『真実の愛』を目の当たりにすることになる公爵令嬢のお話
いい夢を見ていると思った。
そこは彼女、リティアーナがまだグレイヒュージ公爵家にいたころに過ごした私室だった。
懐かしかった。なにしろ、リティアーナがそこで過ごしたのは、60年近くも昔のことだ。
リティアーナは既に。ベッドから起き上がれない日の方が多くなるほどに老いていた。80歳も近づき、老い先短い身だった。
だが今の彼女は若かった。肌もしわ一つなく滑らかで、髪も輝くような艶がある。節々が痛み動くのも億劫なだった身体は、今はなんの苦痛もなく軽やかだった。姿見を覗けば期待通り、瑞々しく美しい、柔らかに微笑む自分の顔があった。
「おはようございます、お嬢様」
そう声をかけてきたのは侍女のハルティだ。この頃からずっとリティアーナに仕えてくれていた。真っ白になったはずの髪も、黒く艶がある。しわだらけになった顔も、しわどころか染み一つない。
すべてが若返っている。でも、変わらないものがあった。その顔に浮かべた朗らかな笑み。いつもリティアーナを暖かな気持ちにしてくれるその笑みだけは、若いころでも変わらない。そのことに、リティアーナはうれしくなった。
「ご機嫌ですね、お嬢様」
「ええ、とてもいい気分よ。まるで夢のよう」
夢の中にいると思いながら、「夢のよう」と口にして、リティアーナはなんだか可笑しくなり、笑みをこぼした。歌でも歌いだしたい気分になった。
「あらあら、お嬢様ったら。今夜の夜会が楽しみで仕方ないのですね」
その言葉に、楽しい気持ちが少し陰った。
この年頃で参加した夜会には、嫌な思い出があったのだ。
「ねえハルティ、今日の日付を教えてくれるかしら?」
念のため、確認してみた。
告げられた日付に驚き、今日が何年かも念のために確認した。
間違いなかった。老境に達していようと、忘れるはずがなかった。
夜会で、婚約者であり王国第一王子であるディタミナート・アンスタバルに、婚約破棄を告げられた日だったのだ。
いい夢だと思っていた。だがこれは、どうやら悪夢だったらしい。
リティアーナ・グレイヒュージは公爵家の長女として生まれた。
幼いころから公爵家にふさわしい高度かつ厳格な教育を受けてきた。彼女は持って生まれた能力と不断の努力によって、高い知性と教養を身に付けていった。
そんな彼女がアンスタバル王国の第一王子ディタミナートと婚約することとなるのは必然とも言えた。リティアーナはそれを公爵令嬢としての責務ととらえ、それにふさわしい振る舞いをしてきた。王妃となるための厳しい教育も、その才覚で問題なくにこなしていった。
すべてが順調だった。
だが、ある日の夜会で、彼女の順風満帆な人生な変わってしまう。
「わたしは伯爵令嬢トゥルーラと出会い、『真実の愛』を見つけました! 公爵令嬢リティアーナ、貴女との婚約は破棄させてもらいます!」
突然だった。一方的な婚約破棄だった。だが、リティアーナはその宣言に、反論することすらできなかった。
ディタミナート王子と伯爵令嬢トゥルーラとの間に感じられる、侵しがたいつながり。言葉にできない何かによって、リティアーナから非難を口にする意思すら持てなかったのである。
この事件は、リティアーナの心をひどく打ちのめした。
彼女の実家であるグレイヒュージ公爵家は、新たに縁談を持ちかけた。失意に沈むリティアーナは、言われるがままにその縁談に臨んだ。
縁談先は、辺境の国ミィアガルト。樹立してからまだ20年そこらの、豊かとはいえない国だった。しかし、活気に満ちていた。
縁談の相手である国王ジニアルは、有能で懐の広い人物だった。傷ついたリティアーナを受け止め、彼女の心を癒してくれた。本国から共に来てくれた侍女ハルティも、彼女のことを献身的に支え、明るい笑顔で励ましてくれた。
やがて彼女は心を開き、ジニアルと婚姻を結んだ。
リティアーナは夫を愛し、国民を慈しみ、ミィアガルト王国のために力を尽くした。
