階段とエレベーター
クラスマッチを終えて、六月。私たちチア部は大会に向けて猛練習の日々が始まった。
まあ中間テストとかもあったけど、それはそれ、これはこれだ。成績はそれほど悪くないので心配いらない……はず。
つらいことも、大変なこともたくさんあるけれど、何回も練習して大技を決められたときの達成感や爽快感は、他では味わえない。背の小さい私だから尚更、文字通りチアの時にしか見られない景色があるのだ。
今日の朝練では、今回のパフォーマンスの中で一番苦戦していた技を初めて完璧に決められた。朝から最高の気分。
その技で、私を支えるベースというポジションを担っている琴音も、にこにこしてすごく嬉しそうにしている。朝練を終えて一緒に教室に向かいながら、彼女は私の顔を見てますます笑みを深めた。
「真白、めっちゃ嬉しそう。珍しくにへにへ笑いしてる」
「そりゃ嬉しいよ」
相当しまりのない顔をしているのは自覚している。琴音も人のことは言えない。
そんなしまりのない顔で、琴音が言う。
「今日、通し練でも決まるといいね」
「決めてやりましょう」
力強く頷くと、琴音は噴き出した。
「いつになくやる気じゃん、真白」
「後輩ちゃんにかっこいい! と思われたい」
大真面目な私の発言に、琴音は半目になった。
「動機が不純だった……」
「琴音だって先輩風ふかせてるくせに~」
「部長だから舐められないようにしてるだけです~」
琴音の言葉に驚いて、足が止まる。
「え、そんなこと考えてたの」
部長とかリーダーとか、まとめ役に向いてると勝手に思っていたけど。
琴音は神妙な顔つきで頷いた。
「考えてたの」
「……琴音って真面目だよね……」
しみじみ呟くと、琴音が苦笑いを浮かべる。
「みんな私のことしっかりしてるって言うけどさ、そんな自覚無いし」
「えー!」
衝撃だ。
先輩たちから部長に任命されたときもあっさりしたものだった。悟らせなかっただけで、重荷に感じていたのかもしれない。
「琴音、なんかあったら言ってね、手伝うからね」
慌ててそう口にすれば、琴音は横目でちらりとこちらを見て、にやっと笑った。
「真白が手伝ってくれるのはすでに決定事項だから大丈夫」
「あら」
「あらって」
頼ってもらえるのは嬉しいけれど、少し照れくさい。
照れ隠しにどーんとぶつかってみると、琴音は楽しそうに笑ってくれた。
そんな風に、朝は楽しくていい気分だったのに、どうしてこうなってしまったんだろう。
消毒薬の匂いがするクリニックで堅い椅子に座って、白いギプスに覆われた左足を見る。目をつぶってから開けてみても、その光景は変わらない。
左足首の強い捻挫。全治三週間。整形外科の先生にそう診断されてから、リハビリ科で松葉杖を借りて今に至るまで、現実感が全然ない。痛み止めが効いている証拠かもしれないけれど。
放課後のスタンツの練習中に、着地を失敗してしまったのだ。
今まで本当に怪我には気を付けていたので、実はチアを始めてから怪我をしたことはなかった。
しばらく練習できないな、とか、再来週の予選にも出られないな、とか、日常生活でも不便だろうな、とか、色々な考えが頭をめぐるけれど。
着地に失敗して、誰が見ても足を痛めたとわかったときの、琴音の顔が頭から離れない。琴音がベースで支えてくれていた技だったから、あのとき一番近くにいた。
完全に私のミスなのに、琴音はきっと責任を感じてしまっている。保健室で応急処置をしてもらったときも付き添ってくれていた。強張った顔で、ぎゅっと手を握りしめていた。
怪我をしたことそのものより、それがずっと気がかりだ。
手伝うとか言っておいて、こんな。
「真白、お待たせ」
会計を終えた母が近くに戻ってきていたことにも、気づかなかった。
保健室の先生に電話で呼び出された母は、車でこのクリニックまで連れてきてくれた。
帰りの車の中、後部座席でぼんやり外を眺めていると、母は一言、こう言った。
「今日の晩御飯、春巻きよ」
母の料理の中でも、とりわけ好きなメニューだ。
今まで感じていなかったのに急にお腹がすいてきて、少し笑う。
過ぎ去っていく窓の外の景色がじわりとぼやけた。見ていても仕方ないので、そっと目を閉じた。
中途半端な時間に家を出たら、中途半端な時間に学校に着いた。
