9 家族愛
ディナシェリアがヨーゼンバルの胸の中で深呼吸した。ヨーゼンバルは微笑んだ。
「ねぇ、シェリー。女の子が見せたくない顔ってどんな顔なんだい?」
ヨーゼンバルはイタズラをしたそうな顔でディナシェリアを覗き込む。
「ふふふ、そうですね。明日のわたくしのお顔はバル兄様にはお見せしたくありませんわ」
ディナシェリアは恥ずかしげに笑った。ヨーゼンバルは優しくディナシェリアの頬についた涙跡と髪を拭った。そのまま、ディナシェリアの頬に手を当てる。
「シェリーが最後に泣いたのはいつ?」
ヨーゼンバルは『この質問にディナシェリアが答えるまでは婚約しない』と言った。その言葉に嘘はないとディナシェリアはわかっている。
「十歳の時、愛しい方の婚約を知らされた日ですわ」
ヨーゼンバルは、もう一度、そっとディナシェリアを抱きしめた。
「シェリー。愛している。ずっと僕の側にいてほしい」
「泣き腫らした翌日はお会いしないとお約束してくださるのなら」
ヨーゼンバルはディナシェリアを胸に抱いたままにっこりと微笑んだ。
「それなら大丈夫だよ。僕は二度と君を泣かせたりしないから。
さぁ、明日も会いたいからね。目を冷やしに行こう」
ヨーゼンバルはディナシェリアの腕を自分の腕に絡ませた。そしてまた、ディナシェリアの歩幅に合わせてゆっくりと茶会席へと向かう。
「シェリー。一つお願いがあるんだ」
「なんですか?」
「『兄』はもう付けないでほしいな」
ディナシェリアは目をしばたかせた。そしてクスクスと笑った。ディナシェリアがこうして感情の籠もった笑いをするのは、何年ぶりだろうか。涙と共に感情も表に出るようになったようだ。まだ、ヨーゼンバルの前でだけであるが。
ふっと笑いが落ち着き、ディナシェリアは小さく息を吸った。そして、甘く優しく、慈しみを込めて、呟いた。
「バル様」
頬を染めて下を向き、恥ずかしそうに小さな声でヨーゼンバルの名を呼んだディナシェリアを見て、ヨーゼンバルは居ても立っても居られなくなった。
ヨーゼンバルはディナシェリアの腕を引き木陰にサッと二人で隠れるように立った。そして、ディナシェリアの額に優しくキスを落とした。
ビルマルカスにもそんなことをされたことがないディナシェリアは固まった。
「可愛らしすぎるシェリーが悪いんだよ」
ヨーゼンバルはもう一度額にキスを贈り、硬直しているディナシェリアをエスコートして母親たちの元へ戻った。
〰️ 〰️
ネトビルア公爵邸に戻ったディナシェリアは母親の自室を訪ねた。母親は快く迎え入れ、二人きりのお茶会になった。
ネトビルア公爵夫人の部屋のソファセットに向かい合って座った。
ディナシェリアは率直に聞いた。
「お母様、もし隣国の王女殿下が儚くおなりにならなかったら、わたくしは幸せにはなれなかったのでしょうか?」
ディナシェリアはヨーゼンバルの気持ちは受け止めたが、心の澱は取り切れていなかった。ネトビルア公爵夫人は席をディナシェリアの隣に移した。
「わたくしも、貴女に、誰かの死を喜ぶような女性にはなってほしくないわ。そうして、隣国の王女殿下の死をそのように考えられる貴女でよかったと思うわ」
ネトビルア公爵夫人はディナシェリアの手を握った。
「貴女も知っているように、旦那様とわたくしは政略結婚です。わたくしを拾える身分の者が旦那様しかおらず、王家が旦那様にわたくしを無理矢理押し付けたと、わたくしは思っています」
王女であるがゆえに婚姻相手探しは難しかったのであろう。ディナシェリアは母親のそんな暗い気持ちは知らなかったので驚愕した。
「でも婚姻してみると、旦那様は大変お優しく、お仕事も素晴らしく、お話も楽しく、夫婦なのにデートにもたくさん連れていってくださったの。邸内でも紳士的にエスコートしてくださる。