王家は国民のために働き、国民もまたそれに応えて奮起した。国は急速に発展していった。
ミィアガルト国に来たきっかけは婚約破棄という不幸なものだったが、王妃となってからの彼女は幸せだった。力を尽くし、その成果が認められ、誰からも愛された。
そんなリティアーナもやがて老境に達し、身体の自由が利かなくなってきた。後のことは子や孫たちに任せることとなった。
満ち足りた一生だった。
だが、ひとつだけ心残りがあった。
ディタミナート王子の迎えた無残な結末のことである。
ディタミナート王子はリティアーナとの婚約破棄後、伯爵令嬢トゥルーラ・ティムドミナを娶った。
それが破滅の始まりだった。
伯爵令嬢トゥルーラは、グレイヒュージ公爵家の敵対派閥に属していたのだ。
グレイヒュージ公爵家の令嬢を差し置いて、敵対派閥の令嬢が王妃の座についてしまったのである。当然、グレイヒュージ公爵家の反発を招くこととなった。
グレイヒュージ公爵家は、王家に比肩する権力と資産を有する大貴族である。
自らを蔑ろにされた公爵家は、王家への援助を大幅に減らした。公爵家と懇意にしていた大商人も王国での商売を縮小した。王国の経済状況は急速に悪化していった。
経済の下降に伴い、国は乱れ始めた。
貴族の離反。反乱。民衆の抗議。暴動。様々な問題が持ち上がり、多くの犠牲者が出た。その対応のため王家は疲弊していった。王家はそれでも粘り強く対策を続けたが、やがて限界が訪れた。
最終的に、ディタミナート王子はこの混乱の元凶として、多くの罪をかぶせられた。そして、公衆の前で、斬首された。実に惨たらしい最期だったという。
アンスタバル王国は、実質的にグレイヒュージ公爵家が支配する国となった。
リティアーナの嫁ぎ先であるミィアガルト王国は、アンスタバル王国と国交を結び、両国は大きく発展した。
リティアーナは悔やんだ。
ディタミナート王子は恋の熱に浮かされ、『真実の愛』などという戯言を宣い、誤った判断をした。
もし、婚約破棄を告げられた時。彼女が毅然とした態度で拒んでいれば、ディタミナート王子を思いとどまらせることができたかもしれない。
国の混乱によって何千人もの死者が出た。ディタミナート王子は公衆の面前で処刑された。そんな悲劇を、避けられたかもしれない。
ミィアガルト王国の王妃として満ち足りた人生の終わりを迎えようとしたとき。リティアーナにとって、そのことが心残りだったのである。
そして、リティアーナは今、婚約破棄を告げられた日にいた。
とても現実とは思えない。後悔の念が見せた夢かもしれないと思った。
ほおをつねると痛みがある。風がカーテンを揺らす音も良く聞こえ、ティーカップから立ち上る匂いが鼻腔をくすぐる。口にした紅茶は確かに熱く、口に含むと芳醇な香りが広がる。どれも鮮烈なものであり、夢の中特有の、どこか曖昧な感じはなかった。
部屋の中をあれこれ見回す。部屋に飾られた絵画も、お気に入りの花瓶も昔のままだ。宝石箱を開くと、記憶通りの指輪やネックレスがきちんと収まっている。忘れていた宝飾品もあった。夢にしてはどれも精彩で整然としていた。
仮にこれが現実だとすると、考えられるのは魔法だった。
アンスタバル王国では時を操る魔法についての伝承が多い。童話や伝説で、時に干渉する魔法の描写が散見される。現在でもその使い手が残っているという噂も耳にしたことがある。
だが、どれも憶測にすぎない。
夢の中にいる者が、自分が夢の中にいると証明することなどできはしない。
魔法によるものかもわからない。彼女は有能な公爵令嬢であり、魔法もある程度扱える。だが、時の魔法にかけられたのかとなると、調べる方法の見当すらつかなかった。
だが、どちらでもよかった。
これが夢であれ現実であれ、リティアーナは夜会の当日にいる。自由に動く若い身体を持っている。ならば行動あるのみだ。
まず、王子に会わねばならなかった。このころは確か、王子と会う機会が減っていた。その時点で異常に気付くべきだったが、今それを悔やんでも仕方ない。
