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本日二話目の投稿です。ご注意ください。
大学のオリエンテーションも済み、新しくできた友人らとひとしきり履修登録について話し合う。
「あの教授の授業ってとりにくいらしいよ」
「ええ、必須なのに!」
「学食のメニューって微妙。でも、生協は充実しているよね」
「図書館遠いよー」
構内の施設に関してもそこそこ詳しくなった。
「香織、もうバイトも決めたの?」
「うん。稼がなくちゃ」
「だよねえ。もっと早くから引っ越ししたら良かったかなあ」
地方から出て来てひとり暮らしをしている子もいて、同じ境遇の香織としては心強い。
「ね、ね、バイト先って格好良い人、いる?」
いるにはいる。
しかし、へにゃへにゃしている。頼り甲斐がないのとも違う。へなちょこに見えるのだ。
うん? 同じ意味か?
「うーん、微妙?」
「まあまあってこと?」
「顔もスタイルも良いんだけれど、なんていうか」
それらと表情や物言いが一致しない。物憂げな表情が似合いそうなのだ。
「良いじゃん! 羨ましい!」
「彼女いるの?」
「まだ、採用されたばかりで分からないよ」
「性格は? 良さそう?」
「うん、優しいし穏やかというか、安定しているというか」
でも、掴みどころはない。
「超優良じゃん! 行っとけ! てか、紹介して!」
「うぅーん?」
だからと言って、恋人として良いかと聞かれると首を捻らざるを得ない。
「ほほう?」
新しいバイト先の先輩店員を思い出していると、友人たちがにやにやする。
「うん? なに?」
「いやいや、私らは取らないからさ」
「頑張れ、香織!」
「え、ちょっとなにか誤解していない?」
「していない、していない」
「応援しているよ!」
「誤解だー!」
きゃっきゃと騒ぎつつ、そうか、東山は傍から見ると優良物件なのか、と認識を改める。
アルバイト先は変わっているが、そう忙しそうでもないし、まあ悪いところではないだろう。少なくともセクハラはない。
面接を終え帰宅した後に犬について色々調べてみた。
「やっぱり、犬はブラッシングが必要ってあるんだけれどな」
毎日しないと皮膚病などの病にかかりやすいとある。
翌日、店で東山に会った時にもう一度確認してみた。
「あの、調べてみたら、犬って皮膚病とかにかかりやすいってありました。だからブラッシングを毎日しないと駄目だって」
アレルギーやアトピー、病原菌、ホルモン異常など、皮膚病の原因は様々なのだそうだ。
「それは普通の犬の場合ね。特にきなこは触らせてくれないよ」
「ですよねえ」
きなこは一定の距離を保とうとし、近寄ればその分以上に幅を取る。だとしても、普通の犬ってなんだろう。そういえば、東山は豆柴っぽいと言っていた。
しかし、香織の疑問は東山の続く言葉に一旦棚上げされる。散歩も自分たちで行くと言っていたが、さらには歯磨きや耳掃除すらも不要なのだそうだ。
「本当に餌やりだけなんですね。それも自分で取って来そう」
「うん。だからちゃんと餌をやらないと」
「え?」
「獲物認定された対象が可哀想でしょう?」
可哀想で済むのか。そして、餌を取って来るのか。
「弥吉になんて照準を合わせられたら、ずっと追いかけまわされるよ」
「うえええ」
ちゃんとご飯はやろう。香織は心に決める。
東山は大学三年生だと言った。
「就職活動準備中だから、早いうちに香織ちゃんに仕事をシフトしていきたいなあって」
雑巾がけをする東山に、思わず香織は箒を放り出しそうになる。
「就職活動開始って三月じゃないんですか?」
「うん、でも、準備しておくにこしたことはないから」
「へえ、真面目!」
「えー、俺、こう見えてちゃんと考えているよー」
「そうですねー」
自分でも棒読みになったなと反省する。
「わあ、信じてない!」
鷹揚に笑って流してくれた。
「インターンは一年や二年の時から参加しておく方が有利とも言われているからね」
「え、もう?」
「そうです。入学と同時に就職を意識するのです」
冗談めかして敬語になる。
「うわあ。桜が咲いたのに浮かれている暇もないんですね」
そんな風にすぐに軽口を叩き合えるようになった。
「東山さんってモヤシっ子って言われたことありません?」
「あるー。でも、それって失礼!」
あるのか、今時。
「俺、喋るとイメージ違うって言われる」
失礼と言われたので、そうなんですね、と返しておくに留めた。