いつもなら朝練があるのだけど、怪我が治るまではお休みなのだ。部長命令で、ゆっくり気を付けて登校することと言われてしまった。
それでもあんまりゆっくりしているのも落ち着かなくて、今に至る。
それにしても、登校しただけでどっと疲れてしまった。駅のエレベーターなんて初めて使ったし、空いてる車両を選んだものの朝はやっぱり混みあっているし、肩身が狭い思いをした。
外階段前では、チア部のみんなが朝練をしている。近づいていくと琴音がすぐに気がついて、駆け寄って来た。
「真白、おはよう。早いね、電車とか大丈夫だった?」
「うん。ありがと」
琴音はわずかに眉を寄せ、心配そうな目でちらりと私の足を見た。
松葉杖を握る手に、力が入る。
「琴音」
私の呼びかけに、琴音がはっとこちらを見る。
「琴音のせいじゃないからね。本当に。ミスした私が一番わかってるから。本当に、琴音のせいじゃない」
「……でも」
言いかけて、でもきゅっと口を引き結び、琴音はゆっくり頷いた。
安心させるように、笑う。
「明日から、来れたら朝練も見学するから」
「わかった。無理しないでね」
ぎこちなくも、琴音も笑ってくれた。
今日は時間も中途半端だし、早めに教室に行くことにする。
みんなに手を振ってから、再び歩き出した。
ちょうどそのとき、職員玄関から見知った人影が現れる。歩き始めたばかりだったのに、思わず足が止まった。
彼もこちらの姿をみとめて、驚いた顔で立ち止まった。
「え、淡島……大怪我してんじゃん」
そして、すぐにすたすたと歩み寄ってくる。
そのとき感じたのは、知られたくなかったな、という感情だった。
見られたくなかった。みっともないし、かっこよくない、こんな自分。
なぜか、あの部活紹介のリハの日の、帰り道を思いだした。照れもせず、茶化しもせず、すごかった、かっこよかった、と言ってくれたことを。
思っていたよりもずっと、有門くんのあの言葉を嬉しく感じていたんだ。
「良かったら、なんか手伝おうか」
淡々とそう言った彼に、少し肩の力が抜ける。構えていたのがおかしくて、それまで合わせられなかった視線を上げた。前に話したときとそう変わらない温度の有門くんだった。
自然と頬が緩む。普段働かない表情筋も、他の筋肉が休んでいる分動いているのかもしれない。
「ううん、大丈夫。ありがとう。どこ行くとこだったの?」
メガネの奥の目が、ゆっくりと瞬きする。少しだけ、目尻が下がった。
「そこの自販機」
「放送部も朝練があるの?」
「ない。なんとなく早く来てくつろいでるだけ」
なるほど。たまに朝練のとき見かけたのは、今日と同じ理由だったのだろう。
一つ疑問がとけた。それにしても。
「……前から思ってたんだけど、放送部って放送室の私物化がすごいよね」
「有効活用と言ってほしい」
キリッとメガネを直しても、内容的に全くかっこつかない。
「物は言いようだね……」
話しながら歩き出す。すると、有門くんが慌てたように言った。
「待って、階段はやめた方がいいんじゃない?」
思わず首を傾げてしまう。
「え、でも、ここ上がらないと入れないよ」
昇降口は階段を上がった二階だ。下駄箱もそこにあるし、階段は避けて通れないはず。
けれど有門くんは、ついさっき出てきた職員玄関を指さした。
「そっから入ってエレベーター使えば?」
校内には一応、小さなエレベーターがある。たまに掃除業者さんが大きな掃除機とともに使っているのを見たことがあるけど。
「あれって生徒が使っていいやつなの?」
「事情が事情だし大丈夫だろ」
「ほんとに……?」
怒られたら面倒だ。
今度は有門くんが首を傾げた。
「放送部でもでかいスピーカー運ぶ時とか使うけど、なんも言われないよ」
「そうなんだ」
一応納得した。でも先生に一言言ってからの方がいい気もするけど。大丈夫かな。小心者なので気になってしまう。
私の迷いを察したのかはわからないけど、有門くんはなおも続けた。
「ていうか俺がこわい。見てられない。落ちたら……とか思うと心臓に悪い。使おう」
「……わかった」
「よし」
そういうことにしてくれたんだろう。
わかりにくい優しさが、なんだか少し、痛かった。
それなのに、重いはずの足は軽くなる。気合を入れて、よいしょ、と歩き出した。