時には気まずいこともありましたけど、その都度ゆっくりとお話をしてお互いに歩み寄りました」
ディナシェリアは父親のことを話す母親を美しいと思った。見た目はいつも美しい。でも今は、恋する乙女のようであり、慈しむ聖母のようであり、崇めてしまいたくなるような美しさだった。
「そういう愛の形もあるのです」
「お母様はお父様のことを……」
「ええ。信頼し、尊敬し、心から愛しておりますよ。父親としての旦那様だけでなく、わたくしの愛しい方として、ね」
頬を染めた母親はまるで少女のようであった。
ディナシェリアはそっと頷く。
「貴女がビルマルカス様とそうなれたかと言われれば、それは無理だったかもしれませんね」
母親は悲しそうに目尻を下げた。
「でも、旦那様とノッスタン公爵閣下は、貴女とビルマルカス様の婚約破棄はずっと考えていてくださいましたよ」
「え? そうなのですか?」
「ええ、だから、貴女にも何度も聞いたでしょう? でも、貴女は公爵令嬢としての責務を優先していた。もちろんそれは素晴らしい考えよ。
でも、親としては、夫婦としての愛情も得てほしいと望んでいたわ」
ディナシェリアの瞳から涙が溢れた。
「実はね、貴女には婚約者がいるにも関わらず釣書がたくさん来ていたのよ。
ビルマルカス様の不貞を告発し『自分は決してディナシェリア嬢を蔑ろにはしないから』と熱烈な釣書もたくさんあったわ」
ディナシェリアは手で口を覆う。
「旦那様は、その方たちの身辺調査、特にお心根についての身辺調査をしっかりとなさって、何人かめぼしい方を見つけていらっしゃったようだわ。でも、それをヨーゼンバル様に知られてしまって止められたそうなの」
「ま、まあ!」
「貴女がビルマルカス様とのお別れを決心できたら自分が迎えに行くからと、旦那様にお約束したそうよ」
ディナシェリアの知らないところで、ディナシェリアを守るべく動いていた父親にディナシェリアは心から親愛と感謝を感じた。そして、待っていてくれたヨーゼンバルにも心が温かくなった。
「旦那様は、ビルマルカス様と貴女の婚約を近々解消させるために動いていらしたわ。
それより先にビルマルカス様が行動なされただけよ」
ディナシェリアは自分の辛抱が足りなかったわけでないことにホッとした。
「そして、実直な伴侶であれば、貴女ならお相手の良いところを見つけ、その方をお支えし、お子を産み、穏やかな家庭を築き、幸せに暮らせていたわ。
それほど、貴女は、真面目で、優しくて、勤勉で、聡明ですもの」
もし、ヨーゼンバルの元婚約者である王女が健在であっても違う形の愛を探せていたということに、ディナシェリアの心は軽くなった。
「ザクダイト様とマリーもね、ここ最近は何度もお茶をして親睦を深めていたのよ。旦那様たちは、貴女たちの二の舞にはさせぬようにと、二人にははっきりと意思の確認をしているわ」
これにはディナシェリアは驚いた。二人は急遽婚約させられたと思い込んでいたのだ。
「では、もし、二人が拒否をしたら?」
「婚姻がなくとも上手くいくように話し合いが持たれていくことになっていたのよ。ただ、話し合いには時間がかかるでしょうけど。
でも、子どもたちが幸せになれないような婚姻なら、話し合いに時間をかけた方がよいと旦那様はお考えになっているわ」
ディナシェリアは父親の愛に幸せだと思った。また、頬に涙が伝う。ここまで話を知っている母親もまた、ずっと父親とともに考えてくれていたのだろう。
「お母様。ありがとうございます」
母親は聖母のように微笑んだ。
次回が最終話となります。
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