写真について
五年以上も前の写真を見つけた。写真には昔に飼っていたインコが写っている。二羽のインコが自分の肩に乗っている写真を見て、私は思わず瞼を濡らした。それから私は次々と懐かしい頃の写真を探し始めた。すると五年前の家族の集合写真であったりだとか、今は太った飼い猫の子猫のときの写真を見つけた。私が写真を見ることによって、自らの過去が現在にまざまざと甦ってくる。この写真は私の人生を写した記録であって、私はこれらを目にすることで、遠い日の記憶を心に甦らすことができたのだ。そのように考えると、人の歴史とは、過去にあるものではなくて、現在にあるものだと分かる。私の過去は、常日頃から現在の私の心に記憶として刻まれている。そのように考えると、現在と過去は紙一重であるように思えてくるのだ。
私はもう今は亡きインコの写真を見て、自らが心の底から愛したインコと会話をしたような心持ちを感じた。今も二羽のインコの魂が、自分の肩に乗って鳴いているように感じる。これは私の妄想だろうか?私はそのようには決して考えない。人間は常に過去と共に存在しているのだ。現在と過去は深く交わっているのだ。もう何年も会っていない友人の写真を見つけたとする。その友人の魂が、ふと今の自分の隣に現れたかのような不思議な心地を感じる時がある。これは過去と現在の深い繋がりによるものに違いない。過去とは、歴史とは、過ぎた日だけに見出だせるものではないのだ。オカルトチックな表現になるかもしれないが、その時その瞬間の魂は、全く同じではないとしても、この世界に存在していて、思い出しさえすればいつでもそれ感じることができるのだ。それが例え亡き者の魂であっても、自分が思い出しさえすれば、いつだってこの世界で私は亡き人と共存することができる。ただ記憶と言うものを思い出すためには何かきっかけが必要であるので、そのツールとなるものの一つとして、写真には大きな役割があると考えている。
私の過去は心にある。私のこれまでの過去は、記憶となって自らの心に存在する。その記憶は一生消えないだろう。ただそれを思い出すためには、脳の一部を使う必要があるので、人間は自分の思うように記憶を思い出すことができない。そのような研究を失語症によって深めたのはベルクソンで、私の記憶は決して脳にあるわけではない。全ての記憶は心にある。オーケストラで例えるならば、脳は指揮棒の役割で、記憶のメロディが指揮によって音を奏でる。ただ全ての記憶を思い出すことはできないので、この世に写真というものがあるのだろう。過去とは今も変わらず流れている私の歴史である。私は多くの者と共に歴史を歩んでいる。その歴史を思い返して面白くないわけがない。写真は撮れば撮るほど良いだろう。時間や場所のメモ書きがあれば尚良いはずだ。過去を思い返して、昔の魂と触れる喜びが写真にはある。私は何も大袈裟なことは言っていない。写真とは魂の喜びであるのだ。もちろん写真にはそれ以外にも多くの役割があるだろうが、写真の一番の目的は、時間を越えることで、自らの魂を震えさせることではないだろうか。魂を震わせるとは、感動をするということだ。それは他者の魂との出会い、自らの魂との出会い、何でも良い。ただ一つ確実に言えることは、時間を越えるということは、物凄く感動できることだ。だからこそ写真を見るのは面白い。