夜会の席で婚約破棄を宣言されてしまえば、事態の収拾は困難になる。その前に会わなければならなかった。
婚約者とはいえ、事前の約束も無しに王族との面談を取り付けるのは簡単ではない。まして今夜は王家主催の夜会がある。
だが、リティアーナは、数十年を王妃として政務に励んでいた。国は違っても、王家の命令系統や臣下の配置と権限の範囲については見当がついた。その見識と公爵令嬢としての権力を駆使し、どうにか面談の約束をとりつけた。昼過ぎに、王宮の一室で、ディタミナート王子と会えることとなった。
「こんにちは、リティアーナ嬢」
部屋に入ると、王国第一王子ディタミナート・アンスタバルその人が出迎えてくれた。
細身ながらしっかりとした体躯。ブロンドの髪に整った顔立ち。特に、凛とした強い意志を感じさせるまっすぐな瞳が印象的だった。物腰は柔らかだが、芯の強さを感じさせる佇まいだった。
将来、偉大な王になる事を予感させる、立派な王子だった。
だが、そうした印象は吹き飛んだ。
彼の私室には、もう一人いたのだ。
伯爵令嬢トゥルーラ・ティムドミナ。
腰に届くほど長く伸ばした銀の髪。瞳は深い黒。ほっそりとした身体に纏うドレスは白。
美しいその姿は、どこか現実味に欠けており、まるで幻想の世界の住人のようだった。
彼女はその在り方と、夜会などの催しに出る機会が少なく、社交界では『霧に浮かぶ幻影』と呼ばれていた。
婚約者であるリティアーナが、王子との面会を申し込んだのだ。急な申し込みとはいえ、正規の手順を踏んだものだ。
それなのに、他家の、それも敵対派閥に属する伯爵令嬢が同席するとは、異常な事態だった。
「お会いくださりありがとうございます、ディタミナート王子。それで、そちらの方は……」
「彼女は伯爵令嬢トゥルーラ・ティムドミナです」
ディタミナート王子が促すと、トゥルーラは言葉を発さず、貴族の作法に則った礼をした。
明らかに異常な状況なのに、二人にはまるで悪びれた様子がない。後ろめたさすらない。当たり前のようにいる。
ディタミナート王子の傍らに、トゥルーラが付き添っている。ただそれだけなのに、二人は通じ合っているように見えた。深い信頼で結ばれているように見えた。
その不思議な感覚に、リティアーナは憶えがあった。二人から感じられるこの得体のしれない絆みたいなもの。それに圧倒され、彼女は婚約破棄を言い渡されたとき、ろくに言葉を返すこともできなかったのだ。
あの頃のように呑まれてはいけない。あらためてリティアーナは覚悟を決めた。
「……なぜトゥルーラ様がこちらにいらっしゃるのですか?」
「本当は夜会の席で紹介しておこうと思っていました。彼女と出会い、私は『真実の愛』を知ったのです」
ディタミナート王子がトゥルーラの手を握る。トゥルーラは両手できゅっと握り返した。恋の初め特有の熱は感じられない。まるで10年以上連れ添った夫婦のような落ち着きがあった。
リティアーナは違和感を覚えた。ディタミナート王子はてっきり恋の熱に浮かされて判断を誤り、婚約破棄に至ったのだと思った。だがこの落ち着きぶりは、違う何かを感じさせた。
「婚約者の前でそのようなことをおっしゃるとは、どういうおつもりですか?」
「私はこのトゥルーラを娶ることに決めた。残念だが、貴女との婚約は破棄させてもらいます」
ディタミナート王子は、婚約破棄の言葉を口にした。
なんの躊躇いもなく、わずかな後ろめたさすらなく、まるで何年も前から定まっていたことのように告げた。
ただ、トゥルーラに向ける深い愛情だけが感じられた。
リティアーナはその在り方に圧倒されるものを感じた。これほどまでに強い意思と、深いつながりを前にしては、若いころの彼女が何も言い返せなくなったのも無理はない。
だが、彼女はあの頃と違う。50年以上、政務に励んだ王妃である。様々な困難に立ち向かい、一筋縄ではいかない貴族や商人達を何人も相手にしてきたのだ。
この婚約破棄を通しては、ディタミナート王子は破滅する。その過程で、何にもの人たちが不幸になる。
