8 幼き恋心
「わたくし、自分の気持ちに左右されるのは苦手ですの」
ディナシェリアは苦笑いをした。瞳には悲しみも含まれているようで、ヨーゼンバルは悲しみの意味を知りたいと思った。
それに、『気持ちに左右されたくないからヨーゼンバルとの婚姻を嫌がった』というように聴こえた。その意味もわからなかった。
ディナシェリアは公爵家の長女として、感情を出さずいつも穏やかな表情で物静かに、と生活してきた。ヨーゼンバルもそれをよく知っている。
しかし、ヨーゼンバルは、感情を出しコロコロとよく笑っていた頃のディナシェリアも知っているのだ。
ヨーゼンバルは考えた。ディナシェリアが感情を出さなくなったのはいつだろう。
静かに微笑み、微笑みの奥でしっかりと思案し、最良の答えを導き出す。そんなディナシェリアを誇りに思うし、王妃になるべく人だとは思う。だが、それだけでいいのだろうか?
「シェリーが最後に泣いたのはいつ?」
ヨーゼンバルはなんとなく思いついた質問を投げかけた。
ディナシェリアは一瞬だけ目を見開いた。ヨーゼンバルは前を向いていたのでそれを見ていない。ディナシェリアはそれにホッとして気を引き締めた。
「ナイショです」
ディナシェリアは今度は悲しさを完璧に隠して笑った。ヨーゼンバルはその笑顔に悲しくなった。でも、ディナシェリアを諦めることなどできない。
「わかったよ。それを僕に教えてもいいと、シェリーが思うまで婚約はしない」
「そ、そんなっ! バル兄様は王太子になる方ですのにっ!」
ディナシェリアはヨーゼンバルの申し出にびっくりした。
ヨーゼンバルは新しい婚約者が決まり次第王太子になり、その一年後婚姻することになっている。ヨーゼンバルが王太子になることを国民は楽しみにしているはずだ。
「ふふふ。『バル兄様』かぁ。懐かしいなぁ。昔はそう言って僕の後をいつもついて来てくれた。あの頃もシェリーは可愛らしい女のコだった。
いや、今は美しい淑女だな」
ネトビルア公爵夫人は元王女で、義姉である王妃陛下のお茶会にはよく参加しており、ディナシェリアも幼き頃から王宮で遊んでいるのだ。
ヨーゼンバルの褒め言葉にディナシェリアの頬が熱くなる。
「そう、あの頃はシェリーは転べば泣くし、僕が抱き立たせれば笑っていた」
「そ、それは、だって……子供でしたもの」
「そうだね。あれ? シェリーはいつ頃からネトビルア公爵夫人と一緒にお茶会へ来なくなったんだっけ?
シェリーが来なくなったから僕も出なくなったんだよなぁ」
ヨーゼンバルは昔を懐かしみながら空を仰ぐ。そして、ゆっくりとゆっくりと歩を進めた。
ディナシェリアは驚いた。まさか自分の行動が王子殿下の行動に繋がっていたなんて。
「そんな……ご、ごめんなさい。バル兄様の枷になっていたなんて」
ディナシェリアに謝らせるつもりなどなかったし、枷だなど思っていないヨーゼンバルは慌てた。
「違うよっ! 僕がシェリーに会いたくて参加していただけだったからだよっ! 母上にも、たまにでいいと言われていたし、秘密でシェリーだけと遊んでいたんだ」
「そ、そうなのですのね」
ディナシェリアがホッと微笑んだのを見て、ヨーゼンバルは空へ視線を戻した。
「えっ? わたくしだけ?」
ヨーゼンバルは空を見たままクスクスと笑った。
「そうだよ。メイドに頼んで奥の四阿にシェリーだけを連れて来てもらっていたんだよ。メイドから『ディナシェリア様は本日はお越しではありません』って聞いた時はショックだったなぁ。
あれはいつだったっけ?」
ヨーゼンバルは自分の幼い頃の気持ちを思い出して、ほんのりと笑った。可愛らしいディナシェリアと戯れることが好きだった自分。思い出がキラキラと蘇る。
「どうして? わたくしと?」
ディナシェリアは消え入りそうな声であった。ヨーゼンバルはそれを照れていると思い、話を続けた。
