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毎日更新予定です。
(更新忘れたらすみません)
今日明日は複数回、投稿する予定です。
とある世界と、とある世界のあわい。
そんなはざまにその店はあった。
様々な者が訪れる。
物品を贖い、あるいは頼みごとをする。
今日もまた、扉が開かれる。
「明!」
必死に手を伸ばした。
見開いた目が力なく、すうと閉じていく。
飛び散る鮮血がいっそ色鮮やかだった。
どうして。
かすかに触れた指先の感触を、今でも覚えている。ふたりを繋いでいた影が分かたれ、それぞれの下へ収まって行った。
春のふんわりした空気は、街に弾みをつけていた。なにかをしようという軽やかな雰囲気は、心を塗りつぶす不安をじわじわと溶かしていく。
「よし」
奨学金の採用通知が届いた。軽くこぶしを握って顔を上げれば、密集した葉と葉の僅かな隙間から陽光が漏れている。
まさか大学入学目前にして、両親が自営業を畳んで田舎に引っ越すことになろうとは思わなかった。今さらどうこう言っても、どうしようもない。
実家から通学する予定が急遽、ひとり暮らしすることになり、慌ててなんとか古いマンションの一室を借りることができた。アパートと言った方が良いのかもしれないが、マンションとの違いがそもそも分からない。
「ま、いっか」
あれこれ考えていても仕方がない。
ともかく、やることを一つずつ片付けていくしかない。
「次はアルバイト探しね」
生活費を稼がねばならない。
両親は仕送りをしてくれると言っていたが、故郷に戻って再就職しても、今までのように稼ぐことはできないだろう。
引き払った実家の近くは独居マンションですら家賃が高い。せめて大学の近くでと探した新居は初めて足を踏み入れる町で見つかった。
慌てていたから、あれもこれもと思いつくままに手を出す羽目になり、荷ほどきはほとんどやっていない。
新居に戻りがてら、周辺の店や施設のチェックをした。
「安くて美味しいお店がいっぱいあると良いなあ」
自炊をするつもりだ。両親は仕事で忙しかったから、子供のころから料理をしていた。その割に、上達したとは言えない。
「皮をむいて切って、焼くか煮るかして味付けすれば、良し!」
となれば、スーパーの場所と営業時間も押さえておきたい。
やることが多すぎて、思考がとっ散らかっていた。
そんな時だったからだろうか、商店街でアルバイト募集の張り紙を見つけた。
時給も良いし、勤務時間は応相談とある。特別な資格や職歴不問と記載されている。好条件に目がくらみ、後から、職務内容が明記されていないということに思い至った。
ついこの間、面接に行ったその日のうちに仮採用で働く様に言われたアルバイト先のことを思い出す。渡されたエプロンは少し小さくて、腰でひもを結んだら体にフィットした。
「いやあ、今の若い子は胸が大きいね。どれ、苦しそうだ。ちょっと緩めてあげよう」
店長だという父親と同年代のおじさんの言葉に唖然とした。
まず、胸の大きい小さいを言うのはセクハラだ。そして、親切に見せかけて、体に触れようとしてくるのは完全にセクハラだ。鼻息荒くにやついているのはどこからどう見てもセクハラだ。
即座に辞めた。我慢しても、あんなトリプル・セクシャルハラスメントが改善されるとは思えない。
またあんなことがあったら嫌だ。しかし、アルバイトはしなければならない。行ってみて、変な風だったらすぐに帰ろう。
そう決めれば、後は実行に移すのみだ。
張り紙が示すに従って、すぐ脇の道を覗き込む。
「こんな道、あったっけ?」
いかにもなにかが出てきそうな薄暗い細い道だ。怖いけれど、冒険心もくすぐられる。こっちへおいで、と言われているみたいな雰囲気だ。
春の暖かい日だったから、浮かれた気分に後押しされた。幸い、いついかなる時でも面接を受けられるように履歴書は鞄の中に入っている。
路地に足を踏み入れたら、途端にひんやりとした日陰になる。両脇の板塀の間隔は狭く、通行人がすれ違うのも難儀しそうだ。ともかく前へ進もうと足を速める。
高い板塀が唐突に途切れた。
光が眼前に広がり、眩しさに目を細めた。
徐々に目が慣れてくると、そこには空漠とした原っぱがあった。のんびりと道が続いている。その途中に、ぽつんと木製の家があった。
「お店?」
引き戸の上に看板が掛かっている。
「透間亭」とあるのはなんと読むのか。
張り紙に書かれていたアルバイト先の名前であることは確かだが、今さらながらに読めないことに気づいた。
「ここか」
読み方は分からねど、たどり着けはしたようだ。
妙ちくりんな印象を受けるこぢんまりした造りの店だった。和洋折衷と言うか、節操がないと言うべきか。