彼女はそれを防ぎに来たのだ。ここで退くわけにはいかなかった。
「……王子がトゥルーラ様を深く愛しているということはわかりました。ですが、王家と公爵家がかわした婚約破棄を、恋愛感情で一方的に破棄するなど、許されることではありません。側室として迎えるというのはどうでしょうか? 私はそれを許さないほど狭量ではありません」
リティアーナは初手で最大の譲歩を示した。
10代のあの頃では、とてもこんなことを言えなかっただろう。だが彼女は王妃として長年過ごしてきた。側室の必要性も理解していた。
婚約破棄によって王国が乱れることを防ぐためなら、その程度のことは受け入れるつもりだった。
だが、リティアーナの提案に対し、ディタミナート王子は首を横に振った。
「それではグレイヒュージ公爵家が黙っていないでしょう。彼女は公爵家の敵対派閥に属しています」
「公爵家は私がとりなします。トゥルーラ様にはつらい時間があるかと思いますが、それでも公爵家を完全に敵に回すよりはよほど……」
「そのように、公爵家のご機嫌をうかがうような王家であることが問題なのです」
「どういうことです?」
「婚約破棄という手段をとるのは、トゥルーラを娶るためだけではありません。王家と公爵家の癒着を断ち切り、王家の在り方を正すことも目的の一つなのです」
リティアーナは驚きに目を開いた。一瞬、言葉を失った。
ディタミナート王子は恋に溺れての判断を誤ったのだと思っていた。
だが彼は、最初から公爵家との対立を覚悟していたのだ。
「……本気ですか? 公爵家を敵に回して、この国がどうなるのか、本当におわかりなのですか?」
「すべてを承知し、覚悟しているつもりです」
リティアーナはディタミナート王子の言葉が信じられなかった。
グレイヒュージ公爵家は、王国最大の貴族であり、王家に比肩するほどの権力と資産を有しているのだ。
それに完全に敵対することで、どれほどの苦境がもたらされるか。その困難を理解していたら、婚約破棄などという選択はできるはずがないのだ。
リティアーナは公爵家と敵対することでもたらされる破滅を語った。
公爵家からの援助打ち切り。大商人の抑圧。それに伴う経済の低迷。貴族の離反と造反。治安の低下。民衆の抗議と暴動。
それに対し、ディタミナート王子は答えた。
王家領地の切り崩しによる資金の確保。外部の商人の招集と経済低下に対する施策。問題のある貴族の粛清による体制の強化。騎士団の配置整備による治安の改善。経済緩和策による民衆の支持の回復策。
リティアーナが次々と挙げる問題に対し、ディタミナート王子はよどむことなく対策を答えていった。リティアーナから見て、彼の回答はどれも完璧とまでは言えない。だが、ある程度の効果の見込める現実的なものだった。
異常なことだった。ディタミナート王子は王族の教育を受けた優秀な第一王子だ。だが、まだ国の政治には本格的に関わってないはずだった。それなのに、まだ見ぬ未来の困難に対し、こんなにも落ち着いた態度で的確に回答していくのはありえないことだった。
だが、同時にリティアーナは奇妙な納得感を得ていた。彼女の記憶の中で、ディタミナート王子は最終的には公衆にさらされ斬首された。しかし、王子の政治体制は予想したよりずっと長く持ちこたえていた。その回答が得られた思いだった。
ひとしきり問答を終え、会話が途切れた。リティアーナとディタミナート王子はお互いに不審の目を向け合っていた。
「まるで経験したことがあるかのように答えられるのですね、ディタミナート王子」
「貴方の方こそ、まるで未来を知っているかのような質問をするのですね、リティアーナ嬢」
空気がピン、と張り詰める。
リティアーナは、ディタミナート王子も自分と同じように未来から戻ってきたのだと確信した。
彼はそのことを隠そうともしていない。むしろ、こちらから情報を引き出すために積極的に見せつけてきたようだった。
リティアーナにはその意図が読みきれなかった。