「だって、シェリーはいつも『バル兄様のお嫁さ……』……」
ヨーゼンバルは下を向き、ディナシェリアと繋いでいない方の手で口を覆った。何か大切なことを思い出しかけていた。
歩みはピタリと止まった。
ヨーゼンバルはゆっくりとディナシェリアの方を向いた。ディナシェリアは真っ赤に染まっていた。
「もう、お母様方のところへ戻りましょう」
ディナシェリアはヨーゼンバルから手を離して振り向いた。
ヨーゼンバルはディナシェリアの腕を掴んだ。痛いほどではない。きっと振りほどける。
でも、ディナシェリアは振りほどかなかった。真っ赤になったままそこに立っていた。
「君はいつも僕のお嫁さんになると言ってくれていたんだ。僕はそれが嬉しくて君に会いに行っていた」
ディナシェリアは何も言わない。否定もしない。少し顔を動かし、ヨーゼンバルからは何の表情もわからなくなってしまった。
ヨーゼンバルは、少しの沈黙の後、あることを思い出して顔を軽く歪めた。しかし、誰に見られているかもわからないのですぐに戻す。
そして、思い出した苦痛を口にした。
「でも、僕の婚約が決まってしまった……」
ディナシェリアはガクリと俯いた。ヨーゼンバルはさらに思い出していくように言葉を紡いでいく。
「次のお茶会で、君はネトビルア公爵夫人の後ろから顔を出して、『おめでとうございます』と言ったんだ。そして、顔をすぐに隠してしまった。
母上に理由を聞いたら、『女の子には見せたくない顔があるのだ』と説明されたんだ」
今度はヨーゼンバルが俯いた。ディナシェリアは雰囲気でそれを感じ取り、尚更振り向けなくなった。
「そして……その日から僕は……国王となることを自覚した……」
それから今日まで、幼き恋心に蓋をして記憶の片隅に追いやっていたのだ。ヨーゼンバルもまた、そうしなければ前に進めないほどディナシェリアに恋をしていた。
「わたくしは、その日から数年間、王妃陛下のお茶会には参加しなくなりましたの」
ヨーゼンバルと隣国王女との婚約は、政略的なものだ。十四歳で婚約し、何度も手紙や逢瀬を重ね、王女と良好な関係を築いてきたし、お互いに良い伴侶になると思って過ごしていた。王女が流行病で儚くなったことは、間違いなくショックだった。親友を亡くした痛み。ヨーゼンバルは今ならそう感じる。
王女に対して、信頼はあったが恋はしていないと、ヨーゼンバルははっきりと言えた。ヨーゼンバルの恋心は、幼い頃に共にいた少女に渡したままだったのだから。
ディナシェリアの腕を掴んでいたヨーゼンバルの手は、するすると落ちてディナシェリアの手を掴んだ。ディナシェリアはそれにも抵抗しなかった。
「国王になる者として、他の人に心を寄せてしまった僕は不実だろうか?」
顔を上げたヨーゼンバルの目はディナシェリアに救いを求めていた。ゆっくりと振り向いたディナシェリアはその目に釘付けになった。
「公爵令嬢として、他の人と歩もうとしたわたくしは不実なのでしょうか?」
ディナシェリアもまたヨーゼンバルに救いを求めた。
「それが誰かに不実と言われようと構わない。君が、君だけが、僕を赦してくれるのなら。
僕は君を愛している。
ずっとずっと昔から……」
ディナシェリアの瞳から数年ぶりに涙が流れた。泣き方を忘れていたディナシェリアは、自分に何が起きたかを理解するのに間が空いた。ヨーゼンバルにそっとハンカチで拭かれて、自分が泣いていることに気がついた。
ヨーゼンバルは、ディナシェリアの泣き顔は自分以外には見せないとばかりにディナシェリアを優しく胸に抱いた。
そして、ディナシェリアが落ち着くまでゆっくりと待っていた。
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