春の淡い空色とうす黄緑色の原っぱには似合いの呑気さがあった。
まずは扉を叩いてみる。
「すみませーん」
しばし待つ。
「はーい」
扉の向こうで返事があり、人の気配がする。
予想通り、引き戸は開かれる時、がらがらと大きな音をたてた。
「いらっしゃい」
現れた店員らしき男性に戸惑う。
二、三歳年上だろう硬質に整った面相はまさしく物憂げという言葉が似合う。
思わず見とれてしまい、数瞬、声が出なかった。はたと我に返ってしどろもどろに話す。
「あの、私、アルバイト募集の張り紙を見て来たのですが」
「ああ、バイト希望者?」
言ってへらりと笑う。黙っていた時と受ける印象が違う。面食いではないも、どうも勝手の違いにペースが狂う。
「は、はい。あ、中野香織と言います」
「俺は東山明。中に入って」
促されて後に続き、店内に入って引き戸を閉めようとした。建て付けが悪く、途中で戸板が止まる。
「ああ、コツがあるんだ」
すぐに気が付いた東山が腕を伸ばして少しばかり戸を持ち上げながら動かした。今度はすんなり閉まる。
斜め後ろすぐに立つ東山は、同年代であっても異性であるからか、身長も横幅も香織とは違う。高校の通学は電車を使ったので満員電車には慣れている。なのに、近い体温や質感にどきりと心臓が跳ね上がる。
「ええと、どこかに椅子があったんだけれど」
東山は店の奥の方に姿を消したので、これ幸いと気持ちを落ち着かせようと努める。
店内は書架が立ち並んでいた。
「本屋?」
「ううん、よろず屋。ほら、あっちの棚で小物を展示しているでしょ」
香織のつぶやきは丸椅子をひとつずつ両手に持って書架の向こうから出て来た東山に拾われる。椅子を持ったまま手を少し持ち上げて示して見せた方に、色んなものが展示された棚がある。大きな窓に隣接させているのは、店外からも見えるようにしているのだろう。
「はい、ここにどうぞ」
「ありがとうございます」
入り口側から奥へ向かって本棚がいくつか並び、その中央は幅を広く取っている。そのメイン通路にどん、どんと椅子をふたつ置く。スペース的にはそこに並べる他ないが、店の扉を開けてすぐを占拠して良いものか。
「ああ、お客さんはそう来ないから」
香織の心情を読み取ったかのようにへにゃりと笑う。
それにしても、顔と表情や仕草の印象が一致しない。似合わない軽さをもカバーしてしまえるとは男前度が高い。
東山が並べた椅子に座ると、思ったよりも距離が近い。互いの膝がくっつきそうだ。
顔を見上げる角度が緩やかになった。こっそり椅子を後ろにじりじりと押しやりつつ、男前の上に足が長いとは、と妙な感心をした。
「張り紙を見たのなら知っていると思うけれど、職場はここで時間は応相談。オーナーはほとんど来ないし、店番は俺だけ。さっきも言った通り、お客さんは頻繁に来ることはないから、ずっと開けていなくても、なんとかなるよ」
そんなに緩い感じで良いのか。
自営業者の両親を持つ娘としては商売魂がうずく。いや、手伝ったことはないのだけれど。
「ある意味、採算度外視なところがあるし、ちょっと特殊だから、それでやっていけるんだよ」
やはり、香織の考えが読めるかのようだ。あからさまに表情に出ていることはないと思う。それとも、相手がなにを気にするか分かるのだろうか。そうだとしたら、頭の回転が速い。
「そうだ。重要なことを忘れていた」
「あ、履歴書」
言われて、慌てて鞄から履歴書を取り出す。
「はい。お預かりします」
意外としっかりしているのか、両手で受け取って軽く頭を下げる。
「でね。大切なことなんだけれど」
なんだ。履歴書ではなかったのか。
「香織ちゃん、犬は平気?」
突然の問いに戸惑った。初対面からのちゃん付けにも。大学生、合コンのノリ、といった言葉が脳裏をよぎる。
「大丈夫です」
「良かった~。うち、大型犬、中型犬、小型犬がいてさ。さらに今日、新入りの小型犬が来たばかりで」
「そんなにいるんですね。あ、店番の他に犬の世話も仕事に含まれるんですか?」
「ああ、うん、そんな感じ。散歩は勝手に行って勝手に帰って来るから。餌をやるくらいかな」
「ブラッシングとかは良いんですか?」
他にも耳掃除とか爪切りとかの世話があるのではないか。
「それは必要ないよ」
「じゃあ、全然手が掛からないんですね」
トリマーやペットショップに任せているのだろう。散歩に勝手に行くというのは店の周囲の原っぱを駆けまわるのか、してみると、ドッグランみたいなものだったのかと得心が行く。
「まあ、後のことは追々ということで」
「それじゃあ」
「はい。採用です。宜しくお願いします」
頭を下げる東山につられて、香織も首を垂れる。
「犬たちに紹介するね」
ここでは犬の方が店番よりも上なのか。まあ、新入りだしなと思いつつ、立ち上がった東山の後について行く。
