”と声を掛け合いながら去るはずだった。そうであればいいと、願っていたよ」
せめてもの慰めは、金の髪の友人が、この手に残った最後のか細い繋がりを、まだ絶たれないで欲しいと望んでくれたことだった。
「私は君をこれ以上、曖昧な言葉で慰めたふりをして送り出したくないんだ。君はいつも何も言わずに私達を突き放す。ねぇ、リディ……これでも私はそれなりに、そんな君のことを、酷いと恨んでいるんだよ」
「それは……」
「いや、いいんだ。私はリディのそういう所も好きだから。でもね……」
涙の痕を拭う指先が、いつになく力強い。
歪んだ顔が、見たこともないほどに心からの哀感を孕んでいる。
「でも、不安にもならざるを得ないよ。だってリディ。君はトゥーリに別れを告げた時、私にも別れを告げた気でいたでしょう? 酷いよね……まったく」
「……だって。貴方は……」
ザクセオンのマクシミリアンだから。
彼には、そうする理由もあったはずで、それが不安だから、最初から傷つかない方を選ぼうとしてしまっただけ。なのに彼はいつだってこうやって、いとも容易く飛び込んでくる。
「お願いだ、リディアーヌ。これ以上、私から離れて行かないでくれ。私は何があっても、決して君を手放したりなんてしない。ずっと君の最愛の友であり続けるから。だからもう、私を不安にさせないで」
「……」
そんなのは大げさすぎるわ。
そう言いたかったはずなのに、口はただ空気を食んだだけで、言葉にしてはくれなかった。
もしかしたらリディアーヌも、知っていたのかもしれない。知っていて、でもそれに甘えたら抜け出せなくなってしまうことが分かっていたから、踏み出せなかった。
だって、すべてを知って、話してしまったら……そしたら“私達”はどうなってしまうのか。本当にそれで、彼を失わずに済むのか。
だって。だって……大切な人の死に、よもやザクセオンまで関わっていようものなら――。
「リディ――それでもまだ君は、君の抱えるその秘密を、打ち明けてはくれない?」
なんて馬鹿な人。
そしてなんて、馬鹿な私。
その顔に偽りがないことを、ずっと昔から知っていた。その深い愛情がどれほど尊いものであるのかも、知っていた。
でも怖かった。愛情が深ければ深いほどに、失った時の悲しみが大きなことを知っていたから。絶対に、この人だけは失いたくなかったから。
「ミリム……」
「うん」
「……やっぱり貴方は、馬鹿だわ、ミリム」
その話をして……それが安寧だとは限らないのだ。
だけどもう、無理だ。このままこの思いを一人抱え続けていたら、壊れてしまう。
もし真実を口にしたと知ったなら、今度こそ皇帝はこの厄介者を殺そうと思うだろうか。だから少なくともその時まで……皇帝が死ぬその瞬間までは、絶対に漏らしてはならないと、そう思って来たのに。なのに私はもう、それを望んでしまっている。
「ミリム……」
だから必死に。
駄目だと思う気持ちと、すべて話して解放されたいと思う気持ちと。
そのせめぎあいの中、少しだけの勇気に、背を押してもらって。
「ミリム……私は……」
どうかこの“賭け”が、私から彼を奪わせませんように――。
「私は、リディアーヌ……リディアーヌ・アンネレット・クリスティナ・ド・ベルテセーヌ――皇帝クロイツェン七世に両親を殺された、“墓の下の王女”よ」