「今、特定しました。リティアーナ様の魂にわたしの魔力の残滓があります。彼女の魂は、わたしたちと共に時を遡ったのです」
重たい沈黙を破ったのは、これまで発言を控えていたトゥルーラだった。
リティアーナはその言葉に震える。伝説にある時の魔法。口ぶりからすれば、それを使ったのはトゥルーラのようだ。さすがにこれは予想外の事だった。
「やはりそうでしたか。リティアーナ嬢も時を遡ったというのなら、全てを話してしまった方がいいでしょう。下手に勘繰られる方が危険です。いいですか、トゥルーラ?」
トゥルーラがうなずくと、ディタミナート王子は語り始めた。
ティムドミナ家の人間は、稀に時空に干渉する魔法を持つ者が生まれる。
時を止める。時を進める。時を戻す。発現する魔法は様々だったが、いずれもが強力な効果を発揮する。
王国に伝わる時の魔法の伝説は、ティムドミナ家の祖先の行いが伝わったものだった。
伯爵令嬢トゥルーラ・ティムドミナの時空に干渉する魔法を持って生まれた。
その魔法は、自分の死後、自らの魂を過去に送ることができるというものだった。過去に送られた魂は、その時代に自らの魂と融合する。その際、現在と過去の記憶が統合される。
つまり、自分の死をトリガーに、現在の記憶を持ったまま過去へと戻ることができる。それが彼女の魔法だった。
彼女は幼いころ、馬車の事故で命を失った。その際、この魔法に気づき、死の運命を回避したのである。
ティムドミナ家の時空の魔法は秘匿されていた。その存在を知るのは、ティムドミナ家を除けば王家とグレイヒュージ公爵家だけだった。しかし、王家と公爵家とでは、その魔法に対する立場が違った。
王家は、国家の有事の際に役立つ強力な切り札と考え、時空の魔法を保護すべきと考えていた。
対して、公爵家は、国家の平穏を乱しかねない危険なものとして、時空の魔法を排除すべきと考えていた。
トゥルーラの魔法は、自らが申告しない限りそうそう発覚するものではない。だが、彼女はその魔法の強大さゆえか、自らの死を招く運命を持っていた。事故や災害に巻き込まれて命を失うことがたびたびあり、やむなく時を遡る魔法を使用した。
そうするうちに、トゥルーラの魔法はグレイヒュージ公爵家に気づかれた。もともと公爵家はティムドミナ家の人間を監視していたのである。
本来、自分が死ぬべき運命にあった事故や災害を巧みにかわすトゥルーラの魔法は、傍からすれば未来を予見する魔法に見えた。実際、彼女は未来の情報を過去に持ち帰ることができるのだ。
その危険性ゆえに、公爵家は秘密裏にトゥルーラの暗殺を謀った。
公爵家の手の者により、トゥルーラは幾度も命を奪われた。そのたびに時を遡り、自分の死を回避した。しかし魔法によって刺客の手をすり抜けるほど、公爵家はより彼女を危険視するようになっていった。
終わりの見えない不毛な争いの中、彼女は心身ともに摩耗していった。生きることを諦め始めたころ、ディタミナート王子に出会った。
ディタミナート王子は公爵家の不審な動きに気づいていた。そして、その主要人物と思われるトゥルーラに接触を図ってきたのである。
トゥルーラはすべてを話した。魔法の真相は話さないでいるつもりだった。だが、その時の彼女は自暴自棄になっていた。
「諦めないでください。貴女のことはかならず助けます」
王子の言葉に、トゥルーラは生きる希望を見出した。
そして王子は、公爵家と決別するため、公爵令嬢リティアーナ・グレイヒュージとの婚約を破棄した。そして、トゥルーラを守るために彼女と妃として迎えたのである。王妃ともなれば、公爵家も容易に手を出せないはずだった。
だがそれは、公爵家を完全に敵に回すこととなった。
公爵家は王子を失墜させるため、あらゆる手段で王家の力を削いでいった。
王国は乱れた。その政争の最中、先走った貴族に毒を盛られ、王子は命を失ってしまう。
もはやこれまでと諦め、トゥルーラはついに、自ら命を絶った。