店の奥にある扉、押戸から裏手へ出る。
東山が声を張って犬たちを呼ぶ。
「おーい、鈴ー、弥吉ー、佐助ー、新入りー」
ずっこけそうになった。
「ま、待って待って。それって犬の名前なんですか?」
「そうだよ」
慌てて問うも、東山は平然と受け止める。
「江戸時代っぽい」
「昔に名付けられたからね」
「昔って数百年前ですか?」
まさか江戸時代につけられたのではなかろうと冗談口を言った。
「うん」
東山は相変わらず泰然としている。
一体何歳なのだろう。いや、代々その名前を引き継いでいるということなのだろう。
やって来た犬たちは四頭いた。
まず、大型犬は毛が長い。ふんわりしている毛のせいで、なんだか優雅にも感じる。茶色い毛並みをベースに、首から胸元にかけてと足が白い毛だ。ゴージャスな襟巻をしている風にも見える。
「コリー犬!」
ラフ・コリーに見える大型犬は雌だという。
「そいつは鈴。優しくて我慢強い。それと頭が良いんだ」
「こんにちは。鈴、さん?」
「なんでさん付け?」
しかも疑問形、と笑う。
「だって、貫禄があると言うか、大物っぽいというか」
「当たっているよ。犬たちのリーダー的存在だから」
「じゃあ、お鈴さんで」
しゃがみ込みながら、江戸時代っぽく呼んでみる。
「お鈴さん、私は中野香織です」
「わん!」
「わ、返事して貰えた! 本当に頭が良い!」
触りたい衝動が沸き上がる。初見の人間に触れられるのを嫌がるかもしれないと香織は堪えた。
中型犬はビーグルのようだった。
白地に茶色や黒色の毛並みが混じっている。垂れた大きな耳が可愛い。
「弥吉は陽気でやんちゃ。活発でなにごとにも夢中に向かっていく。こいつも賢くて従順だ。食べ過ぎて太りやすいから注意な」
また、運動不足になるとストレスに直結するのだという。それで、好きに駆け回らせているのかもしれない。
「体力がありあまっているからなあ」
動くものを夢中で追いかけてしまうも、自分で戻って来られるので放任主義なのだそうだ。
「人間にはついていけないよ」
じじむさい言葉だが、東山の言う通り、弥吉は足がそう速くないが、延々走り回っている。一旦呼ばれて近寄ってきたものの、香織の挨拶が済んだら飛び出して行った。
小型犬も耳が垂れているが、足が短い。胴長短足、ダックスフントのようだ。黒をベースに口元や足は茶色の毛をしている。毛は短くなめらかな光沢がある。
「佐助は落ち着いているんだけれど、たまに頑固になる。弥吉と遊んでいるとやんちゃで活発なのを発揮する。相乗効果だね。状況判断をして行動する賢さも備えているよ」
最後に今日やって来たという小犬だ。
「残るは新入り。大中小に豆が加わったんだ」
「豆?」
「聞いたことない? 豆柴」
「ああ」
そういえば、昔に流行ったような気がする。
「ちなみに、それよりも小さいのが小豆柴」
子犬の愛らしさは筆舌しがたいというのは分かる。それだけ小さい犬は人気があるのだろう。
「新入りは豆柴っぽいから、豆太郎かな? 豆太かな?」
オーナーを差し置いて名前を考え出す東山に、香織は待ったをかける。
「この仔、女の子ですよ」
「じゃあ、きなこだ。あずきは小豆柴の時にとっておこう」
「え、また増えるんですか? というか、勝手に名前をつけて良いんですか?」
オーナーから好きに名前を付けて良いと言われていると東山は返す。
「新しい犬を迎えるなんて、想像だにしなかったからなあ。あ、豆柴は小柴のことね。柴犬の小さいのだからそう呼ばれているんだって」
「へえ」
物知りだ。職場にいるから、犬について調べているのだろうか。結構真面目である。
新入りは三角にぴんとした耳、巻き尾、そしてきなこ色の柔らかく素朴な色味の毛並みをしていた。
「柴犬は縄張り意識が強くて頑固な面があるからなあ。相手に気を許すのも時間がかかるだろうし」
だとしても、きなこは強い警戒を見せる。東山と香織から一定の距離を取って様子を窺っている。
「まあ、犬たちとは仲良くやれそうだから、大丈夫かな」
東山を手伝って犬たちに餌をやる。
餌置場や餌入れをあれこれ教わっていると、弥吉が戻ってきており、激しく尾を振る。よっつ餌入れを並べると、鈴は悠然と、弥吉は飛びついて、佐助はいそいそと口をつける。その段になって、きなこもおずおずと近づいて食べた。依然警戒している風なので、わあ、という歓声は心の中に押しとどめた。動物が食事をする様は愛らしい。
そんな風にして、香織のアルバイト先は決まった。
東山が案外真剣な表情で言う。
「ようこそ、「透間亭」へ。待っていたよ」
パソコンの調子が悪いのですが(活動報告参照)、
頑張って投稿していきたいと思います。
ご意見やこうしたらよいのでは、ということがございましたら、
ぜひ、ご連絡ください。