大学の友人にあれこれ言われたので、つい東山を観察してしまう。
彼女たちと話を合せるために見ているドラマ、あれはあれで録画しておけば家事の間に流しっぱなしにしてなんとなく内容が分かる。東山はドラマに出て来る俳優レベルの男前だった。
衝撃である。
「いやいやいや、芸能人ってテレビよりも生で見た方が格好良いって聞くし」
そこら辺を割り引いても、良い線を行っているということだ。
さらには。
「おっと、高いところは俺がやるよ。危ないし。香織ちゃんは犬の方をお願い」
ふにゃふにゃしているようでいて、案外きちんと目配りをしてくれる。
「東山さんは犬はあまり好きじゃないんですか?」
「どうして?」
振り向いた東山は陳列棚の向こうの大きな窓から差し込む光を背負っている。男前とは後光まで差すのか。逆光のせいで表情は分からなかったけれど。
「ええと、犬たちとあまり関わろうとしないから。餌やりとか」
むしろ餌をやるくらいしか世話をしなくても良いという不思議なものである。
「はは。香織ちゃん、犬好きそうだったから任せちゃおうかなって思って。それに早く慣れてほしいからね」
短く笑って言う。
「じゃあ、ちょっと行ってきます」
「うん」
餌の入った大きな袋にスコップを入れて餌入れに入れていく。
裏口から外へ出て、それを並べて呼ぶだけで良い。
「お鈴さーん、弥吉、佐助、きなこー! ご飯だよー!」
透間亭はだだっ広い原っぱに建っている。彼方に向けて声を上げるのは案外気持ちが良いものだ。香織もまた初日に東山がしていた風に犬たちを呼ぶようになっていた。
犬たちは自分たちの名前を理解しているのか、単にご飯という言葉を覚えただけなのか、呼び掛ければすぐさま姿を現す。のんびり伸びた道の向こうから結構な勢いで駆けてくる。
大型犬の鈴は四肢で力強く地を蹴る。長毛が優雅になびく。そのせいでスローモーションに見えるが、速度が出ている。
弥吉はリズミカルに脚を動かす。垂れた耳がはたはたとはためく。
佐助は短い脚をちょこまかと繰り出す。毛の光沢が流れていく。
きなこもまた小さな体でせっせと駆ける。くるんと巻き上がった尾とあいまって、うっかり転がりそうである。
あっという間に勢ぞろいした犬たちは尻を地面につけ、両前脚で上半身を持ち上げる。香織と餌を見比べる。
「はい、どうぞ」
「「「「わん!」」」」
四匹の鳴き声が重なる。いただきますを合図に餌を食べ始める。夢中で食べている様子はいつまでも眺めていられる。
大学の友人がなかなか良いバイトが見つからず、ある程度は妥協しなくてはと言っていたことを思い出す。その点、香織は今のところ、可愛い犬に餌をやり、掃除をするくらいだ。男前の先輩もいる。自分の幸運に感謝した。
しかし、現実はそう甘くはなかった。
店内の書架や棚の物品は初めて見るものばかりで、よろず屋というのも頷ける。変な書名のものがあって興味津々だ。
やって来た客に本を探してくれと言われた際の対処法はまず、書名を確認することだという。
「見てのとおり、いっぱいあるからどういった装丁かを聞いても良いよ」
色や厚さなどの外見だ。
決してしてはいけないのは、本を開くことだという。
「とんでもないことになりかねないからね」
言いながら、熟した西日が夕暮れを主張し始めたころ合いに、東山が照明をつける。
スイッチを入れてもすぐにつかず、うなりを上げるようにじわわと明るくなり、ついたと思ったら、一旦消え、薄暗がりを溜めた後、ようやく明るくなる。
その時、視界の隅になにかが映り込む。
一旦、見えてしまってからは、店内で掃除をしていると、書架や棚の端に影がちらついた。
見える確率が高いな、と鼻白む。
香織はごくたまに変なものを見る。見間違いの場合もある。眼科に行っても正常だと診断される。精神科や心療内科には行きにくい。
ネズミとか黒い害虫が素早く動いた可能性も捨てきれない。どちらにせよ、そちらへ行くのは憚られる。
「あれ、見えたの? へえ。だから、この店に来られたのか。張り紙を見たって言っていたものな」
棚の影を凝視する香織に、東山がすぐさま気づく。
「あ、あれはなんですか?」
膝が笑う。しっかり喋ることができない。
はっきり見えたのではない。一部がぼんやり見えただけだ。
けれど、東山の言はいかにもだった。いかにも「出る」ような口ぶりではないか。
「気をつけてね。ひどい悪戯を仕掛けてくるから。まあ、犬たちがいたら追い払ってくれるからさ」
いつもと変わらぬへらりとした笑顔が、妙にそら恐ろしく感じた。