死した後、魂になって、自分の近くに死した王子の魂があるのを感じた。この魂をつれて、共に時を遡ることができることに、彼女はこの時、初めて気づいたのだった。
こうして、ディタミナート王子とトゥルーラは、公爵家の手から逃れるために、時を繰り返すようになったのである。
公爵家の力は強大だった。二人は幾度も時を遡りながら、未だ状況を打開できないのだった。
リティアーナは真相を知り慄いた。
彼女もグレイヒュージ公爵家の人間だ。ティムドミナ家が敵対派閥に属し、公爵家が危険視していることは把握していた。しかしそれが時空の魔法に根付くものだとはしらなかった。
おそらく情報は秘匿され、公爵家でも一部の者しか知らないことなのだろう。公爵家の令嬢とはいえ、他国に嫁いだ彼女には知らされなかったのだろう。
「あなたたちは……いったい何度、同じ時を繰り返したのですか……?」
「貴女に婚約破棄を告げるのは、今回で17回目となります」
リティアーナの問いに、ディタミナート王子は寂しげに答えた。
その意味は恐ろしいものだった。リティアーナは、前の人生で、ディタミナート王子が斬首されるまでのことを知っていた。混乱する国内を治めるのには大変な苦労があるはずだ。苦しい時ばかりであっただろう。辛い選択を何度もしなければならなかったはずだ。国を背負う王族の重圧は相当なものだったはずだ。
並の人間なら一回で心折れるだろう。二回目に挑むだけでも大したものだ。しかしそれが17回目ともなると……とても正気の沙汰とは思えなかった。
あまりに壮絶で、そして悲しい運命だった。
そのことにリティアーナの心が震えた。しかし同時に疑問もわきあがってきた。
「……トゥルーラ様、なぜ私に時空の魔法をかけたのでしょう?」
「申し訳ありません。リティアーナ様を巻き込んでしまったのは、意図したことではないのです。わたしにも、原因はわかりません……」
「偶然……? でも、私は遠く離れた国にいて、何十年も先の未来にいたのです。そんなことがありえるのでしょうか?」
「うまく言えませんが……時空の魔法とは、時と場所の隔たりは無意味にすることがその根幹です。だから、場所の違いや時間のずれは、それほど問題ではないのです。ただ、その結果を明確にイメージすることが重要となります。ですから、リティアーナ様が魔法の対象になること自体は、そこまで不思議なことではないのです」
リティアーナは、トゥルーラの答えを吟味する。
時空の魔法の概念は理解が及ばない。それはおそらく、普通の時を生きる人間には理解できない領域なのだろう。
ただ、トゥルーラの言葉には気になる事があった。
「明確にイメージすること」と、彼女は言ったのだ。
「トゥルーラ様。私が巻き込まれたのは、おそらく偶然ではありません」
「え? でも……」
「貴女の魔法により、ディタミナート王子の婚約者である私が、婚約破棄の日に招かれた。これが偶然であるはずがありません。わたしには何か役目があるはずです。貴女は、わたしに頼みたいことがあるはずなのです」
リティアーナの問いかけに、トゥルーラは震えた。視線をさまよわせ、やがてなにかに気づいたように、はっと声を上げた。
そしてリティアーナに縋りつくと、叫んだ。
「ディタミナート王子と結婚してください!」
「え!? ……ええ、そうですね。事情を知る私が王妃となれば、公爵家をある程度は抑えられるかもしれません。それでもあなたの身の安全を図るのはたやすくは……」
「違うんです……わたしのことは、見捨ててください!」
「トゥルーラ! 何を言い出すんだ!?」
これにはさすがにディタミナート王子の制止の声がかかった。
だが、トゥルーラはひるまず、リティアーナへ言葉を続けた。
「わたしは何度も何度も……何度も! わたしのためにディタミナート王子が苦しむ姿を、惨たらしく死んでしまう姿を、見てきたのです……!」
トゥルーラの瞳から涙がボロボロとこぼれた。
耐えきれず、彼女は床に崩れ落ちた。
「もう耐えられません……わたしが死ねばいいのです……事情を知ったリティアーナ様がいてくれたら、わたしは安心して死ねます……どうか、どうか、お願いします!」
そうして、トゥルーラは床に着くほど深く頭を下げた。
ディタミナート王子は覆いかぶさるようにトゥルーラを抱きしめた。
「だめだよ、トゥルーラ。君がどれほど望もうと、その願いだけは聞けない」
「ディタミナート王子……繰り返す時の中で、あなたに十分過ぎるほど愛していただきました……だからもういいのです……あなたは生きてください! 生きて、生きて……しあわせになってほしいのです……」
「私は、何度も死んでみてわかりました。私にとって、本当の意味での死とは、君と別れることなのです。私を生かしたいと思うのなら、どうか諦めないでください。私といっしょにいてください」
「ディタミナート王子……でも……」
「トゥルーラ、君のことを、愛しています」
「ああ……あああ……わたしも、あなたのことを愛しています……!」
リティアーナはその二人の姿に圧倒されていた。
幾度もの死の運命を繰り返しながら、二人は互いを憎み合うことなく、これほどまでに想い合っているのだ。
ディタミナート王子は、婚約破棄の場で、『真実の愛』と口にした。戯言などではなかった。この二人の姿を前に、他に形容できる言葉など見つからなかった。
十代の頃のリティアーナなら、二人の姿に感動し、きっと自分もまた肩を並べて困難に立ち向かうことにしただろう。
だが、今の彼女は、老衰まで生きたミィアガルトの王族だ。二人の姿に心震わされる一方、頭の奥では冷静に状況を分析していた。
二人は強い意思をもって運命に立ち向かってきた。その苦労は計り知れず、成し遂げた成果はすさまじいものだ。未来の知識があったとしても、公爵家の攻勢に対し何年も持ちこたえた手腕は見事なものだ。
それでも、リティアーナにとって、二人は子供だ。暗がりの中でさまよう迷子のようなものなのだ。二人の繰り返した時間を軽んじるわけではない。それでも、未だこの国のことしか知らない未熟な王子と令嬢なのだ。
ならば、助けてやるのは大人である自分の役目だ。そのために今、ここにいるのだ。リティアーナはそう、確信した。
「私に任せてください。きっと、私はそのために呼ばれたのです」
「リティアーナ嬢……何かいい考えがあるのでしょうか?」
リティアーナの声に、泣き続けるトゥルーラを抱きしめながら、ディタミナート王子は顔を上げた。疲れ切った顔だった。
リティアーナは王子に向けて、力強い笑顔で答えた。
「公爵家を打倒するのは困難です。でも、逃げることはできます」
「逃げる……? いったいどこに……?」
「私の嫁ぎ先、ミィアガルト王国です」
そして、リティアーナたちは準備を進めることとなった。
まず、その日の夜会で、ディタミナート王子は婚約破棄を宣言した。
それを受け、リティアーナは消沈した演技をした。グレイヒュージ公爵家は前の人生と同じく、ミィアガルト王国との縁談を手配した。
リティアーナは慣れ親しんだミィアガルト王国へ、再び嫁ぐこととなった。
そして国王ジニアルと確かな関係を築くと、ディタミナート王子たちのことを打ち明けた。
計画を進めるのにはどうしても臣下たちの手を借りなければならない。国王に秘密にしたままでは動きづらく、発覚すればすべてが終わることになるからだ。
何より、リティアーナは、ジニアル王のことをよく知っていた。彼が自分の言葉を信じてくれるとわかっていた。『真実の愛』を貫く二人を見捨てる人間ではないことを、確信していた。
事情を話すと、国王はすぐに受け入れてくれた。『真実の愛』を結ぶ二人を救うのは素晴らしいことだと褒めてくれた。
「さすが私の生涯ただ一人の夫です! 愛しています!」
リティアーナはそう言って喜んだ。
だが、過去の後悔を無くすため、悲劇を避けるためとは言え、ディタミナート王子と婚姻を結ぼうとしたことだけは愚痴られた。
(男の嫉妬はみっともないと言いますけど、そういうところもかわいくて好きです!)
リティアーナは心の中でそっとつぶやいた。
ディタミナート王子たちのいるアンスタバル王国の状況を知るのは難しくなかった。もともとリティアーナはアンスタバル王国の公爵令嬢だったのだから、その情報を集めても不審に思われることもなかった。
ディタミナート王子に重要な連絡を要する場合は、ミィアガルト王国から正式な親書を送った。国家間の正式な親書ならば、グレイヒュージ公爵家に見られる心配もほぼなかった。
情報の取得と連絡手段の確保をして、慎重に調整を重ねた。
こうして入念に準備を進めるのは、ただの亡命では公爵家の追及を逃れられないからだ。
リティアーナの計画は、二人の死を偽装して、別人としてミィアガルト王国に受け入れれることだった。身分と名前を失うことになる。貴族の立場でもいられなくなる。しかし、死の運命を何度も繰り返したディタミナート王子とトゥルーラは、迷うことなくこの計画を受け入れた。
公爵家の目から完全に逃れるためには、不自然ではない死因が必要だった。
そこで、ディタミナート王子は民衆の暴動を利用することを提案した。繰り返す時の中で、実際に民衆の暴動によって死んだこともあったらしい。
暴動という状況なら、リティアーナの手配した人間を紛れ込ませることも難しくない。彼女の臣下には将来、大成することがわかっている有能な者が多くいた。彼らに働いてもらうことにした。
加えてリティアーナは、アンスタバル王国の平定のために力を貸したいと公爵家に申し出た。こうして内外の状況を得ることができた。
ここまで準備を整えれば、グレイヒュージ公爵家の目を盗み、不審に思われないよう手をまわすことも不可能ではなかった。
そして、計画は見事に成功した。ディタミナート王子とトゥルーラは、公的には死亡したことなった。名前も髪の色も変えた二人は、無事アンスタバル王国を脱出し、ミィアガルト王国の平民となった。
こうして、ディタミナート王子と伯爵令嬢トゥルーラは、繰り返される死の運命から抜け出したのである。
あれから五年が過ぎた。
リティアーナの嫁ぎ先、ミィアガルト王国では、新年を祝うため、城内に多くの民衆が詰めかけていた。今日だけは平民も城内の広場へ入ることが許される。城のバルコニーから王族が新年のあいさつをすることとなっていた。
リティアーナとその夫、ジニアル王が姿を現すと、人々はわっと喝采を上げた。
ディタミナートとトゥルーラは、今は彼女の知らない名前で、髪型や髪の色まで変え、平民として暮らしている。城内の広場にいるかもしれない。だが、リティアーナは見つけ出そうとは思わなかった。二人の平穏のため、リティアーナとのつながりは知られるべきではなかった。
二人には、国に受け入れたとき、住む場所と当面の生活費だけは手配した。それは信頼できる臣下の手に任せ、リティアーナからの指示と悟られないよう注意した。
でも、できることはそこまでだった。それ以上の干渉すれば、リティアーナとのつながりに気づくものが出てくる危険があった。
貴族として暮らしていた二人だ。平民の暮らしに慣れるのは大変な苦労があることだろう。だが、何度も死を経験し、『真実の愛』で結ばれた二人だ。その程度の困難は乗り越えてくれるはずだ。
リティアーナは前の人生で、このミィアガルト王国で老衰まで生きた。だが、その時とは状況がいくつも異なる。この先、同じようにやっていけるかはわからない。
トゥルーラは死を惹きつける運命を持っている。今後も時空の魔法を使わざるを得ない状況は何度も訪れるかもしれない。やがて周囲に魔法を知られる日が来るかもしれない。公爵家がそれを嗅ぎつける可能性もないとは言えない。
だが、リティアーナは今後何があろうと、王妃として立ち向かうと決めていた。
ディタミナートとトゥルーラは、既にその国の国民なのである。ならば、それを守るのは当たり前だ。なぜならここミィアガルトは彼女の愛する王国であり、彼女はその王妃なのである。
終わり
最後まで読んでいただきありがとうございました。
楽しんでいただけたなら幸いです。
2024/7/1、10/12 誤字指摘ありがとうございました! 修正しました!